ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「Backpass」 20200930

2020-09-30 | Weblog

 

   Creative thought must always contain a random component. 
                                                 (Gregory Bateson)

こぼれるものがある
かならずこぼれてゆく

「道草して帰ろうか」

忙しければ忙しいだけ
疲れたら疲れただけ

「忘れそうになる」

現実論理が教えない
だから自分に教えてあげる

花に水をやるように

 

 

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「中原中也──けれど漕ぐ手はやめないで」(1907~1937)

2020-09-29 | 参照

 

「宮沢賢治の世界」

 ……
芸術を衰褪させるものは、固定観念である。
誰もが芸術家にならなかつたといふわけは、
云つてみれば誰もが固定観念を余りに抱いたといふことである。
誰しも全然固定観念を抱かないわけには行かぬ。
芸術家にあつては固定観念が謂(い)はば条件反射的に抱かれてゐるのに反して、
芸術家以外では無条件反射的に抱かれてゐると云ふことが出来る。
 ……

  *


「春宵感懐」


雨が、あがつて、風が吹く。
  雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵(よひ)。
  なまあつたかい、風が吹く。

なんだか、深い、溜息が、
  なんだかはるかな、幻想が、
 湧くけど、それは、掴(つか)めない。
  誰にも、それは、語れない。

 誰にも、それは、語れない
 ことだけれども、それこそが、
いのちだらうぢやないですか、
  けれども、それは、示(あ)かせない……

かくて、人間、ひとりびとり、
  こころで感じて、顔見合せれば
 につこり笑ふといふほどの
 ことして、一生、過ぎるんですねえ

雨が、あがつて、風が吹く。
  雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
  なまあつたかい、風が吹く。

  *


「初恋」


最も弱いものは
弱いもの――
最も強いものは
強いもの――

タバコの灰は
霧の不平――
燈心は
決闘――

最も弱いものが
最も強いものに――
タバコの灰が
燈心に――
霧の不平が
決闘に
嘗(かつ)てみえたことはありませんでしたか?
――それは初恋です


  *


「湖上」

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けましょう。
波はヒタヒタ打つでしょう、
風も少しはあるでしょう。

沖に出たらば暗いでしょう、
櫂(かい)から滴垂(したた)る水の音(ね)は
昵懇(ちか)しいものに聞こえましょう、
――あなたの言葉の杜切(とぎ)れ間を。

月は聴き耳立てるでしょう、
すこしは降りても来るでしょう、
われら接唇(くちづけ)する時に
月は頭上にあるでしょう。

あなたはなおも、語るでしょう、
よしないことや拗言(すねごと)や、
洩(も)らさず私は聴くでしょう、
――けれど漕(こ)ぐ手はやめないで。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けましょう、
波はヒタヒタ打つでしょう、
風も少しはあるでしょう。

 

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「インターミッション」 20200928

2020-09-28 | Weblog

 

世界を記述することばが消え
魂に息つぎすることを教えるように

月が照らす帰り道

世界とのリンクをほどくように
ちいさな休止符が書き込まれる

この感覚にはつねに覚えがある

そんな、人との出会いもある
あなたにも出会ってほしい

 

 

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「現象学的還元、エポケー」1  20200927

2020-09-27 | Weblog

 

「客観」から規定される「主観」ではなく、
「主観」において生まれる「客観」という原理的事実

「主観」と「客観」は対抗的二項ではなく、いわば〝母と子〟の関係にある

けれど、そのことを明晰に認識するには手つづきがいる
なぜなら、われわれはあまりにも「客観」の超越性、先行性に毒されているから

「客観」には適切な用法がある
適切な用法を手にするための方法、それが現象学的還元(エポケー)と呼ばれる

この方法は、哲学者フッサールの問題意識を起点としている

     *

 

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「コーヒーを飲む」 20200926

2020-09-26 | Weblog

 

「私」はつねに「私」にまみれながら「私」を目撃している。
そのことをある詩人は「ぼくは一人の他者です」とつづった。

みずからの世界経験がたどる構造への視線をキープしながら、
その本質を追い詰めると、
意識が介入できない〝不可視域〟に出会うことになる。

     *

知ることに先行して、知ることを促す内なる〝発火〟がある。
情動は走り、世界は開かれ、心はさまざまに色めき立ち、知(言葉)はおくれて動き出す。

欲望、そのつどのたえざる主題の生成があり、新たなモードの形成を促す触発がある。
由来をたどれない非知的な衝迫が、意識を直撃するようにみずからに告げる。

「コーヒーが飲みたい」

変化する経験のモード──「私」という存在はつねに新たな組織化に向けてスタンバイしている。
湧きあがる生の主題(欲望)に応じてモードを変化させる内なるマトリクスがある。

すでに準備を整え、そのつど、新たな連結関係において一つのモードを形成し、
告げられた主題(欲望)の実現へ向かおうとしている「私」という全体がある。

スイッチが入り、ただちに作動が開始され、手を伸ばす。
気づくよりはやく、カップをつかむ手はカップの直前で減速し、
カップにふさわしい指のかたちと圧力を調整している。

この一連の動作は意識のコントロールを離れてほとんど自動化されている。
この自動化には、経験と学習によって身体化していく個人の歴史が畳み込まれている。

それが行為的な自然性をつくり、日常生活の全域をささえる基底をつくっている。

視覚が捉えたカップの姿には過去のカップの経験が刻まれており、
腕を伸ばしてカップをつかむという身体動作の形成のプロセスには、
カップの硬さ、重さ、かたちに関わる情報がつねに予期的に同伴している。

あるいは、カップをつかむというメモリに刻まれた一つの運動図式が、
視覚が捉えた対象情報に従って選択的に引き出されるとも言える。

ただ「コーヒーを飲む」という主題(欲望)にも、
総力を挙げてそのつど新たな運動の組織化へ向かうマトリクスがある。

    *  

経験のモードは単一の運動図式によって担われるのではなく、
つねに並列的であり、輻輳した形式で展開していく。 

コーヒーカップを動かしながら、ぼくは友人との会話に集中し、
片方の手でタバコを吸い、BGMに耳を傾け、
からだは椅子のすわり心地を調整したりしている。
横のテーブルから「もっと静かに話せないですか?」と声を掛けられ、
「あっ、ごめんなさい」と答える。
その間も、コーヒーカップをつかんだ手の動作が止まることはない。
こうしたからだの多重で複雑な運動形成全体のシークエンスに、
意識はこのフォーメーションの制御の中心の位置にはいない。

事後的に、運動の記憶をたどってそのプロセスを追うことはできる。
自分の行為のプロセスは、たしかに意識内部に記憶としてトレースされている。
だからそのプロセスを事後的に追って一応の説明づけは可能である。

しかしその全貌をこと細かに再現できるわけではない。
意識はその全貌を追尾し捉え尽くすことができない。
たった一つの行為の展開においても作動の全貌を捉えることはできない。

    *

意識的に作動の全貌を捉えようとする。すると、それはもうすでに別のモードに移行している。
作動の全貌をコトバによって記述に収めようとすると、コーヒーを飲むという作動は止まる。
すなわち、新たな主題の浮上──フォーメーションは記述という別の主題に従うモードに変化していく。

    *

全知は存在しない。知りえない全貌が実在しないということではない。
意識の作動を条件づける背景が存在することを疑うことはできない。
ただし、意識がその全貌をとらえることの困難には原理的な理由がある。

「経験」(世界経験)の記述は、つねにそれを超えることができない限界線がある。
〝発火〟は、つねに、すでに、意識の作動に先んじて現象し、意識を直撃する。
むしろ、この直撃によって、意識は作動の理由を与えられている。

この原理的なリミットを超え、その現象の裏側にむりやり回り込もうとすると、
すべては「物語」(仮説)の世界に入ることになる──思考のオフサイドライン。

    *

思考のオフサイドラインを超える──
すると必然のように真偽の検証不可能な説明原理として、
「物語」「神話」「おとぎ話」の系列が立ち上がる。
こうした検証不可能性なものをささえる唯一つの根拠としての〝信仰〟。

その基底には、いわば〝虚数項〟の設定による全体把握へ向かう人間的欲望がある。
虚数項はあらゆる主観の上位にある「価値的絶対項」として設営される。

それがそうであればすべては整合する、という〝虚数項〟の生成。
この虚数項を掲げあう個と個、あるいはクラスとクラスが対峙するとき、
みずからの正当性を主張し直進すれば、相互に折り合い共存することはできない。

この「真偽」「正邪」をめぐる戦いは、
必然的に、その検証不可能ゆえに際限なく昂進していくことになる。

    *

こうした最後には血なまぐさい結末を迎える戦いを回避する原理がある。

第一には、思考の限界線の確定──
人間的思考のもつ原理的な限界線についての認識、そのことについての共通了解。
決して絶対項、全知、最終解、究極解が存在しえないことの原理的把握。
そしてそのことの相互的承認、そして限界を生きるもの同士としての合意形成。

 

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「〝不可知性〟──その本質」20200925 20190925

2020-09-25 | Weblog

 


「タンポポの花一輪の信頼が欲しくて、……一生を棒に振った」(太宰治『二十世紀旗手』)

そんな存在の姿をあからさまに見ることは少ないけれど、(多くは秘め事として)
人間が魅せられ誘われる不可抗の力の作用、そのことは普遍的で自明なことだと思える。

          *

問いを生む存在。一切は「問い」の生成から開始される。

理解を求め、なんらかの理解を充てることで組織化する原理。

内なる問いの生成は、つねに抗いようのない〝非知的〟な到来性として現象する。

「世界とは何か、そして他者とは。その意味とは」──
みえざる全体、〈世界〉に接近を図るとき、人間は物語=神話というツールを駆使してきた。

全域を視野に収める「全知」が表象され像を結ぶとき、信仰の共同性が立ち上がるルートが出現する。 
そのことから帰結することになる世界の様相──
「信仰の共同体」の乱立、対立、抗争、そして調停、糾合、共存共生への試み。

物語の封印──見通せない全体性(という表象)に物語による回収、加工処理と修飾を加えるのではなく、
全知ならざる人間のまなざしのままにとどまるという、それとは別の、物語を用いない構えがある。

一般像として確立された「カミ」(客観、真理、絶対善)という参照系への帰依ではなく、 
それ(絶対命題)から演繹される「人間、私、社会」ではなく、 絶対命題の生成のただ一つの起源、
「主観」の世界経験の構造から「カミ」の生成を捉えかえすまなざし。

「主観は主観の外に出ることができない」

この原理に忠実にしたがうかぎり、 問いが向けられる相手はつねに「主観」であり、
認識論的な問いの核心は次のようになる。

――「世界とは何か」、ではなく、「世界とは何か」と問うわれわれの経験の本質とは何か。

見通せない世界(全体)、そして見通せない他者──
見通せず語りつくせないものとして主観に現出するものの隔絶性。 
それは孤独の本質であると同時に、隔絶した存在とかかわりあうことの意味本質が主題として浮上する。

たえざる〝挑発〟としての世界、他者の現出。
生の動機、理由を与えるものとしての、その始原的な所与性。

物語(カミ)の封印。そのことを徹底し、主観(実存)の内側にとどまり、
ここでのみ現象する隔絶した存在(世界、他者)と交わること、
理解すること、働きかけることの「試行性」が明らかになる。 
そして試行をとおして告げられる「わたし」の情動の動き(情動所与)。
この循環のなかに「わたし」の生が展開してゆく。

一切のてがかりはこの所与のなかにあること──意味と価値が生まれる「はじまりの場所」。

そのつど、つねに新たな相貌で現われる「見通せない世界(全体)」、「見通せない他者」の姿。
この「非知性」は原理的に消去することができない。

このことが示す意味──人間的理解の〝可謬性(修正可能性)〟から導かれる結語。
すなわち、最終解、究極解、究極解、絶対的真理は原理的に存在しえないということ。

相互の隔絶性は消去できない、にもかかわらず「了解と納得」は生まれうること。
その相互的な了解、合意は生成しうること、そして現に生きられているということ。

隔絶性、試行的企投性、その可謬性、にもかかわらず生まれる合意可能性。
こうした思考、認識、関係の本質から導かれる人間的知恵、かまえ。
つねに試行へ赴くスペースを用意し、新たな記述を可能にするスキマをキープすること。

 

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「さようなら、ギャングたち」(参)

2020-09-24 | Weblog

 

──高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』

わたしはむずかしいことばがきらいだ。
むずかしいことばで書かれたものを読むと、とても悲しくなる。
なかなかわからないのだ。
むずかしいことばがきらいなのに、わたしもまた時々むずかしいことばを使う。
本当に悲しい。
「おかえりなさい」ということばがわたしは好きだ。
わたしが好きなのは夜、わたしが家にたどりついた時
S・Bがわたしに言ってくれる「おかえりなさい」だ。
それ以外の「おかえりなさい」のことは、わたしは知らない。
わたしはS・Bをロッキング・チェアから抱えあげ、ベッドのほうへ運んでゆく。
「重いな、君は」
「おやすみなさい」とS・Bが言った。
それからわたしは電気を消した。


「むずかしく考えないで」とわたしは言った。
「何でもいいんですよ」
「おしのギャング」は自分の頭の中に書いてある言葉を探しはじめたが、
どの頁もまっ白だった。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
「コーヒーとサンドイッチ」「おしのギャング」の唇から荘厳な音がもれた。
「そうです。それでいいんですよ。つづけて」
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
まっ白。まっ白。まっ白。まっ白。
…………
「おしのギャング」はすっかりうちのめされ、ギブ・アップ寸前だった。
行けども行けどもつづいている空白の荒野に、「おしのギャング」は力なくすわりこんだ。
「しっかり!止まらないで!」とわたしは言った。
「ギャングだろ?忘れたか!」と「ちびのギャング」が言った。
「ぼくたちはいつも一緒だ」と「美しいギャング」が言った。
「おしのギャング」は不屈の闘志をよみがえらせると再び歩き出した。

 

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はじまりの場所──生成する「自己-世界」 20200923

2020-09-23 | Weblog

 

左右の視覚の重なり、二重の記述から
左右のどちらの視覚にも帰属しない
3つの次元をもつ世界、奥行きが生まれ
新たな世界の姿が創発するように

ふたつの性の二重記述から
新たな生が創発する

いまだ記述されざる地平に子を宿し
母はしたためるように子を産み落とす

やがて老いた母は子どものようにふるまい
子は母であるかのようにふるまう

けれど、子は母を産むことはできない

二重の記述、多重の記述へ向かうものが教える
ひとりではかなえられない地平

世界の生成性、そしてその関係的本質について
子が母としてふるまうことの錯誤について


──竹田青嗣『欲望論』(第二巻、296・297)

「欲望は、一方で衝動、欲求の内的な情動として、
もう一方で、対象のエロス性についての対象的情動として到来する。
私が、私と対象、私と世界を分節するのではなく、
欲望としての衝動、欲求の情動が「自己」と「世界」を分節する。
自己とは、純粋な思惟でも、絶対的な否定性でも、また差異の運動でもない。
はじめの自己性は、衝動の、欲求の、その情動についての意識である。
しかし主体が自らを「自己」として、対象を対象として文節するのは、
その衝動、情動到来が、対象性を時間的、空間的的な課題として現出することにおいてである
(この「自己」はまだ関係的「自己意識」ではなく、
単なる対世界的主体意識、つまり「自」と「他」の区別性にすぎない)。
ある衝迫的情動が、欲求-欲望が、
対象の「何であるか」(それに到達するために何が必要であるか)を告げ知らせ、
同時にそれが「自己」のkな可能性(何ができるか)のありようを告げ知らせる。
「自己」とはつねに「自己」の欲望であり、
したがって「自己」とは、つねにすでにある規定性のうちに置かれることである。
対象とはつねに「自己」の衝迫-情動との相関者であるとともに、
「自己」の可能性の相関者であり、そのようなものとしてその「同一性」(その何であるか)を示す」

 

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「光の海」20200922

2020-09-22 | Weblog

 

刻まれた光を消すことなく
ただ、光源の意志のままに

どう迎え、もてなせばよいのか
わからなくてもわからなさのままに
光の強度が損なわれないように

混入するノイズ、作為の腕を払って
生きられた光の強度が保たれるように
静かに、ふさわしく光る場所へ

かつて-いま-これから

世界は時間の光を集めた海に浸かっている
ひとしく混じりあう光のカクテルから
つねに予期は生まれ、新しい光が加えられる

光の生成──それは動かせない原理

歌われ、生きられた歌はもう「そこ」になく
位相を移して、いま「ここ」にあって

あの歌があって、この歌があり、
次の歌が生まれ、新しい歌に溶けていく

意味を飾ることはいらない

光の海はそのつど陰影を深くして
すべての光は溶けあい
新たな光源を形成し、生まれ変わっていく

 

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「展開形」 20200921 20200229

2020-09-21 | Weblog

 

展開形のままに──

集合的に保持される世界記述の確定項から逆算するのではなく
みずからの記述形式、身体図式を確定項として固定するのではなく

ただ、「いま・ここ」の展開の拡張可能性、推進力を増すように

あらゆる存在の世界経験は
自前の世界図式、記述形式と並走している

〝わたしにとって〟の世界──

現実をコードする記述形式、日々を生き抜く固有の身体図式
そして固有の意味と価値の固有の配列、すなわち「わたしの世界」

快-不快、肯定-否定、善-悪、真-偽、愛-憎、美-醜

世界にラインを走らせ、分節し、経験を記述しつつ生きる実存の展開
この自明性を破り出るようにからだを動かしてみる

自己記述、他者記述、関係記述、世界記述──「この世はこうなっている」
そう自分に言い聞かせ生きている自分じゃない自分に出会う

そんなことができるのか
とりあえず動いてみる

世界を記述しつつ経験するということ──
経験をトレースしてなんらかの〝結語〟を結び、メモリに刻み
その記述の累積から、教訓を生み、育て、予期と憧れを立ち上げ、
新たな「ありうる」(存在可能)をめがけて駆けている存在

からだはただ一つの装置として、つねに世界と対話している
願っても願わなくても──はじめから、からだは世界に開かれている

聴かれないかぎり奏でられない「からだの声」
心を柔らかくして、耳を澄まし
すべては新たな「ありうる」の展開にかなうように

視線を変更する──なぜなのか

明らかにしておくべきことがある
社会体の本質──確定項の共有、その集積と構造化
ここにはヒトの関係欲望という存在の基底的な欲望の集合的展開がある

集合的に記述された一般命題──「かくある」「かくあるべし」「かくなすべし」
世界記述の確定項群、すなわち合意項・禁則項・許可項の集積としての社会体

社会体が生成する必然性はヒトの欲望の本性にある
けれど、この必然性を逆向きにみれば社会体は「個」の拘束源となる
いままで歴史はこの視線を保持し、動きつづけてきた

この視線を展開形にかなうように再逆転すること──視線変更

社会体の帰属主体としての「個」ではなく
社会体を用在として、ただ展開形としての「個」の本質にかなうツールとして
社会体の更新主体としてのひとり、ひとり──すなわち展開形としての「個」のままに

 

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「ライン」 20200920

2020-09-20 | Weblog

                                   https://www.youtube.com/watch?v=bbLDxEBlaEY

 

グッド、バッド、キレイ、キタナイ、ホント、ウソ

つねに世界にはラインが走っている
ラインを走らせるのはぼくであり、きみ以外にいない

あれかこれか、あれこれ審議するまえに
意味と価値に色づいた世界が描かれ生きられていく

それぞれの理由、それぞれの意味と価値、それぞれの世界
そのつど心深く沈められた確信のカタチにおいて

生きることの地平、ラインは意識するより早く
意識に世界を用意し、新たな企投の地平が開かれる

近づくこと遠ざかること
求めること求めないこと
選ぶこと選ばないこと
つながることつながらないこと

あらゆる作動に先んじて
ひとりひとり、あらゆる作動の前提をつくるように
ラインは走り世界の姿を描き出す

知ること考えることより早く
知ること考えることを導くように

ラインが世界を告げる
ナイス、アブナイ、オーケー、ダメ、ゴー、ストップ

区切られるインサイドとアウトサイド
重なりあうように生成する期待と不安

生きることの条件が与えられる
区切ることと生きること、それが
同じことであるかのように
     
選び、選ばれつづける生きるかたち
固有の世界記述、固有の着生、固有の適応

ひとりひとりの生の代え難さ、動かし難さ、絶対性において
それぞれには生まれ、生きられる理由と根拠がある

「運命、宿命、生の条件」、そんな語り方もなされる
でもさ、そんなことは百も承知さ、そう言ってみる
 
与えられた条件は最後の〝結審〟を意味しない
それは、ただのはじまりにすぎない

それぞれに生きられるラインとライン
出会われる地点、現象するアタッチとデタッチ

ここにいる、そこにはいない、互いが生きるラインがある
けれど、視線はまじわり、なにかが起こる

ラインは世界を教え、世界へナビゲートする
あらかじめ決められた唯一の世界であるかのように

だからこそ、明らかにしなければならないことがある
忘れなでいよう

「それは単なるはじまりにすぎない」

ラインを引くのはぼくであり、きみ自身である
ラインはなんども引き直すことができる

ぶつかるに値するかどうか、逃げなくていい
逃げなければそれがはっきりする

「ラインを引き直すスペースを空けておけ」

生の可動域、生の享受可能性は拡張することができる
決めつけることの潔さに溺れないほうがいい

決めつけられるまえに決めつける
それは決めつけられることと同じことだ

ラインの主語をまちがえてはいけない

ラインに従って「運命」を受け入れる
そんなバカな!といえる位相がある

ぼくたちはラインを示され、教えられ、学び
ただ追認するために生まれてくるわけではない

ラインは引き直すことができる
ラインは動く、動かすことができる

真実絶対、唯一、不動のラインはどこにも存在しない
そう信じて固まってしまったニンゲンがいるだけだ

これが世界のほんとうの姿!

そう断言するニンゲンは例外なく「加齢臭がする」
これは年齢を問わない、子どものなかにもいる

根本原理は、ただ一つだ
世界の生成をになう「ぼく」と「きみ」がいるだけだ

ニンゲンの数だけラインは走っている
ニンゲンの数だけ世界の現われがある

ラインの本質を見極めれば出会えるものがある
ラインは変化する、はじまりの条件は世界を確定しない

これが世界!と決めつける愚か者がいるだけだ

激しく動いても、動かなくても、じっとしていても
新たな世界を描くようにラインはつねに駆けていく

未知の、未踏の、新しい世界、関係しあう世界
はじめて出会う世界、きみ自身がそこに待機している

 

 

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「さかしま」 2020919

2020-09-19 | Weblog

 

世界をさかしまに見ないように

世界から見られるのではない
世界を見つめ返す
世界をこちらから見る視線をキープしよう

「ばかだから」
「ばかでない人間はいない」
「そうかな」
「かしこいふりをする大バカはいる。だまされないように」
「ずっとそう思って生きてきた」
「世界をさかしまに見ればそうなる」
「どういうこと?」
「自分の外からの視線に侵される」
「でもそうでしょ」
「人間の社会は自分をそう見ることを教える。ばかとりこう」
「偏差値とか」
「うん。ゲームを一つに絞ればそういうことになる。
絞りすぎるとゲームは加熱してそれが世界の現実、みたいなカン違いが起こる」
「でもゲームは一つじゃない?」
「ていうか、いろいろなゲームが立ち上がる地平がある」
「なに?」
「ぼくであり、きみであり、すべての人間である」

「でも、そうなりたいと思う知恵のある人はいる」
「わかるよ。でも、それはばかとりこうという話じゃない」
「ちがうの?」
「比較の問題じゃない。みんなそれぞれの生きる知恵をもっている。
みずからを、お互いを生かしあえるように知恵を交換し鍛えあえるかどうか」
「それがほんとうのかしこさ?」
「うん。ほんとうに大事なのは知恵の果実そのものじゃない。
いろいろな果実を育てる土壌が豊かかどうか。あえていえば、それが問題だ」
「土壌って?」
「ぼくであり、きみであり、すべての人間のこと。
人間の知恵には限界があるけれど、限界を広げるのはこの〝土壌〟以外ない。
そのことを知ることがほんとうの知恵と言えるかもしれない。
ほんとうに聡明といえるのは、そういうことだと思うな。
ばかとりこうの順番をつけるゲームとは全然ちがう話だ」

    *

一歩も動かなくていい
動いてはならない、そういうべきだな

はじまりの場所は、はじまりから終わりまで
つねにはじまりの場所でありつづける

きみの生、おれの生、だれかの生
すべての生きるものの固有の場所がある

一つの生命の場所、だれも取って代われない
その場所をキープしつづけること

おれたちはいつも動きすぎる
動きすぎてはじまりの場所を離れ、迷子になる

それだけではない、これまで頻発してきたことがある
そう、固有の生はいつのまにかだれか、なにかに取って代わられる

この倒錯の歴史、変態の歴史はいまもつづいている
動きすぎて起点が消え、この世で一番大切な場所を見失う

あれかこれか、あれでもないこれでもない
まよい、ためらい、さまよい、右往左往する
ゆらぐことは生命であることの本源的な原理だ

けれどもゆらぎ、迷う場所をまちがえてはいけない
みずからの生きる場所を忘れ、否定し、消去したらおしまいだ

その帰結は一つだ──「差し押さえをくらった命」

どんな超越項も介入できない神聖な場所
固有の生以外のなにものでもない
みずからが生き、これからも生きていく場所をキープする

世界が過酷な、惨劇の光景を再演しないように
差し押さえを喰らい、他者にもそれを求めず
相互にそこを生き、生き合う場所をキープして生きるために

変化が変化として、本質的な変化が起こる前提
すなわち、「動かずにそこに生きること」

起点がはっきりと生きられていること
すべての本質的な変化が現象するための絶対的条件 
逆に変化しなでいることも、すべてはそれが条件だ

変化を願う本源的なおのれの欲望
それが立ち上がる場所に居つづけること

同世代の時代、おれにはできていなかった、たぶん
きみにはできている、そう意識しているかどうかは知らない
けれど、そのことにおれにははっきりと見えていたと思う
(比較なんてどうでもいいことだけどね)

その潔さ、覚悟の見事さ
静かに、だれにも言明しない腹のくくりかた

一つだけ注意、蛇足かもしれない
「世界の姿を確定してはいけない」

なぜか

潔さのパラドクスに呑み込まれないように
覚悟を決めることと世界の姿を確定することはちがっている

そこにいることをキープしたまま
みずからのまなざし柔らかくして
そのスコープをどんどん広げていけばいい

ほんとうの知恵はそこでしか得られない
「動かなくていい」
そこにいることではじめて偽物fakeを見分けることができる

知恵者を競うゲームとは全然別の話だ
本質的な生のありかたがそこにある

友はいる、目の前にいなくても
歴史をさぐれば億単位でいるかもしれない

けれど同時代にもいる、この惑星のあちこちにね
それだけは知っておいたほうがいいな、絶対に

 

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「再定義」 20200918

2020-09-18 | Weblog

 

 

 

【ジャーナリズム】

権力の暴走を指弾する天敵を名乗りながら、じつは寄生種を意味する。
天敵というカンちがいを生む擬態こそが、寄生種の最大の生存戦略でもある。
いいかえると、この国固有のビジネスモデルともいえる。
という意味で、この国ではジャーナリズムの再定義が必要になっている。

【ユニクロ哲学、そのほか自称哲学】

「ビジネスピープル」の努力の総和が、最後にたどり着くゴール風景を指示する。
だれ一人幸せにしないこの荒涼感が、ビジネス界の止まらない劣化を象徴する。

【原子力的思考】

「停電は困るが、原子力は嫌だと、虫のイイことをいっているのが大衆である」
(日本原子力文化振興財団)―――
意訳するとつぎのようになる。
「国民益の最大化は思考の埒外だが、おれたちは大衆より偉いに決まってる、なっ」

【全体主義】

全体主義というより、本質的には「一部主義」を意味する。
全体の一部分だけ利してその他を食い散らかすことを目的に掲げられる。
看板に掲げられる最大綱領──「全体は個に優先する」
多様性を憎んで先鋭化する傾向は「日本人化」といった発想に顕著に表現される。
純化され肥大する自我の妄想的高揚感が、論理的矛盾(でたらめ)を埋め合わせる。

 

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「ゲーマー、人類」 

2020-09-17 | Weblog

 


「けずりあう」
「なに?」
「存在をけずりあう関係のモードがある」
「どんなふうに」
「望むかたちにアウトラインを刻む」
「相手の存在のかたちを」
「そう。お互いがお互いをね」
「いけない?」
「それでずっとやってきた。バカすぎる歴史」
「今日もそうしてた。楽しいかも」
「いい加減にしろと思う」
「はあ」
「読み飽きた、見飽きた、聴き飽きた、知り飽きた」
「アルチュール・ランボーさん」
「出発だ。新しい情と響きへ」
「でも、ほかになにがある?」
「うん。抜きがたい現実、話法が席巻している」
「通常運転でもある」
「ゲームは惰性化している。つまり、結果は見えている」」
「でも別のゲームは見当たらないな」
「大事なものが枯れていく」
「でも、それほど現実は甘くないよ」
「甘くていい。もっと甘くなりたい」
「すごいね」
「ああ。ウルトラの甘さで溶かしてみようか、この世界全体を」
「げっ」
「けずりあうよりマシだろ」
「夢ね」
「夢と現実。われわれはその両方を生きる両生類だ」
「だれかが言ったの?」
「ヘーゲルという人。哲学者と呼ばれている」
「両生類か。肺呼吸もエラ呼吸もできる生き物」
「でもふたつの呼吸法が身についていない」
「進化の途上にあるわけですか」
「中途半端なのさ、絶滅するかもしれない」
「そうかな」
「絶滅してもいいけど、その途上でたえがたい惨劇が待ってる」
「それが話法の問題とつながる?」
「そのとおり」
「結局、ゲームは終わる」
「きれいには終われない。たくさんの血が流れる」
「どうすればいいのかな」
「話法、つまりプレーモードを変える必要がある」
「身についたプレーモードは簡単には変わらない」
「ゲームからどんなエロスを引き出せるか」
「新しいプレーのエロス?」
「うん。それが見出されたら話法は必然的に変化する」
「まだ見出されていないって?」
「けずりあうエロスだけしか知らないバカ社会」
「わからないこともない、かな」
「そうじゃない可能性が閉ざされている」
「どうしてだろう」
「比喩としていえば、ゲーマーとして未熟だから」
「ゲーマー!」
「がぶり寄りしか知らない相撲取りみたいな」
「四十八手、それ以上あるのに?」
「押し出してごっつぁんです、だけがゲームの楽しさ、エロスじゃない」
「もっとプレーモードを広げろって?」
「おもいっきりそうしろ。両生類として進化を遂げるにはね」

「どうやって」
「すでに別のゲームを生きている存在はいる」
「どこに?」
「クソメディアが知らない、教えない現実がある、そこにいる」
「ほんと?
「うん。歴史のなかにもごまんといる」
「わからない」
「それが、ほんとうのきみにとっての〝友〟だ」
「言うね。それを探せって?」
「そのことを生きるかたちで示す存在がはいる。この惑星のなかに」
「どこにいるのかな」
「いま、この目の前にもいる。気づけよ」
「?」

 

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「処方箋」 20200916

2020-09-16 | Weblog

 

ここに来ればある特別な情動が喚起される
そんな場所がある

混じりあう成分が定かではない情動のカクテル
けれど、呑み干せば苦しく場所の味がひろがる

あたりまえのありふれた光景なのに
そこだけ時間が止まっている

どんな記述にも収められない情動に誘われ
ただ、からだが止った時間に同期する

別の言い方をしてみる

「症状としての世界の姿」
「何の症状?」

ぼくの心、その現われ
世界の感触、色あい、意味配列

「よくない?」

うん、けっして
処方箋が必要かもしれない

「どんな?」
「希望」

 

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