ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「既決-未決」 20190731

2019-07-31 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=I8PU48aqIRU

 

未決のフォーメーションとしての実存。

既決のフォーメーションとしての社会。

 

既決──確定された記述(関係項)、その集合、配列、構成としての社会。

未決──関係項を手がかりとして始発する関係企投、その連続的展開。

この二重性において関係のゲーム(言語ゲーム)が展開する。

    *

関係のゲーム──生成の位相へのまなざしを閉じることで展開力を増すドライブがある。確定項の因果的連関の記述、その詳細をきわめることで、必然的に、記述に収納できない未決のノイズ、ランダムネスは欄外に置かれる。

    *

スキマを開く──記述の〝結審〟にいたるまえに、〈世界〉の確定された像が結ばれるまえに、関係が確定項として指定され一斉に動きだすまえに、〝生成の原郷〟が閉じてしまわないように。

未決性──新たな記述のスペースをつねにキープすること。そのことを要請や当為としてではなく、人間的生の生成的本質、その生成の無限性において生きることを望むかぎり、そのことは必須の条件として、生の核心として訪れるということ。

 

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「生成としての〈世界〉」 20190728

2019-07-28 | Weblog

                   https://www.youtube.com/watch?v=QJ5OFbJ6Nyc

 

関係項──個と個を結び合わせるパターン、その体系としてのコトバ(ラング)。

コトバが記述する一般意味としての〈世界〉、関係のルール、規範、当為。

 

関係項の集積、その特殊な配列と構成としての「社会」。

それが特殊な〝重力〟として全体を支配している人間的関係世界。

 

自然の重力を基底としながら、それとは別の重力の支配のもとで生きる人間という特異な生き物、その展開としての関係のゲーム。「言語ゲーム」の生成と展開と総括可能な人間的生がつくる集合世界。

 

自然があずかり知らない特異な、人間的生における〝重力〟の生成。

その一切は人間的関係世界を始原として発生し展開の歴史性をもつ。

いいかえると、人間みずからがみずからに与える〝重力〟──

それゆえに、みずから〝重力〟を一時的に解除、あるいは位相変換できる潜在的可能性が存在する。

 

たとえば、〝遊び〟という位相の生成──

 

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「人間的価値」 20190727

2019-07-27 | Weblog

 

「有限-無限」──関係のゲームのあり方を指定する「人間的価値」を捉えるまなざし。

そのまなざしの始発点のちがいが、〈世界〉をマップする原理を真逆のものにする。

有限としてみなされカウントされる人間的「価値(パイ)」。計量可能・操作可能・視認可能・分割可能、すなわちモノと同じく線形的記述可能な価値(パイ)。関係のゲームにおける「パイ」の獲得の最大化。

生き物の生存を支える基礎構造(始原的には食糧)から人間的生を捉えるまなざしの先鋭化──現実論理。関係のゲームは有限性において競合競争を動機づけ、パイの有限性と希少性が増すほど熾烈さの度合いが高まっていく。

「有限性」において生きられる条件──それが〈世界〉を物理因果的に、線形的にマップし、現実(関係のゲーム)のあり方、個と集団のあり方を機能的に指定していく。

有限なモノとしての「価値(パイ)」、その対極の無限性において現出する「価値(生成)」。計量不可能・操作不可能・視認不可能・分割不可能、すなわち線形的記述に収納できない〝生成〟としての人間的「価値」。ここにおいて、関係のゲームをとらえるまなざしは「現実論理」とは逆向きになる。

「無限性(生成)」が生きられ享受される条件──それが現実(関係のゲーム)のあり方を結果としてマップする。使えば使うほど、消費すれば消費するほど〝増量〟、〝拡張〟、〝展開〟の契機を生みだしていく、、もう一つの人間的価値の「無限性」へのまなざし。

このとき「パイ」は競合の対象ではなく、適正な分配という主題において捉えられることになる。

 

 

 

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「The borders of our lives」20190726

2019-07-27 | Weblog

     https://www.youtube.com/watch?v=4CpccUo13KE

 

いちどだけ言葉を交わしただけの

ほとんど未知の娘は書きとめいてた

ぼくをいましめるように

 

遮断機の左右が交わらないわずかの隙間に

存在はからだを細くして

そこにいる、と

 

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「double description」 20190725

2019-07-25 | Weblog

                  https://www.youtube.com/watch?v=Dfjq9rVlUcw

 

すべては関係的に立ちあがり、変化し、展開し、関係的に終わり始まってゆく。

情動が告げるシグナルはつねに関係をめぐって生成し、変化し、展開する。

「Good‐Bad」「True‐False」「Yes‐No」──それはデジタルな明示としては告げられない。

意味の連関は輻輳し、混じりあい、循環し、濃淡と強度を変化させ、ときに反転する。

同時に、それじたいの展開において時制を滲ませ、記憶を刻み、そこから基底の動機を立ち上げるように予期を構成しつづけてゆく。

この展開の一切は「関係的本質」から離れることはない。

関係存在──関係はつねに生成的であり、生成的であることが関係存在の自己更新の本質を示している。

「double description」(multi‐description)──単独のプレーヤーに帰属させることができないアンサンブルの〝音〟の生成。それは〈世界〉の生成そのものと照応している。そして全プレーヤーが完全に独立性を保つことを条件としてのみ立ち上がる〝音〟の生成があり、〈世界〉の生成がある。

逆に、独立性が失われるとき〝生成〟は衰退し、物理的「因-果」の記述形式の内側に収まっていく。

        *

ある予期が告げる関係の創発可能性、激しい誘引──〝あの人〟という内なる特別な指定性が、日常のフレームを逸脱するように存在に突き刺さることがある。

未知の「二重記述(double description)」への抗い難い予期の生成、たとえば、〝love〟という現象。

 

 

 

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「よき感情」  20190724 

2019-07-24 | Weblog

 

              https://www.youtube.com/watch?v=zqNTltOGh5c

 

それを見出してゆく道はつねに開かれている。

肯定する心の結節「然り」が一つの「包括的全体」として「われ欲す」を構成するなら、

諸細目に新たな意味が与えられ、〈世界〉はつねに相転移の契機とともに生きられる。

       *

ある感情はあるとき、一斉に、「関係の死」を裏書きするように動いていこうとする。

それは〈世界〉の失墜、不幸、貧しくやせ細った姿を証明したがっているかのように、

それにふさわしいコトバだけを選んでみずからを強化していく。

その果てには〈世界〉の完全なる砂漠化、そして自死のエロスに魅せられる感情がある。

       *

コトバたちを、ある必然性において、その逆の方角へ──

新たな「ありうる」をみちびき、ささえるものとなるように、

いま、ここで、つねに見出されていなければならない「よき感情」がある。

       *

重要なこと──未来を損なわないこと。

記述の確定を急ぎすぎて未来を先取りしないこと。

相互に「intermission」が生きられるように。

自己配慮と他者配慮が同時に自覚されること。

関係がどんな展開を描くか、それはわからない。

わからないことのわからなさ、その未規定性、不確実性を自明性のポッケに収めてしまわないこと。

       *

新たな記述(関係的生のエロス)はつねに未規定性、不確実性を〝糧〟として創発する。

ただ、それ自体が相互に「自由」の発露であり展開であるように。

二つの自由で独立的な記述が交わること(double description)からのみ立ち上がる世界の〝奥行き〟、〝豊かさ〟、関係存在における〝生の享受可能性〟の展開の方向へ。

それはどの演奏者にも帰属しないアンサンブルが奏でる〝音〟の生成に似ている。

       *

まちがえないこと──「自由」を毀損しないこと。

そのことの可能性をみずから棄却するように、記述を確定させ、記述命題の自明性によって未来を埋め尽くしてしまわないこと。

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「Intermission」 20190723

2019-07-23 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=C9ySJGY3bXo

           https://www.youtube.com/watch?v=2k7cgdslPUo&list=RDMM2k7cgdslPUo&start_radio=1

           https://www.youtube.com/watch?v=SGD0UBuYL2U        

           https://www.youtube.com/watch?v=Ky-oCcpQtTE&list=PL8n3QglmB3icDdAVnOEna_exAKNDLYBx7

 

ためらい・迷い・とまどい・はじらい・はにかみ──

自己記述、他者記述、関係記述、世界記述の〝結審〟を自ら拒むように、実存の内側に走るゆらぎのさざ波。

しばしばあるいはつねに、情動は走りやすく、理解は行き過ぎやすく、記述は確定に向かいやすい。

しかし情動が湧き上がる位相はさまざまな変数がからみあう複雑系として現象している。

情動が告げる所与の諸相は、ただ一つの〝意味〟に収まることを拒む所与をつねに含んでいる。

明示的なメッセージとして読み取れず、記述に収めることができない衝迫があり、

どこに向かうべきかが示されない触発がある。

そのことの意味の本質をたどろうとするなら、

われわれは、しばらくの間、記述の確定に向かう手を休めなければならない。

   *

すこしでも距離を埋めようとすると すみやかに遠ざかっていく

なにか誘うシグナルが動いている なのに向かう唇を拒むものがいる

呼ぶ声が響いている けれどもわずかな接近さえ 禁じる声が混じっている

接続のラインが希望へ向かうと 透明な裏切りへと転移していく

語りえないものを語りえないものとして

一つの物語に奉げることが 虚偽に転移する境界をまたいではならない

忘れないでいよう どんなに難しくても 走りすぎてはいけない

壊してはいけないものがある それがそれとして生きられるように

その意志だけはキープしよう

 

              

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「インターミッション」 20190721

2019-07-21 | Weblog

 

「問い」の生成は一つの「空隙」の生成を意味する。

あらゆる展開における審議の空間、〈世界〉に穿たれる「空隙」あるいは「intermission」。

それがなければみずからを展開できないものとしての「空隙」。

人間的自由の本質は、つねに、迷い審議し判断し決断するための「空隙」を要求する。 

「撃ちかた止め!」──〈世界〉とのたたかいにおいて、存在のフォーメーションは修正の契機を必要とする。

関係状況はたえざる変化の中にある。そして問いの絶えざる生成において、問いを携えつつ生きること。

みずからに問いかける。なんらかの回答、いまだ記述されざる関係項、いまだ見出されざる記述命題をめがけ。修正、刷新、転回、書き換え、その総合的承認と了解の内なるシグナル〝納得〟。

すべては「よりよき存在可能」へ向けて。 

人間的自由の本質は、それがそれでありつづけるために、つねに「intermission」を要求する。

だれに?みずからと〈世界〉に対して。

 

 

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「七夕の月」 20190720

2019-07-20 | Weblog

 

うつくしい花がある。

花のうつくしさというものは実在しない。

 

けれどもニンゲンが暮らすふるさとは、

うつくしさという尽きない幻が照らしている。

 

よしなき誘いをよすがとする固有の風土において、

花は名残りであり面影でありはるかな応答でありつづける。

 

そして希望という実体をもたないシニフィアンも同じふるさとに住まう、

あやなる呼びかけと応答の結節として登録されている。

 

ほんと?

これからもずっと。

 

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「エポケー」 20190718

2019-07-18 | Weblog

主観を超えた絶対解、究極解がどこかに存在するという信に支えられるように、「客観」「真理」「正義」が生成する。主観があずからない絶対的客観的真理、その究極の代理表象としての「カミガミ」。

     *

生成としての客観──すべては主観内において生成し構成された観念であるということ。

関係世界が求める個と個をむすびあわせる関係項。そのことの必然的要請を捉えながら、合意にもとづく相互的な了解点としての「客観」。人為としての、「主観の一様態」としての「客観」。    

ストライクゾーンもオフサイドラインも、「法」も自然界には存在しない。自然はペナルティを与えず、「よい-わるい」「正義-不正義」の論理をもたない。すべては人為、人間的生の関係的の位相において生成するものであること。 

ただし〝関係世界(関係のゲーム)〟を生きること、現実の関係世界において「関係の絶対性」を生きることの内部において、そのままでは〝ゲーム〟の偶有性、本質的な人為性を教えない。事実として実体としての客観世界という〝動かしがたい〟確信を胸のうちに沈めながら生きるほかないということ。 

生成としての「客観」というまなざしは、生活世界その内部においては生まれない。それはただ「生活世界」全体の本質をえぐり出すことを求める問いの生成に起源をもつ。

    *

「客観」「法」の人為性、人の手になるものであること、集合的な意志によって合意された記述としての「客観」「法」。その本質を明らかにする動機はなにゆえに生成するのか──新たなゲームへ向かうこと。 

だれが「真実」について一番知っているか。だれが「真理」に最も近くに存在するのか。「われこそ」「われわれこそ」という言明の多数性からみちびかれる不和、対立、抗争、血みどろの「真理ゲーム」の歴史。 そしてそこにはつねに多種多様な「カミ」の擁立が同伴してきた。

「真理ゲーム」から「合意ゲーム」へ。

その転換の必然性を認識するには、「客観認識」の本質についての根本的洞察を必要とする。

 

 

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「生成」と「現実論理」 20190714

2019-07-14 | Weblog

「砂糖が溶けるには一定の時間が要る」

「生成」という人間的生の展開の核心は、──一義的、定型的な〈世界〉記述の確定へ向かう動きによって見失われる。 

関係世界において優位な場所を占めたいという願いの基底から、一つの命題が派生する。

「相克としての関係世界」──関係世界における享受可能性、その実現をただ「相克」という面からフォーカスするまなざしがある。「相克関係としての世界」という命題が最大綱領として掲げられるとき、「生成」という人間的生の本質、〝自由の空隙〟は視界から消える。 

「相克関係としての世界」という命題のリアリティ、痛切性は、日常における実践関係のいたる場面で論証されるように経験することができる。パイ獲得をめぐる競合関係、その組織化された対抗関係、組織フォーメーションが指定する機能的な個の役割、関係のコード。 

一義的、定型的な形式性に収れんする生の展開は、しかし、本質的に「生成」を起源としている。

ソレがなければみずからの展開をひらくことが不可能なものとしての「生の空隙」、インターミッション。

生成、発火の原郷──個の実存においてのみ現象するもの。人間的生のすべての展開の起源をなすもの、自由の本質をなすものの認識、この位相の意味と価値についての相互的な了解と承認、その有無、そのことの決定的な分岐。

 

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「子どもの〝おしえ〟」(『教育』8月号) 20190713

2019-07-13 | Weblog

 

「問い」をたずさえながら

おとなは試されている。幼い子どもとの付き合いの中で、いつも実感させられたことです。そして子どもとの付き合いから学んだことも少なからずあります。

「なに」「なぜ」「どうしたら」。子どもは無数の固有の問いをたずさえながら生きている。世界の不思議さ、わからなさは、そのままみずからの生きるかまえのわからなさ、不安でもあり夢や希望でもあるような〝未決状態〟の毎日を生き抜いているとも言えるかもしれません。そして、次々に沸き上がるさまざまな問いにみずから〝回答〟を探しながら書き込んでゆくプロセス、それが成長であり、広い意味での学びということかもしれません。

かつて読んだ本の次のような一節が浮かびます。「子供たちは、我々以上に、表層の生活と深層の生活とを合わせもっているものだ。表層の生活はごく単純だ。なにがしかの規律で片がつく。だが、この世に送り出された子供の深層の生活は、創られたばかりの世界が奏でる不協和音の調べだ。子供は一日一日と、地上の悲しさ美しさをひとつ残らず、その世界に納めていかねばならぬ。それは内なる生命が払う巨大な労苦だ」(L=F・セリーヌ『ゼンメルヴァイスの生涯と業績』菅谷暁訳)

子どもの日々の生活の本質に触れる言葉と言えるかもしれません。しかし「巨大な労苦」でもあるけれど、同時に「歓び」でもありうる。いまではそんなふうに感じます。

常識=全問正解ではない

子どもが抱く問いに対する〝回答〟は、一面では世の中にあふれています。少し飛躍していえば、歴史的におとなたちが積みあげたさしあたりの〝回答〟の集積としての現在の社会がある。そしてこの社会に適応して生きていくかぎり、社会が提示するさまざまな〝回答〟を学んでいかなくてはいけない。常識、通念、モラル、倫理、さまざまなルール、そして複雑な社会のしくみについて、身につけるべき学習メニューはあふれています。しかし子どもの固有の問いに向かいあうことで、おとなとしてとても大事だと思える反省が働きます。

それは一言でいえば、子どもが抱く純粋な問いのすべてに対して、この社会が「全問正解」を用意しているわけではないということです。無視されたままの問いや筋ちがいの〝回答〟もあるにちがいありません。さらに広げていえば、おとな自身も自ら抱く問いに対する「全問正解の社会」を生きているわけではない。いまだ解の見出されない問い、問われざる問い、放置されたままの問いとともに生きている。

礼を尽してバトンを渡す

そして次の世代へ託される難しい課題もたくさんあります。自分たちで答えられなかった問いに答えてもらう、そのリレー先としての子どもという存在。そのように考えることもできそうです。

その意味でおとなのふるまい方として、すべてわかった風な、したり顔して子どもに接するのではなく、自分たちで答えられなかった難問を託す相手として、子どもには礼を尽くして接する必要があるだろうとも思います。

そのために次のことが大事かなと思います。第一には、みずから考える力を子どもから奪わないこと。おとなが用意した「解」やその解法の学習とは別の、みずから立てた固有の問いを追究できるような学びの体験を積むこと。抽象的な言い方をすれば、子どものそれぞれの生の固有性を、一般性あるいは常識や通念で埋め尽くして台なしにしないこと、となるかもしれません。

「その次を教えて」と、答え以上におとなの応答そのものを求めるように子どもの問いは続きます。そんな時には「自分はどう思う?」と切り返すことも大事だろうなと思います。

もう一つは個性を社会の中でどう生かすか。「個性を大切にする」「みんなちがってみんないい」といったやや紋切り型の言葉があります。うつくしい言葉ですが、一人ひとりがちがうのは当たり前のこととして、そこからどうすれば「ちがう者」同士がそれぞれのちがいを生かしながら生きられるか。そのための生きる知恵や技術を実際の経験から学んでほしいなと思います。

 

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「エポケー」 20170710

2019-07-11 | Weblog

 

新たな「関係のゲーム」へ参入すると同時に、 プレーモードはゲームが指定するゲーム仕様に変化する。

モードとモードのつなぎ目には「空隙」が存在する。 モードチェンジはつねにこの領域において起こる。

どのゲームにも属さないこの領域において、

モードの解除、審議、判断、選択、再編──フォーメーションの組み換えが現象する。

ゲームに入るにはゲームが指定し規定するプレーモードを身にまとわなければならない。

そしてつねに新たなゲームに入るにはこの第三の領域を経由しなければならない。

この空隙は一人一人のプレーヤーの内部以外に存在せず、どんなエージェントも侵入できない。

あらゆるプレーモードはつねにこの内なる「空隙」において構成され選択されている。

 

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「非-知」性 20190706

2019-07-06 | Weblog

 

内なる経験において出会われ示される告知があるのです。たとえばこんな意味性を含んだものです。

 「ちがうのです」

ソレは、ラングでもなく、パロールでもなく、絶対的な正しさ、正義において、真実において、というのでもない。

コトバの系列が生きる位相と直接にまじわらない、内なるカラダの声といえます。正しさ・正義・真実といった価値的審級生成の源にあり、コトバの生成に理由を与え根拠となる「非-知」なるもの、ソレが意識の水面を訪れるものです。

ソレはただ疑うことができない明証性において告げるものであり、告げられることで動きだす内なる了解があり、遅れて新たな企投へ向かう意志の生成にただ一人手を染めるものでもあります。 

「非-知」なるものに告げられ、われわれはソレをあらゆる「確かめ」のただ一つの根拠とする。

たとえばこんなふうに。 

「そこに記述されるコトバがいまだソレにとどいていない、触れられていない」

内なる確かめの〝最終の法廷〟として、心みずからが示す告知があり、たとえば、意味と価値の確定に向かう記述命題が諭し命じるものに、諭しの貧しさ、狭さ、命じることの愚かさ、専制を感じる──そう告げるのです。

ときに禁じる声として、ときに促す声として、ソレはわたし自身に向けられ、ひとえに、そのことを伝える内なる告知があり、ソレにわれわれは名を与え「情動」と呼んだりしている。

そのことの原理的な理解のうえで、「非-知」なるものを正しく迎える礼節と作法があります。第一には、われわれ意識主体においてのみ「非-知」は現象するということ。そして意識主体であることを自覚し、堅持しつつ、放棄しないかたちで、みずからの根拠をつくるみずからのものとして「非-知」なるものを迎えなければならないということ。

あらゆる専制と暴政はそのことを忘れ、放棄するところから芽を吹き、繁茂していく。

このとき「非-知」なるものは、意識主体の元を引き離され、天上に奉られ「超越化」していく。

 

 

 

 

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「展開形──生成の原郷、多重記述」 20190702

2019-07-02 | Weblog

 

〈世界〉は生成する──そのつど新たな意味と価値の配列へ遷移しながら、「よりよき記述」へ向かうかのように。記述の更新に向けてつねに準備を整えるように、その意志を滲ませながら、記述の確定を拒むように〝未決の位相〟を保持しながら駆けているものがいる。 

未決性において全円性を獲得するかのように、実存はつねに自らに生成する「問い」をたずさえている。

なぜ・なに・どうしたら──わかること、理解のポッケに収めたものだけでは足りない、わからないことのわからなさをそのまま保持するように、保持しなければアクセスできないものがあるかのように、わからなさ知りえなさにおいて、逆説的に疑えない明証として一つの格律がみちびかれる。 

「確定されざる記述の場所をつねに空けておくこと」 

展開形の本質において、実存は実存と出会い交わることで、少し浮き上がった場所に移動するかのように、みずからに訪れる自明性に留保をかける。新たな自明性の地平への参入を望むかのように。 

〈世界〉生成の原郷としての実存──それぞれに〈世界〉を示しあい、交換しあう相互性において、記述は二重化され、多重化される。単体では実現されない多重の記述から現出する〈世界〉の相、そこは実存にとって生涯にわたるもう一つの原郷として生きられる。 

実存と実存は交わり、関係しあい、共同化することで、生成の第三の位相を発足させる。

「相互的了解項の形成」──どの実存にも属さない第三の位相という共同的な信憑形成において、多重の記述に対する相互的な信頼に基づく〈世界〉の交換がつづくかぎり、その生成性と展開力は保持される。

 

 

 

 

 

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