ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「予期 l’attente」 20191130

2019-11-30 | Weblog

               https://www.youtube.com/watch?v=5i6OfpZHflI

 

予期はつねに生成し走りつづけている──

すべての人間的企投を先導する予期。しかし予期はみずからに訪れる〈世界〉に触発されて動きだす。

はじまりの内なる触発、示されるものがある──実りあるもの、不毛なもの。イエス、ノー。グッド、バッド。

世界を分節してつぎつぎに意味と価値のランドスケープとして描き出していくもの、あるいは描き切れずに足踏みしているもの。みずからに現象する〈世界〉、その諸相。

予期がほんとうに出会いたいものはその先にある。

たとえば、月あかり、星空、虹、暁の光、夕景が照らす、不在の、非知のなにか。

予期には突き当りたいものがある。いつか、どこかで、出会いたいもの、それがなにかはわからない。

よきもの、よき生をみちびくもの、このうえもなくステキなもの、それはどこにも示されない。

出会いたいもの、いまだ顕現せざる、未知の、非知の、ありえない世界へまなざしを凝らす予期がある。

駆り立てられながらめがけるものはどこにも示されない。わからない。わかるとも思えない。記述の明証性を求めると遠ざかり消えてゆく。

しかし予期には変容の位相がある。

予期が予期と出会うとき。招き入れたいと願うだれかの予期と出会うとき、交わる光のハレーションから立ち上がるように、結ばれるものがある。〈世界〉に記述されていない、記述の網にかからない、時間にも空間にもマップできない、予期が出会いたいと願っていたもの、そう信じられるものが現象することがある。

 

 

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「共同価値の創設」 20191128 

2019-11-29 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=pZ3l-OGd5YA

 

    *

「殺し合い」という主題をめぐって──

自然のオキテ(法)が教える「シンプル解」──すなわち始原的解法、「力の論理」による決着、統一と調和。

パワーゲームは、つねに、いまも覚醒の契機を待ちながら関係世界の底に眠っている。あるいはすでに覚醒しつつ全域化の契機を拡大しつつある。しかし「解」をみちびく別のルートが存在する。

    *

絶対権力の創設と帰依によって集合的「主格」へ一元化一極化を図る。一つの解法。

パイが唯一つならだれがそれを手にするかは「力の論理」が決着する。一つの解法。

パイが生成可能なものなら生成するメカニズムを生かす方法を考える。一つの解法。

感情が和解を拒むものなら和解から逆算して感情のかたちを補正する。一つの解法。

感情と感情の対立が不可避なら対立の外にある共存可能な位相を探す。一つの解法。

承認の欠損を埋める超越項を廃棄して承認関係の刷新と拡張に委ねる。一つの解法。

ともに生きるための本質的条件を導くため審議のテーブルを用意する。一つの解法。

正義や真理の選択ではなく共有可能な言葉とルールの創発関係を築く。一つの解法。…etc.

    *

「解」の探索、その意志──殺戮、戦争の回避を求める心の本質。その差異を捨象すれば、「解」探索の本質は殺戮に明け暮れる日々への決別を願う集合的意志において共通している──共存可能性をどこに見出すか。

新たな「ありうる」の予期において「解」を求めるこころの本質。

「解」に対してつねに先行的に内発する「ありうる」の予期、その生成の起源でありつづける共存可能性、共生可能性を志向する人間的本質。そして、その展開可能性のための条件設定、解法の諸相。そしてパラドクス──「解法」の選択をめぐる闘争、殺戮、戦争。パラドクスを解く解法の開発という新たな主題の浮上。

    *

「市民社会」は力の論理から帰結する惨劇の歴史に嫌気がさすことから開始された。解法の決定的分岐点としての近代。類的思考の歴史を画す人間的本質としての「自由」の発見。

「超越的絶対解」の完全棄却、人間的自由の展開可能性を生み出す「共通項」の探索。集合的意志としての市民社会、「人権」概念の生成、すなわち神為ならぬ〝人為〟による共同価値の創設。ただその自覚的展開(法と市民権力による運営)のみを支えとする市民社会の可能性。

その本質──絶対解、完全解、最終解をみちびく解法ではなく、人間的自由の展開可能性をみちびく条件設定、という〝解概念〟の位相転換。共同価値としての「条件設定という方法」。

    *

 

 

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「ホメオスタシス」(参)

2019-11-28 | 参照

                    https://www.youtube.com/watch?v=fVuCviFkqNw&list=RD9FRCDDer6RQ&index=4

 

──G・ベイトソン『精神の生態学』(佐藤訳)より

「変われば変わるほど同じまま」とフランスの諺にいうところだが、生物学的・生態学的システムを見て行く場合、その「逆」の方が的を射ているようだ。すなわち「同じであればあるほど、多くが変化している」。ある変数の恒常性を、他の変数が変化することで維持すると言う事だ。 

多数のホメオスタティックなループが相互に連結するシステムでは、外界から衝撃による変化が、システム全体に時間をかけて波及していくことになる。ある変数v1の値が変化しそうになると、それを食い止めるために、他の変数v2、v3、が動く。しかし v2,、 v3・・・自体、ホメオスタティックな制御を受けていたり、他の変数 v4, v5・・・と絡んで動くかもしれない。さらにこの第二次のホメオスタシス機構のなかで、v6, v7・・・が動くかもしれない。 

この変化の伝播現象を、もっとも広い意味における「学習」の一種として捉えることが出来る。この広い意味での「学習」の特別なケースに、「順化」と「耽溺」がある。この二つの例は、外的衝撃の効果をホメオスタシスによって無化しようとして、変化をつぎつぎに先送りにしているうちに、システム全体の安定が、最初の衝撃に依存するようになったケースとして考えることができる。 

例。禁酒法の衝撃を受けたアメリカ社会のシステムは、アルコール供給量を一定に保つ方向へと反応し、密売業的変化を経てあらたに安定したシステムから「禁酒法」を抜き去ろうとした時、密売業者はもとより、警察からも抵抗があった。これはシステムの道理である。

 

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「Call -Response」 20191127  20191013

2019-11-27 | Weblog

         https://www.youtube.com/watch?v=9FRCDDer6RQ&list=RD9FRCDDer6RQ&start_radio=1#t=2

 

「私」という生のフォーメーション──その固有性、展開と拡張可能性。

「私」という生のフォーメーションは、つねに無数の「私」がつくる無数のインターフェース、透明な回路をつうじて関係しあう関係的位相に照らされてかたちを結ぶ。

「私」の意志に先行するようにして関係は動いてゆく。なぜか、しばしば、勝手に、「私」に断りもなくそれは結ばれ、動いてゆくように感じられる。「私」はつねに事後的に、再帰的にそれを確認し、審議する。審議しながら、展開についての予期と企投を重ねてゆく。

しかたがない。意識主体としての「私」はそれに先行することができない。生の条件を構成する〝関係〟の先行的現われは、人間的生をつくる原理として受け入れるしかない。

回路を閉じて、そこから撤退する道もないではない。すると「私」は消える。しかし完全に撤退できるわけではない。選別する?いびつな入国審査。排除と差別、選択的生存権付与。やめよう。

透明な回路を開いておこう。相手を選ばず、黙って。目の前に現われるものが〝敵〟だと感じられても。

なぜか。〝発火〟の原郷をみずから閉ざさずに生きるため、関係の果実を享受する、その可能性の条件を捨ててはならない。なぜか、そう感じる。

人間的生、関係において生成するものの本質、メカニズム、その由来をたどりつくすことはできない。ただ経験において現われ、示されるものとしかいえない。ただ予期として、直観として訪れるものが告げる。

開いておけ、と。

インターフェースの連続的な接続、展開の結び目のどこかに、わずかなスキマが存在する、という直観が動くことがある。そこには相互性がある。つまり、相互に許し合い時間を与えあう「インターミッション」の位相がある。

選択に出会う──あれか/これかという単純な選択肢の提示ではない。ある種の「自由」の感覚、新たな記述が許されたフリースペースの感知がそこにある。経験の未踏の、未知の、未決の、拡張可能性が開かれるスキマ、あるいはトビラのようなものとの遭遇。インターミッションの位相。

「私」というフォーメーションの、魂と呼ばれるもののフリーハンドを許す、新たな「ありうる」が点滅する第三のエリア。呼びかけると応答するものがいる、その相互性そのものが人間的生の生成の原郷であるように現象する位相がある。

この位相を見逃すと、〈世界〉は「手のほどこしようのないもの」、あるいは「なるようにしかならない」ものとしてしか現われない。「因-果」連関の必然的展開としてだけ、ただ世界は無機的な存在同士の物理的な接続連鎖としてだけ記述され、全域化することになる。この位相ににおいて、シニシズム、ニヒリズム、ルサンチマンが受胎する。

それは、透明な回路をみずから閉じ、〈世界〉に完結したすがたを押しつけ、〝熱死〟を願う者たちのようにみえる。存在可能の死、ともいえる。絶望がたまると、やがて、一切が酷薄な「自然の法」「力の論理」に委ねられる臨界が現われる。

 

 

 

 

 

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「世界を黙らせる」 20191126  20190928

2019-11-26 | Weblog

                      https://www.youtube.com/watch?v=NKcwLHHXxDE

 

世界は学ばなければならない。埋葬不可能な経験、関係、思い、感情、ピリオドを打って終わりのカタチを与え墓場に封じ込めることができないもの、どんな儀礼にも回収されえない、どんな祭壇にも、どんな存在にも捧げることができないことがあることを。

なにものにも捧げられない、捧げることで失われてしまうものを手放さないでいること──それは、ただひとりの胸のうちのこととして保たれるものでしかないものであること。どんな共同性もそのことを果たせない、ただひとりの胸のうちの出来事であることを。

黙らせろ。善、正義、真理について語るだけではない、振りまわす世界、わめきちらす世界、口から泡を吹いて命令する世界、黙らない世界を黙らせろ。

だれが、どうやって?最初におまえが黙れ。

共同性、世界ができるただ一つのこと、そのことの相互の了解を生み出すことだけはできる。ありうべき、もしそれが可能なら、世界みずから沈黙することを選びとる、そのような世界でありうる可能性。ひとりひとりの生の経験の回収装置、としての世界ではなく、ひとりひとりの経験の支援に徹した世界でありうる可能性。それを夢見ることだけはできる。

教唆し、諭し、指示し、要請し、命令し、脅し、強制する世界ではなく、よりそい、ささえ、知恵をたくわえ、知恵の果実を手渡すことでサポートする、そのことを使命とする、そしてひとりひとりの経験を侵害するものを懲らしめることができる世界である可能性について。

 

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「黒い雲」 20191125

2019-11-25 | Weblog

 

どれほど陳腐で、おろかで、旧式の価値コードにしたがっているように見えても、それにしたがって存在を賭けてみずからを組織し築き上げたものに、外部から「脅かされている」という感知が訪れれば、第一の応答は、必然的に、ただちに〝防衛体制〟の構築に移行する。

この「移行」の意味と理由には普遍性がある。

生存に対する脅威──生きること、その固有のありかた、生活のフォーメーションに対する否定、破壊、攻撃の感知。身体的な警戒性、不安の強度が高い身体性を生きるほど、それを感知するセンサーは敏感に反応する。ときに、それが常軌を逸しているようにみえることもある。

「不安身体」「警戒身体」──外部の動向を検知するまなざしが、じぶんに向けられる悪意・攻撃・否定の意思だけを選択的に析出する存在の形式というものがある。それは関係世界における関係的一局面を、拡大鏡にかけて具現化したような姿ともいえる。

〝悪意〟、〝攻撃〟の検出は、ただちに関係を覆う〝黒い雲〟の湧出として現象する。黒い雲、それはいつかどこかで、蝟集して現実を覆い尽くし、腐食の雨を降らせる。

関係世界の別の局面──それがあるとして、光。そして黒い雲を掃う光があるとして、それはどのように黒い雲に当てることができるのか。

 

 

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「少年」 20191124 20131013

2019-11-24 | Weblog

 

ためらいと勇気の連鎖のなかで

つねになにかが終わり

なにかが立ち上がっていく

 

ディフェンシブな電荷を帯びた求心的な作動があり

オフェンシブな試行を挑発する遠心的な作動がある

 

勇気と誇りをみちびくものも

躊躇と後悔をみちびくものも

同じ強度を刻んで乱流をつくり

 

なぜそうしているのか問うより先に

未知の均衡点をめがけるように

存在はやわらかな波形を描いてゆく

 

情報は選択的にピックアップされ

身体とイメージの二重作動に接続される 

 

選択するこころにはつねに

固有のエシカルな意志が同伴している

 

愛と誇りを導くものも

愛と誇りを壊すものも

 

喜ぶことも怒ることも

等しく強度を刻みながら

エシカルな意志が照らしている

 

こころはいつも

うつくしさが告げるものへ唇を向けていく

 

否定的視線に包囲されて生きることはできない

否定的価値を強いられて変わることはできない

 

誇りと愛と成長を導くものは「美」と呼ばれる

誇りと愛と成長を損うものは「悪」と呼ばれる

 

うつくしい光に応答する装置はみずからに内在し

世界の姿を分光する巨大な問いに導かれてゆく

 

なぜ・なに・どうしたら──

 

ランダムな応答に沸き立つ身体は巨大な問いに抱かれ

新たな存在のフォームを創発する「カオスの縁」に佇んでいる

 

巨大な問いはみずからと他者と世界に開かれ

不安と希望が溶け合う存在可能、「ありうる」と結ばれている

 

「readiness」──準備できてる?

 

巨大な問いにおいて世界の区切りはゆらぎ

ゆらぎにおいて新たな接続のラインが走ってゆく

 

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「2019夜の果てから」 20191123

2019-11-23 | Weblog

              https://www.youtube.com/watch?v=K14tlJdtOjI&list=RDK14tlJdtOjI&index=1

 

for a young lion──

 

嫌いなピーマンもいつか好きになる

生きていればそんなことも起こる

起こらないかもしれない、でもさ

 

決めつけられるまえに決めつける

じぶんからそうするほうがマシだって

それは決めつけられることと同じになってる

 

遠くで呼ぶ声が聞こえたけれど

おまえの唇はそこへ向かわなかった

 

どこかへ出て行きたいと思っていたけれど

行く先をたずねきられても

向かうべき方角を告げることができなかった

 

泣き言を吐かないおまえには知るべきことがある

決意が可能性にフタをすることになることもある

強気であることがあきらめを意味することもある

 

潔さをキープする流儀は見事で立派だ、けれど

抑えすぎると毒に変わりからだは壊れやすくなる

壊れやすくなったからだの声は聞いておこう

 

張りつめたこころとからだはしばしば忘れている

隠すことも避けることもないじぶんの声がある

 

「So what?」

 

そう、ただ変わればいいというもんじゃない

変わること変わらないことに意味を与えるのはおまえ自身だ

だけど希望の本質は変わりうることのうちにある

 

否定すべき執着があるわけではない

強いられたものだけで生きているわけではない、でもさ

 

じぶんの弱さを裁断するこころが

差し出された現実を呑むとき

倒れるひとつの全体がある

 

みずからの限定にむせびながら

迷うまま断念を選びとるとき

死に瀕するもうひとつの全体がある

 

眠り足りないからだに引きずられて

こころにもない歌に唱和したとき

おまえは腐食するじぶんを目撃していた

 

そうして結語は、道連れに、

あなたがたとともに、であったのか、ばかな

 

こころが発語へと向かわないなら

発語が満ちるまでそれを引き受ける

 

拒むことがおまえを証するものなら、

おまえは喜んでその対価を支払って

そうして、ほんとうに拒むために時間をかせげ

 

どんなふうにでも転ぶことができる手管の犬たちが

いつか、潔さ以外のどんな武装ももたないおまえの

いちばん柔らかい部分をめがけて牙をむくだろう

 

 周到に設計されたアルゴリズムを片手に、

 手ごわい現実の司祭たちがおまえの骨を抜いて、

 一切の結語である忘却のプログラムへと誘うだろう

 

あつらえられた据え膳のアラカルトに

いったいどんな意味があるのか

おまえの夜と引き替えにできるほどの何かがあるのか

 

どんな孤独な夜も飼い慣らすチカラのないものたち

襲ってくる飼い犬たちを迎え撃つために

おまえはおまえの夜の牙を磨いておけ

        *

からだの声、それが希望、ただ一つ、自由の入り口にあたっている

この入り口をたどらずに、希望に向かうことはできない

 

うちなる声はいつも言葉としては現われない

ざわめき、もやもや、いらだち、ためらい、ふるえ、ゆらぎ

それはいつも記述の確定を拒む表情をしている

 

すべてノイズとして切り捨てることもできる

耳をふさいで〝自由を呪う道〟もこの世には開かれている

いやだね、そう断言できるおまえを知っている

 

 

 

 

 

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企投的現在ー「いま、ここ」 20191122

2019-11-22 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=2ssdVDHvmE4&list=RD2ssdVDHvmE4&start_radio=1#t=2

 

つねに、すでに、feelは動き、みずからに〝世界〟を告げる。

feelの顕現、情動生起、それは一つのプレゼンテーション。

所与される〝世界〟──

そのつど「私」はすみやかに動機を与えられて起動し、なんらかのreactionへ向かう。

 

内なるプレゼンが示す根源的シグナル──「快‐不快」。

情動生起、この世界における居心地を分節する透明なメカニズム。

縮約された所与の諸相。表情、色あい、肌ざわり、「いま、ここ」における価値の配置、意味配列。

生の主題(欲望)が析出し、再帰的に照らし出す世界との関係状況。その縮約的な湧出。

 

どこへ向かうのか──

問いは「私」と「世界」の関係、feelが析出するその縮約点から発する。

根本命題はすでに確立されている──「より快が走る方角へ向かって」

生の意志(欲望)がめがけるフィールドは、しかし、どこと明示されているわけではない。

feelのナビゲーションは「いま、ここ」の関係状況を示しながら、

つねに、未決性を同伴させ、意識主体の手になる生成的「域」を委ねている。

この問いに応えることの格律──根源的な生の意志と連結させるように。

根本命題とすれちがわないように、ほかでもない固有の「解」をみちびくように。

アプリオリにどんな「解」も存在しない。

問いを、一つの自由の実践の契機として受け取ること。

「快」を享受するように「解」をみちびくこと。

その成功も失敗もすべては心のうちで決めたことの帰結として、

企投的現在における新たな資源となりうること、そして、そのことの了解として。

     *

同時に、そのことが可能であるための関係状況、その条件を整え確立すること。それがただ一つ、ひとりひとりの企投的現在を生かしてゆくための、関係世界全体を貫く最大の「主題」になる。

 

 

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「未決性-生成性」 20191121 20190530

2019-11-21 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=V3IdNnGirzY&list=RDV3IdNnGirzY&start_radio=1#t=2

 

実存の未決性──〝ゆらぎ〟という本質的特性。

ためらい、迷い、とまどい、はにかみ、はじらい。

存在を確定しようとする一般解からはみ出し、あふれ、こぼれる〝未決のゆらぎ〟。

 

つねに因果的記述とすれちがう実存の本質的形式。

あるいは、生命/非生命をわける決定的なゆらぎの特性。

この領域でのみ現象し、創発する不連続な変化があり、非線形的なジャンプがある。

 

因-果の線形的記述に従わない現象、創発する〝意味と価値〟。

相即する新たなフォーメーションの可能性(存在可能)。

 

人間的価値の創発の起源として生きられる第三の領域。

関係価値としての真善美の本質──その生成性へのまなざしを失わないことの決定的意味。

 

関係のゲーム(関係世界)の展開においてのみ創発する人間的価値──真・善・美、その諸相。

新たな創発への予期において駆動される実存の本質があり、意味と価値の生成の起源がある。

この領域へのまなざしを失うとき、世界は一般解(確定記述)で埋め尽くされることになる。

 

なぜ・なに・どうしたら──「問い」を携えながら生きる人間的生の実存。

一般解、すなわち確定記述に埋め尽くされた関係世界──全問正解を僭称する社会的構成。

現実論理の本質、一般解で動く現実の局相を絶対性として切り取りその全域化へ向かう一つの世界記述。

 

この絶対性を帯びて展開する確定論理のなかで、その書き換え可能性を見失わずに確保するには、人間的価値の生成性の起源、みずからの実存がたずさえる「ゆらぎ」へのまなざしを必要とする。

共同世界、社会が確定された風景としてバインドされることを願わないなら。みずからをバインドし、他者をバインドし、「未決性」と「生成性」を棄却して、確定された記述によって関係世界の全域をバインドすることを願わないなら。

 

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「アート」 20191120

2019-11-20 | Weblog

 

音、言葉、形、色、線、リズム、メロディ。用在として構成されるシニフィアンの諸形式。

しかしその構成の巧みさから因-果的記述が原理的に捉えられないソレが現象する。

「So long」

かなしいわかれが教える。かたちを定めることができない感情があることを。

かたちを与えることで失われてしまう、生きられる経験の息の根を止めることになることを。 

非知を既知に変換し、その先に確定された記述にゆだねることで、すみやかに霧散してゆく「非知」のフィールドがある。

知ること理解することと〈世界〉が一致すると、生成としての世界を失うことになる透明なボーダーラインがあることを。

 

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「Another Galaxy」 20191119

2019-11-19 | Weblog

            https://www.youtube.com/watch?v=K4i76XiKViM

 

企投──ひとつのプロジェクトとしての生の展開、その途切れのない連続的展開とギャラクシーの形成。

たとえば、あの歌があってはじめてこの歌があり、つぎの歌がある。

歌うこと、歌いきること、歌いつづけること。踊ること、踊りきること、踊りつづけること。

この連続性は単純に並列したり直列したりしているのではない。

一つの企投は、同時に、そのつど企投の外を反照し、新たな拡張と展開の契機を生み出している。

すべての時制を貫くように企投と企投は重なり、混交し、触発し、反発し、融解し、新たな企投の資源としてみずからを捧げてゆく。

途切れない連続性自体が生成的位相、すべての時制を集わせ思考し展開する一つのギャラクシーを形成する。

新たな歌、新たな踊りの生成、新たな展開と拡張の位相としてのギャラクシーがある。

ギャラクシーは企投のたびに光度を増すように、その意味と価値の配列、構成を変化させてゆく。

 

 

 

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「あゆみの言葉」 20191118

2019-11-18 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=2ssdVDHvmE4

「みんな、よい子でおりこうさん、そう思います。悪人を探すのはとても難しいくらいです。でもね。だれにとって、なににとって、なのか。もちろん、それぞれにとっての「だれか」「なにか」はそれぞれに異なっている。それはあたりまえのことです。

でもね。総体として〝ほんとうに願ったクラス〟から決定的にズレてゆく感じ。〝あの時代のクラス〟とひどく似ていて、クリティカルな感じが少しばかりではなくてtとても深刻です。

ちょっと、いや、じっくり本当に真剣に考えてみましょうね。

〝闇のチカラが動いている〟、そんなものでは決してありません。ほんのささいなこと、ちいさなふるまいや関係の仕方のズレ、矛盾、齟齬、状況的なジレンマ、そうしたローカルなチリのようなものの集積が願うものとは別のことがらを出力してしまう。そんなことです。

みんな、ちょっぴりヘンなところがあっても、本当はマジメでよい子でおりこうさん、そう思います。でもね。そのマジメさの方向がなぜかすこしずつズレてしまって、クラス全体としてみんなの願いとは真逆の方向に向かっている。パラドクスです。そういう直観とともに、それを裏づける検証可能な事実、イベントも数多存在します。とてもとても深刻だと考えます。

このパラドクスの修正の契機はどこにあるのか。問題は明らかでもその転回点がみえない。なんとか手遅れにならないうちにと思います。くりかえせば、とてもクリティカルです。だけどその手がかりがまだ見当たらないでいる。ただね、希望を捨てることはできません。少なくとも問題意識をもつこと。問題意識をフックにして考えをめぐらすこと。そこが出発点であることはまちがいありません。一緒に考えましょう。」

 

 

 

 

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「Song For the Asking」 20191117

2019-11-17 | Weblog

                    https://www.youtube.com/watch?v=Bmb-lXFSIZc

 

ソレがなくとも生きてゆくことはできる

ソレは生きる絶対的な条件とはいえない

ソレそのものが存在するわけではない

ソレはただ絶対的条件の外に透明な体験を結ぶ

 

ソレがない生を侮り呪う理由は存在しない

ソレがなくとも生が枯れてしまうわけではない

ただ枯れてしまうという感性的作動だけがある

 

ソレをソレとして語ることはできない

ソレをひとつの実体として示すことはできない

カタチでもなく表象でもない、ただ体験としてだけ

そのつど、いちどかぎりの触発としてソレは現象する

      *    

ソレは楽器と楽器が奏でるアンサンブルの音に似ている

ソレは空間のなかにも時間のなかにもマップすることができない

ソレはただ聴かれること奏でられることの体験のなかにだけにある

 

ソレはひとつの楽器が奏でる音とはちがっている

ひとつの楽器が奏でる音はひとつの限定のなかにあって

奏でられる原因も理由も「このこれ」と示すことができる

けれども忘れてはならないことがある──

ひとつの楽器という限定おいてはじめて楽器は楽器でありうる

ひとつの楽器であることを生きるかぎりにおいて

ひとつの楽器はべつの楽器と出会いアンサンブルを奏であう条件をつくる

      *

ソレが現象するとき、いつも、かならず連れ立っている原理が存在する

ただアンサンブルへの意志が生成するときだけソレは現象する

 

聴かれなければ奏でられない

奏でられなければ聴かれない

 

聴くことなく奏でられることない生を侮り呪う理由は存在しない

ただソレがなければ生が枯れてしまうという感性的作動だけがある

 

 

 

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「多重記述 multi-description」 20191116 20190523

2019-11-16 | Weblog

 

   *

語りうる水準で語りあうのではない

わかりあえる水準でわかりあうのでもない

理解できないことがかなしいのではない

理解してしまうことで消えていくものがある

理解のポケットに慌てて収めないことで

未知の未知性、非知の非知性のままに

相互の記述が交わる関係のテーブルがある

   *     

理解できないことの理解できなさ  語りえないことの語りえなさ

知りえないことの知りえなさ  わからないことのわからなさ

相互に非知として未知として向き合い生きあうかぎりにおいて

はじめて現われる二つの記述がまじわる位相がある

   *

みずからの記述の形式に収納できないということ

みずからの分節コード、価値コードによって規定できないということ

ちいさな理解のポッケに収められない存在可能として

相互に認め合うかぎりにおいて

自明性の外側に開かれる生成的な第三の領域がある

   *

相互にとっての非知、未知を資源として

二重の記述、多重の記述から立ち上がる未生の記述形式があり

相互の記述形式が交わることで生まれ、新たに加えられる〝世界の奥行き〟がある

   *

関係了解の過度の自明性がゆるむことで開かれてゆく

新たな経験と関係の組織化へ向かう位相があり

相互の非知性、未知性がオープンになることで、

逆説的に、活性を帯びて形成的に動きだす関係的生の位相がある

   *

理解が行きすぎ、走りすぎないように──

その相互性が閉じられるとき「関係の生」はいったんピリオドを打たれる

 

 

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