ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「時代の気風」(参)

2010-01-27 | Weblog

(鶴見俊輔編著『御一新の嵐 日本の百年1』筑摩書房)より

(長崎・英語伝習所)町人の子弟も入学をゆるされたが、生徒はかならず両刀をおびるべしという規則があり、学生の気風の下地は武士のものだった。
一八六八年(慶応四年)四月、広運館として出発した当時、誰かの時計が盗まれた。犯人の生徒は切腹を申しつけられた。当時の学生の気風としてはそれを当然のこととして受け取った。一八六九年(明治二年)にふたたび誰かの時計が盗まれた。犯人はやはり学生だった。学生たちは一年前とおなじく、犯人に自刃を要求した。校長はフランス人の宣教師でレオン・ジュリーという。
「あまりにも野蛮すぎる。いまの世に切腹などということがあるべきではない。」
しかし学生たちは、
「こと人道については、われわれは西洋人の教えを受ける必要はない」と主張した。校長は学生の世論に押された。

*「御一新」を担った武士階級(文化)のエートス。血腥い闘争においても、国づくりの使命感においても、学問への情熱においても、神州イデオロギー形成においても、ダイナミックな展開のダイナモが機能していた時代。
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「STILL LIVE、1986」(参)

2010-01-18 | 参照
(http://www.youtube.com/watch?v=3C5CHU9sn04)

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「ハイパーリンク化」(参)

2010-01-06 | 参照
(斎藤環『心理学化する社会』03年PHP)より

先にも引いた樫村愛子氏は、ギデンズやベックの「リスク社会論」を紹介しながら、社会の中に媒介的審級が不在のため個人に予測不能な大きな負担がかかる、まったく新しい社会が存立しつつあると指摘している。実は、こうした「媒介的審級」の衰弱については、ほかにもさまざまな立場からの指摘がある。
たとえば劇作家の別役実は、現代における「中景」の喪失について語っている。「中景」とは、家族や地域社会といった共同体的な対人距離で構成される世界のことだ。これに対して「近景」は身近な対人関係などを指し、信仰や占いなどは「遠景」とされる。いまや近景と遠景を媒介する中景が欠落し、近景と遠景がネットワークをつうじていきなり接続されることになる。……
「山を動かす技術のあるところでは、山を動かす宗教はいらない」と哲学者のエリック・ホッファーは指摘した。その指摘通り、いまや中景は、技術情報とネットワークに置き換えられた。いや、それがもし可能であるのなら、近景や遠景ですらも、そうならないという保証はない。(「近景」と「遠景」の媒介なき接続)


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