ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「からだの声」 20220724(20220327)

2022-09-30 | Weblog

 

 

 

18歳の娘がつぶやいた
余裕をかますだけの頭空っぽたちに

「いつもたぶらかされていた」

知ってるつもりのトンマたちがのたまう
謙虚なふりして正論をわめきちらす

「もっと考えなさい」
「知らないことは罪である」

(一体誰が誰に向かって言っているのか。どんな罰が下るのか)

そうではないのですよ
〝正解〟にしがみついた、ボケナスくん

(正義客観真理の座席に着席したトンマたち)

わかったつもり、善男善女を見せつけあう
たったそれだけのことに血道を上げる

(悪男悪女を必要とする滅びのルート)

娘に代わってそのままそっくり返す
耳をほじくってよく聞いておこう

「おまえが考えろ。出直せ」

    *

ことばの包囲をほどいて
記述を急ぐ世界をしりぞけ
しずかに耳を澄ましたほうがいい

からだの声、それが希望
ただ一つ、自由の入口にあたっている

(聴こえるのは愛だけではない)

この声を聴かなければ本当はどこへも行けない

だれかが、なにかが、どこかへ
おたたちを連れて行ってくれる

それも悪いことじゃない?

ざわめき、もやもや、いらだち
ゆらぎ、ためらい、まよい、ふるえ

声はことばとしては現われない
いつも記述の確定を拒む表情をしている

ノイズとしてすべて切り捨てることもできる
耳をふさぎ、自由を呪う道もこの世には用意されている

老若、男女、思想信条、信仰を問わない
人生、結局、〝なんとか〟である──
結論を急がせ、かたちを確定したがる世界、関係記述

人間の歴史をわがもの顔で動かしてきたものだ

おのれの声とは別のなにかに乗ること
乗っかる以外一歩も生きられない、生きさせない

虎の衣を着るしかおのれを示せない
権威に毒された記述命題から逆算して生を定義する

そんな流儀がいまも席巻している
この世を干上がらせ、荒廃へ導くものだ

「いやだね」

そうつぶやくおまえの声を聴いたがことがある
(漢字が苦手、そんなことはどうでもいい)

俺たちには別のルートが開かれている
敵を蹴散らして滅ぼすチカラの道ではない

滅ぼしあうものがみずから恥じて滅びていく
目撃することでみずから消えていく道がある

日々、水をやり、光を当てるように
一人称がともに生きる相手、からだを迎え、もてなす

そうしてはじめてともに生きていくことができる
俺とおまえが本当に出会うことができる作法がある

 

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「妄想の用法 ── 秋、2022」 20220929

2022-09-29 | Weblog

 

 

かつてつづったことがある──

そこは誰も知らない、知らされないその土地は
おまえの彷徨が導く場所に限られている

じぶんがここにあるということ
それだけのために
おまえの言葉ははじまっている

はじめからおまえは世界と和解しなかったから
おまえは世界が知らない影にしめつけられている

おまえはおまえの不幸に祝福され
風景に傷を入れるために街に入る

そこでおまえは
永遠に訣別を知らない者にならなければならなかった

すべてをリンクして結び合わせる

そうしてはじめて開示される風景がある
そういう直観、妄想が動いていた

いまならこんな妄想の言葉がある ── 全項連結

カンテンで固められたような風景ではない
結語をむすんで結晶世界にたどりつくためではない

すべてを知ることはできない
あたりまえのことだ

非知、無知のなかにありながら
知りたい、知り尽くしたいという欲望だけがある

それゆえ俺たちは補助線を引くように
仮象のイデアにリンクを貼り、物語をあつらえる

ほんとうの希望を語るために
かなしみをつづるために
隔絶の淵を渡り切るために

分離、分断、分裂が絶対化して
世界を枯らしてしまうまえに

隔絶の淵を毒ではなく資源へ位相変換するために
交換のルートが用意されなければならない

リンクする
糸を通す
血を通わせる
ブリッジする
隔絶の淵を渡る

(妄想は正しく行使されなければならない)

そのために行使されるべき思考の展開本質がある
哲学のことばではこう言われる

「生成と産出の無限の活動を通じて、理性は分離されていたものを合一し、
絶対的な分裂を、根源的な同一性によって制約された相対的分裂に格下げする」

      ──ヘーゲル『差異』(『ヘーゲル・セレクショ』廣松・加藤編訳)

 

 

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「未決の課題」20220716

2022-09-28 | Weblog

 

 

天と地の柵を撤去する──

この作業には手がかかる
十九世紀の思考の先端が捉えた課題はそのまま残されている

天上にあるものを引きずり降ろすのではない
地上にあるものを天に移すわけではない

瀆神、背神、異端の対置ではない
神なき場所に別の何かを充填するのではない

天上そのものをまるごと地に降ろす
降ろして天地をわけるラインを棄却する

この作業は未完のまま残されている

人間が永く採用してきた世界を描く遠近法があって
いまも生きられる身につき過ぎた心のかたちがあって

(上目づかいの視線と見下しの視線のカップリング)

天が裁き地が服する、価値階梯の秩序として
準拠枠として、思考とふるまいの日々を構成している

なんのために天と地の柵を撤去するのか

天も地も、聖も俗も、善も悪も、正も邪も
すべてが生成する原郷に正しく帰還させるために

天の裁定に従って生きるのではなく
人と人の裁定以上でも以下でもない地平

(超越項の先行を許さない思考とふるまいの地平)

天の威光を完全棄却したひとりひとりの生の意志
生の展開本質にかなう関係の地平を見出すために

 

 

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「コーディング、柔軟性」20220927

2022-09-27 | Weblog

 

 

 


 


 最初におさえておくべきことは、
 いわゆる〝外界〟におけるいかなる物体も出来事も差異も、
 それらに応じて変化するだけの柔軟性をそなえた
 ネットワークの中に取り込まれさえすれば、
 情報の源(ソース)になりうる、ということだ。

     ──G・ベイトソン『精神と自然』(佐藤良明、2022年訳)

            *

経験を情報ソースとするための固有の変換規則
身についたコーディングの仕方があって
それが個性や人格と呼ばれるものに当たっている

コードされ資源化された情報は毒にも薬にもなる
滅ぼすためにも生かすためにも使われる

ほんとうはよく知らないもの同士であっても
小さなインターフェイスを介して全部わかる
理解のポッケはスキマまなく記述命題で充填される

……かのように

向かいあって交わり
愛し合い憎み合い殺し合う

滑稽だ、けれど
現実がそれで動いていく

バカすぎる、けれど
生き死にが決していく

愚かすぎる、けれど
手のほどこしようがなく

無残すぎる、だから
なんとかする方法を考えようか

俺たちはみずからに備わる〝柔軟性〟を使い切っていない

変換規則、コーディング、そして交換の作法
すべて、もう少しましなものにできるやり方がある

 

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「心の光景」 20220215

2022-09-26 | Weblog

 

 

いまにも折れてしまう
手前で差し出される腕

(一つの原理かもしれない)

それを待ち望む心がいる
もっとも盲いた心の状態だろうか

そうかもしれない
そうでないかもしれない

わからない、けれど
心の光景として留めておく

そうして求める心があるかぎり
そこに忍び込み、連れ去ろうとするものがいる

(滅びのエロスが明滅する)

どこかわからない
憎しみに変位する場所へ

それはよくないことに決まっているから

 

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「かたちなく」20220925

2022-09-25 | Weblog

 

 


 わたしは
 なにをするのも
 すこし
 かなしい          
          ──匿名『いまぁじゅ』なんばあ10


どんなルートをたどるものかはわからない

ことばにも表情にもふるまいにも明示されない
ただかなしみの深さを感じることがある

確証するすべはない、幻想かもしれない
ただ疑えないたしかさの告知がある

この感受が静かな別の思考を要求する

 

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「連結装置──意志」 20220924

2022-09-24 | Weblog

 

 

ひとつの記述命題「c'est la vie」は否定の契機と結ばれ
可疑性の概念を手に入れ、不可疑性を離脱し
内なる承認において修正可能性、展開可能性へ開かれていく

    *

不可疑性から可疑性へ
可疑性から不可疑性へ

世界とからだの直列がほどかれ
新たな連結形式の試行へ向かう

この作動の動因をつくるもの
連結の位相を開き、連結し直すもの

未踏の連結形式を探索する連結点に
しばしば行使することを忘れられた〝意志〟がいる

「ノン」

ここにこうしてあることへの否認
新たな「ウイ」へ向かうための「ノン」

未踏の連結形式の探索へ向かうように
一つの連結形式が示す限界を破るように

疑われざる自明性に埋もれた世界を編み直すように
みずからの第一のミッションに目覚めたように

一つの意志が世界とみずからの連結点に「ノン」を投げ入れる

 

 

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「少年の夢」 20220923

2022-09-23 | Weblog

 


「涙の谷=現世」(マルクス)をあまねく洗い清める追い風、
一人残らず、対象を選別しない理想理念の夢、神風への祈り

(そんな風が吹くポラーノの広場を夢見ることはできる)

俺たちは味気ないすさんだリアルを離脱するように
だらしなく、しかし折り目正しく舞い上がる時間を持つことがある

ホッピングしあう、ホッピーでハッピーな関係と場所
おのれに善性を確認しあうひとときと言えるかもしれない
清らかなロマネスクを語り合う、しあわせな時間はありうる

けれども、しかし、ばってん、それでもくさ

ロマン、憧憬、夢、義理と人情、救済への祈り
すべてを集めてもこの夢の風には足りないもの、限界がある

夢がリアルのかたちを結ぶために
不可避な引き受けなければならないことがある

(はぐれ者は酷薄な作法しか知らない)

獰猛なケモノとしての「我」のうごめき
夢に先んじて動いていく内なる衝迫、欲望の作動

この作動の相互性の位相、せめぎあいを忘れ
捨象した場所に生まれた夢は滅びる運命にある

この夢からの完全なる覚醒を絶対条件として
涙の谷に架かる橋の構想が開始されていく

絶対条件において尚も残る〝残余の意志〟がそれを果たす

 

 

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「時間」20220923

2022-09-23 | Weblog

 

 

「いいかい。先のことを予測して動くことができるというのが動物の際立った特徴なんだ。
ネコがネズミに飛びかかるときには、着地の瞬間にネズミがどこまで走っているか予測を立てて、
それに合わせてジャンプのしかたを調節する。そういうことが動物にはできる。
そういうことができるからこそ、逆に動物の動きが予測できないものになってくるんだなあ。
この世でただ一つ、予測できないものに。…
人間の法律というのも、考えてみると妙なものだな。人間の動きが規則的でなくちゃいけない、
予測できるものでなくちゃいけないという考え方がベースにあるわけだ」
        
                 (ベイトソン「メタローグ」『精神の生態学』佐藤他訳)

       *

グリニッジ標準──だれかが決めた時間配列にグリップされるとき
おれたちは固有の時間が見えなくなっている

時間を記述する記述形式が展開本質に追いついていない
切り刻まれた時間の配列を守ることが先行している

かつて-いま-これから

時間を刻んで直線的に連結する
この歴史記述の方法から漏れていくものがある

     *

思考と行動はひとりひとり、固有の「時間」と溶け合っている
いまここに「ある」からいまここにない「ありうる」へ
この移行する時間的厚みのなかに、からだは住みついている。

すべての時制はループしながら「いまここ」に結集し
新たな「いまここ」の創発へ向かっている

生きられる時間──

スライスされた「いまここ」の連結連鎖ではない
「at here」はつねに「from here」を孕んで
確定記述を許さない途切れのない展開のなかにある

展開を予期的に宿しながら「いまここ」を構成し
ひとりひとり、固有の生の時間を生みながら世界を生きている

それゆえ、「ある」をスライスして書き留め、「事実」として確定したい心は
生きられる実存の展開本質と必ずすれちがうことになる

この〝すれちがい〟は、ヒトがつくる関係世界に多発している
「実存の時間」に「客観的時間」が取って代わる倒錯とアディクト

この倒錯によって固有の時間を見失わないように

エモノを捕らえるケモノの姿を心に鮮やかに描いておこう
そこにおれたちの生の展開本質が写像されている

 

 

 

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「Backstage──ドキドキ」 20200410

2022-09-23 | Weblog

 


太郎くんは、花子さんの前に出ると胸がドキドキする。
鼓動が高鳴り、呼吸が早くなり、血圧が上昇し、顔が真っ赤になる。
見るだけでいつも恥ずかしそうにモジモジしはじめる。

からだのなかで、体細胞的な変化が起きている。
引き金を引いたのは、花子さんの存在、それを捉えた太郎くんの視覚と心。
心の問題なのに、生理化学的変化のスイッチが自動的に入る。

次郎くんにとって、花子さんはそうした対象ではない。
ごくあたりまえに会話が出来る。ドキドキすることもなく、冗談も普通に言える。
だから太郎くんの反応は「わけがわからない」。

でも、次郎くんにも似たような経験がないわけではない。
夜道を歩いていて、いきなり警察官に職務質問された時はドキドキした。
校舎の裏でタバコを吸っていて先生に見つかった時も心臓がパクパクした。

二人の経験はおなじドキドキ、パクパクでも大きなちがいがある。

なにか。

ヒトとヒトが関係し合う、結び合うパターンはさまざまだ。
ざっくり、けれど本質的には、絶対的に異なるふたつがある。

太郎くんにとって花子さんは絶対に取りかえが利かない存在である。
花子さんを見たときのドキドキはなにものにも媒介されず、
太郎くんのからだの内側からまっすぐに湧き上がってくる。
この内なる作動は、頭では勝手に操作できないものとして起こる。

お巡りさんや先生の場合はそうではなく、ほかのヒトでもいい。
この時のドキドキは、からだの内側からまっすぐにというより、
社会とか学校とか、決めごとの世界との関係に媒介され、
次郎君のアタマの判断を経由して湧いて出たドキドキだ。

からだのまっすぐな反応は考えてもどうにもならないけれど、
頭を経由する場合は、判断次第で、反応に変更を加えることはできる。

関係パターンの変更、修正、組み替えが起きたとき、
たとえば次郎君が一人前のヤンキーに進化したとしたら、
おまわりや先公と出会ってもドキドキすることはないだろう、おそらく。

けれども次郎君も特定の誰か、B子さんの前では否応なくドキドキする。
どんなヤンキーになったとしても、そういうことはずっと起こるにちがいない。

 

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「現場」 20220922

2022-09-22 | Weblog

 

 

ひとりの現場がある

社会体が区切り分類して並べ
居場所を指定する小さな現場ではない

ひとりひとり直面して生きている
ひとりひとり異なる時間が流れる現場がある

この時間は生きられるかぎりにおいて生まれ消えていく

どんな特権的な現場も存在しない
どんな類型性も、どんな代替性もない
ひとりひとり、展開本質の無限性のなかにいる

この現場において生きることを願うなら
世界を黙らせるだけでは足りない

つくりかえる

教唆し、諭し、指示し、命令し、脅し、睥睨する世界
そうではなく、よりそい、ささえ、知恵をたくわえ
知恵の果実を手渡すことができる世界へ

 

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「ふたつの主語」 20210325

2022-09-21 | Weblog

                    Last Train Home jojo for 1 hour - YouTube

 

「主観は主観の外に出ることができない」

世界記述の主体、ただ一人の記述者としての「私」
このことの根本原理は動かすことができない

そのうえで

「私」の内側ではつねに〝対話〟が進行している
対話の中心をなす関係構造は取り出すことができる

世界を記述する「私」
世界に記述される「私」

ふたつの記述主体による記述の交換、審議の位相

この位相から結審を導くように
「私」のそのつどの関係企投が出力されていく

     *

根本原理に照らすことによって
この対話の構造の本質が明らかになる

すなわち

世界を記述する「私」は「私」のなかに
「私を記述する世界」を〝住まわせている〟

いいかえると

世界記述の主語の一部割譲
「私を記述する世界」、内なる外部の屹立

なぜそうした構造が生まれるのか?
一つの結論

「社会体に加わり、関係世界を生きるために」

ふたつの主語をみずからにあつらえ
内なる対話の位相を開くこと
そのことで可能になることがある

二重記述、多重記述、無限記述による
共同的な幻想領域の生成、展開、拡張

この展開は、享受可能性としても病理としても
生の支援としても生の収奪としても機能しうる

内なる外部の暴走による生の収奪(全面割譲)
このちからを制御したいと願うなら
内なる構造の本質をとらえる視線と手続き必要とする

すなわち、世界記述のただ一つの主体の目撃
そして意味生成の原郷としての「私」への帰還

世界との直列を外し、世界の自明性をいったん棄却する
この手続きを踏んではじめて、この「私」は目撃される

 

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「学校、学び、こどもの声」 20220920

2022-09-20 | Weblog

 

 

正解は一つじゃないんだぜ
ほんとうに学ぶということは、教えてやろう

世界の多様性に出会うということさ

正解のかぞえきれない多様性、多数性
それがリアルに生きられている、それが世界さ

この世界の実相に気づくことがはじめて、火を灯す

そうしてはじめて展開の自由、豊饒さの地平
考えること感じることの無限連結の契機を手にする

自分のなかに世界を入れる──
ほんとうに学ぶということの根本原理さ

教えきれない世界経験のしかたがあること
一つのテキストを読み合うとはそれに出会うということさ

いい直すとこうなる

一つの解に向かう求心性のちからをほどいて
遠心性のちからに気づき、我がものとする

この出発点に立つこと、それが第一歩目だ


     *


思ったとおりにはならないよ
望まれたとおりには生きたくはないな

なぜって?

デタラメ、ノイズ、ゴチャゴチャ、メチャクチャ
うまく説明なんかできないな
でもね、あふれるものはあるよ、腐るほどあるさ

その一

オレたちをダシとして宴会のつまみににすんなよ
オレたちはダシとして生きているわけじゃない

ここだけの話だけれど、いい人という看板は迷惑、タチ悪なのさ
いい人というだけで生きる焦点がボケてしまう

なぜがつきあわされてしまう、断れない、息が詰まる
つきあったら、いい人の仲間のつもりになってしまう、バカか

(逆に悪党のほうがスッキリわかりやすいかな)

いつもいつもこどものことを考えているキモチ悪さ
四六時中味方、善人のつもりの後光が射した姿、わかるかな

いい人とか、わるい人とか、ほんとはそういう問題じゃない
おっさん、おばちゃん、それぞれの人生があるだろ
てめえだけの人生があるだろ、そこが大事なキモさ

オレたちが本当に学ぶのはその姿からさ
教えられたから学ぶのじゃない、いい加減にしてほしい
じぶんで学びたいから学ぶ、それが本当に学ぶということさ

手をかえ品をかえて教え諭す、そうじゃない、勝手に手柄にすんな

その二

オレたちは集団劇の一員じゃないんだぜ
いいねいいね、わかるわかる、わきあいあいのクサさ、ダサさ
いい加減にしてほしい、人生がまるごとガッコウになってしまう
仲良しゲームにはどんな未来もちからもないと思うな

その三、これが一番のことさ

わかられたらたまらない、おしまいだ

そのまなざしのスコープに収められることがイヤなのさ
イヤでイヤでたまらないんだよ

なぜかわかるかな、

結果の見え透いたゲームでわくわくするかい?
だれかの思考の枠内に人生が収まる、ありえないしょ

よい-わるい ほんとう-うそ きれい-きたない
だれかが勝手に先行して決めることじゃない、手を放せよな

ゴチャゴチャから何かが生まれる、そのためにジャマな配慮を外す

わかるかな、わかんねえだろうな
それがわかわるおじさんおばさんなら教師と認めてもいいかな

 

 

 

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「リエゾン」 20220920

2022-09-20 | Weblog

 

 

好きも嫌いもない
疑えない親しみのなかにいた

きみは何者か
そんな問いは消えていた

一人で勝手に決めることではない
取り除けない前提というものはある

はじまりの場所にいた
その程度のことで消えることはない

リアルで展開しなければ別の場所がある
そこで連結すべき展開の仕方がある

アホか、いまも、かつても、これからも
そんなものはどこにもない、ただの妄想だ

男女を問わず、とっつぁんどものセリフさ

いまも、かつても、これからも
口を揃えたバカ面は知らない

これくらいのことではビクともしない
そういう関係の地平がある

 

 

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「セルフへの帰還」 20220919 

2022-09-19 | Weblog

 

 

居心地のいい場所へ赴く
居心地の悪い場所から離脱する

そのつど、それぞれに求められている
どんな形式でもいい、どんな集団劇でもいい

だれもが求めている(そうにちがいない)

ここにいれば心が安らぐ
ことばの包囲をほどくように
ほっと息をつくことができる

でもね、その続きがある
帰還の道が消えると世界は表情を失くし枯れていく

それをほんとうに生き、生かすために
もう一つのルートが用意されなければならない

(一元化して収束へ向かうルートではない)

エールを交換するための作法がある
エールをエールとして投げ、受け取るために

ふたりは別々の場所に居なければならない
そこに帰る道をいつもあつらえておこう

 

 

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