ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「関係子」の用法 20190226

2019-02-26 | Weblog


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関係のゲーム(関係世界)の結節をなす「関係子」の用法。
それは個の解放としても、個の制圧としても機能しうる。

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ルールブックを条件としてゲームは立ち上がる。
しかしゲームの展開はルールブックの記述から演繹することができない。

逆に、ゲームの展開可能性、拡張可能性、享受可能性の増大を願うなら、
ルールブックの記述は修正可能性へ開かれていなければならない。

未規定な展開においてゲームは展開する。
展開の未規定性がゲームの本質をなし、享受可能性の位相をつくる。

試行的であること。発見的であること。生成的であること。
プレーヤー一人一人のプレーすることの享受可能性は、
つねに新たなありうる(存在可能)というゲーム展開の未規定性と結ばれている。

この位相におけるプレーの展開可能性を確信するとき、
すべてのプレーヤーの「自由」ははじめて沸き立つことができる。

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「個」の当為(なすべし・あるべき)を指定する「関係子」の用法。
この用法を必然化する集団優位の状況性──対抗・防衛・戦争・サバイバルという主題の前景化。

関係のゲームはこのとき危機と不安、不信と敵意に覆われている。
関係子はすべてのプレーの方向を指定し司令することで対処する──〝大義〟との一体化。

全プレーの完全記述──プレーの全域を確定するように記述されるルールブックの聖典化。

「当為」(なすべし・あるべき)がこの位相を埋めるとき、
事前に規定され指定されたプレーに従うとき(強いられるとき)、
享受可能性に開かれたゲームの本質は失われ「人間的自由」は窒息する。

「当為」が世界を埋め尽すとき、ゲームの創発可能性は消失する。

 


 

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「第三の記述──関係子」 20190221

2019-02-21 | Weblog


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「コーヒーが飲みたい」──すなわち、情動生起が告げる「われ欲す」「われ感じる」。
 
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みずからに現象する情動の発火──その連続的展開による駆動としての自己生。
この心的経験を目撃し記述できるのはただ一人「私」」しか存在しない。

「私」はつねに「私」にまみれながら「私」を目撃している。
そのことをある詩人は「ぼくは一人の他者です」と綴った。

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「他者」としての自己、「他者」としての他者、その本質的なちがい。
 ………………

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両眼の視野が交わり、補正されることで、
第三の視野、世界の奥行き(立体像)が生成する。
単眼ではけっして実現しえない、生成としての第三の視野。
すなわち新たな〈世界〉(像)の生成。

この生成は現実(もの自体)への接近ではなく純粋な生成を意味する。
「現実(もの自体)」はだれも経験しえない概念としての生成物にすぎない。

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斜面──経験の単独性において、それは端的に「下り坂」であり「上り坂」である。
経験の複数性、すなわち経験の単一の記述が集められ縮約されてそれは「坂道」となる。

多様な経験が合流し、それぞれの記述の形式が解体され、共通の意味が抽出され、
「一般意味」として統合された名辞=関係子が与えられる。

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関係世界の形成において、第三の記述は必然的に生成する。
主観の主観性、固有性、個別性、特殊性を超えたものとされる第三の記述、関係子。

主観と主観を結びあわせるパターン、その縮約的結節をなす「関係子」。
「関係子」の生成によってはじめてそれぞれの経験が交換可能な回路が開かれる。

「客観」、第三の記述の位相の必然的な生成を要請する関係世界の本質的構造。
同時に、「客観」の妥当性、正当性をめぐる集合的な審議の位相が開かれる。

審議の主題をなすさまざまな価値の審級としての「真偽」「善悪」「美醜」の諸相。
そして合意、対立、齟齬、抗争といった審議における諸展開。

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「二重記述、関係世界」20190213

2019-02-13 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=toGxAWtWIM0


「ぶつかりあういくつかの存在が、複雑な学習やコミュニケーションをなしうる有機体である場合には、
それらのシステム全体は、均一状態か体系的差異化に向けていずれにしても
より単純な方向へ─急速に変化する。それはいわゆる組織化にほかならない」(ベイトソン『精神の生態学』佐藤訳)


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理解すること、知ること、わかること、関係記述を確定すること。
一つの記述の形式に収めること、あるいは、
了解、合意という相互的な信憑にたどりつくことより先に、動いている位相がある。

わかってしまう、理解してしまう、知ってしまうという確信が訪れるまえに、
そこにいたることを可能にする「非知」において沸き立つ位相があり、
どんな記述においてもかき消すことができない、つねに、生きられる「非知」がある。

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一つの記述に収め〝安堵〟することで視界から消える「生成の地平」がある。

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語りうる水準で語りあうのではない
わかりあえる水準でわかりあうのでもない

理解できないことがかなしいのではない
理解してしまうことで消えていくものがある

とかろうじて感じられるとき
開かれるはかない関係のテーブルがある

理解できないことの理解できなさ
語りえないことの語りえなさ

知りえないことの知りえなさ
わからないことのわからなさ

相互に非知として生きあうかぎりにおいて
はじめて開かれ、沸き立つ、二つの記述がまじわる地平がある

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みずからの記述の形式に収納できないということ
みずからの分節コードによって規定できず

理解のポケットに収めることができない存在として
相互に認め合うかぎりにおいて
自明性の外側に広がる未踏の第三の領域がある

相互に非知を資源としながら
新たな記述形式が立ち上がっていく

二重の記述から立ち上がる未踏の記述形式があり
相互の記述形式が交わることで生成し、開かれる〝世界の奥行き〟がある

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関係了解の過度の自明性がゆるむことで、
開かれていく新たな経験と再組織化へ向かう位相があり、
関係了解の過度の自明性がゆるみ、
相互の「非知」性がオープンになることで、
逆説的に生まれる、形成的に動きだす関係の位相がある。

また一方には、関係了解の自明性の強度が増すことで、
「非知-性」が閉じられ、確定され、バインドされていく関係構造がある。

どちらも本源的原理──相互的な関係しあう〝関係子〟の探索──から発しながら、
そこから関係のゲームの「質」がわかれる決定的な分岐がある。

 

 

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変化の条件 20190203

2019-02-03 | Weblog

                       https://www.youtube.com/watch?v=NXy7BNcfkmg


カップをつかむ手はその直前で減速しカップにふさわしい指のかたちと圧力を調整している。
この一連の動作は意識の制御を離れ自動化されている。
それゆえマシュマロで出来たカップをつかもうとした手はマシュマロを潰してしまう。

こうした運動パターンは経験的学習の累積から自動化されて身体深く収められている。
赤ん坊は運動の試行と失敗をくりかえしながら、日々、
みずからの生にとって適切なパターンの探索と形成の途上を生き抜いている。

試行の成功と失敗を判断、試行の採用不採用の基準は「快/不快」、
赤ん坊みずからの内なる情動生成において告げられる。

環境相関的に形成されたさまざまな運動パターンは環境の定常性を前提に形成される。
この前提と現実がすれちがうとき、運動パターンはエラーを引き起こす。
あるいは環境の変化、異なる環境の現われにおいて
パターン処理が機能しない場面が多発する。

自動化された行為パターン、認識パターンの形成。
経験の固有の歴史性において積み重なり形成されてきたパターンの諸相、
その総合と再編プロセスにおいて「いま」が生きられてゆく。

モノ、ことがら、ヒト、関係の認識パターンの織物としての人間的身体。、
自らの試行の歴史的成果物を〝生地〟として、われわれは日々の暮らしを組み立てている。

そのパターンをかぞえあげ全貌を視界に収めることはできない。
自律的に動いていくものの姿は、偶発的な失敗において再帰的に垣間見ることができるだけだ。

新しい運動を身につけるにはエクササイズをしなければならない。
その動機の生成には、新しい運動を身につけたいというそのモデルとの遭遇を必要とする。
遭遇によって触発される新たなエロスの予期とともにエクササイズが開始される。

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パターン化された認識、固有の認識論。世界像。
生きられるカタチとその生が見、渦中を生きている固有のランドスケープがある。

生きられるランドスケープそれぞれの真偽を問うことに意味はない。
ただ異なるランドスケープを生きる存在であることを相互に認めあうことには大きな意味がある。

生存というフォーメーションの本質的変化は外部の要請からは開始されない。
その要請が内部における納得と了解、予期的エロスが生じるときはじめて、
変化へ向かう動機の全域性が、その契機が生まれる。

 

            

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