ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「関係のゲーム──原点」 20200531

2020-05-31 | Weblog

 

 


「子ども時代を振り返るといくらかセピア調のフィルターが掛かっています。
しかし現役(!)の子どもにとって生きる世界はおそらく原色のままで、
いつも空は青く、雲は白い」

「子どもに寄り添おうとすれば、
おとなのまなざしには若干の色調の補正が必要かもしれません。
あるいは過去へ向かうおとなの視線と未来へ向かう子どもの視線は、
必然的にすれちがってしまう。
それゆえむしろ、寄り添うことの困難さを思い知るべきでしょうか」

「誰にとっても子ども時代はいわば人生の原点です。
その原点についておとなの側がどう考えるのか。
人生のはじまりの時期をリアルタイムで生きる子どもたちを、どう迎え、もてなすか。
このことはおとな自身、そして社会のあり方や技量、その本質が問われるような、
とても大きなテーマと言えるかもしれません」

 

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「Intermission」 20200531

2020-05-31 | Weblog

 

     
とおい記憶の地平の向こう側へ
消息の途絶えたおもかげを追ったとき
あなたの詠む歌は悲恋でしょうか
それともおごそかにつづられる叙事でしょうか

いまこのとき この春に
あなたのまなざしの奥に
小さくきらめく光は何でしょうか
だれにも語られない憎しみでしょうか

いくつもの物語をたどらなくてはそこに至れない
生命の深い森に連なるこのうえもなく貴重ななにかでしょうか

心がいつか必ずそこを訪ねたいと願い
願いつづけながら滅びてゆくかなしみでしょうか

あるいは深くわけ入ったとき 
道行きの途上でついには口ずさんでしまう
いにしへの歌謡に連なるなにかでしょうか

あなたと血脈を同じくする数多のまなざしが告げていました

そうでありうることがせつないのです
そうでありえないことがくるおしいのです

あめつちはじめてひらけしときより
あはれにはかなく 
かなしくむごたらしい
つねならぬつねの
つねになりてなりゆくありさまを
ただひとり見すぎたこの星の自然よ
おまえは倦むということがないのでしょうか

時のあわいにあるかなきか
永遠のまにまに
かつ消えかつ結びて
なおも見わたせば
春にひろがる情けのさざなみを

ある人かく曰はく、
まことのひとのなさけ
しごくまっすぐに
はかなくつたなく
しどけなきものなり

かさねて曰ふ、
つたなく執着尽きがたく
めめしくあはれなるものなれば
あはれの心をあはれのままに語れぞかし云々

ひとのこころを種として
まにまにかつ消えかつ結びて
つたなくめめしふ詠みつくれば
あやしふこそものぐるほしけれ

あなたのまなざしの向かう彼方に
結ばれる言の葉は挽歌でしょうか
あけそめの露に連なる頌歌でしょうか
 
よしなきいざないは止まず
遠いおもかげをよすがとしながら
終わりなき連歌のえにしにみちびかれ

踏破すべき一片のよしなしごととして
いまも心に訪れているのでしょうか

 

 

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「新しい朝のために」  20200530 20190906

2020-05-30 | Weblog

 

すくなくともソレをめがける〝意志〟に従うかぎり、
fighterであり戦士であることは必然的に要請される。

しかしそれだけではない。
戦いが目的化しないために心に留めておくべきことがある。

戦いにおける最大の武装がそのまま、
戦いから自由になるための作法があり、
それが選ばれ実践されなければならない。

     *

ゲームの限界はプレーヤーたちの疲弊した姿が明かしている。

ゲームの享受ではなく、相互にけずりあうような、
ゲーム維持という命題から逆算されたプレーがゲームを支配し、
プレイヤーの関係意識をバインドしている。


バインドをほどく。単にバインドをほどけばよい、という話ではない。
それ自体が一定の統一性、秩序性において現実化したゲームが生きられている

ゲームが求める属性、遂行課題、勝ち敗けをわける価値の階梯、
一人一人のプレーヤーの生存をかけたたたかい、けずりあい、
報酬と慰安、休息の手法、その関係構造(関係意識)の絶対性。

関係の絶対性──

それを支える限界の意識、聖域化した可能/不可能のボーダーライン。
超えられない条件、思考課題として検討に付されざる関係構造。

抹消され、存在しないものとして確定された公理系の外部。
すべては内部における〝やりくり〟と〝かけひき〟、
有限のパイ(エロス)をめぐる相互否定的けずりあいが絶対化していく。

     *

ゲームを位相転換するには、それを超える合理あるいは必然力、
新たな了解と納得を生み出すゲームのエロスが見出されなければならない。

それは「ここではない、いつか、どこか、別の場所」ではなく、
どこか遠くに設営された〝外力〟としてではなく、
「いま、ここ」に内在するチカラの解発として。

それぞれの自己展開の必然の道すじにおいて、
新たな「ありうる」の契機となる〝触発〟が用意されなくてはならない。

     *

手がかりとしての〝美〟──
心が動く。人間的生世界の原理的構成、「価値の文法」に寄り添ったコトバ。

 

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「狼のニヒリズム」  20200529 

2020-05-29 | Weblog

 

「徹底的ニヒリズムとは、……われわれは、彼岸を定立する権利や、
「神的」であり道徳の体現であるような、事物の背後にある本来のものを定立する権利を、
これっぽっちも持っていないという洞察である」

                ──ニーチェ『遺された断想』清水・西江訳

世界記述の玉座──真理、客観、正義
外化された観念群の極相

先行を許せば、殺し、殺され
殺しあう道が開かれる

われ在り、ではなく、われ在らしめられる
その逆算された人間的生、倒錯の歴史

みずから生き血を捧げ
生き血をすすることを許す
錯乱の世界記述、その派生的諸形態

かぞえきれない虚言がささやきあう
どこにもない約束の地

羊は玉座を望み、玉座にぬかずき
玉座に従い、従うことを求め

殺め、殺められ、怨念と呪いの嗚咽にまみれ
逆算された奇形の生として滅んでゆく

正気で生きることを望むなら
殺すことも殺されることも拒むかぎり

世界記述の全権を我がものとして
〝不逞なケモノ〟として生きなければならない

 

 

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「原理的」 20200528

2020-05-28 | Weblog

 

 


「卵を割らずにオムレツを作ることはできない」(フランスの諺)

「意識装置に何が加えられても(第一増量)、
その第一増量の活動が意識化されるためには、
それ以上の量(第二増量)が加えられる必要がある。
そして第二増量が意識に報告されるにはさらに増量が必要なのである」(G・Bateson)


世界から「A」というクラスを抽出すると、
クラスの外には自動的に「非A」というクラスが配置される。

よい/わるい、きれい/きたない、ほんとう/うそ、すき/きらい。
ある価値の措定はかならず「価値/反価値」を分けるラインを世界に走らせる。

漫画の吹き出しのように「味方」のクラスを囲むと、
囲み線の外には「味方以外」「敵」が配置され、
「味方/敵」をわける〝戦線〟が自動的に世界に引かれることになる。

こうした〝世界分節〟の原理的展開は、
第一には認識のエコノミーにおける効用をもち、
再検討を加えるという手間と時間を大幅に節約してくれる。

物事あるいは事態の単純分類法、定型的なパターン処理の原理として、
われわれの「世界認識の経済」の大半に活用されている。

しかし、人間の世界経験の多様性、多層性、未規定性に目をやると、
こうした原理的展開からこぼれていくもの、あるいは、
世界に走るライン同士の混線といった事態が無数に存在する。

単純な価値的「肯定-否定」といった分節にしたがわない世界経験、
たとえば〝愛〟という感受において、
それはしばしば「敵-味方」という分類線に〝斜線を引く〟ように展開する。

     *

「原理」は文脈に依存し、あるいは文脈を指定し、文脈ごとの「原理」が生きられる。
すべてを包括する全知全能的原理は存在しない、という「原理」。

 

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「Light in December」

2020-05-28 | Weblog

 


光が閉じられ
永遠に遠ざかろうとする
夕暮れの

きよらかな喪失の光景に
かたちのない応答が現象する

静かに眠らせたいときがある
深く、ざわめきを沈め

月明かりにさがした
帰り道

許された時間のなかに
すべてが溶けてゆくように
リアルよ 眠れ

沈黙しているかぎり
世界よ
おまえはなぜか懐かしい

 

 

 

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「展開形──カオスとの遭遇」 20200527

2020-05-27 | Weblog

 

 


───ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳

「すべての革新的、創造的システムは発散する。
逆に、予測可能な出来事の連続は、その予測可能性故に、収束する」

   *

展開形の本質──「問い」の連続的生成、自明性から未決への企投的移行。

世界のあらゆる感知「われ感じる」は、つねにすでに、
新たな「ありうる」をめがける生の主題(欲望)に染まっている。
企投の連続的展開において、固有の世界分節の原理も生成的に変化していく。

未規定な展開が接続、連鎖しつづけるゲーム世界のなかで、
すべてのプレーヤーはファンタジーの出現を夢見ている。

ルールやゲームプランの地平を離陸するようにゲームは動いていく。
初期条件の規定性をくつがえす展開からゲームのエロスは生成する。

予測可能、規定可能なプレーシステムの内部で完結しないために、
明らかにしておかなければならないことがある。

「展開予測を裏切ることではじめてゲームの本質は顕現する」

   *

インターミッション──プレーとプレーのつなぎ目に開かれる生成の原郷がある。
新たな〝発火〟が現象するために、その間、ゲーム世界は黙らせられなければならない。
ゲームの本質を知るプレーヤーは、世界を黙らせることを知っている。
もしゲーム世界自身がそのことを望むなら、みずから黙ることを学ばなければならない。

   *

自然に刻印された淘汰の形式はシンプルである――創発の原郷を捨て去るだけでいい。
経験的に確定された戦略と情報の内部でしか動けないプレーヤーは、淘汰されていく。
「原因-結果」「刺激-反応」――線形的に記述される予測可能性の内部から、
新たなプレーイメージとプレーが産み出されることはない。
諸変数の処理は定型化され、プレーヤーの中で完結し、プレー生成の作動は停止する。

   *

公理系における定理の発見、そしてその「正/誤」をめぐる議論に呑み込まれると、
公理系そのものの生成──ゲーム世界の生成性という本質を見失うことになる。

   *

「可能-不可能」――既知の内部で思考が完結するとき、不可触の地平が確定され聖域化される。
思考と運動のパターンはフォーマット化し、プレーの出力は閾値内に収束していく。

聖域化された不可触の地平を破り、プレー生成の新たな地平が開かれなければならない。
予測可能性に埋め尽くされた内部に、不連続なゆらぎやノイズが導かれると同時に、            
プレーヤーは自由エネルギーを解放するカオスを体験しなければならない。

定型的な運動と不連続のゆらぎが交わり、カオスが発生して閉じたループが破られる。
プレーを構成する無数のパーツはいったんシャッフルされて、新たな構成へ向かう――

プレーヤーに内在するポテンシャルの発露、解発の契機としてのカオスの体験がある。
カオスの出現と同時に可能と不可能の境界はゆらぎ、プレーは解体の危機を迎える。

聖域化した可能と不可能の境界のゆらぎ――それは未知の変数=「他者」によって導かれる。
「私」の統覚を不安定にし、予測可能性のフレームを破って動くもの、それが「他者」である。

他者との関係性、他者に対するかまえがプレーの本質を決定する。
対峙の相手として、しかし同時に、触発の資源として。
拘束として、しかし同時に、創発の契機として。

他者の認知と承認──可能なかぎり、多様で強靭な未知のプレーとプレーヤーに出会うこと。
そのことでファンタジーの出現をこの上ない高みにおいてめがけること。

「私」と「他者」のプレーは相互にせめぎあい、反照しあい、響きあう中から、
カオスのゆらぎが生成され、プレーを創発する非空間的な位相が開かれていく。

未知の未知性、他者の他者性、みずからにとって異質なプレーに開かれているとき、
それは同時に自己の未知性、自己の未知のプレーと出会うことを意味する。
カオスの体験は肯定され、資源として享受され、プレーの新たな可能性、
ゲーム身体の新たな存在可能、「ありうる」のエロスが立ち上がっていく。

ゲーム空間では「未発見の事実と絶えざる変化を受けいれる者が勝利者となる」――.

すべてのプレーヤーがゲームへ向かう彼岸には、ゲームに創発するファンタジーがある。
ファンタジーの出現に向かうとき、プレーヤーたちはいつも必ず「カオスの縁」を駆けている。

 

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「回路の切り取り──全体と孤」(参)

2020-05-26 | 参照

 

 

───G・ベイトソン『精神の生態学』佐藤ほか訳
   (「原初的芸術のスタイル、グレイス、インフォメーション」1967)


個別化された病気の防ぎ方や直し方のトリックを身につけたところで、
そこから全体を看取する〝ウィズダム〟(叡知)が出てくるわけではない。

意識が切り取る因果連鎖が、システムの(大小さまざまの)回路の一部をなしているとき、
切り取った連鎖をいじるところに過ちは必定だろう。

意識による切断面の上部に現われるのは、さまざまな回路の弧の群れなのであって、
完結した回路(あるいは回路の回路)の全貌をそこにすくいとることはできないのである。
孤立無援の意識──芸術・夢などのたすけを受けない意識──には、
精神のシステム性を感受することができないのだ。

なにも医学を批判しようというのではない。
私の論点は必然的・不可避的な事実の指摘にある。
芸術、宗教、夢、その他の現象から孤立した単に目的的な合理性は、
必然的に病的(pathogenic)であり、生に対して破壊的であるということ、
そして、その破壊性の源は、生というものが意のままにならぬ(contingent)回路の
システマティックな合体のうえに成り立っているのに対し、
意識はそれらの回路のうち人間の目的心が誘うことができる短い孤の部分しか
とらえることができないところにある、というのが私の論点である。
孤立無援の意識は人間をつねにある種の愚行に巻き込むのだ、と言ってもいいだろう。

孤立した意識は、つねに敵対に傾く。それはなにも他人を抹殺するに越したことない
という意識のコモンセンスからだけではなく、回路の孤しか見られない人間は、
計算づくの目的的行為が裏目に出て自分を苦しめるという状況に出会うとき、
驚きとともに怒りを禁じえないという、より深い理由からである。

「芸術作品は、それを作った人間のパーソナリティについて何を語っているか」
──というのが、これまでの慣例的な疑問のかたちだった。
しかし、これまで示唆したように、
芸術が私のいう「叡知」を保つことに積極的に寄与しているならば
──つまり、生に対するあまりに目的的な見方を
よりシステミックな方向へ治療していくことに関わっているならば──、
一つの芸術作品を前に発せられるべき問いはこう変わるはずである。
「この芸術作品を創る、あるいは見ることで、
叡知に向けてのいかなる心の修正がもたらされるのか?」
それはスタティック(静的)な問いからダイナミック(動力学的)な問いへの移行である。

 

 

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「ADIEU──光の海」 20200525 

2020-05-25 | Weblog

 


刻まれた光を消すことなく
ただ、消えてゆくままに

どう迎え、もてなせばよいのか
わからないわからなさのままに
光の強度が損なわれないように、

混入するノイズ、作為の腕を払って
生きられた光の強度のままに
静かに、ふさわしく光る場所へ

世界は時間の光を集めた海に浸かっている
かつて-いま-これから
ひとしく混じりあう光のカクテルから
つねに予期は生まれ、新しい光が加えられる

光の生成、それは動かせない原理

歌われ、生きられた歌はもう「そこ」になく
位相を移して、いま「ここ」にあって

あの歌があって、この歌があり、
次の歌が生まれ、新しい歌に溶けている

光の海はそのつど陰影を深くして
すべての光は溶けあい
新たな光源を形成し、生まれ変わっていく

光を濁らせる、踏み入ってはならない
回避すべきデカダンスの領域がある

いまを照らすかぎりにおいて
だから、照らす光の強度のままに
迎えるために手をふり、わかれの挨拶を交わす

Adieu!

そんなでもありえた あんなでもありえた
ああでなかったら そうでなかったら
こんなふうではなかったかもしれなものが
いま、ここに、こうしてふうにしてある

どんなでもありえたはず、とはいえない
けれど、こんなではない別のかたちが
ありえたかもしれないこととして

いま、ここでこうしてあることにかさなり
 
ずっと、そうでもありえた
ああではありえなかった
そうではないかもしれなかったこととして
いま、ここで生きられていく

ありえた、ありえない、ありうる、ありたい
かつて-いま-これから 
すべての時制を溶けあわせながら
  
そんなではなく、あんなでもなく
いまここに、こうしてあるということ

むすうのありえたこと ありえなかったこと
こんなではなかったかもしれないことに
かぎりないわかれのあいさつが交わされ
ただわかれの感情だけはたもたれながら

さまざまな、ひとつひとつ、かぞえあげることができない
それをそうだとすべてを知ることができない
出会いがあり、わかれがあり

ひとりひとりの透きとおった
おわりのない、孤独な
内なる儀式をたずさえて
いまのかたちがあり

ありえたかもしれないむすうかたちと
ほんとうはなかったかもしれいかたちが
ひとつに結ばれるように
むすうの出会い、さよならがくりかえされ

これからもくりかえされるだろう
孤独で、せつなく、けれどすべてが溶け合う
ただひとつだけの光の海

いま、ここに、こうしてあることに
これからのかたちがかさなり動いてゆく

この世にひとつだけ、心が沸きたつ光の海として
いまここに、あなたがいて、ぼくがいる

 

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「Freestyler」20200524

2020-05-24 | Weblog

 

どこか遠いところへ
じゃなくて
もっと近くへ、からだに向かって

いまはじめて生まれたように
軽くステップする、むずかしくない

しっくりくる、しっくりこない
たしかめながら
疑いようのない、わたしだけの感覚

one more step
キープする
one more step

声がする、たくさん生きるんだよ
うまれたてのあなたに、welcom

from inside、from outside

まじわる地点にはじける
フリーハンド、フリースタイル
思いつくまま、感じるまま

はじまりの場所で、忘れないでいよう
いつでも帰還できるように

考えをめぐらす場所じゃない
考えることと考えることのあいだにスキマがある

ちょっとちがう
リアルにはスキマがある
とってもおおきなスキマがある

世界を切り取って書きとめる場所じゃない
じゃない場所で

One More Step

 

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「インターミッション」 20200523

2020-05-23 | Weblog

https://www.youtube.com/watch?v=pZ3l-OGd5YA&list=RDpZ3l-OGd5YA&start_radio=1#t=5

 

ちいさな休止符(intermission)を日常の楽譜に書き込み
世界記述、関係記述を確定させる誘惑をしりぞけ
直列した関係のリンクを外して、スキマを開く

所与される世界とスキマなくリンクした行為モード
関係のモードが出会えない生の位相、実存の位相があり
直列状態から外れることではじめて扉が開かれるフリースペースがある

「あれはあれ・これはこれ・それはそれ」
「かくあるべし・かくなすべし」
そうではなく、世界をめぐる確定記述が消去する位相へ

記述されたものはすべて記述されざる海に浮かんでいる
視線は逆向きにフォーカスされなければならない

世界が示す命題群に「差し押さえを喰らう」ことを願わないなら、
世界に引かれた輪郭線の囲みを突き破って〝空隙〟をつくり
みずからとすべての人間をもてなす作法を知らなければならない

 

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「関係──変化」 20200522

2020-05-22 | Weblog

 

    *

「きれいだね」
「どこが?」
「すべて」
「I don’t think so」
「わからないかな」
「わかるわからないの問題?」
「いまにわかるさ」
「逆かもね」
「What?」
「飽きる、かも」
「ぼくが?」
「うん」
「どっちが先かな」
「いまにわかるわ」

    *

「関係のエロス」が相互に等しく定常状態にあるとき、
世界を色づける価値コードは関係のなかで独立性を保ったまま、
それぞれの生の享受可能性(エロス)の中心軸は動かず、
関係のゲームに質的変化が訪れることはない。

質的変化はなんらかの「外部性」によってもたらされる。
それは、関係構造をゆるがすノイズ、矛盾の発生、
あるいは新たな変数の流入を条件として起こる。

    *

ある人間にとっての「価値」(情報)は、
別の人間にとっては「無価値」(ゴミ)である。

ある人間にとって「ろくでなし」は
別の人間にとって「最愛の対象」である。

ある共同体における「真」は、
別の共同体においては「偽」である。

「ほんとう-うそ」「よい-わるい」「きれい-きたない」

価値コードのちがいだけにフォーカスすれば両者のミゾは埋まらない。
世界にラインを走らせ価値的に世界を区分する価値コードの絶対性。
ただ、世界を区分するという共通本質だけが両者を結んでいる。

すべての人間に妥当する「絶対的価値コード(真理)」を想定することに意味はない。
絶対の真理という仮象の観念を生きる存在はこの世のどこにも存在しない。

ここには、ただ、それぞれの生の固有の状況における、
「生きられる真理」の多様性と多数性だけがある。

変化の一つは〝時間〟という契機において起こる。

恋のあけそめにおいて「美」であるものが、
恋のたそがれにおいて「醜」に変化する。

感性的経験に媒介されある作品は「駄作」から「傑作」に変異する。
大嫌いなピーマン、ニンジンはいつしか食事の定番になることがある。

変化の理由と根拠を見極めることができない。
しかしその本質はつねに「生のエロス」をめぐっている。
生の享受可能性をどこに求め、なにを欲しているか。

世界の現われ、その色合い、意味配列、基底的価値は変化することがある。
変化はそのまま欲望(生の主題)の変化をプレゼンテーションしている。

欲望そのものに手をかけて恣意的に操作することはできない。
世界にラインを走らせ、世界に向かわせる動機を与えるものに、
与えられたものは取って代わることできない。

それぞれの存在の内的な必然に導かれるように、
世界の現われ、世界への関与の仕方は変化していく。
しかし、この必然性を生み出す理路は意識主体の側にはない。

意識主体にできること──
時間という契機を自覚的に取り込むことで、
ただ、生きるかまえ、関係態度を変えることはできる。

しかしそのことを動機づけるためには、
生の享受可能性についての学習と経験的蓄積、
そしてそのから立ち上がる予期を必要とする。

 

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「〝人間的価値〟の個体発生的生成性」(参)

2020-05-21 | 参照

───竹田青嗣『欲望論』第二巻

ニーチェによれば「よい」という価値の発生の第一義性は、
「利他的行為」ではなく、「自己能力」のエロス性にある。
ここに見られる価値の顚倒の固定化がヨーロッパの人間の理想を形成したのだが、
この価値顚倒の根本的要因と意義は何であるかということが
ニーチェの探求の中心主題にほかならない。

ニーチェによるヨーロッパにおける価値(善悪)の発生性の本質を、
初期的言語ゲームのうちでの価値審級の発生性の本質へと位相変換すること。
すなわち、歴史的な価値発生の洞察を、価値の個体発生的洞察へと持ちこむこと。

どのような事態が「善」と呼ばれるかではなく、
どのような関係が「善悪」という審級の文節を生成するかと問う。

母の言葉……「よい」「わるい」は、世界のうちで生じる一切の情動様態を
その肯定性と否定性において二分する。(二巻、240)

 

 

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「ゲーマー、人類」 20200520

2020-05-20 | Weblog

 

「けずりあう」
「なに?」
「存在をけずりあう関係のモードがある」
「どんなふうに」
「望むかたちにアウトラインを刻む」
「存在のかたちを」
「そう。お互いがお互いをね」
「いけない?」
「それでずっとやってきた」
「でしょ」
「つまらない。いい加減にしろと思う」
「先が読めるということかな」
「読み飽きた、見飽きた、聴き飽きた、知り飽きた」
「アルチュール・ランボーさん」
「出発だ。新しい情と響きへ」
「でも、どこにも行けない」
「うん。抜きがたい話法が席巻している」
「抜けるに抜けられない」
「ゲームは惰性化している」
「でも別のゲームは見当たらないな」
「大事なものが枯れていく気がする」
「甘いんじゃない」
「甘い。もっと甘くなりたい」
「すごいね」
「ああ。破格の甘さで溶かしてみようか、世界を」
「げっ」
「けずりあうよりマシ」
「夢ね」
「夢と現実。われわれはその両方を生きる両生類だ」
「だれが言ったの?」
「ヘーゲルという人。哲学者と呼ばれている」
「両生類か。肺呼吸もエラ呼吸もできる生き物」
「でもふたつの呼吸法が身についていない」
「進化の途上にあるわけですか」
「中途半端なので、絶滅するかもしれない」
「そうかな」
「絶滅してもいいけど、その途上でたえがたい惨劇が待ってる」
「それが話法の問題とつながる?」
「そのとおり」
「結局、ゲームは終わる」
「きれいには終われない。たくさんの血が流れる」
「どうすればいいのかな」
「話法、つまりプレーモードを変える必要がある」
「身についたプレーモードは簡単には変わらない」
「ゲームからどんなエロスを引き出せるか」
「新しいプレーのエロス」
「うん。それが見出されたら話法は必然的に変化する」
「まだ見出されていないって?」
「けずりあうエロスだけしか知らない」
「わからないこともない、かな」
「そうじゃない可能性が閉ざされている」
「どうしてだろう」
「比喩としていえば、ゲーマーとして未熟だから」
「ゲーマー!」
「がぶり寄りしか知らない相撲取りみたいな」
「四十八手、それ以上あるのに?」
「押し出してごっつぁんです、だけがゲームのエロスじゃない」
「もっとプレーモードを広げろって?」
「両生類として進化を遂げるにはね」

 

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「最終解の棄却」 20200519

2020-05-19 | Weblog

 

記述のスペースをつねに空けておく──
それは「最終解」の完全棄却を意味する。

思考においても、ふるまいにおいても、
「最終解」から逆算して出力される経路を断つこと。

視線は変更されなければならない──

最終解。すなわち真善美、価値審級の極相として示される究極の解答群。
それらカミガミとして疎外された表象群を、
つねに、ただ一つの始原の場所、人間的生成の原郷から捉えかえすこと。

     *

悲劇のリフレーン──吹きすさぶ嵐は止むことがない。
専制・差別・抑圧・搾取・収奪・拷問・殺戮・蹂躙のアラカルト。

すべてそれらは最後の答え、承認と正当性をみずからに与え、
一切の権能をゆるす〝最終解〟の独占からみちびかれる。

     *

ふたつの法──

悲劇は日常に引かれた〝戦線〟を根として生育し、「法の支配」を蝕んでいく。
法のほころび、法の破れ、法の決壊、最終形としての無法。すなわち「自然の法」への回帰。

「人間の法」が包摂できない、
個と個、集団と集団、国家と国家における関係のゲームの展開可能性。

戦線の痛切性、絶対性(関係の絶対性)がみちびく悲劇のリフレーン。
すなわち自然の法=力の論理の全面展開。
最終の決着をつける「自然の法」が顕在化するまえにやるべきことはある。

     *

「自然の法」(無法)はつねに人間世界に潜在している。

「自然の法はだれも裁かない」

ただ淘汰の原理にしたがう無法としての自然の法。自然がつねに用意しているシンプル解。
審判者、裁き罰する者のいない自然状態において生き延びるための手段はフリー(自由)に選択される。

生存、死の回避という絶対命題にしたがうかぎりの、手段を選ばない敵のせん滅、
殺戮の自由、すなわち〝自然権〟。

「人間の法」が生きているかぎり、「自然の法」は眠りについている。
しかし「人間の法」の下において、〝戦線〟はつねに生きられ、新たに生成する。

すべての戦線を消去することはできない。
消すことができないことを前提に、その生育を抑え包摂する条件をさがす。

第一には、「人間の法」そのものが変わること。その包摂性の拡張。
自明な確定記述としての「人間の法」ではなく、成長する法としての「人間の法」。

さまざまな〝戦線〟の生成と生育に対して、それに先んじて包摂性を拡張するように、
書き換え可能性に開かれた〝未決性〟において成長変化する「人間の法」、という概念。

第二に、そのことの共通了解と書き換える意志の保持を意味する。
いいかえると、絶対的な確定項、究極解、理想理念(超越項)──〝最終解〟の完全なる棄却を意味する。

 

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