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関係のゲーム(関係世界)の結節をなす「関係子」の用法。
それは個の解放としても、個の制圧としても機能しうる。
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ルールブックを条件としてゲームは立ち上がる。
しかしゲームの展開はルールブックの記述から演繹することができない。
逆に、ゲームの展開可能性、拡張可能性、享受可能性の増大を願うなら、
ルールブックの記述は修正可能性へ開かれていなければならない。
未規定な展開においてゲームは展開する。
展開の未規定性がゲームの本質をなし、享受可能性の位相をつくる。
試行的であること。発見的であること。生成的であること。
プレーヤー一人一人のプレーすることの享受可能性は、
つねに新たなありうる(存在可能)というゲーム展開の未規定性と結ばれている。
この位相におけるプレーの展開可能性を確信するとき、
すべてのプレーヤーの「自由」ははじめて沸き立つことができる。
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「個」の当為(なすべし・あるべき)を指定する「関係子」の用法。
この用法を必然化する集団優位の状況性──対抗・防衛・戦争・サバイバルという主題の前景化。
関係のゲームはこのとき危機と不安、不信と敵意に覆われている。
関係子はすべてのプレーの方向を指定し司令することで対処する──〝大義〟との一体化。
全プレーの完全記述──プレーの全域を確定するように記述されるルールブックの聖典化。
「当為」(なすべし・あるべき)がこの位相を埋めるとき、
事前に規定され指定されたプレーに従うとき(強いられるとき)、
享受可能性に開かれたゲームの本質は失われ「人間的自由」は窒息する。
「当為」が世界を埋め尽すとき、ゲームの創発可能性は消失する。