ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「for a friend」 20201031

2020-10-31 | Weblog

 

冷たい風が吹いて
夏を消していく

けれど、忘れないでいよう

   意味をつかまえるまえに
   状況は状況を追い越し

   吟味するまえに
   切迫と焦燥が導かれ
  
   感慨を刻むまえに体験はからだをすり抜け
   新たなコードがぞくぞくと名乗りを上げていく

   名づけようのない場面転換の加速度に
   存在はハトのようにからだを丸くして
   呆然と風景に身をさらしている

   どこにも「経験」が刻まれない世界──


どんな感情も凍てつかせる
吹きさらしの生の位相がある

身をゆだねると世界が枯れていく

そのことを知ることではじめて
生きる理由が明らかになる

そうではなく生きていたい

そうではなく生きられるように
水をやり、光をそそぐ

なんどでも、みずからに
言い聞かせるべきことがある

 

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「一次過程、二次過程」 20201030

2020-10-30 | Weblog

 

見たものは見たのであり、感じたものは感じたのであり
経験したものはたしかに経験したものである

すべてのはじまりでありつづける現象──
意識の恣意を超えて意識に訪れる〈世界〉

「だってそう感じたのだもの」

この経験の位相において「客観」は存在しない
客観が生成する理由も存在しない

すべては〝わたしにとって〟という位相において端的な〈世界〉の訪れがあり、
〈世界〉はわたしに感じられ、味わわれ、目撃されているだけである

この第一次の過程のまま生が直進可能であれば、訪れとしての〈世界〉は動かず
わたしはただ〝わたしにとっての世界〟に直面して生きるだけである

この段階において、わたしの内的経験として
現象する〈世界〉はそのまま「世界」である

しかしこの第一次の過程として示される〈世界〉はそのまま維持することができない。
〈世界〉の現われは一つではない──そのことを告げる存在、他者がいる

他者、わたしとは異なる経験を生きるわたしに似る存在がいる
ここに、もう一つの確信の意識が〝わたしにおいて〟現象する

「おれはそう感じない」

わたしに似ながらわたしとは異なるように世界を経験している存在
他者経験の意識は〈わたしの世界〉という確信をゆるがせ、亀裂を生む根拠であり
同時に、〈わたしの世界〉が拡張される契機(資源)でもありうる

私の世界を脅かすもの、同時に、私の世界を拡張するもの
この二重性において「他者」はわたしの世界に住みついている

第一次の経験は、他者の視線に照らされることで第二次の過程に入る
みずからの経験を審議し、査定し、評価する他者の視線
二つの視線が交わることで、脱自的な経験の位相「客観世界」が開かれる

一つのまなざしに収納することができない他者、他者の経験世界
その無限の表現性において現出する存在をみずからの内側に住まわせる

なぜか

おそらく、それは〝関係〟という巨大なエロス(幻想)に魅入られ
あるいは呪われて生きるほかない人間的生の本質に由来する

一次過程と二次過程、その絶えざる円環を生きる関係存在
関係企投の連続的展開として、関係世界を構成し生きる人間的生
そしてその全プロセスを媒介する存在として「他者」がいる

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「ゆらぎの位相」 20201029

2020-10-29 | Weblog

 

ためらい、迷い、とまどい、はじらい、はにかみ──

〝解〟を急ぐ世界に告げなければならない
あらゆる〝問い〟の原郷、ゆらぎの位相について

この位相を見逃し、見捨て、置き去りにするとき
世界は「手のほどこしようのないもの」
「なるようにしかならないもの」として現われる

 

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「症状としての世界の姿」  20201028

2020-10-28 | Weblog

 

ただ一つの遠近法の内側に収めるように
あなたの存在を確定したがる世界がいる

C'est la vie.

教えられるまま、世界のことばに従うこと
スコープに収まるように姿勢をととのえ
世界と同期すること、それが成熟と呼ばれる

区切られた世界、一つのムラの中で生涯を過すなら
同期しなければ生きてゆけないにちがいない

同期できない自己、他者、それは未熟、異者と呼ばれ
同期した存在は同期できない存在を「いさめる」
いさめ、矯正し、罰することばは世界にあふれている

かくある、かくあるべし、かくなすべし

世界はみずからの姿を確定すること
あらゆる存在を確定することばにアディクトしている

症状としての世界──

ことばの偏食症、中毒症、パンデミックな症候群
症状としての世界の姿には理由がある

世界が暮らしたいと願う地平があって
あらゆる存在に告げられる「あるべし」

安寧秩序というマジックワード

秩序と安寧という世界の願いの裏がわには
症状を導くものが強固に貼り付いている

すなわち、不安、死へのおそれ、おびえ
世界と生をおびやかすものへの過敏な警戒心

症状をいきなり消去することはできない
警戒心が解除されないかぎり
症状が症状として自覚されることもない

症状が症状として自覚され
世界の願い、スコープ、遠近法が変容する契機
それはただ、症状に耐えられないと感じる心に生まれる

 

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「音楽」 20201027

2020-10-27 | Weblog

                           https://www.youtube.com/watch?v=eAR_Ff5A8Rk

 

あとから聴こえてくることがある
心を襲う時間差攻撃

You've got a friend.

ふりかえればそう告げることが許されのか
許してほしいと思う心がいる

セッションは起きていた
意識することなく、そのつもりはなく

ふいに、気づきが与えられ
こみあげるように告げられる

ひとりでは奏でられない〝音楽〟
二重奏、二重記述、第三の位相

聴かれないかぎり、ただ消え去るだけ
はじめからなかったもののように

スコアに書き留められることのない
どちらにも属さない無音の旋律

二度と起こらないものが
二度と起こらないものとして

いくつも季節が重なり
多重の記述へと変移し

現在を照らすように心を響かせ
かたちのないスコアを更新していく

 

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「ありうる、存在可能」 20201026

2020-10-26 | Weblog

 


予期「ありうる」は走り、からだは動き、変化する──

つねに準備は出来ている
新たな記述に向けて用意を整えた状態、Readiness

ただ用意を整えるだけではない
記述された「自己」の横に未記述の自己がいる

新たな記述へ向かうように
いまここにあることは、いまここにないことと結ばれている

「ある」は「ありうる」をつねにたずさえ
たずさえることで「ある」を構成している

    *

予期を打ち消すこと、変化を拒むこと
そのこと自体も予期に導かれた姿

ありうる、存在可能の一様態
変化を拒むという予期と意志に従っている
  
    *

 

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「石牟礼道子」

2020-10-25 | Weblog

 

 ──渡辺京二「石牟礼道子の世界」

  当時、彼女は完全にひとりの主婦として暮らしていた。
  四十年の秋、はじめて水俣の彼女の家を訪れた時、
  私は彼女の「書斎」なるものに深い印象を受けた。
  むろん、それは書斎などであるはずがなかった。
  畳一枚を縦に半分に切ったくらいの広さの、板敷きのでっぱりで、
  貧弱な書斎が窓からの光をほとんどさえぎっていた。
  それは、いってみれば、年端も行かぬ文章好きの少女が、
  家の中の使われていない片隅を、家人から許されて
  自分のささやかな城にしたてて心慰めている、というような風情だった。

  座れば体ははみだすにちがいなく、採光の悪さは眼をそこなうにちがいない。
  しかし、家の立場からみれば、それは、いい年をして文学や詩歌と縁を切ろうとしない主婦に対して許しうる、
  最大限の譲歩ででもあったろう。 『苦界浄土』はこのような〝仕事部屋〟で書かれたのである。


言葉はつねにその運び手を必要とし、つねに一体化している
言葉の原理的な「私性」があり
そこを超えるとだれかの制圧に転移してしまう「閾」がある

「私性」から離脱可能であるかのようにして言葉が運ばれるとき、
明に暗にみずからの〝普遍〟を語りはじめるとき
「私性」と「私性」が出会うラインをはみ出すことになる

そのことの感知がみちびく言葉の用法が守られているように
走りすぎ、理解しすぎ、触れすぎて傷つけないように
語りすぎることで壊わしてしまうことをおそれるように

「私性」を超え出たいと願いつづられることばが
つねに侵犯の〝罪〟を背負うことになる特性について
けっして超えないという格律が埋め込まれた言葉

にもかかわらず──

蛮勇をふるうように語られなければならないことがある
知らなければどんな惨劇が導かれるかわからない
心のうちに深く刻んでおくべき人間の豊かさの原郷がある

よわきもの、傷つきやすいもの、関係のちからに屈しやすいもの
けっしてみずから〝普遍〟を名乗り出ないもの

壊れやすさの起源にあるものへのまなざしが導く意志があり
決然とつづられ、紡がれてきた言葉がある

 

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「実存──個別と普遍」(参)

2020-10-24 | Weblog

 

───竹田青嗣『ハイデガー入門』

「他者との関係」のうちにこそ人間がその「自己中心性」を乗り越えうる原理があるという直観と、
「他者」以外には「自己中心性」を否認する(乗り越える)根拠の原理はけっしてないという直観とは
まったく別のものだ、ということになる。
レヴィナスはしかし、前者から出発しながら後者へと辿りついたというのが私の考えだ。

もし「自己中心性」を越え出る原理が人間の「主体」の本質のうちに存在するのでなければ、
「ほんとう・よい・美しい」という人間的「価値」は、
結局ある”外”からの要請や命令によってしか成立しないことになるからだ。

なるほど、わたしたちはさまざまな場面で自分の「自己中心性」を乗り越えるとき、
そこにたしかにある「外部」を直観することがある。
しかし、おそらくそれは、けっして「人間」の外部にある何かではなく、
「自己」それ自身のうちから自ら告げ知らせるようないわば内発的な「外部」なのである。

さて、わたしたちは「自己中心性」を克服して「ほんとう」の根拠を求めよとする
大きな哲学的試みの帰趨を辿ってきて、この問題の難関の所在に気づく。
自己自身が「自己中心性を越え出る原理と可能性」をいかに取り出すことができるか。

これが共通して立てられた問題設定だった。
この問題をいかにに厳密な方法で掘り進めることができるか。
これは依然として、実存哲学における重要な課題でありつづけていると思う。

世の中にはさまざまな美しい(あるいは正しい)「理想」や「理論」がある。
しかし、その「理想」や「理論」の正しさそれ自体と、
各人がそれを自分の中でどう生かすか(遇するか)という問題は、
まったく別の本質を持っている。

「世の中はこうあるのが正しい」という理想が
「一杯のお茶のためには(つまりある欲望のために)世界が滅びたっていい」(『地下室の手記』)
という実存の論理に優越する根拠は一体どこにあるだろうか。
これは一つの難問だか、このアポリアをクリアできない思想は思想として現代に耐ええない。

実存の問題は、まさしくそのような問題であるために、
人間の理想や倫理の問題と最も深い場所でかかわっている。

 

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「ゲームのエロス」 20201023

2020-10-23 | Weblog

 

 ──G・ベイトソン『精神と自然』(佐藤良明訳)

  すべての革新的、創造的システムは発散する。
  逆に、予測可能な出来事の連続は、その予測可能性ゆえに、収束する。

   *

自分を愚かだと思わないほうがいい
自分を賢明だと思うのと同じくらいまずい

知恵の実が芽吹く地平を枯らさないように
胸に刻んでおくべきことがある

   *

知るかぎり、聴こえるかぎり、見えるかぎり
触れるかぎりの〈世界〉の内部で自足するとき
「非知」「未知」とつながる野蛮さが失われる

わかることの位相にすべてを収納するとき 
わからないことのわからなさ
創発へ向かう大事な資源が消えていく

不確実性、未規定性、でたらめさ、ランダムネス 
すべては糧として、新たな「ありうる」へ向かう作動がある

未規定、不確実であることが不安やおそれをみちびかず、 
ポジティブなシグナルをまとう「予期」が沸き立つ位相があり

試行錯誤──内なる「よびかけと応答」が動いている状態 
失敗の連続が前進の手がかりに変換される経験のモードがある

   *

世界の一部を切り取って「これが世界」と記述するのではなく
確定された記述命題が指定する場所への着地を拒みながら
はじまりの場所への帰還をみちびく関係のモードがあり

「これが世界」という記述命題からズレを指摘しあう関係ではなく
新たな記述のスペースを与えあう関係のエロスがある

   *

予測可能、規定可能なプレーシステムの内部で完結しないために
プレーヤーとして心に刻んでおくべきことがある

「ゲームを動かす原理は、ゲーム規則の外にある」

未規定な展開が接続、連鎖しつづけるピッチのなかで
すべてのプレーヤーはファンタジーの出現を夢見ている

ルールやゲームプランが示す地平を離陸するようにゲームは動いていく
初期条件の規定性を裏切る展開からゲームのエロスは生成する

世界が示す記述命題、「かくある」「かくあるべし」「かくなすべし」
ゲームのエロスと出会うためにすべての確定記述はいったん解除される

 

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「ことづて──石牟礼道子」

2020-10-22 | Weblog

 

「みんな哀しくて、やさしい顔をしている」(『苦界浄土』)

「学校教育というシステムの中に組み込まれることのない人間という風土。
山野の精霊たちのような、存在の原初としかいいようのない資質の人々が、
数かぎりなくそこにいる。患者のふりをして。
ごく少数の人々について書かせてもらった。「人間の絆」というたとえを引きながら、
それこそ命とひきかえに、ご自分のまことをつくそうとされた初期水俣病互助会長山本亦由氏の、
苦悶にひきゆがんだ死の床のお顔が胸にやきついている。
わたしを見つめて二度ほど深くうなずかれた。見守っていただいていると思ってきた」

「トキノ小母さん、おマス小母さんのカップル、フミヨさんたちが、
のびひろがる丘の間の小道を、今も躰を傾けながらゆっくり歩いているのではあるまいか。
この婆さまたちの掌が後ろからそっときて、背中を撫でられることがある。
赤子になったような気分であった。掌の熱さというものは神秘である。
久しく忘れていた歳月を思い出させるような、優しい愛撫を老女たちの掌から感じた。
トキノさんの言葉。
「考えなはんな、考えなはんな、休みなはりまっせ。ああたもきつかなあ。
わたし共も今日は休み。蝶々の来れば蝶々についてゆこ。風が来れば風についてゆこ、なあ」
「はい」
わたしはそう返事した。……
まだあの魂の原郷は、あるのだろうか」(『神々の村 苦界浄土第二部』あとがき)

 

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「エクササイズ」 20201021

2020-10-21 | Weblog

 

まなざしを鍛える、徹底的に鍛え上げる

なぜ?

聴いたことのない
見たことのない
触れたことのない
感じたことのない
思ったこともない

なにかはわからないなにか
でも、よりよきもの
そんな予感が勝手に駆けていく

現状が不満だから?
否定したいものだらけ?

ちょっとちがうかな

「ある」はつねに「ありうる」をいつも携え
携えることで「ある」を構成している

だからスコープを広げスキマを開いておく
そのために

どうやって?

「ふるまいをやさしく、幽玄に心をとめる」
みたいな感じで、むずかしいことじゃない

 

 

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「レファレンス値」 20201007

2020-10-20 | Weblog

 

レファレンス値──うちなる参照系、その水準、設定値。

「‥と思われるから、する、しない」

参照先に照らしてみずからのあり方を決する──
心的に埋め込まれた参照先の豊かさ貧しさ、レベルの高さ低さが
そのまま主体の豊かさ貧しさ、高低とバランスしている。

ここには、レベルの高低を問わず共通の本質がある。

なんらかの参照系に従属するように存在を組織する形式的同一性。
それは、あらゆる「共同体的思考」に備わる共通本質を示している。

 

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「学校のおしえ」 20201019

2020-10-19 | Weblog

 

「ばか-りこう」

そんな判定ゲームで暇つぶしてる場合じゃない
ほんとはね、ほんとにそうなんだぜ

そんな余裕をかまして何が手にいると思う?
あぶくの楽しさ、だからいいって?

思うツボってこのことさ、バカども飼いすのかんたん
しめしめ、ごっつぁんですって構造になってる

ほんとに最低、ひでぇことになってる

だからといって、ほんとうに大事なこと、なんて言わない
そんな偉そうな言い方はしない
けど、もっとでっかい別のゲームの喜びが見過ごされる

単純な話だ

ちょっと考えればだれだってわかる、かんたんなことさ
ほんとうに生きる知恵、それが育つ土壌がどんどん枯れていく

お互いを削り合うゲームのわくわく感
いちど味わうともう止まらない
バカがいると感じる、それだけで舞い上がる
じぶんをバカと感じる、それだけで地獄に落ちる

上昇と下降、その一喜一憂で一生が過ぎていく
ちっちゃなゲーム盤のなかに釘づけのまんま

すべてはガッコウで学んだことさ、わかる?
というか、ニッポンの〝教育〟が教える最大のクソゲームさ

「ばか-りこう」の順番をつけて名指しあうゲーム
それがこの国固有の風土、関係世界を構成してる

全国津々浦々、どなたもこなたも、生涯にわたって
それ以外のゲームを上書きして、消去するように
あたかも最大普遍のゲームであるかのように
心のど真ん中に埋め込まれる原始的なゲームさ

わかんねえかな

たいした基準があるわけじゃない
個と個、クラスとクラス
そこにどうでもいい小さな偏差をみつける
それがゲームのキモになるというだけの話さ

    *

「比較の問題じゃない。みんなそれぞれの生きる知恵をもっている、ほんとはね。
みずからを、お互いを生かしあえるように知恵を交換し鍛えあえるかどうか」
「それがほんとうのかしこさ?」
「うん。大事なのは知恵の果実そのものじゃない。
いろいろな果実を育てる土壌が豊かかどうか。あえていえば、それが問題だ」
「土壌って?」
「ぼくであり、きみであり、すべての人間のこと。
人間の知恵には限界があるけれど、限界を広げるのはこの〝土壌〟以外ない。
そのことを知ることがほんとうの知恵と言えるかもしれない。
ほんとうに聡明といえるのは、そういうことだと思うな。
ばかとりこうの順番をつけるゲームとは全然ちがう話さ。
そのためには、クソゲームから自由になることが第一歩だ」

    *

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「解毒作用」 20201018

2020-10-18 | Weblog

 

たとえば、フリーキック──

プレーのなかで現象しているのは、「think」ではなく「feel」
「feel」はボールと対話し、思考し、鍛え、みずからを磨き上げる

「feel」の思考、その経験の積み重ねからホンモノのスキルが生まれていく

    *

「体験」は、同時に「観察」(記述)であることはできない
それだけではない
「観察」は、つねに「体験」におくれて産声をあげる

一つの原理──「観察」は「体験」に先行することはできない

「体験」はつねに先行者として生のフロンティアを生きている
「観察」はつねに「体験」を追いながら記述へ向かう

にもかかわらずボクらは「体験」という生きられる「いま、ここ」に、
「観察」という過去(記述)を、切れ込みやクサビのように打ち込んでしまう
バッティングコーチがバッターに罵声を浴びせるようにね

――「脇を締めろ」「壁をつくれ」「ボールを追うな」「ヘッドを動かすな」

すると「体験」は淀んで、自然な流れを生きられなくなる
からだは緊張し、不安に呑まれ、統覚をうしない
バランスは崩れ、失速して、「体験」はバラバラに壊れてしまう

「feel」は思考することを止められ、みずから鍛え上げるすべを失う

このとき、ぼくたちはもう一度「feel」を再始動する〝意志〟を必要とする
いいかえると、「世界を黙らせなければならない」

世界はつねに言葉に手を伸ばし、記述の確定へ向かうことにアディクトしている
この中毒症は「feel」の取り戻しによって〝解毒〟する必要がある

 

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「第三領域」 20201017

2020-10-17 | Weblog

 


    *
チカラへの加担が死を意味し
無力への加担が生を意味し
不可能がぼくらの世界を析出する
    *
析出された現実にまなざしを向けるまえに
情動が告げるメッセージに呑まれないように

メッセージを聴ききったうえで
胸に刻んでおくべきことがある

それをそのように、析出へ向かわせ
動かす生の本質、基底にあるもの

このことの共通本質の取り出しを条件として
新たな現実の構成を描き尽くすこと

それが生の全域性にかなうものかどうか
つねに検証の作業を同伴させながら

「自我のエロス」自体の自然性が求める
「関係のエロス」の未踏の領域へ

 

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