たとえばアルコール中毒──
意識は「禁酒」しようと考える。
からだは「飲酒」とためらわず求める。
対抗的にとらえると勝敗は明らかである。
両者の不和を解消するには両者の「合意」が条件になる。
Backstageの合意をどう調達するか。
恣意的な操作ではけっしてアクセスできないものに。
Backstageが「禁酒」を快として「飲酒」を捨てるする条件とは何か。
それを探すことが求められる。
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全体の一部であるものがみずからを全体から切り離して、
独立した存在であるかのように全体を制御することはできない。
「意識主体は全体の司令官にはなれない」
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関係世界、社会が敷いた「正常-異常」をわける価値判定のライン。
社会体内部において、価値判定のラインが無数に走り、
関係のゲームが教える関係の意味連関が示され、
関係のエロスをめがけるようにそれぞれの企投がうごめく。
しかし、一つの原理的事実がある。
集合的なラインはそのまま、個々のBackstageの意志をトレースしたものではない。
そこには必然的に齟齬、矛盾、軋轢、摩擦、クラッシュの種が蒔かれている。
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強いられた受動(隷属)という現実からの脱出法としての、
たとえば飲酒という能動的な作動。
アル中を異常と判定する現実世界に対するささやかな反旗としての「飲酒」。
それは現実世界全体が認めない、しかしBackstageの意志「正気」への回帰を暗示している。
意志の弱さ、良識の欠如、異常として片付ける社会体。
その社会体の価値的意味的構成そのものに対する否認、
小さな、個の内部で完結する〝反抗〟としてのアルコホリック。
「正気に帰る」ための飲酒、アルコールの過剰摂取という行為。
生理的身体を破壊してでも取り戻したい「正気」の希求がそこにある。
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