ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「悲しみ」20210831

2021-08-31 | 参照

 

 

「人間世界において言語ゲームが対象世界の分節と秩序性を高度に拡大することは明らかである。
しかし、言語ゲームの最も重要な本質は、
そこでニンゲンの独自の「関係感情」の領域が展開される点にあると言わねばならない」

「スピノザは、人間の基礎的感情分節を「喜び」-「悲しみ」という二項性としておいたが、
この分節は、感情というものが本質的に対他的な共感情を本質とすることを示唆する。……
「悲しみ」は共感情的エロスの喪失と不在を意味する」

                    ──竹田青嗣『欲望論』(第二巻、190・191)

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「視線変更」20210830

2021-08-30 | Weblog

 

The heart has its reasons of which the reason knows nothing.──Pascal
心 heartには理知が知りえない知と思考がある

Lest one good custom should corrupt the world. ──Tennyson
よき習慣(と信じられているもの)が世界を荒廃させないように

       *

ときどきただの生き物として生きる姿を鏡に映してみる
ニンゲンの視覚に映らない獣の眼だけが捉える獣としての姿

ニンゲンの眼にとっては、野生の、不遜な、でたらめな
赤裸々な、制御不能な自然と直列したおのれの姿を

そして思い知ったほうがいい

澄まし顔で街を歩く姿の基底でうごめく裸形の意志
すべては自然とつながっているおのれの自然について

思い知ることでとり澄ましたニンゲンのバカ面に
なんらかの本質的な修正の契機が生まれる

自然と背反しないニンゲンだけに許された作法において
ただニンゲンであるより少しましな生き物でありうる可能性

その拡張されたニンゲン的生の可能性と展開をみちびくように
おのれが埋め込まれた自然を照らすように視線を変更する

この視覚の修正には決定的に重要な意味がある

 

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「言語企投」20210829

2021-08-29 | Weblog

 

 

始発点──心は内側から押され動きだす
「〝意〟〝思い〟をかたちにせよ!」

根源的突き上げ、うちなるコマンド
動機を与えられ、ことばに手をかけ、ことばを構成する

一般化、命題化、概念化、すなわち言語化

ことばを用材として交換可能と信じるものをあつらえる
伝えるべき対象、伝達先は先行的に定められている

関係世界における関係企投としての言語企投

考えるより先に内面化された用在としての言語体系
ことばに貼りついた一般意味、
「通じる」と信じられた言語コードという前提群

すべては個の言語的歩みにおいて生成し変容していく
固有の歴史性に由来する〝言語的身体〟にになわれている

この前提において、構成されるものの成否が生まれる

言語化は「希望」と「不安」の板ばさみにおいて進行する
交換、共有、関係──可能と不可能が織りあわされた予期と不安

超越としての他者、相互に超越の淵にへだてられた個と個
その乗りこえの企投として言語行為

「すじちがい」と認定されることの落胆、失望、予期的おそれ
「まさしく」と認定されることの快、希望、予期的エロス

この淵をまたぎ超す行為の成否と連続的展開
そして、この展開の相互性が個の〝言語的身体〟を編み換えていく

 

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「地と図」 20210828

2021-08-28 | Weblog

 

  白石かずこ「終日 虎が」


  終日
  虎が出入りしていたので
  この部屋は
  荒れつづけ
  こわれた手足 や 椅子が
  空にむかって
  泣いていた
  終日
  虎 が出入りしなくなっても
  こわれた手足 や 椅子は
  もとの位置を失って
  ミルクや風のように
  吠える
  空をきしませて 吠えつづける

 

定められたルートを外れ
あつらえられ アタマを敷き詰める
マップを燃やす

外れることをよしとして
燃やし尽くして
はじめて気づく

虎には虎の おれにはおれの
マップできない「地」がある

かぞえきれないマップが生まれる
名づけようのない 相互に隔絶した
マッピングの位相がある

虎よ さようなら

あつらえられたマップの外
ルートを外れた場所に いつか
絶対にないとはいえない
新しいルートが「地」に走ることもある

 

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「時間」 20210827

2021-08-27 | Weblog

 

 

現在が考える「過去」
現在が考える「現在」
現在が考える「未来」

すべての時制は「いま、ここ」に
一つに溶けて心の内に現象している

願っても願わなくても、Backstageは時制を分泌し
つねに世界を時間化し、時制的奥行きをもつ姿で描き出す

かつて-いま-これから

この時間的配列はひとりひとりの記憶と予期に由来する
「いま、ここ」に現象する記憶と予期が生み出す固有の時間

同時に、この時間化した世界はつねに〝情動に濡れている〟

後悔、希望、なつかしさ、よろこび、いかり、かなしみ
多色の多層の情動が溶け合った時間の流れ
すべてが合流する体験流としての「いま、ここ」

ひとりひとり、世界は固有の時間に染まり、情動に染まり
固有の体験流として遷移していく

     *

もう一つある
ヒトが生きる時間にはもう別の位相がある

「客観的時間」

すなわち、ひとりひとりの時間が関係的に交わり
多重の時間記述から生成する〝関係項〟としての客観的時間

情動とのリンクを外され、単位化され、線形的に配列され、
無機的に、デジタルに、「過去-現在-未来」を刻む〝時〟

実存における時間、客観としての時間──
ヒトの生きる時間は、かくして二重化され、
ふたつの時間の共同、せめぎあい、弁証法的展開として動いていく

固有の生という実存のうちがわに必然的に生成するひとりひとりの時間
集合的営みが要請し、共同化され、二次的に生成したデジタルな時間

集合的営みを可能にする二次的生成物としての「客観的時間」
客観的時間を参照項として、その規定性を受け入れ
集合的ゲームのプレーヤーとなること──この要請は絶対的必然をもつ

この必然的生成に、さまざまな生きることの矛盾、アポリアの起源がある
   
     *

客観的時間が生の全域を埋め尽くすとき
ヒトは固有の時間のみならず、世界経験の本質から外れ
客観的時間を核とする〝関係項〟の秩序に規定され支配されて生きることになる

このことを回避ためになすべきことがある

世界経験の固有性、実存の時間を見失わないために
関係秩序の起源(母)としての生の固有性をキープするために

いったん「客観的時間」の規定性をいったん解除すること、そのうえで
時間の生成的本質、時間の二重性の本質を原理的に捉え返す作業がいる

 

 

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「ギフト」20210826

2021-08-26 | Weblog

 

 

淡く、こわれやすくも、はかなくもあり
行きすぎて忘れられるものでもありうる

たがいの肯定と肯定が重なり
ひとときのまなざしが交わり
享受される柔らかな友愛の位相がある

大文字の理念、価値の表示をもたず、それを必要としない
有用性や機能性という査定を経ることなく

気づけばそこにいて、ともに生きられている
まっすぐにそうしたいと思う心にになわれ
人と人を結びあわせるひそかな原理があって

ただ言葉を交わし、酒を酌み交わことのうちに
静かに、ひかえめな配慮と配慮が交わり
たったそれだけのことのうちに現象するしあわせの時間がある

 

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「関係、相互作用、第三領域」

2021-08-26 | 参照

 

 

──グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』佐藤・高橋訳

「個々の発話や行為は、コンテクストと呼ばれる生態学的システムをつくる部分なのであり、
そのコンテクストの全体から、それを取り去った残りの部分によって〝産出された〟のでも、
そこから〝結果した〟のでもない。このことを意識するとしないとでは、大違いである」

「システムの恒存が、それを構成するサブ・システムの変化によって得られるところに、
パラドックスと病理の発生する根があるのである」

「動物たちと草との関係の恒存性が、そこの関係で結ばれた両者の、
たがいに絡み合った変化によって獲得されたとすると、両者のうちの一方が、
他方のチェックを受けずに適応的変化を遂げるところでは、
つねに関係の存続が危機にさらされることになる。
この大きな視野に立って思考していくとき、いわゆる「ダブル・バインド」なるもの、
いわゆる「精神分裂病」なるもの、あるいは「第二次学習」なるものを、
新しい概念的枠組みのなかで、捉え直さなくてはならなくなる。
分裂病も、第二次学習も、ダブル・バインドも、
もはや個人の心の問題であることをやめている思考領域──
それらが、個々の生物の皮膚で区切られているのではない、
大きな〝精神〟のシステムのなかを流れる観念のエコロジーの一部として捉えられる、
そういう思考領域──が必要だということである」

 

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「教育」 

2021-08-25 | Weblog

                                                                                          Solsbury Hill - Peter Gabriel cover - YouTube

 

主語の位置を確認しておこう
だれも取って代われない一人称がいる

教え諭す
インプットする
埋め込み剪定する
フレームに収める

そうではなくて
はじめに学ぶ主体がいる

教える主語ではない
学ぶ主語、一人称がいる

われ欲す

根源的な生きる意志において
人生のルーキーひとりひとりがそこにいる
そうしてすべてがはじまる

教える側の善意悪意の問題には収れんしない
善意が主語を奪い殺すこともある
第一に考えるべき主題はそこにはない

胸に刻んでおこう
教える側がはじめるのではない

学ぶ主語の意志があってはじめて成立する
世界の姿を心に収めたいと願う根源的意志を迎えもてなす

よりよく生きることを求める意志を生かす
生かし切るための仕事がある

少なくない子どもが主語を消され
生涯にわたって一人称を行使できないまま終わる
そんなことが起きてきた、いまも起きている

その帰結としての社会体の姿がある

教え学ぶよろこびより先に
仕事に携わることの恐ろしさこそ
心に留めておくべき第一のことだろう

そのことを確認しておこう
このうえなく大事なことだ

 

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「abduction、metaphor、analogy」20210824

2021-08-24 | Weblog

 

 

思考の推進力としてのアブダクション
アブダクションの見事な、うつくしい実践例──

 なの花が月のでんきをつけました(小1女子)

柔らかな心にfeelがうごき、光が励起し
いくつものコンテクストに由来することばが結びあわされ
どこにもない世界のvisionが告げられる

心がみずから扉を開き、みずからみちびく
フリーハンド、フリースペース──開かれる第三領域

名づけられたことば、定められた意味
これはこれ、あれはあれ、それはそれ
たくさんの決めごとに満ちた世界を壊すのではない

やさしいまなざし、柔らかな心が教える
まっすぐに光が向かう方角へ

月に照らされるのではない
月を照らし返すまなざしがある

柔らかくやさしい光に照らされ
世界はかたちをほどかれ、結びなおされ
だれも知らなかった新しい姿が告げられる

 なの花が月のでんきをつけました

(金子兜太・あらきみほ『小学生の俳句歳時記』2001年)


──G.ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳

われわれは自分たちの住んでいる世界に、あまりに慣れっこになり、
その世界を考えるちっぽけな思考方式にはまり込んでいるために、
「アブダクションが可能だ」ということがいかに驚嘆すべきことか、ほとんど気づくことなく暮している。

アブダクションとは、たとえば、世界のある出来事なり事物なり(例=鏡の前でヒゲを剃っている男)をまず記述し、
その記述のために工夫されたのと同じ規則に当てはまる類例を後から捜していくことが可能ということだ。
解剖学の例で言えば、カエルの体の構造を調べて、
それと同じ抽象的関係がわれわれを含む他の生物にも繰り返し見られないかと捜していく、そんなことが可能なのである。

このように、ある記述における抽象的要素を横へ横へと広げていくことを「アブダクション」と呼ぶ。
読者はこれを新鮮な目で見てほしい。
アブダクションが可能だということ自体、少々薄気味悪いことである上に、
そのアブダクションが思いもよらぬほどの広大な範囲にまで広がっているのである。
隠喩、夢、寓話やたとえ話、芸術の全分野、科学の全分野、すべての宗教、
すべての詩、トーテミズム、比較解剖学における事実の組織、
これらはみな、人間の精神世界の内部で起こるアブダクションの実例、もしくは実例の集体である。

 

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「返信2」

2021-08-24 | Weblog

 

 

端的に、教える人間として失格です
そうした人物が放置されていることは
組織(学校)としての欠陥も示していると思う

連帯して抗議することできればと思いますが
それがかなわなければ距離を取ることが大事かなと思います

ぼくだったら、たとえば、
距離を保つために「サンプル」として見る
科学者の眼を堅持し、感情を消して、徹底的に観察対象とする

権威を傘にした理不尽が社会、関係世界を貧しく荒廃させていく
そのサンプルをつぶさに目撃しているという意識で

苦しく大変でしょうが、
「病気の人」と付き合うには巻き込まれない、
病気に同期しない工夫が大事だと思います

 

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「視線変更」20210823

2021-08-23 | Weblog

 

 

「困った人は、困っている人かもしれない」 
   (松本俊彦『誰がための医者なのか』)

     *

「困った人」

思考は集合的な承認と合意を取りつけるように
一般化、命題化、言語化をめがけ
身についたルートをたどって着地し、ことばを結ぶ

このルート指定に飽き足らない心がある
飽き足らなさは着地した地平の貧しさの感受に由来する

思考の線形的なルート、予測可能な着地点
このことを留保するには、少し工夫がいる──

たとえば、思考をフックに掛けて壁に吊るし
思考がしばらくどこにも着地できないようにする

線形的な思考の展開を許さないようにスキマを開くと言ってもいい
この状態をキープして思考を回す

思考は着地できない、しかし思考は回りつづける
このスキマに非線形的変化が起こり、複数の視線が出現することがある
この経験が確定された思考のルートと着地点とは別の表象を可能にする

「困った人は、困っている人かもしれない」

 

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「関係論理」20210822

2021-08-22 | Weblog

 

 

血も涙もある関係世界、生活世界
生まれた場所で教わり、学び、育つ

「やっぱ義理と人情」(寅次郎)

善悪、真偽、美醜──この世を分節する価値コード
生活世界がこの世に一つであればコードは一つで足りる
しかし一つではない

一つではない世界を一つのコードで走り切ることはできない
義理と人情はそうではない別の義理と人情、関係論理に出会う

もし共生を願うなら別の関係論理
血も涙もある義理と人情に濡れた価値コードではない
第三の関係論理──
それぞれの関係世界を生かしうる関係のコードが要請される

あえていえば、血も涙もない〝法〟の世界

生活世界の多様性多数性が出会い相互に認め合う位相
個と個がその異質性にもかかわらず共生を可能にする論理

総員の合意と承認(「一般意志」)にもとづく共生世界

       *

ご近所では、あるいは職場でも評判のいい人である(かもしれない)
面白い人、個性的な人、憎めない人、できる人、冗談がわかる人
お互いに愉快に付き合える、生涯の友、そんなこともありうる

赤の他人がいきなり踏み込んであれこれ言っても仕方がない
ローカルな生活世界の領域

ホットな共同体、わが家、仲間、向こう三軒両隣、ローカルな暮らし
イケてる-イケてない、できる-できない、かっこいい-かっこわるい
まるごと包摂してくれるホットな関係世界

しかし関係世界(関係のゲーム)はこの位相だけで完結できない
生きているかぎり、かならず別のゲームを生きる人間、社会と出会うことになる
〝ローカル〟の多数性多様性はそのまま関係論理、関係倫理の多数性多様性を意味する

ローカルな価値に照らして査定される「よい人-わるい人-ふつうの人」
このこととは無関連に、切り離されてつづられるべき記述レベルがある

ローカル論理に照らして「よい人」は
別のローカル、汎ローカルに照らせば「極悪人」でもありうる

この逆説がみちびく対立、抗争、殺戮、戦争
この展開としての人間の歴史、終わることのない惨劇
カタストロフ、黙示録的状況へ通じる道がいまも口を開いている

異質なローカルとローカルが出会い、交わり、共存を主題とする場面では
ローカルな生活論理、倫理では処理できない知恵と実践的スキルがいる

あらゆるローカルを貫く関係意識、関係態度、関係理念
そしてルール設定がそこでは求められる(一般意志という統制理念)

この記述レベルにおいて思考し、語りあい、生きあうためには
いったんみずからのローカリティから離脱しなければならない

この離脱には脱ローカルな経験、エクササイズ、学習を必要とする

 

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「可能的身体」20210821

2021-08-21 | Weblog

 

  ───竹田青嗣『エロスの世界像』1993

   デカルトの方法的懐疑は、あらゆる懐疑の果てに、
   「コギト」だけが疑えないものとして残ることを教えるが、
   恋愛はさらにそれ以上のものを教える。
   つまり、ひとたび恋の心が生じれば、
   それはどんな荒廃した懐疑やニヒリズムも押しのけて、
   「人間的なもの」が自分のうちに生きていることの
   明瞭な明証性(不可疑性)をもたらすのである。


うちひしがれ、かなしみに染まり、光を失い
闇に呑まれ、孤独の淵に落ちていく

「おお、季節よ、おお、城よ、無疵の心がどこにある?」(A.Rimbaud)

嘆き、むせび、みずからを呪い、嗚咽する心
そのことを知る心を知ることはなぐさめかもしれない

しかし閃光は走り抜ける
すべてをくつがえすように

内なるメッセージは受信され新たな応答へ向かう

決して失われないもの
逃れることのできない心の原理があって

いつのまにか忘れている心に
思い知らせるように

みずからの基底をなす光源について
みずからに告げる内なる光の作動がある

 

 

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「Don't let them win」

2021-08-20 | 参照

                                                                                                                  Don't Dream It's Over - Crowded House cover - YouTube

 

 

──Crowded House 

There is freedom within, there is freedom without
Try to catch the deluge in a paper cup
There's a battle ahead, many battles are lost
But you'll never see the end of the road
While you're traveling with me

Hey now, hey now
Don't dream it's over
Hey now, hey now
When the world comes in
They come, they come
To build a wall between us
We know they won't win

Now I'm towing my car, there's a hole in the roof
My possessions are causing me suspicion but there's no proof
In the paper today tales of war and of waste
But you turn right over to the T.V. page

Hey now, hey now
Don't dream it's over
Hey now, hey now
When the world comes in
They come, they come
To build a wall between us
We know they won't win

Now I'm walking again to the beat of a drum
And I'm counting the steps to the door of your heart
Only shadows ahead barely clearing the roof
Get to know the feeling of liberation and release

Hey now, hey now
Don't dream it's over
Hey now, hey now
When the world comes in
They come, they come
To build a wall between us
We know they won't win

Don't let them win (hey now, hey now, hey now, hey now)
Hey now, hey now
Don't let them win (they come, they come)
Don't let them win (hey now, hey now, hey now, hey now)

 

 

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「価値と変化」

2021-08-20 | Weblog

 

 

    *

「きれいだね」
「どこが?」
「すべて」
「I don't think so」
「わからないかな」
「わかるわからないの問題?」
「いまにわかるさ」
「逆かもね」
「What?」
「飽きる、かも」
「ぼくが?」
「うん」
「どうかな」
「いまにわかるわ」

    *

ある人間にとっての「価値」(情報)は、
別の人間にとっては「無価値」(ゴミ)である

ある人間にとって「ろくでなし」は
別の人間にとって「最愛の対象」である

ある共同体における「真」は
別の共同体においては「偽」である

ほんとう-うそ よい-わるい きれい-きたない

生がたずさえる価値の多様性、多数性
価値を一つにすること、差異を消すことはできない

価値コードのちがいにフォーカスして対峙すればミゾは埋まらない
世界にラインを走らせ価値的に世界を区分する
それぞれにとっての価値コードの固有性と絶対性、状況性

ちがう者同士が〝共生〟という主題をもつとき
差異の抹消ではない方法が見出されなければならない

このとき第一にフォーカスすべきは価値の階梯、優劣でなく
差異が差異のまま生きられる共生の条件とはなにか

関係の原理──見出すべき第三領域

第一には、世界を価値づけ区分して生きるという共通本質
それぞれに異なる価値を生きる存在として認め合うこと

共通本質の取り出しから相互承認=共生に至る道は開かれていく

価値の一元化の道──「真理は一つでなければならない」
それは歴史のなかで失敗の連続でしかなかった方法である
すべての人間に妥当する「絶対的価値コード(真理)」は必ずゲバルトを要請する

〝絶対の真理〟という仮象の観念によって無数の生の全域を覆うことはできない

むしろ、どこかに存在する絶対の真理という仮象の観念を抱く心性の傾向
取り出すべきは絶対を求めてしまうことの人間的な本質である

第二には、〝時間〟という変化の契機を自覚的に取り出すこと

生きられる固有の状況、それぞれの生の一回性、痛切性、状況性
そこには「生きられる真」の多様性と多数性だけがある

変化は〝時間〟という契機において起こる

恋のあけそめにおいて「美」であるものが
恋のたそがれにおいて「醜」に変化する

経験の感性的累積に媒介されてある作品は「駄作」から「傑作」に変異する。
大嫌いなピーマン、ニンジンはいつしか食事の定番になる

人間は変化する、関係は変化する──

変化の理由と根拠を見極めつくすことはできない
しかしその本質はつねに「生のエロス」をめぐっている

生の享受可能性をどこに求め、なにを欲しているか
新たな「ありうる」を求めて生きる人間的本質

世界の現われ、色合い、意味配列、基底的価値は変化していく
変化はそのまま欲望(生の主題)の変化をプレゼンテーションしている

欲望そのものに手をかけて恣意的に操作することはできない

世界にラインを走らせ、世界に向かわせる動機を与えるものに、
外部から直接手を入れ、操作的に作りかえることはできない

見出すべきはそれぞれの欲望が望む変化の可能性の条件
それぞれの存在の内的な必然に導かれるように、
世界の現われ、世界への関与の仕方は変化していく

意識主体にできること──

時間という契機を自覚的に取り込むことで、
生きるかまえ、関係態度を変えることはできる

「変化しうる自己」の自覚、この自覚をさらに
「変化しうる他者」の認識へ接続する

ここから、相互的展開を可能にする社会的な関係構造とは何か
相互の価値を生かし、相互に変化へ向かう共通本質を生かしうる条件とは何か
そのことについては徹底的に考えることができる

 

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