ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「新しい朝のために」20190430

2019-04-30 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=KUSTPZfeQyc

 

しつこく「始発点」からつねに視線を逸らさないでいること──

 

──一次過程──

 

知覚は動き

情動は走り

世界は開かれ

 

心は泡立ち

思考はめぐり

 

言葉はおくれて

かたちを結ぶ

 

「Alas!」 

 

日々、いま、ここで、

現象する始原の作動

 

一切の起点をつくり

一切の資源をつくり

 

一切がリサイクルされながら

一切が更新され

一切がはじまりつづける始原の場所

 

***

 

すべては「実存」からはじまっていること。

関係項(関係子)からの規定としての生ではなく、

関係項(関係子)の生成と展開の起源としての実存。

 

起源であり

起源を生きつづける

 

いちどきりの、永遠の一回性として、

生誕とともに生成し、死において完全消滅する、

生と死に区切られた〝この意識生〟だけが目撃している〈世界〉。

その固有性、各自性、絶対性、とり代えられない実存の一回性。

 

──二次過程──

 

にもかかわらず一般定立された〈世界〉という信憑(超越)において、

関係子をみずから立て、関係し、学習し、試行し、変化するゲーム的身体として、

企投の生涯を駆け抜けていく人間的実存というものの二重化された構造。

 

この一次二次の二重化し、循環する構造の弁証法展開において動いていく実存。

ということの了解性が多くの「うんこ」を排除する可能性。

 

そのためにくぐらなければならない、

認識論的誤謬を原理に即して修正し、

「新しい朝」を迎えるために、

潜り抜けなければならない条件と仕事がある。

 

   *

 

しつこく「始発点」から視線を外さないこと──

 

いま、ここで、意識のフォーカスは絞られている。

意識は「木」を見ることも「森」を見ることも「世界全体」を見ることもできる。

「宇宙全体」にも「ミクロな構造」にも向かうことができる。

 

意識の対象化作用──すべてみずからの「訪れとしての世界」に発している。

フォーカスされるすべての存在、思念、真理、客観、正義、価値をめぐる意味的配置と連関。

そしてフォーカスする動機そのものが〈経験としての世界〉を資源とし始原としている。

 

心的現象の基底、いっさいのみなもとである「始発点」──

 

それ以上たどることができない端的な所与としての〈世界〉の訪れ。

ポリフォニックな情動を帯電し、意味と価値のスペクトルを含み、

一切の作動の対象と理由が与えられる固有の経験として〈世界〉の訪れ。

 

対象化され外部化された「木」「森」「世界」「真理」「客観」「正義」──関係項(関係子)としての〈世界〉。

そうしたものの側からの規定として世界を見るのではなく、

「始発点」として現象する心的な構造の側からの規定として、

端的にはすべては生成として現出するということ、そしてその展開から像を結ぶものとして、

「人」「木」「森」「世界」「真理」「客観」「正義」、〈世界〉をフォーカスしつづけること。

 

 

 

 

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「ラングでもなく、パロールでもなく」20190428

2019-04-28 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=5X4xjmk0KzA

 

「ちがうのです」

ソレは、絶対的な正しさ、正義において、真実において、というのではない。

そこにつづられるコトバがいまだソレにとどいていない、触れられていない、

そのことの内なる明証として、心みずから告げるものがあるということなのです

ソレは、ただ、内なるメッセージとして、 確定に向かう記述命題が諭し命じるものに、

諭しの貧しさ、狭さ、命じることの愚かさ、専制を感じる、

わたし自身にも向けられるものとして、

ひとえに、そのことを示す内なる告知があるということなのです。

 

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「ランデブー~多重記述の位相」20190427

2019-04-27 | Weblog

 

アンサンブルには成功も失敗もある。

 

ハーモニーは、非人称的な領域に生成する。

左右のふたつの眼に映る視覚像が重なって結ばれる「立体像」に似て、

ハーモニーという果実を生み出す単一の主体(人称)は存在しない。

 

左右の目のどちらにも帰属しない「立体像」(世界の奥行き)、

そしてアンサンブルのどのパートにも帰属しない「ハーモニー」という非実体的位相。

 

しかしここには重要な逆説が存在する。

 

それぞれ独立した眼の視覚像が重なることで立体像は立ち上がる。

同様に、アンサンブルが生み出すハーモニーは、

それぞれのパートの演奏(単眼視覚)の独立性を条件とする。

 

つまり、アンサンブルの構成主体すべてが自立的で非融合的(バフチン)である時のみ、

逆説的にアンサンブルがめざすハーモニーが創発する条件が整うことになる。

 

ハーモニーの成功は、構成主体それぞれの差異、自立性、独立性、非融合性に対する、

相互的な承認とリスペクト、その自覚的ないとなみを重要な条件としている。

 

相互の独立性の積極的な肯定、そのことの深い自覚がつくる関係態度。

この関係態度がゆるぎはじめると〝第三の音〟は現出の契機を失っていく。

 

左右の眼が重なりあい完全に合体すると「立体像」(世界の奥行き)は失われる。

この融合的一体化への誘惑をしりぞけながら相互の独立性は維持されなければならない。

同じく、アンサンブルには〝固有の視覚像〟を抹消するように働く力学も内在する。

 

超越項としての〝第三の音〟が先行的にアンサンブルを支配しはじめ、

相互の独立性と差異をけずりあうように、

個々のプレイヤーを制御するとき、それぞれの固有の音は失われ、

統制された「uniformity」(全体)に従う一パーツとして機能するようになる。

 

それぞれの内的な複雑さをもつ一人ひとりのプレイヤーの視覚(実存)が消えると、

アンサンブルはその世界経験としての〝奥行き〟を喪失していくことになる。

 

 

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「近接領域」20190423

2019-04-23 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=RlvR6QVrf9g

 

世界に透明な切れ込みを入れてどちらかに足場を置いて自足するゲームではない、

そうした恣意的な切れ込みが溶け出して消えていく、

「敵に不利」「味方に有利」といった仲間の論理、党派論理があずかり知らない、

ささやかで、はにかみを含んだ、しかし巨大な領域がある。

 

対抗的なインターフェイスが融解しはじめる位相は、

つねに潜在しわれわれの生に近接した場所に同伴している。

 

なんらかの「快」が分泌され主体間の界面が活性に導かれ溶けはじめる、

あるいは身構えや警戒や敵意がつかのまにせよ収束する、

同時に、個としての独立性が沸き立ちはなやぐ関係領域。

 

特別なメモリにしまわれた関係の経験の位相が存在している。

 

 

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「音楽」20190421

2019-04-21 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=DEC8nqT6Rrk

 

「暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月」(和泉式部『拾遺』)

   *

すでに一切の資源は与えられ、与えられつづけている。

みずからの外に出ることができない内部にありながら、

みずからに〝外部〟を与える基底的な作動がある。

 

主観は主観の外に出ることができない──

 

このけっして動かすことができない原理から視線を外さないことで、

「客観/真理/正義」──〝ほんとう〟という概念の全系列の位相が変化する。

   *

生成の渦巻きに入り込むという意志の持続──

確定項の指定する記述内容の解除と非知との結託。

 

コトバに先行して、コトバがそこから動機を与えられる、

生成の始原的なドライブはつねに持続している。

 

コトバの切り取りが指定する場所への着地を拒みながら、

始原への帰還をみちびく細い道があることを知る意志のかまえと行為モードがある。

 

いまここにたえず現象している〝生成としての世界〟を告げるように、

「おれ」と「おまえ」、それぞれが生きる位相に承認を与えるように、

相互の非知性、不確実性を享受可能な資源に変換するように奏でられる関係があり、音楽がある。

 

すぐれた音楽はそれを体験する人間に、日常のフレームの再編、〝意味〟の創発、

世界体験の拡張、修正、書き換え可能性、「生のエロス」の享受可能性の地平を開いてみせる。

 

この可能性は、新たな〝発火〟を引き起こす契機として、

みずからそこに加わることが可能なものとして、すべての存在に開かれている。

 

メロディが過剰なとき、メロディが過少のとき、

あらたな音楽の生成のトリガーが引かれる、つねに。

そして、この位相をスコアに書き込むことはできない。

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「インターミッション」20190419

2019-04-19 | Weblog

 

だれにも気づかれることのない、

ただ一人、あなたに用意される、

天使が一度だけ羽ばたきする刹那の秘蹟。

 

インターミッション──それは中断ではなく転調と拡張の原理。

 

小さな休止符が日常の楽譜に書き込まれ、

魂に息つぎする時間が与えられ、

そして、言葉をさがすことが許される。

 

彼女はけっして急がせることなく、

迷える子羊をもてなすように、

小さな沈黙を用意して待ってくれた。

 

秘蹟の時間があつらえられ、天使のもてなしに包まれる。

たったそれだけのことから世界に奥行きがもたらされる。

 

インターミッション──与えあう刹那と礼節。

そこに魂のフリースペースが開かれる。

 

 

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「先生の言葉」20190418

2019-04-18 | Weblog

 

モノには名前がついています。

けれども名前がまだつけられていないものもあります。

そのことを示し語りあうのはとても難しい。

なぜなら名前がないからです。

 

世界は名前のついたものだけで出来ているわけではありません。

そしてそれはモノだけではありません。

 

たとえば、まだ名前のない感情。

ずっと名前のないままの感情というものも考えられます。

ぼくたちはそれをどうもてなしてよいのか、曖昧なままです。

なぜなら、どう語ればよいのかわからないからです。

 

 

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「黒い雲」が湧く 20190416

2019-04-16 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=VNyqlx0--i0

    *

バカタレといいながら、にっこりされると、ぐっとくる。子どものときの記憶。

魂のフリースペースに立ち入らない礼節なのかもしれない。

    *        

正論だ善だと認めても、そこに制圧を感じると、それに抗するように黒い雲が立ち上がる。

(身近な人の名言)

「正論」「正義」「善」が屹立すると光をさえぎられるものがいる。

光をうしなって黒い雲が立ち上がる。それは関係の原理、自然性に根ざすようにみえる。

 

「正論」「正義」「善」によって出口を塞がれてカタチを失い、

ランダム化した情動が黒い雲となって存在をつつみはじめる。

その動向は存在の深い根から発している、ようにみえる。

 

     *

被抑圧、被差別の側にあるものが、善、正義の側にあるのではない。

画然とわけられたオセロのような「白/黒」の陣地戦が世界なら、

人間的価値をめぐる問題はすべてダイコンを刻むように簡単に仕分けることができる。

 

善、正義を前提に語れば新たな〝戦線〟が生まれ、分断のラインが形成される。

この仮象の戦線はたやすく火種となり別の新たな現実をみちびくことになる。

 

そうではなく、端的にそれは「抑圧」であり「差別」であるということ。

その本質は「彼と我」の問題ではなく、単にだれかを守れば済むという問題ではなく、

「われわれ」を結びあわせるパターン「公正 fairness」が傷つけられ、破壊されることを意味する。

 

問題は「白か黒か」ではなく、関係の本質、関係の原理、関係のあり方にある。

「関係の生」と「関係の死」を決する存在同士を結びあわせるパターン、

その本質的な形成の仕方にかかわっている。

     *

最基底にはわれわれの意志(人間固有の欲望)、生成的な関係感情が動いている。

     *

守るべき概念、共有の資産としての理念が生まれるまえに、

それを願い欲する「関係のかたち」があり、

歴史の経験、記憶の累積から導かれる関係をめぐる情動生起がある。

 

それを失くせば「抗争の論理」が顕現するボーダーがあり、

その侵犯を許すことで必然化する〝関係の死〟があり、

さらにそれが招き寄せる酸鼻な闘争があり、ありつづけてきた。

 

そのことの学びと感知、徹底的な回避への意志が存在するということ。

死守されるべきと考えることなく考える意志の自然な湧出があり、

人間だけが抱く「関係の生」に向かう情動があり、意志がある。

     *

それが絶対的な善だという価値が語られるより先に、

内なる「われ欲す」という関係感情があり、そしてその成就と挫折がある。

     *

そこを超えると黒い雲が湧きあがるボーダーラインがある。

雷鳴を轟かせ、豪雨となり、猛烈な嵐となって人間世界を襲うことになる

黒い雲の生成があり、そしてその凝集という現象がある。

 

単層の「白/黒」の見取り図で描くことができない、

多層の、そして新たな層が生成的に積み上がる「関係原理」を生きる存在として、

そして消去できない「抗争の論理」層をみずから含む存在として、

いつでも「黒い雲」が立ち上がる存在であることは、知っておいたほうがいい。

 

 

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「with a necklace of tears」 20190414

2019-04-14 | Weblog

    https://www.youtube.com/watch?v=MT_XtnkuZfg

 

〈偶然とは街〉とだれかが語った

あらゆる偶然を紡ぎながら 必然として生きられる  子どもたち、おとなたちの夜がある

同じ空の下で、おれとおまえが一つ一つ、 すくい上げなければならないのは、かなしい夜

この街が知らず この街が教えることのない

どんな祭壇にも奉げられることのない  かなしい夜がある          (1982、箱崎)

 

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「自由」の感覚 20190413

2019-04-13 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=xn4KUN3yfMg

 

Creative thought must always contain a random component. ──G・Bateson

     *

自由の感覚が沸き立つとき──「包括的全体項」はいったん背後にしりぞく。

世界記述の確定項の一時解除、エポケーの実践的展開、非知との結託。

 

内発する生成性、創発性との遭遇、立ち会い、一体化。

 

新たな「ありうる」(エロス)の確信的予期とともにあること、

しかしそれはあらゆる規定性、拘束性からのまったき自由を意味しない。

 

生の条件のただ中において、それを理由としてそこから立ち上がる、

新たな視覚、新たな言葉、新たな現実、新たな関係のフォーメーション。

 

その予期とともに心的な泡立ちを感覚するとき、

「自由」という言葉を充てることができる。

 

それが美であり、善であり、真と呼ばれるものあるという事後の解釈に先んじて、

ある価値的な創出性として実践的行為に向かう直観が動いている──

 

 

 

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「客観」の用法 20190411

2019-04-11 | Weblog

   *

だれも「主観」から抜け出すことができない。

しかしそのことはしばしば忘れられ、あるいは常時忘れられる。

 

主観Aと主観Bは相互に固有の実存を離脱して入れ替わることはできない。

それぞれの経験の入れ替え不可能性、固有の生の一回性、かけがえのなさを生きるほかない。

 

にもかかわらず、主観内には主観ならぬ「客観」という概念が生成する。

 「客観的に言えば~」──と主観は語る。

 

関係場面において頻出するクリシェ。

みずからのコトバの妥当性や正当性を修飾するクリシェとしての「客観」。

 

主観と主観の関係場面において、相互のちがいや矛盾や対抗を超えることが可能なように、

関係しあう主観すべての納得と了解をめがけるように生成する「客観」という〝関係項〟。

 

「主観の一様態」としての「客観」(ニーチェ)。

すなわち、「関係のゲーム」仕様の主観。

 

「主観」をこえた正当性をもつ位相にあるコトバ、という自己規定。

そのことをめがける「主観」の意思と結びついた「客観」という言葉。

その由来、動機はつねに関係場面において発動している。

 

自己中心的でないこと、独断論ではないこと。

そのことの自己申告としての「客観的に言えば~」という言明。

    *

「客観」という実体(世界)は存在しない。ただし「客観」という信憑、確信は「主観」内に生まれる。

「主観」と「主観」を結びあわせる「関係子」(関係項)としての「客観」(という観念)をもとめる根本ニーズ。

関係世界の関係存在として生きるかぎり、原理的にそれを滅ぼすことはできない。

 

「客観」の用法において適切なありかたを身につける必要がある。

なぜか。「客観」は暴走する──個の制圧、蹂躙を正当化する〝超越項化〟という機制。

関係世界を生きる関係存在に埋め込まれた、もう一つの関係原理。

    *

「客観」という概念の適切な書き換え──「共通了解」としての「客観」。

    *

 

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「関係のモード」20190407

2019-04-07 | Weblog

    https://www.youtube.com/watch?v=kJR1cCSkE0c

 

インターミッション──あらゆる記述のスキマに走る非直列的作動があり、

意味生成の原郷に身を浸すように、始原の〝発火〟に立ち会い、目撃し、沸き立つ位相がある。

 

示されたスコアをたどることで確実にある結詞にたどり着くことができる。

そうではなく、確定した記述が指示するものに帰納されるのではなく、

自由なプレー、演奏、探索的に音を奏でることができるための空隙。

 

ちいさな休止符が日常の楽譜に書き込まれ、

相互に魂に息つぎすることが許された位相──それを与え合う関係のモードがある。

 

記述と非記述の絶えざる入れ替わり、

いいかえると相互的な試行が連続しながら、

休戦状態のまま関係の強度を高めあってゆくプラトー。

非知と出会い生成に向かう意志の強度を相互に蓄え与えあう関係的モードがある。

 

一つの配慮──世界は「待つこと」「黙ること」を学ばなければならず、

すべての関係領域には〝インターミッション(休止符)〟が書き入れられなければならない。

 

 

 

 

 

 

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「桜」 20190406 2014

2019-04-06 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=y_uf1Iih_h0

 

桜の梢は季節と唇を重ねるように

冷たい春の雨に濡れている

 

はるかな時制の扉を開くように

花びらは空に舞っていく

 

光と影に織られて水面はきらめき

まなざしは風景のゆらめきに溶けていく

 

草むらにさざ波が走り

そよ風がせせらぎになって頬を洗う

 

静けさの襞に深くわけ入ると

轟々たるいにしえの風が吹き荒んでいる

 

見上げると遠く点滅を描きながら

渡り鳥たちが空の奥に消えていく

 

永遠の遠ざかりを告げられ

こころは臨界へ向かって動き出す

 

不思議さの高みを駆け上り

透明な舞台が誂えられ

 

ただ、ここに、こうしてあることに

かたちのない召喚がとどいている

 

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