https://www.youtube.com/watch?v=KUSTPZfeQyc
しつこく「始発点」からつねに視線を逸らさないでいること──
──一次過程──
知覚は動き
情動は走り
世界は開かれ
心は泡立ち
思考はめぐり
言葉はおくれて
かたちを結ぶ
「Alas!」
日々、いま、ここで、
現象する始原の作動
一切の起点をつくり
一切の資源をつくり
一切がリサイクルされながら
一切が更新され
一切がはじまりつづける始原の場所
***
すべては「実存」からはじまっていること。
関係項(関係子)からの規定としての生ではなく、
関係項(関係子)の生成と展開の起源としての実存。
起源であり
起源を生きつづける
いちどきりの、永遠の一回性として、
生誕とともに生成し、死において完全消滅する、
生と死に区切られた〝この意識生〟だけが目撃している〈世界〉。
その固有性、各自性、絶対性、とり代えられない実存の一回性。
──二次過程──
にもかかわらず一般定立された〈世界〉という信憑(超越)において、
関係子をみずから立て、関係し、学習し、試行し、変化するゲーム的身体として、
企投の生涯を駆け抜けていく人間的実存というものの二重化された構造。
この一次二次の二重化し、循環する構造の弁証法展開において動いていく実存。
ということの了解性が多くの「うんこ」を排除する可能性。
そのためにくぐらなければならない、
認識論的誤謬を原理に即して修正し、
「新しい朝」を迎えるために、
潜り抜けなければならない条件と仕事がある。
*
しつこく「始発点」から視線を外さないこと──
いま、ここで、意識のフォーカスは絞られている。
意識は「木」を見ることも「森」を見ることも「世界全体」を見ることもできる。
「宇宙全体」にも「ミクロな構造」にも向かうことができる。
意識の対象化作用──すべてみずからの「訪れとしての世界」に発している。
フォーカスされるすべての存在、思念、真理、客観、正義、価値をめぐる意味的配置と連関。
そしてフォーカスする動機そのものが〈経験としての世界〉を資源とし始原としている。
心的現象の基底、いっさいのみなもとである「始発点」──
それ以上たどることができない端的な所与としての〈世界〉の訪れ。
ポリフォニックな情動を帯電し、意味と価値のスペクトルを含み、
一切の作動の対象と理由が与えられる固有の経験として〈世界〉の訪れ。
対象化され外部化された「木」「森」「世界」「真理」「客観」「正義」──関係項(関係子)としての〈世界〉。
そうしたものの側からの規定として世界を見るのではなく、
「始発点」として現象する心的な構造の側からの規定として、
端的にはすべては生成として現出するということ、そしてその展開から像を結ぶものとして、
「人」「木」「森」「世界」「真理」「客観」「正義」、〈世界〉をフォーカスしつづけること。