ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「第一の校則」20211031

2021-10-31 | Weblog

 

 


 

「ある種のノン・コミュニケーションは〈聖〉の維持に欠かせないものとわたしは考える。
そうした場合コミュニケーションが望ましくないのは、それがこわいからではなく、
コミュニケーションが何らかのかたちで観念(idea)の本質を変化させてしまうからである」
(ベイトソン『天使のおそれ』星川淳訳)

「包括的存在の諸細目をこまかにしらべるならば、意味は消失し、
包括的存在の観念は破壊される。…
またピアニストは、指に注意を集中させるときには、動作が一時的にそこなわれることになろう。
部分をあまりに拡大してしらべるならば、パターンとか全体相が見失われることになる」
(M・ポランニーi『暗黙知の次元』佐藤敬三訳)


ベイトソンのいう〝聖〟、ポランニーのいう〝全体相〟。
この二つの概念は、「教育システム」についても適用可能かもしれない。

「子どもの生」を全体相、聖の領域に置き換えてみる。
すると、一つの光景が映し出される。
全体相、聖の領域がつねに侵犯され、破壊されつづけている学校空間の姿が。

子どもの選択の位相に踏み入り先行的に教唆する
生の全体相を侵犯して経験と思考を奪う
一人称の主語=〝聖〟を壊してシステムが代替する

こうした教育システムが出力する社会について想像することができる。
すなわち、主語(全体相、聖の領域)がどこにも見当たらない関係世界。

そうした帰結を総意として望まないのであれば、
単なる比喩としてではなく、第一に掲げられるべき「校則」が導かれる。

「教師は子どもの主語(聖)を侵犯してはならない」

教師には権力が与えられている。
権力行使における逸脱はかならず起こるものとして、
憲法的な意味において、この禁止命令は筆頭の校則として明示されなければならない。

 

 

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「主題」20211030

2021-10-31 | Weblog

 

 

evenness
fairness
justice
membership

理念の普遍的な適用には超えるべきバリアー
きわめて困難な、しかし、かならず主題化されるべき
共同体的閉域を構成する友愛のフレームがある

 

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「for a young lion、2021」

2021-10-30 | Weblog

                                                                    Alan Walker & Ava Max - Alone, Pt.II (Lyrics) - YouTube

 

 

からだの声、それが希望
ただ一つ、自由の入口にあたっている

この声を聴かなければ本当はどこへも行けない

だれかが、なにかが、どこかへ
おまえを連れて行ってくれる

それも悪いことじゃない?

ざわめき、もやもや、いらだち
ゆらぎ、ためらい、まよい、ふるえ

声はことばとしては現われない
いつも記述の確定を拒む表情をしている

ノイズとしてすべて切り捨てることもできる
耳をふさぎ、自由を呪う道も用意されている

この世が示す流儀には多くの欠損と倒錯がある

人生、結局、〝なんとか〟である──
老若、男女、思想信条、信仰を問わない
ひとしく「とっつぁんの思考」と呼んでおく

歴史をわがもの顔で動かしてきたものだ

おのれの声とは別のなにかに乗ること
乗っかる以外一歩も生きられない
虎の衣を着るしかおのれを示せない
この世を干上がらせていく
荒廃へ導く流儀がいまも席巻している

いやだね

そうつぶやくおまえの声を聴いたがことがある

おれたちには別のルートが開かれている
敵を蹴散らして滅ぼすチカラの道ではない

滅ぼしあうものがみずから恥じて滅びていく
目撃することでみずから消えていく生のエロス

水をやり、光をあて、日々、育ててゆける
ほんとうに生きるに値するものがある

それを用意しあう場所で会おう

 

 

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「鬼滅の刃」

2021-10-29 | Weblog

 

 


「青木さん、鬼滅観た?」
「興味ない。観たの?」
「観たよ。観て泣いた」
「ほんと?」
「うん。オレ、ほんとは泣き虫なんだぜ」
「殴るよ」

 

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「相互照明」 20211029

2021-10-29 | Weblog

 

 


 わたくしという現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
  
       (宮沢賢治『春と修羅』)

    *

くりかえし心に留めておこう
たしかなことがある、

答えはどっち、なにかと問うことに意味はない

生の波形と波形が交わり、重なる生の気圏
この世に二度とない出会いの時がある

ふたつの光が出会って相互に照らしあって
カクテルの光を構成する

そう呼ぶしかないなにか

なにかは生まれるかもしれない
生まれないかもしれない

ひとりではかなえられない光のカクテル
それがなにかはわからない

けれども

生まれるものへの予期が保たれ
青い照明光への礼節が失われないかぎり

照らしあうカクテル光線の瞬きのなかに
すべてはこめられている

この瞬きのときを生き切る以上のものはない

ひとしく流れ去り消えていく時間ではない
特別な瞬きの時を逃がさず捉えるまなざしを磨いておこう

 

 

 

 

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「sentimental」20211029

2021-10-29 | Weblog

                      Hallows Eve - Reina del Cid - YouTube

 

 

ことばとは別の交歓ルートがある

ことばが照らすのではなく
ことばを照らし意味を与えている

ことばに先行して動いている
ことばに手を伸ばし選び運ばせる

ことばが果たせること果たせないこと
ことばに足りないもの行き過ぎるもの

ことばに修正を促がすルートがあって
いつも雨の日のように情動に濡れている

ことばの使用が逆説的にそのことを告げる

 

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「ちょっと、タンマ」20211028

2021-10-28 | Weblog

 

どんなに苦しくても悲しくても
楽しくても楽しくなくても

なんでもいい

泣きごとを吐いても吐かなくても
元気なふりしててもしなくても

口をはさむ筋合いはない

あらかじめ決められた正解
そんなものはどこにもない

どこかにあるというトンマがいるだけだ
正義、善、真理に目がくらむ
おのれの〝解〟を振りまわす腐れトンカチ

地獄へのルートを開くのは決まって
そんなのぼせあがったバカヤローたちさ

うきうき、わきあいあい、仕合せ不仕合せ
真面目不真面目、強気弱気、分別無分別
そぶりをみせつけあう、駆け引き、せめぎあい
空気を読みあうゲーム漬けの日々でもいい

どうでもいい、けれど
ちょっと待ってね
ちょっとだけタンマ

ひとつだけいい忘れていた

一回だけ、メンチを切っておこうか
きっちり自分に対して

〝オマエ〟のほんとうの願いとは一体何だ
どんな世界に生きたいと思っているんだ

あらかじめ決められた正解はどこにもない
けれど、そうあれかしと願うものはあるはずさ

いちどだけでいい、そいつを引きずり出して
きっちりとことんメンチを切っておこう

 

 

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「cultivation」20211027

2021-10-27 | Weblog

 

 

荒地のまま放置された
耕せる肥沃な土地があって

気づかないまま通り過ぎ
まっすぐに生きている心があって

いつかどこかで、ふたつを
結びあわせるなにかが訪れ

耕す意志が決然と芽吹いていく

一つの心のなかにも
そんなことが起こることがある

 

 

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「紫式部」 2021-04-13

2021-10-26 | Weblog

 

 

 

 めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲隠れにし夜半の月かな                    
                (紫式部、『新古今和歌集』)


心はしたためることばを探している
これが世界 これがほんとう この意味

そうして差し出せるものを探している
だれかに そしてみずからに

ことばに手をかけ つづり ことばを運ぶ
そうするように促され 告げたい心のまま

かたちなく はかない夢 
どこにもたどりつくことのない
結ぶことができないことば

世界はかなわない願いに染まっている
     
消えていく時間 重なり 溶けあう時間
かつて いま これから

最後に訪れるものへのおそれ

はじまりとおわりを区切られた
ひとりの生の時間の向こう側へ
心を走らせるものがいる

時間をカウントし 世界をマップする
はてしない時間の海に浮かぶように
たしかに生きられていたなごり

いまを照らすように 海に消えたもの
これから消えてゆくもの

なつかしさ おそろしさ せつなさ、もの苦おしさ
どれもこれもほんとうは触れることができない

手に負えない 名づけようのないものに
しかたなく情動が告げる

なんてかなしいのだろう

そうしてはじめてはじめられるものがある

 

 

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2021-10-26 | Weblog

 

メールありがとう

先生のことちょっと考えました
(Tさんの話からの勝手な妄想)

ただ一つ、いいところかなと感じたのは、「群れない」ということ。
群れることができない性格、ということでしょうが、
そのこと自体は悪くないとぼくは思います。

ただ、良い時も悪い時も、どう転んでもずっと「ひとり」。
ちょっとばかり可哀そうな感じがするところです。

集団のなかで「際立つこと」だけを目標に承認を得てきた。
小さい頃からの努力の成果が「教授」というポジション。

この唯一のよりどころが壊れようとしている。
先生とっては「世界」が崩壊する感じなのかもしれない。

自業自得で多くの人を傷つけてきた報いだけれど、
この承認が途切れたら生きる手がかりの一切が消える。

優も劣もない、上も下もない相互にイーブンな関係を作れない。
作るすべのない人にとって、とても苛酷な状況だろうと感じました。

 

 

 

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「理解のポッケ」20211026

2021-10-26 | Weblog

 

 

比喩として聞いてね。

どうぞ。

わたしたち人間はそれぞれ固有の理解のポッケというものをもっている。
サイズ、カタチ、素材、色、意匠、それぞれの流儀にあったポッケをね。
それぞれに「入れられるもの/入れられないもの」があって、
それが固有のスタイル、個性とか人格とか呼ばれるものをかたどっている。どう?

そうね。いろんなものをポッケに入れるわけだけど、
究極的には、世界全体をまるごとポッケに収めたいという欲望をもっているかもしれないな。
他者も含めてね。ポッケに収納して完全な理解、いいかえると完全な制圧の下に置きたいと願っている。どうよ

すこしちがうかも。制圧したい、コントロールしたいかもしれないけれど、
逆に、よりよく理解していい関係を築いて仲よくしたいということもあると思う。
ひとことで言えないけどさ。
これは余談だけど、最強最大最上のポッケ、〝カミ〟という想定もあるけど、
わたしたちはいつかそんなものに頼らないと決めたのね。じぶんを見失わないためにね。だよね

うん。どこにもない究極のポッケを召喚して生きたらいろいろマズイことが起こる。

ガチでいうとね、実際にはポッケに収まりきらないもの、それが世界、そして他者でしょ。
理解のポッケに入れたと思った瞬間にはもうちがったものとして存在して動き回っている。
もっと本質的にいえば、どんなポッケにも入り切らないもののことを、
わたしたちは世界とか、他者と呼んでいるんだと思う。

かもしれないね。でも、理解した〝かのように〟して生きている。

ようするに、わたしの理解のポッケは、
わたしの理解から〝隔絶〟したものを理解しようとするための道具なのね。
だから、最初に〝隔絶〟ありき、なの。そう考えたほうがいい気がする。

そもそもこちらのポッケの容量オーバーの存在が、世界、他者ということ?
キャパを超えているのかな。どこまでも〝超越〟として現われる世界、他者、とか。

じぶん自身の存在も含めてね

そうかな。じぶんのことはちょっとちがうんじゃない?

もちろん他人とはちがう。でも理解のポッケは自己という本体の付属品でしょ。
付属品が本体ぜんぶを入れることはできない。これは構造的にそうなのね。

ポッケにポッケをつけている本体を入れることはできない。
靴ひもを引っ張ってカラダを持ち上げることはできない。そんな感じかな?

そんな感じ。この隔絶性、人と人との間に横たわる超えがたい深淵を、なんとかして超えたい、
渡りきりたい、飛び越したい。そんなかなわない願い、
抑えがたい欲望を抱いて生きているのだと思う、人間って。そのための理解のポッケ。

でもさ、そうした願いを抱くというより、現に飛び越しながらつきあい、
仲よくしたり、喧嘩したり、恋をしたり、いろんな関係の結びながらともに暮らしている。なんで?

なんでって、それができるからでしょ。そうできるって疑わないからそうできる。
なぜか理解したという確信は訪れる。この確信のなかで生きている。

単なる思いこみ?思いこみで生きているって、ちょっとバカみたいだけど。
そうなのかな。疑えよ。

そうじゃなくて、疑えないように生きているわけ。生きざるをえないのね。
なぜかそうできている。疑えない確信みたいなものがそもそもの最初にあるわけです
われわれの心のありようとしてね。
たまに、あるいはしばしば〝そうかな〟という疑問は湧いて出てくる。
でもね、それはいつも事後的なものなのね。
疑問が浮かぶためには、疑問を発する根本にある確かさの感触があるからなの。
それはあれやこれやとズレてるかも、
そんな確かめの根拠が自分の中にあるから疑問を発することができる。どうです?

ちょっとよくわかんない

たとえば、〝すき-きらい〟といった感情は、否応なく、理解のポッケとは関係なく自分に訪れる。
わたしという存在の本体の声なのね。
この意識するより先に訪れるものに、理解のポッケは取って替わることはできないわけ。
つまりね、お互いの存在が隔絶していようがいまいが、
端的に〝すき-きらい〟といった生身の感情は動いてゆく。
そしてそれが存在の一番の底、つまり突き当りになっているわけ。そこがすべての出発点。
隔絶ということは、理解のポッケに収めておきたい関係の本質といえるけれど
それと関係なく、まずは感情は動いている。
感情が動いてはじめて、心はことばに手をかけ、かたちを結ぶ。

よくわからないけど。まあいいや、つづけてみて。

本質的に、原理的に、渡り切ることは絶対にできないのね。わかる?
そもそもわたしはわたしの外に出ることができない。
あなたはあなたの外に出ることができない。
ふたりはそれぞれの内なる経験の中にいることしかできない。
でもね、お互いの思いが一つになる、という内なる確信をわたしたちは抱くことができる。
できるというよりむしろ、さっき言ったみたいにそれは感情や情動のかたちで訪れるといったほうがいいな。
否応なくね。あとからそれがカンちがいだということがあってとしてもさ。

よくある。後の祭り。毎日のことかも。

わたしたちはそれぞれの理解のポッケにいろいろなことを収めながら、それぞれの人生を生きている。
そうすることで現実を生き現実を作っている。つまり、超えられない深淵を飛び越そうとする。
その試みの連続としての自分を生きていく。日々、小さな納得、あるいは不納得を刻みつけるようにね。

でもそんなことをいちいち意識していたら疲れない?

たしかに。でもね、そのことを一度だけでもみずから刻んでおくことには意味がある。胸のうち深くね。
そうすることで飛び越しかたにある種の〝つつしみ〟のようなものが生まれるかもしれない。

かもしれない。

感情の動きにもなんらかの変化が起こるかもしれない。よりましな方向に動けばいいけど。
よくわからないけどさ。少なくとも無理やり、頭ごなしに、
理解のポッケに収めるような強引さというものは消えていくかもしれない

そうあれかし。

ひとつ大事なことがある。
理解に究極の解はない。正しい理解、究極の答え。そんなものは存在しない。
なぜなら、主観の外に出て「答え」(客観)を判定できる存在はどこにもいないのだから。

すべては主観の中の出来事?

そう考えることで、そういう想定、仮象の究極解を立ち上げるわたしたちの心のかたちが見えてくる。
答えはなんらかの合意された解としてだけ生み出される、ただ主観同士の共通の了解事項としてね。
この構造、しくみを捉えて生きていくことはとても大事なことだと思う。
第一には、究極の答え、それを知ると僭称する〝カミ〟の専制にたぶらかされないためにね。

 

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「錯乱」20211026

2021-10-26 | Weblog

 


桜の花はいまも咲いている
ことばは砕け散っている

終わりのない錯乱

(平気なの?)

代わりにたのむ、わからん
奏でてくれ、そう告げたい音楽があればいい

ない

どこにもないものはない

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「Line」20211025

2021-10-25 | Weblog

 

 

ことばにすることしないこと
することとしないこと
分別が引いたラインがある

おとなだから

そうですか、そうでしょうね
でもそれだけじゃダメなんだよ

行き先は決まっている

フラットな場所へ
のっぺらぼうの方角へ

削りとられ、こぼれていく
おとなの自覚がしでかす

紙一重のゆらぎ、あれかこれか
選択に出会うまえに見逃し消えていく

永遠に出会えないものを作り出している

言葉は用意されている
決めごとのように用意された結詞を心に充てる

     C'est la vie, C'est l'homme. 

出会えないものに出会うまえに
見切られるこの世の瞬き、光

バカすぎる、そういっておこう

引きなおすためにラインを解除する
絶対にそうすべき作法がある

 

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「Jimi Hendix」20211025

2021-10-25 | Weblog

                                                                  Jimi Hendrix Experience All Along The Watchtower - YouTube

 

 

はじめて聴いたとき
朝まで起きてずっと聴いていた

決定的ななにかが応答していた
わからないままある回路が開いた

意味不明

不明のままでよし
そういうからだの応答を聴いていた

 

 

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「ブランク」20211024

2021-10-24 | Weblog

 

 

たとえば

「類的歴史の労作」(マルクス)としての知覚・感覚・感情・思考
個体発生、系統発生、獲得形質、史的展開、変異、進化、構造、原理

       *

「世界」を記述の系に変換、転位して理解のポッケに収める
世界をマップして、絵を描き、みずからをそこに定位する

この展開に先行して現象していることがある
あらゆる記述に先行して、はじめに世界との出会いがある

「私」と「世界」との出会い
この出会いの場面から一切が開始される

マルクスを走らせ、だれかを走らせ、記述に向かわせる
ひとりひとりを走らせる基底の作動がある

触発、衝迫、点火、誘い、欲動──
さまざまに語られる内なる作動
記述の系を新たな展開へ向かわせる作動がある

スペースはつねに開かれ
スペースを開くように動ていく

未記述の本源的ブランク
完結されることのないフリースペース

 人間は生きているかぎりは自分がいまだ完結していないこと、
 いまだ自分の最後の言葉をいいおわっていないことを
 生の糧としているのである。
   (バフチン、桑野隆『生きることとしてのダイアローグ』P15/16)

世界記述としての自己記述
自己記述としての世界記述

ふたつのことを一つとして記述は展開する

記述──その視線はつねに〝関係〟をめぐっている
他者、世界。そして、すべての起点にはつねに「自己」がいる

いっさいを対象化するように動きながら記述は必ずループする
ループする全体は未記述のブランクをめがけ
自己に回帰しながら記述は無限に多重化していく

このループにおいて世界との出会いは更新され
描かれた絵も定位された自己も更新されつづけていく

記述する腕はただ記述する対象に向かうだけではなく
記述と記述を重ね合わせる多重記述の位相をめがけ
新たな記述対象を創発するように動いていく

この無限性への視線を手放さないでいるとき
つぎつぎに新たな了解点、納得点をめがけるように
記述の確定をしりぞけるように動いている記述の姿が見える

この記述のサーキットが光度を増すとき
巨大な未記述の領域、〝ブランク〟に照らされている

固有の歴史的来歴をもつボディと感受性には、つねに
新たな記述をブーストするブランクが同伴している

 

 

 

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