比喩として聞いてね。
どうぞ。
わたしたち人間はそれぞれ固有の理解のポッケというものをもっている。
サイズ、カタチ、素材、色、意匠、それぞれの流儀にあったポッケをね。
それぞれに「入れられるもの/入れられないもの」があって、
それが固有のスタイル、個性とか人格とか呼ばれるものをかたどっている。どう?
そうね。いろんなものをポッケに入れるわけだけど、
究極的には、世界全体をまるごとポッケに収めたいという欲望をもっているかもしれないな。
他者も含めてね。ポッケに収納して完全な理解、いいかえると完全な制圧の下に置きたいと願っている。どうよ
すこしちがうかも。制圧したい、コントロールしたいかもしれないけれど、
逆に、よりよく理解していい関係を築いて仲よくしたいということもあると思う。
ひとことで言えないけどさ。
これは余談だけど、最強最大最上のポッケ、〝カミ〟という想定もあるけど、
わたしたちはいつかそんなものに頼らないと決めたのね。じぶんを見失わないためにね。だよね
うん。どこにもない究極のポッケを召喚して生きたらいろいろマズイことが起こる。
ガチでいうとね、実際にはポッケに収まりきらないもの、それが世界、そして他者でしょ。
理解のポッケに入れたと思った瞬間にはもうちがったものとして存在して動き回っている。
もっと本質的にいえば、どんなポッケにも入り切らないもののことを、
わたしたちは世界とか、他者と呼んでいるんだと思う。
かもしれないね。でも、理解した〝かのように〟して生きている。
ようするに、わたしの理解のポッケは、
わたしの理解から〝隔絶〟したものを理解しようとするための道具なのね。
だから、最初に〝隔絶〟ありき、なの。そう考えたほうがいい気がする。
そもそもこちらのポッケの容量オーバーの存在が、世界、他者ということ?
キャパを超えているのかな。どこまでも〝超越〟として現われる世界、他者、とか。
じぶん自身の存在も含めてね
そうかな。じぶんのことはちょっとちがうんじゃない?
もちろん他人とはちがう。でも理解のポッケは自己という本体の付属品でしょ。
付属品が本体ぜんぶを入れることはできない。これは構造的にそうなのね。
ポッケにポッケをつけている本体を入れることはできない。
靴ひもを引っ張ってカラダを持ち上げることはできない。そんな感じかな?
そんな感じ。この隔絶性、人と人との間に横たわる超えがたい深淵を、なんとかして超えたい、
渡りきりたい、飛び越したい。そんなかなわない願い、
抑えがたい欲望を抱いて生きているのだと思う、人間って。そのための理解のポッケ。
でもさ、そうした願いを抱くというより、現に飛び越しながらつきあい、
仲よくしたり、喧嘩したり、恋をしたり、いろんな関係の結びながらともに暮らしている。なんで?
なんでって、それができるからでしょ。そうできるって疑わないからそうできる。
なぜか理解したという確信は訪れる。この確信のなかで生きている。
単なる思いこみ?思いこみで生きているって、ちょっとバカみたいだけど。
そうなのかな。疑えよ。
そうじゃなくて、疑えないように生きているわけ。生きざるをえないのね。
なぜかそうできている。疑えない確信みたいなものがそもそもの最初にあるわけです
われわれの心のありようとしてね。
たまに、あるいはしばしば〝そうかな〟という疑問は湧いて出てくる。
でもね、それはいつも事後的なものなのね。
疑問が浮かぶためには、疑問を発する根本にある確かさの感触があるからなの。
それはあれやこれやとズレてるかも、
そんな確かめの根拠が自分の中にあるから疑問を発することができる。どうです?
ちょっとよくわかんない
たとえば、〝すき-きらい〟といった感情は、否応なく、理解のポッケとは関係なく自分に訪れる。
わたしという存在の本体の声なのね。
この意識するより先に訪れるものに、理解のポッケは取って替わることはできないわけ。
つまりね、お互いの存在が隔絶していようがいまいが、
端的に〝すき-きらい〟といった生身の感情は動いてゆく。
そしてそれが存在の一番の底、つまり突き当りになっているわけ。そこがすべての出発点。
隔絶ということは、理解のポッケに収めておきたい関係の本質といえるけれど
それと関係なく、まずは感情は動いている。
感情が動いてはじめて、心はことばに手をかけ、かたちを結ぶ。
よくわからないけど。まあいいや、つづけてみて。
本質的に、原理的に、渡り切ることは絶対にできないのね。わかる?
そもそもわたしはわたしの外に出ることができない。
あなたはあなたの外に出ることができない。
ふたりはそれぞれの内なる経験の中にいることしかできない。
でもね、お互いの思いが一つになる、という内なる確信をわたしたちは抱くことができる。
できるというよりむしろ、さっき言ったみたいにそれは感情や情動のかたちで訪れるといったほうがいいな。
否応なくね。あとからそれがカンちがいだということがあってとしてもさ。
よくある。後の祭り。毎日のことかも。
わたしたちはそれぞれの理解のポッケにいろいろなことを収めながら、それぞれの人生を生きている。
そうすることで現実を生き現実を作っている。つまり、超えられない深淵を飛び越そうとする。
その試みの連続としての自分を生きていく。日々、小さな納得、あるいは不納得を刻みつけるようにね。
でもそんなことをいちいち意識していたら疲れない?
たしかに。でもね、そのことを一度だけでもみずから刻んでおくことには意味がある。胸のうち深くね。
そうすることで飛び越しかたにある種の〝つつしみ〟のようなものが生まれるかもしれない。
かもしれない。
感情の動きにもなんらかの変化が起こるかもしれない。よりましな方向に動けばいいけど。
よくわからないけどさ。少なくとも無理やり、頭ごなしに、
理解のポッケに収めるような強引さというものは消えていくかもしれない
そうあれかし。
ひとつ大事なことがある。
理解に究極の解はない。正しい理解、究極の答え。そんなものは存在しない。
なぜなら、主観の外に出て「答え」(客観)を判定できる存在はどこにもいないのだから。
すべては主観の中の出来事?
そう考えることで、そういう想定、仮象の究極解を立ち上げるわたしたちの心のかたちが見えてくる。
答えはなんらかの合意された解としてだけ生み出される、ただ主観同士の共通の了解事項としてね。
この構造、しくみを捉えて生きていくことはとても大事なことだと思う。
第一には、究極の答え、それを知ると僭称する〝カミ〟の専制にたぶらかされないためにね。