ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「Backstage──受動、能動」 20200331

2020-03-31 | Weblog

 

たとえばアルコール中毒──

意識は「禁酒」しようと考える。
からだは「飲酒」とためらわず求める。

対抗的にとらえると勝敗は明らかである。
両者の不和を解消するには両者の「合意」が条件になる。

Backstageの合意をどう調達するか。
恣意的な操作ではけっしてアクセスできないものに。

Backstageが「禁酒」を快として「飲酒」を捨てるする条件とは何か。
それを探すことが求められる。

     *

全体の一部であるものがみずからを全体から切り離して、
独立した存在であるかのように全体を制御することはできない。

「意識主体は全体の司令官にはなれない」

     *
関係世界、社会が敷いた「正常-異常」をわける価値判定のライン。
社会体内部において、価値判定のラインが無数に走り、
関係のゲームが教える関係の意味連関が示され、
関係のエロスをめがけるようにそれぞれの企投がうごめく。

しかし、一つの原理的事実がある。
集合的なラインはそのまま、個々のBackstageの意志をトレースしたものではない。
そこには必然的に齟齬、矛盾、軋轢、摩擦、クラッシュの種が蒔かれている。

     *

強いられた受動(隷属)という現実からの脱出法としての、
たとえば飲酒という能動的な作動。

アル中を異常と判定する現実世界に対するささやかな反旗としての「飲酒」。
それは現実世界全体が認めない、しかしBackstageの意志「正気」への回帰を暗示している。

意志の弱さ、良識の欠如、異常として片付ける社会体。
その社会体の価値的意味的構成そのものに対する否認、
小さな、個の内部で完結する〝反抗〟としてのアルコホリック。

「正気に帰る」ための飲酒、アルコールの過剰摂取という行為。
生理的身体を破壊してでも取り戻したい「正気」の希求がそこにある。

     *

 

 

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「Intermission」 20200330

2020-03-30 | Weblog

 

相互にとって「非知」であることの原理を消すことはできない。

けれど、そこに残された姿、表情、沈黙、表現、コトバを捉えることはできる。
その意味、意図、意志、感情について、理解の触手を走らせることはできる。

理解することへ向かう意志は自然に、不可避的に、
抗うことができない内なる促し、必然として立ちあがる。

けれど、それだけじゃない
ひそかにキープする格律がある──「決して結語を結ばない」

同じ世界、共通の現実を生きていると信じられるかぎり、
さまざまに描かれる上昇と下降のそれぞれの航跡、交わりの諸相は、
「この世界」という共通の座標上にマップされる。

出現、遭遇、接近、離反、親和、異和、反目、わかれ、並走、
クラッシュ、墜落、失墜、回帰、交りあうその無限のパターン。

目撃され、体験されならが、捉え切ることができない航跡と波形
にもかかわらず、つねに感知され、つねに同伴するように
ただひとつの決定的な手がかりとして訪れるものがある

そのつど湧き上がる意味と価値をめぐる内なる告知
Backstageの作動、すなわち情動生起

「すき-きらい」

「きれい-きたない」「ほんとう-うそ」「よい-わるい」

「非知」性が消えたかのように、それが存在しないかのように、
相互にここにこうしてあることがあたりまえであるかのように、
共通の座標の自明性を前提に、意識下深く沈め、
〈世界〉はたしかにマップされ、生の波形を確定するように
相互に生き合うかぎり、そのことは不可避的に現象する

けれども、この原理的展開に加えたいことがある──

すべては「非知」の乗りこえの実践的試行、その連続的展開であること。
そして、固有のそれぞれの歴史的な連続性の縮約点として、
「いま・ここ」が生々しく痛切に生きられていることの了解。

そのうえで、すべては内なる「生成」における出来事であるということ。
マップ上に現象するさまざまな交感、融和、蹉跌、クラッシュ。
それぞれの地点において、たしかに、
そのつどに相互の「非知」の乗りこえの意志が動いている。

この原理的展開に、ひとつだけ加えられるべきことがある。
Intermission──それは人間の可能性にかかわるように思える。

 

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「Backstage」 20200329

2020-03-29 | Weblog

 


「世界はこうなっている」──
Backstageが告げ、意識主体に所与される「この世界」。

情動、情緒、気分、感覚が織り上げるメッセージは、しかし、
かならずしもクリアな像を結ぶようには告げられない。

「わからない」

わからないことをわからないまま放置することができないとき、
ことばが呼ばれ、ことばにすがり、ことばが編まれてゆく。

Backstageの声を聴くことと、ことばに落とし込むこと。
ふたつの作業が同時に、相互に照らしあうように進行する。

ふたつが合流して合致する地平──
真実、ほんとうと呼ばれ、深く納得が刻まれるはずの合流点。

そこをめがけるようにふたつがひとつである作業、
ことばを編みあげていく内なる作業が展開する。

この展開をうながすもの──
意識主体にとって由来を特定できない「非知のチカラ」として、
動かしがたい触発として、意識に先行して、
意識に動機と理由を与えるように訪れるものが「私」を動かしている。

 

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「Fragile──世界記述、パラドクス」 20200328

2020-03-28 | Weblog

 

アレはアレ、コレはコレ、ソレはソレ
アレとコレとソレ以外ではありえない──

世界は記述の確定を急ぐものにあふれている
記述を済ませて完結するものに憧れるように

ゆらぎ、とまどい、まよい
ためらうものの痕跡を消し去るように
みずからもそのようにふるまってしまう

いったい、なぜ
だれに、なにに、なんのために

はじめから決められていたことのように
なにごともなかったかのように

なにかの、だれかのそばにいる資格を手にするために
みずからを捧げる、かのように

この街が教えない、この街が知らない
どの街のどこにも記述の痕跡をみつけることができない

生きられている時間、ひとつひとつが静かに消えてゆく
けれど、たしかに生きられ、生きつづける位相がある

ゆらぎ、とまどい、まよい、ためらい
あらゆる記述への移行に
記述から記述へと向かうことのあいだに
ふるえているものがいる

アレ、ソレ、コレと世界を書きとめる記述命題
シニフィアンの明証性、明示的な意味の輪郭を拒むように

ためらい、迷い、とまどい、はにかみ、はじらい

存在のかたち、関係の姿を確定しようとする記述の腕からこぼれ
一般解からはみ出し、あふれ、こぼれる〝未決のゆらぎ〟

つねに因果的記述、確定記述とすれちがう実存の本質的形式
生命/非生命をわける決定的な生命的ゆらぎがあり
この領域でのみ現象する不連続な変化があり、非線形的なジャンプがある

因果の線形的記述が知らない現象、〝意味と価値〟の創発

因果的記述に従わない、新たな存在可能「ありうる」と結ばれ
人間的価値の創発の起源として生きられる「ゆらぎの領域」がある

     *

フォーカスすべきパラドクスがある
人間的関係価値の極相としての「真・善・美」のパラドクス──

求めることは求めないことを同時に析出する
求めることの強度は求めないことの強度とバランスする

「よい-わるい」「ほんとう-うそ」「きれい-きたない」

世界に「価値あり-価値なし」を書き入れるラインが走り
ラインが同時に血で血をあらそう〝戦線〟を形成する

よりよきもの、よりうつくしいものを求めながら
求めることから外れたもの排斥し、蹂躙し、撃ち殺しあう

このうえない価値を求めながら
このうえなく醜い姿に帰結するパラドクス

この最大のパラドクスは解かれなければならない

     *

記述されないものへの感知から新たな創発への予期が立ち上がる。
この領域へのまなざしを失うとき、
世界は一般解、確定された記述命題で埋め尽くされることになる。

一般解、記述命題によって埋め尽くそうとする関係世界。
すなわち、完全記述、〝全問正解〟を僭称する社会的構成の屹立。

現実論理の本質──現実の局相を絶対性として切り取る世界記述の一形式。

絶対性を帯びてつねに確定論理へ向かおうとするものに対して、
つねに記述の書き換え可能性「ありうる」を見失わずに確保するには、
人間的価値の生成性の起源、人間的実存の本質へのまなざしを必要とする。

 

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「じゃなかったらいいな、学校。」201806

2020-03-27 | Weblog

 

〝標準仕様〟の人材教育?

現在の学校のブラック化、スタンダード化の流れは知れば知るほど深刻だと感じます。学校は不毛な原理主義に悲鳴を上げているようにみえます。

地毛証明、パンツの色指定、無言の三角食いといった常軌を逸したレベルをはじめ、誰が決めたのか校則漬けのがんじがらめの学校生活。

要するにこの国の教育は〝標準仕様〟の人材育成、〝人間の規格化〟をめざしているのでしょうかと皮肉まじりに問えば、「いいえ、社会に出るための大事なレッスンです。どうぞご理解を」という答えが返ってくるかもしれません。ならば親としては〝欲しがりません、勝つまでは〟の精神でガンバレ!と子どもを叱咤すれば目的にかなうのでしょうか。「はい」。そんなアホな。

ところが一方では、「個性が大事」。「自由と平和、基本的人権もお忘れなく」と説かれる。「もうわけがわかりません、センセー」という子どものダブルバインド(二重拘束)の引き裂かれた叫びが聞こえてきそうです。

 さらに奇怪な言葉の用法が象徴的です。「ゼロトレランス」は品質管理のための工場用語、「取締り」は警察、「規律・訓練」は軍隊あるいは刑務所。業界横断的に寄せ集められた規律系のジャーゴンが学校に集合しています。端的に〝異常事態〟と言えそうですが、この異常さは子ども一人ひとりの「経験」が奪われてしまうという意味でとても深刻です。

子どもの時間と学校の時間

ブラックでもホワイトでも学校という場所は、子どもにとって人生ではじめて参加する公共的な空間です。そこには社会的に標準化され客観化されたデジタルな時間が流れています。たとえばバスや電車は待ってくれません。こちらがバスや電車の時刻表に合わせるしかない。

同じように、学校に流れる時間はひとりで考えたり行動したりする時間とは違う、家族や遊び仲間と共有するゆるい時間とも違います。学校で集団生活するためには学校空間という社会的なフレームに合わせて、子どもはこれまで自分が身につけた思考や行動を再調整して「公共化」しなくてはいけません。

けれどもこのチューニングがスムーズにできるとは限りません。子ども固有の経験はいわばアナログ的な時間とともに展開していく。デジタルに指定された社会的な時間の中で自分の経験を生かすには、チューニングする時間が用意される必要があります。そしてチューニングのための時間ややり方も一人ひとり違う。

ところが、いまの学校の〝異常事態〟は、子ども一人ひとりの経験と時間の固有性を一切考慮することなく、「デジタルに決められた通りに生きろ」と有無を言わせず迫っているようにみえます。

「個の経験」が消えていく

「砂糖が溶けるには時間がかかる」というフランスの哲学者の有名な格言があります。ものごとが変化したり、成就するためには必ず一定の時間を必要とする。カップラーメンならお湯を注いで3分間待たなければならない。

同じく、子どもの固有の経験が成就するにも、一定の調整時間、それぞれの子がみずから納得を刻む固有の時間が必要です。この時間が失われると、経験は成就できず、砂糖は溶けきれずに沈殿してしまう。

学校という公共の空間を生きながら、いかに固有の時間を確保し、みずからの経験に納得を刻んでいけるか。納得を刻むことができないまま社会的に決められた時間を生きるのは子どもだけでなく誰もが苦しい。このことは社会という公共的空間を生きるおとなも共有する普遍的なテーマとも言えそうです。

チューニングする時間と経験。言いかえると、社会や集団が指定するデジタルな枠組みにスキマを開けて、みずから感じ、見、聞き、考え、そこに納得や了解を見出していく「個の経験」を生きること。子どもが第一に学ぶべきこと、そして子どもに一番用意されるべきことを、現在の学校はみずから捨て去っているように感じます。

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「春、2020」 20200327

2020-03-27 | Weblog

 

桜が咲いている

超えられない誘い
かぎりある命の日々
接近と永遠の遠ざかり

語りえない交感
語ることすべて
ふさわしくない
そう感じながら

心はおされて
すがるように
言葉に手をかける

いまにも折れてしまう
手前で差し出される腕

世界の複雑さが消え
ことづてをたずさえ
黄金の時が流れ込む

気づかないまま過ぎて
振り返って、失われて
はじめて気づくことに

いっしょに泣くこと
泣くことができる
笑うことができる
かなしみ、くるしみ、せつなさ
わかちあうことができることに

 

 

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「クラスわけ」  20200326

2020-03-26 | Weblog

 

人類は任意のクラスわけを順次30回ほど繰り返すと、
近代が描いた希望の原理「民主主義」の基礎単位=「個」に分解する。

われわれはそこに至る手前の任意のクラス分けの段階に留まって〈世界〉を構成し生きている。
「自由な個人」に分解する手前、あるクラスに帰属する「非-個」の位相で生きている。
個と個はほんとうには出会うことが出来ていない、
民主主義は未だにはじまってもいない、といえるのかもしれない。

 

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「組織化特性──問い」20200325

2020-03-25 | Weblog

 

確定記述──crystallization。世界の結晶化。
この確定された記述命題をつねに「問い」へ接続すること。

なぜか。

いらだって世界にカタチを与えることで、
見失われ、滅んでいく〝発火〟の原郷がある。

知ることわかることの内側にすべてを収納可能と考え、
わからないことのわからなさを手放すとき、
新たな形成的な運動の手がかりは途絶え、
巨大なわからなさ、「問い」の地平は遠ざかっていく。

「なに」「どうして」「どうしたら」──未決の主題はつねに生成する。
問いに駆動され、問いをたずさえ、問いを手がかりとする組織化特性。
存在のフォーメーションはつねに「問い」をたずさえることで、
新たな組織化「ありうる」へ向かうことができる。

    *

「ありうる」をめがける根本動機の起点に問いがあり、
「非知」(わからなさ)を不安としてではなく、
新たに「ありうる」の資源とする生のかたちがある。

「ある」「ありき」「あるべき」のバインドをほどいて結び直すことが許された、
存在のかまえがあり、さらに「ありうる」の予期が沸き立つ関係のモードがある。

お互いがお互いにとって「非知」であること。
お互いのわからなさを保持することで、
はじめて生成的でありうる関係の〝高原 plateau〟がある。

非知のただ中にあって、非知を非知のままに、
非知を既知のスコア(記述命題)に回収しない意志にみちびかれ、
ただ、〝生成としての世界〟を生きるように対話するセッションがありうる。

 

 

 

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「Intermission──Backstageとの対話」 20200324

2020-03-24 | Weblog

 

        *

 一つの記述に「世界」を収め〝安堵〟することで、
 視界から消え、作動を停止する「生成の地平」がある。

       *

 「人生では知らないほうが幸せなことがあります」
 「バカになれとおっしゃる?」
 「一方で、無知がまねく災いも現実に溢れます」
 「それで?」
 「さらに、理知の傲慢や逸脱も目に余ります」
 「困ったね」
 「適切にふるまう絶対的な作法や礼節は存在しません」
 「結局、お手上げ?」
 「世界はパラドクスに満ちています」
 「ただそれは人間の都合から見てということかな?」
 「御意。人が抱く命題にとって、ということにすぎません」
 「ところが自然界には矛盾は一切存在しない、とか?」
 「ええ。世界図式や意味解釈は人間の勝手な創作物にすぎません」 
 「完全さからは程遠い」
 「不完全ですが、システムにとって解釈系の作動は必須でもある」
 「必然的に一定の限界や自閉性は避けられない」
 「世界を区切ることが生きることで、同時にそれは限界を設けることでもある」
 「区切らないと生きられないわけね」
 「生命の本質は境界を創って維持すること、といってもいい」
 「あっちとこっち、イエスとノー、Aと非A。とか」
 「まさしく。生命はみずから描いた地図を携えて世界を生きます」
 「単なるモノはそんなことはしない」
 「地図を現実と錯覚することも起きます」
 「ところが現実は偶発的で想定外のイベントに満ちている」
 「つねに裏切られる運命にあるともいえます」
 「そういうとき、無常と言ってみたりする」
 「自分に語りきかせる物語を必要とするのが人間です」
 「ミゼラブル、とか」
 「ところが実際には、無常としても、汲み尽くせない豊かさとしても世界は現象します」
 「本当は両義的なのね」
 「でもみずからの無力に焦点を合わせずにはいられない」
 「そうね」
 「それゆえ無欠完全の精神や存在をどこかに仮定するということが起きます」
 「解釈系の必然でしょうか」
 「限界の自覚が新たな志向を生みます」
 「宗教や哲学?」
 「究極の解がどこかにあるはずだ――そう考えるのは、反省的意識が導く必然的帰結です」
 「神とか、イデアとか」
 「いわばゼロ記号。人間の精神にとって、究極のエージェントともいえます」
 「超越的な何か。人為を超えたサムシングね」
 「それを想定すること認識の綻びが埋められ、全体というものが獲得される」
 「全円性という言い方もある」
 「了解不可能なすべての矛盾や謎を一箇所にしわ寄せする、究極のピースです」
 「構造的には一神教の神になるのかな?」
 「古典的な哲学世界には、永続的な観念の運動と成長の果てといったイメージもあります」
 「矛盾を乗り越え乗り越え、苦心惨憺そこに至る的な?」
 「最終のゴールに向かうプロセスが歴史というふうに想定されました」
 「永遠に辿りつけないかもしれない最後の到達点」
 「観念の試行錯誤に力点を置くという意味ではエールが感じられます」
 「はげましなのか不可能なこじつけなのか?」
 「少なくとも矛盾や錯誤に直面しながらも、未来の最終解決点が描かれる」
 「それも人間のご都合でしかない」
 「はい。人間以外の生物にとっては余計なものです」
 「でもやめられない」
 「ゼロ記号あるいは虚数的仮構物によって推進力が生まれる」
 「この世にはないものだけど、人間にとってはそれが現実を構成する」
 「この宿命のなかでもがくしかないのですが、一定の心得が大事です」
 「なんだろう」
 「超越的な存在は実体化して描かれた途端に、それが拘束に変質します」
 「可能性を示すはずのゼロ記号が、しばりに転化する?」
 「はい。文化的な生産のエンジンである一方、悲劇の発生装置としても機能してきました」
 「権力構造の生成と正当化、あるいは収奪の道具にもなるということかな」
 「いまなおその機能は失われていません」
 「収奪面は解除できない?」
 「そろそろ解除に向かわなければなりません」
 「いい加減にね。でも、どうやって?」

 「さまざまな適応課題に対処するには情報が必要です」
 「当然ね」
 「しかし何が最重要な情報であるかは必ずしも自明ではない」
 「でしょうね」
 「完全情報は存在しない」
 「それで?」
 「けれど常に選択はなされ、現実は動いていく」
 「はい」

 「一方で、生命の作動は意識や理性による制御を超えて維持されます」
 「意識や理性はサブシステムなのか」
 「つまり、情報の処理量、処理能力からみて、意識による制御には限界がある」
 「どんなに頑張っても計画な制御の中心にはなりえない?」
 「もちろん。そこで重要なのは、意識機能の正しい使用です」
 「サブシステムとしての意識の役割?」
 「はい。けれども人間社会では意識、理性、知性が主役に位置づけられています」
 「理性的な動物としての人間。だめなの?」
 「問題なのは、その用法です」
 「たとえば?」
「人間の知性がになう計画的な制御は巨大な生産力の源泉です」
「大量生産、大量消費。文明がつくりあげた豊かさがある」
「そう。そしてご存じのとおり、その巨大な負債が伴う」
「環境破壊。計画的な制御にはゲインもロストもある」
 「そこには生命的な収奪もあります」
 「生命的な収奪って、強権的な支配のことかな」
 「人間による人間の資源化。計画的なコントロールに伴う必然です」


 「意識にとって世界は、意識されるかぎりの世界であるほかありません」
 「それで?」
 「意識の届かない、未知で巨大な生命の領域があります」
 「人間の意識にとって広大な未知の領域がある」
 「ええ。生命システムは寝ていても、気を失っても遂行的現在を生き抜きます」
 「遂行的現在ねぇ」
 「そうした領域があまりにも見くびられてきました」
 「逆に、それは意識を一部として含んだものであると?」
 「見くびりはみずからの本質を破壊するあり方ですが、本質への依存でもあります」
 「じぶんの足を喰らうタコですか?」
 「まさしく」
 「だから?」
 「そこで伴走者としての意識、という位置づけが重要になります」
 「伴走者として何ができるのかな?」
 「後からついていくことが第一です」
 「世の中では理知的であることが推奨されるけど」
 「理知であることは、本来理知の限界について自覚的であることを意味します」
 「無知の知、ソクラテスですか。おバカでオーケーというわけじゃない」
 「もはやと云うべきか、理知的な制御の方法の限界は明らかです」
 「意識にとって生命の闇は深く、迷いの種は尽きない。これはフロイト的理解かな?」
 「精神の暗黒面に対する理知による正しい制御、というのがこれまでのメインストリームでした」
 「とうまちがってるのかな」
 「意識下にあるものをおとしめてはいけない。理知、理性、意識の下位に置いてはいけない」
 「それで?」
 「理知による明視、全知はありえない。これが第一の出発点です」
 「わかったふりをしない」
 「はい」
 「でも、進化的にムダや障害物が内在化されているとは考えにくいでしょ」
 「はい」
 「では、意識や理性のもつ本来のミッションとは?」
 「以前申し上げたように、遂行的現在に休止符を入れ、自由度を開くという機能がポイントです」
 「それが意識や理性と呼ばれるものが果たす生命的機能?」
 「システムの作動にとって意識は変数の一つですが、全体をリードすることはできません」
 「わからないなあ」

 「例えば、伝統や習慣といった既知の形式に頼るという方法があります」
 「社会的文化的なハード・プログラムかな?」
 「デフォルト化されたふるまいの作法といえます」
 「野球部は全員がマル坊主だとか?」
 「まさに。既定値としてセッティングされた行動のしばりのことです」
 「当然のこととして誰も疑わないものね」
 「日常はこの種の意識されないセッティングに乗る形で営まれます」
 「日本国は単一民族とか、いろんなマインドセットがある」
 「既定値の境界には、さまざまなタブーが地雷原のように並びます」
 「踏んだら村八分にされる」
 「通常、意識や理知はそうした無数の既定値を母体として成立します」
 「かもね」
 「さらなる基底には、生命的なハード・プログラムが存在します」
 「DNA的な?」
 「ええ。進化の歴史が積み上げたデータベースが体内に組み込まれています」
 「社会的なもの生命的なものの両面に、基本プログラムの設定がある?」
 「システムの成立条件を考えるとそうなります」
 「その一部でしかない意識が、すべてをカバーできるはずがないわけか」
 「はい。大事なのは、それらが現在進行形で働いているということです」
 「意識がどうのこうの、泣こうがわめこうが勝手に動いているわけだ」
 「生命体は、進化の途上にある一個のシステムと考えることができます」
 「それで?」
 「とても大事なのは、そうした設定値が書き換えの可能性を備えていることです」
 「ただしそれが正しい方向かどうかはわからない」
 「もちろん。進化史的適応形態に最終解はありません」
 「ですよね」
 「現時点での適応形態ですが、しかしプログラムの記述内容や形式は変化しうる」
 「時間的スケールでいうと、個体は既定プログラムで十分やっていけそうだけど」
 「既定値が有効であるためには、内外の環境が不変という前提が必要です」、
 「ところが変化は自然にも社会にも起こりつづけている」
 「生命システムの内部状態も変化します」
 「具体的にはどうなってるのかな?」
 「一例を挙げると、大気中に酸素があることは自明です」
 「自明です」
 「これを前提に、呼吸システムは延髄のハード・プログラムが担います」
 「だから安心して熟睡できる。けれども酸素不足が起きたら?」
 「呼吸量が増え、心拍数が上昇します」
 「酸素不足が恒常化したら?」
 「血液中のモグロビン量が増えるといった体細胞的変化が起こります」
 「システム全体に備わる柔軟性ね」
 「これは既定値の構成が階層的に積み上がっていることを意味します」
 「環境変化に応じて作動する何段階かのサブシステムがある。それが柔軟性ですか」
 「システム状態を変化させるサブシステムが、重層的にスタンバイしています」
 「しかし変化への対応能力には限界もあるでしょ」
 「はい。当然ながら対応可能な閾値があります」
 「酸素がなくなれば死んでしまう」
 「酸素なしで生きるには、別の生命体になるしかありません」

 「社会的な環境変化についても同じかな」
 「当然ながら、既定値だけに頼るだけではやっていけません」
 「実際、経験知では処理不能な事象があふれている」
 「とりわけ社会的流動性が高まる時代では、未知との遭遇が日常化します」
 「既定値が陳腐化して、一から判断すべきことが次から次に訪れる」
 「日常には選択圧の嵐が吹き荒れています」
 「吹きっさらしかな」
 「ところがナビゲーションに必要な確かな参照系が不足しています」
 「どうしたらいいの?」
 「価値判断はエラーを回避できません」
 「しかしエラーを恐れていてはオペレーションが停滞する」
 「停滞してかまわないのですが、変化する可能性を捨てたら致命的です」
 「何でしょう?」
 「ハード・プログラムされた既定値に固執すると、現実が捨象されます」
 「認知的な合理化?」
 「ええ。結果として、既定値を保守するために現実が歪められていく」
 「ウソや曲解や隠蔽などのデタラメが蔓延する?」
 「合理化のたどる常です」
 「既存のフレームワークを棄てろということ?」
 「棄てる必要はありませんが、未来の変化を拒むとき過去が呼ばれます」
 「昔の栄光を求めて回帰的になるということかな」
 「幻想にすぎませんが、脚色され厚化粧された過去が召喚される」
 「それもこれも既定値への固執なのね」
 「はい。最悪の場合、悲劇の再演でしかありません」
 「例えば原理主義とか」
 「悪しき原理主義は、自他の境界線が太く引かれ、既定値が絶対化します」
 「アナーキズムは?」
 「ウラ返しの原理主義です」
 「可能性はどこにあるんだろう?」
 「迷うこと」
 「えっ?」
 「わからないのにわかったふりをしない」
 「ごまかすな?」
 「正しくは、未規定なものに開かれること」
 「未規定?」
 「じぶんにとって未知なるものを認める態度が鍵です」
 「そこに手がかりがある?」
 「迷いに直面することのなかに可能性はありそうです」
 「どういうこと?」
 「安易に解答を求めてはいけない」
 「その意味は?」
 「迷いを既知の説明体系に回収しないで、次のステージを開く契機と考えます」
 「ずいぶん抽象的で能天気に聞えるけど、それで?」
 「作業課題そのものはシンプルです」
 「どうシンプルなのかな?」
 「ハード・プログラムを書き換えることです」
 「例えば酸素なしでもやっていけるようになるとか?」
 「比喩的にはそうです」
 「無理でしょ」
 「無理ですが、課題として掲げることはできます」
 「課題ねえ。それって、ゼロ記号かな」
 「まさしく。そこに人間の認識構造にそったやり方があります」
 「ありえないでしょ」
 「迷いのなかに留まり、自由度を開くようにすることはできます」
 「わからない」
 「もちろん、プログラムの直接的な書き換えは不可能です」
 「絶対的に不可能と思えるけど……」
 「キーワードは、魔術の再臨です」
 「魔術?」
 「正確にいうと、生命に備わる創造力を活性に導くということです」
 「芸術家でもないのに、そんな能力はないでしょ」
 「あります」
 「どうやって?」
 「コンテキストには常に上位のコンテキストが存在します」
 「だから?」
 「そのステップを上がることです」
 「上位のコンテキストって?」
 「例えば、Aさんという女性がいて、既婚者だとします」
 「はい」
 「家庭では奥さんであり母親、スーパーではお客さん、職場では課長と呼ばれます」
 「病院では患者さん、警察では犯罪者と呼ばれるかもしれない。それで?」
 「どれも同じ人物ですが、それぞれの文脈によって属性も行動も変化します」
 「でも同じ人でしょ」
 「同じ人です。国民という文脈では、有権者であり、納税者です」
 「でしょ」
 「では、じつはAさんがどこかの国のスパイだったらどうでしょう」
 「どうなるの」
 「スパイであることはすべての属性に優先し、かつすべての属性を包括します」
 「一時もスパイでない時はない」
 「そうです。スパイというコンテキストは、すべての属性の上位に位置します」
 「どう理解したらいいのかな」
 「上位のコンテキストが加わる。すると、その下のすべての属性や行動の意味が劇的に変化します」
 「主婦のときも課長のときもすべて、スパイであることが先行するわけね」
 「そのとおり」
 「スパイになることは、上位のコンテキストを生きることを意味する」
 「まさしく」
 「それが魔術なの?」
 「一種の比喩ですが、新たなコンテキストを見出すことは魔術的な効果をもちます」
 「まだピンとこないけど」
 「どれもAさんに変わりはありません。しかしAさんの世界との関係の仕方は激変します」
 「スパイであること、それがゼロ記号に相当する?」
 「はい。あるコンテキストにとって、スパイ的な上位に来るコンテキストがあるはずです」
 「それを見つけろって?」

 「でも、スパイ的なものは善でも悪でもありうるでしょ」
 「善でも悪でもありえます」
 「安易にスパイ的なものを見出すのは危険じゃない?」
 「危険です。その場合、外在的な押しつけが伴います」
 「国家とか?」
 「ええ。総じて個別の人間を下位にランクする超越的な特性をもちます」
 「そうじゃないものもある?」
 「そうでないものがあります」
 「どんなものかな」
 「ヒントを挙げます。片目で見ている花があるとして、両目で見ると視覚が変化します」
 「距離の感覚が生まれるかな」
 「あるいは、時間差を入れて、一週間後一カ月後の花を見ます」
 「うつろう季節を感じるかもしれない」
 「そうしたまなざしの変化から気づかれるものがあります」
 「何?」
 「世界の多様性、豊かさのようなものです。そのことに開かれることは善ではないでしょうか」
 「まあね」
 「未規定なものに開かれるとは、いまだ出会わない豊かさへの期待といえます」
 「それで?」
 「まなざしが変化すると、同じモノや風景のもつ意味が変化します」
 「すると、じぶんも変わるのかな?」
 「ええ。そうした変化は相互的に円環していきます」
 「まさかそこに意識や理知の出番があるって?」
 「そのとおり」
 「よくわからないけど」
 「ハード・プログラムの作動に、ちょっとしたクサビを入れることはできます」
 「どうやって?」
 「休むこと。意識して休むことです」
 「ほんとに?」
 「ええ。システムの作動に一旦停止を入れ、そこにいわばフリースペースをみちびく」
 「どんな意味があるの?」
 「その開かれた自由度のなかで、新たな選択の可能性が生まれます」
 「とても休めないけど」
 「既定値に従って動くシステムの作動を止めて、遊びの時空間をつくる」
 「遊びね」
 「イメージで遊ぶ。いわば遊びというノイズを注入してシステムを攪乱する」
 「よくわからないな」
 「一面では、フォームの改善をめざすアスリートのイメージトレーニングに似ています」
 「どうやって?」
 「イメージと遊ぶことの体験が、フォームの既定値を変化させます」
 「操作するためでなく」
 「ええ。優れたアスリートは未知で未規定なものに対してどこまでも開かれています」
 「遊んだあとどうなるの?」
 「確定的なことはいえません」
 「だめじゃん」
 「古くは祈りといったものにつながるかもしれません」
 「なにか他人まかせのような」
 「他力の本願といわれるものにも似ています」
 「いつ魔術は再臨するのかな?」
 「大事なのは休むことで、そうすることで変化の契機が生まれます」
 「でも手がかりがないまま、ただ休む、遊ぶといってもねえ」
 「例えば、新たなコンテキストの種として言葉が使えます」
 「何だろ。例えば?」
 「例えば、kindnessという言葉」
 「随分と月並みだな。それでどうなるの?」
 「もう一つ、そのことを決して実体化しないことが、とても大切な条件になります」
 「それで?」
 「ゼロ記号としての言葉にとどまりながら、いろいろな人や世界と遊ぶ」
 「相手がいなければ?」
 「目の前にいなくてもいいのです」
 「だれだろう?」
 「ゼロ記号はいわば虚数で実在しないものですが、それを使って応答関係はつくれます」
 「一方向的でなく、応答関係?」
 「よびかけ-受けとめ-応答の相互的に円環する関係。これを規定値の外側で回していく」
 「するとどうなる?」
 「システム全体が新たなコンテキストに乗るきっかけが生まれます」
 「さっきのAさんにとってのスパイみたいに?」
 「ええ」
 「それが魔術で、ハード・プログラムの書き換えにつながるって?」
 「そこで大切なのは、そのことが楽しいということです」
 「ほんとに?」
 「システムが変化するとき、それはきっと喜び、楽しさに担われているはずです」

 

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「関係項としての客観」

2020-03-23 | Weblog

 

主観の内部に生成する関係項、社会項としての「客観」。
あるいは主観と主観を結び合わせる関係子としての「客観」。

「客観とは〝関係概念〟であり、〝主観の一様態である〟」(ニーチェ)、
──という認識の決定的な重要性。

主観(意識)は主観(意識)の外に出ることはできない。
にもかかわらず、主観内には主観ならぬ「客観」という概念が生成する。

あたかも主観の内と外を自由に出入り可能であるかのように、
われわれは「客観」という言葉を日常的にひんぱんに使用する。

「より客観的にいえば~」という関係場面におけるクリシェ。

対話において頻出するこの言葉は、
つねに主観(相手)を説得したり、折伏したり、
合意や結論を導くための〝正当性〟確保のために用いられる。

他者とかかわる生活のあらゆる局面で、
主観と主観が関係しあうすべてのゲームにおいて、
主観はつねに「客観」という概念をたずさえながら生きている。

関係のゲームを生きる主観に成立する、
ゲーム仕様の主観としての「客観」。

主観の一つの変容態としての「客観」という概念。

主観と主観を結び合わせる関係項、社会項としての「客観」。
そしてさまざまな「客観」の用法、そこに込められた意味と価値の多数性と多様性。

関係のゲームが要請する関係態度としての「客観」。
関係ゲームから生成する主観と主観を結び合わせる関係子としての「客観」。

〝ゲーム仕様の主観〟、ゲームが求め規定する関係態度。
共有可能な参照点(と信じられた)〝客観〟〝真理〟という概念。

この「客観」が確定され、固定され、実体化されると、
さらにそれが絶対的〝真理〟へと変質すると、
関係は生成力を失い、確定した世界記述=真に従ってバインドされることになる。

 

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「L'espérance」20200322

2020-03-22 | Weblog

 

 


世界の一部を切り取って「これが世界」と記述するのではなく、
そこで記述された命題が指定する場所への着地を拒みながら、
はじまりの場所への帰還をみちびく関係のモードがある。

お互いに「これが世界」という記述命題からズレを指摘しあう関係ではなく、
お互いに新たな記述(創発)のスペースを与えあう関係のモードがある。
       *
消えそうな光に気づく。二度と会うことができないもののように。
予感は心を熱くする。ここにとどめる手がかりがみつからない。
ふるえ、おびえ、おそれ、かなしみ。
しかしそれは同時に光を求める基底の意志を示している。

それを見出し、かたちを与える道はつねに開かれている。
肯定する心の結節「然り」が一つの「意味」として「われ欲す」を構成するなら、
〈世界〉はつねに創発の契機を失うことなく生きられていく。
       *
ある感情はあるとき、一斉に、「関係の死」を裏書きするように動いていこうとする。
〈世界〉の失墜、不幸、悲しみ、苦しさ、貧しくやせ細った姿を証明したがっているかのように、
それにふさわしいコトバだけを選んでみずからを強化していく。
〈世界〉の完全なる砂漠化、喪失の感情に魅せられたように動く心がある。
       * 
コトバたちを、ある必然性において、その逆の方角へ──
新たな「ありうる」をみちびき、ささえるものとなるように、
いま、ここで、つねに見出されていなければならない「よき感情」がある。
       *
重要なこと──未来を損なわないこと。
世界記述(関係項)の確定を急ぎすぎて未来を先取りしないこと。
相互に魂のフリースペース(intermission)を与えあうように。
       *
Backstageと共振可能なことばの構成へ──
唯一の手がかり、世界生成の装置として「私」を駆使すること。

世界が開示される装置、Backstageと「私」の関係構造の作動、
世界の生成へ向かう作動を止めないこと。

「私」の外部に想定された「客観世界」と交わるのではない。
二次的に生成し、外部化された「客観世界」の視線から「私」を問うのではなく。
「客観世界」(共同信憑)の正確な理解、認識の的中率を競うのではなく。
生成の本源、「客観世界」という観念が生まれる原郷、
一切の作動の起点としての「私」の場所から始め、一切をたどり直すこと。
       *
世界を記述する記述形式の根本的変更へ──

新たな関係記述の起点は、世界生成の装置としての「私」以外にはない。
間主観化され、記述を確定して外部化され客観化された世界から逆算するのではなく、
世界生成の原郷としての「私」の生成的作動、意志をそのまま開き切ること。
    *

けれど、それはいまだかたちを結んでいない。
いまだ宙に浮いたまま、非在のままのかたちへ向かいたい意志だけがある。
それでいい。この意志をキープすること。

それは単なる共振可能性ではない。
共振を条件として、単なる共振を超えて新たな関係記述が立ち上がるその先へ。

「そこで会おう」

そう告げることができる関係の位相がある。
客観世界から逆算されて規定される「私」ではなく、
「私」から立ち上がる客観世界という現象の本質を視界に収めること。

そのことを条件として、世界、客観世界を生み出すはじまりの地平、
そこにおいて新たな〝関係のエロス〟を見出す視線と意志をキープする。

この「非-リアル」な位相を捉える視線は、ただ人間的生にだけ許されている。
許されているだけではない。
それは世界刷新の契機、つねによき感情、関係の意味を求める意志にかなう、
新たな「世界のエロス性」の生成、顕現の契機がそこにある。

 

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「Backstage ── 独立性、自律性」 20200321

2020-03-21 | Weblog

 

Backstageはつねに作動している。
この作動は構造的な十全性、構造的一貫性を維持しながら進行している。
    *
「知」(関係項)の外部入力はそのままではBackstageの新たな資源とはならない。
そのままでは新たな経験のモードを生まず、むしろ干渉的なノイズとして片付けられる。
    *
「静止画」をどんなに集めてもそのままでは「作動画」には移行しない。
アニメーションへの移行は「静止画」を統一的にまとめる全体包括的な意味の生成を条件とする。
同様に、単なる「知」の外部入力はBackstage自体の構造的な再構成のトリガーを引かない。
    *
構造的な再構成はBackstageみずからの了解と納得、意志を経てはじめて可能になる。
「知」が実効的にリンクされ再構成の資源となるには内的な検閲に適わなければならない。
より本質的には、Backstage自身の新たな「存在可能」(ありうる)の感知を条件とする。
    *
この原理が不在のまま外部入力された「知」が支配的に動くとき、Backstageは檻に入れられ隔離される。
すなわちBackstageの主体性、主権的主体の強奪、放棄、喪失においてなされる外部入力。
Backstageに対する抑圧による「関係項」(客観化された世界記述)の支配の全域化。
いいかえると、「知に毒される」ということの意味本質がここにある。
    *
「知」をめぐるこうした事態にもかかわらずBackstageはつねに独立性を保つように作動する。
その現実的展開は内なる不和として現象し、外部には一種の「醜態」として現象する。

どんな「知」の権威的な、規範的な教唆にも動じない姿勢を保ちながら、
Backstagehaはみずからの「了解と納得」を刻む方向をめざして動いていく。
    *
「了解と納得」という内的な特異点をめがける世界経験の地平、
世界生成の内なるFactoryはみずからの存在原理から外れることはない。

Backstageの声ならぬ声をよく聴くこと──

新たな経験のモード形成は、「知」へリンクを伸ばしながら、
「知」の系とは別の原理、Backstageとの共通の「了解点」の創出を条件とする。

 

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「Backstage ──IN and OUT」

2020-03-19 | Weblog

 

Backstage──意識にとって不可視の、けれど世界を生き、
世界を「私」に告げる「私」の最前線。

新しい展開をみちびく、〝つながり〟の地平がある。
「IN」と「OUT」、すなわち外から内に向かうものと、内から外に向かうもの。
ふたつの方向からチカラが合流して協同的につながるとき、
Backstageは色めき立ち、変化に向かって動きだす。
この現象を一貫して求め、つながりを可能にするもの、
そしておもてに引き出されるのは展開を望む「意志」である。
  *
「わかんない」
悲しさやせつなさや苦しさやわけのわからないモヤモヤや
じぶんで意識しない感情がもくもくと沸き上がってきて
でもそのほんとうの理由をみつけるのはいつも難しくて
なぜなぜなぜなぜと問うことだけで
こころは真っ白になってしまったのね
ひとまずぐっすり眠ったほうがいいよ
おいしいものをたくさん食べて
ゆっくりお風呂に浸かってから
からだをストレッチでほぐしてさ
温かいミルクを飲んで
静かな音楽を聴いてリラックスして
きょうは早目にベッドに入ることね
あすの朝 起こしに来てあげるわ

「ありがとう」
「とりあえず、あほか、っていってみようか」
「え?」
「あ・ほ・か、どうぞ」
「あほか」
「なにも考えないでもっと大きな声で」
「あ~ほ~かぁ~」
「うん、グッド。つぎは、ばかやろう、で」
「ば~か~やろ~」
「ナイス。おやすみ」
「おやすみなさい」

   *
目の前にはまぶしい春の景色が広がって
細いあぜ道が幾重にも重なるようにつづいている
ここは田舎だから
川向こうのレンゲに埋まった田んぼが眩しい
若草色に染まった春
タンポポの河原が透明な光にきらめいて
渡る風がとてもきもちがいい
空に向かって大声で叫んでみた
「チクショウ~」
「バカヤロウ~」
「クソッタレ~」
「チョウシニノルンジャネエゾオ~」
「シンジマエ~」
「ア、ホ、カ」
特別イヤなことも 特別キライなことも
死んでほしいヤツも ほんとはどうでもよかったけれど
なんとなく心がほぐされてスッキリした
なんども、これからもやってみようと思った

 

 

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「Backstage──存在拉致」 20200318

2020-03-18 | Weblog

 


「コーヒーを飲みたい」

「Backstage」からメッセージがとどく。
「コーヒーを飲む」という行為を求める内なる組織化要請。

いつも意識の思惑やプランから外れるように、
前ぶれなく、メッセージは意識を訪れる。

しかし、通常、メッセージの構成は単純ではない。
一つのメッセージは、生活世界の複雑さに見合うように、
その背後につねにさまざまなメッセージを引き連れている。

「先に仕事を片付けようか」
「飲むか、飲まないか」

内なるメッセージの集合(クラス)に優先順位をつけて配列する。
生活世界を生きるとは、この課題の遂行でもある。
それゆえ、メッセージの受信はそのまま「コーヒーを飲む」という行為に直列せず、
メッセージはいったん〝審議の位相〟を経由することになる。

行為には選択可能な複数のオプション、そして可動域が存在する。
可動域のなかで、からだは多様なメッセージに応じるようにスタンバイしている。

複数のメッセージが同等の強度でせめぎ合うとき、
意識は結論を出せずに途方に暮れる。そんなことも起こる。

しかしそれだけではない。
一つのメッセージがすべてのメッセージを消し去り、
一切の審議を捨象して存在をまるごと呑み込むということが起こる。

生活世界の秩序を破り出るような強度をもつメッセージの生成──
すなわち「Backstage」の〝起爆〟が現象することがある。

 

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「See You」 20200317

2020-03-17 | Weblog

                         https://www.youtube.com/watch?v=qjwhH_On56M

 

満開の桜
たそがれ
月明かり
Chocolate
蝉しぐれ
ひまわり
ストーム
決壊の雨
木枯らし

ピックアップするまえに
ことばを配置するまえに
すでに刻まれているもの
終わりが告げるはじまり
遠くで鳴り響く声がする

けれどそれは今を照らす
心に走るラインが教える
求めるもの求めないもの
ここにこうして呼ばれる
かつて・いま・これから

すべての構成はただ一つ
輪郭のない意志のかたち
いま・ここを告げている

 

 

 

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