ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「2020、バックパス」 20201231

2020-12-31 | Weblog

 

世界をさかしまに見ると世界が主語になる
世界に主語を与えないように主語をキープする

世界から見られるのではない
世界を見つめ返す
世界をこちらから見る視線をキープする

ひとりひとりそれぞれの固有の生
天も地もない、優も劣もない
とって代わることができない主語の場所がある

ここからまなざしを動かしていく

そうしてはじめて出会い、交換しあえる
まなざしに映る世界の姿をキープする

主語を削りあい、奪いあうのではない
まなざしが映すものを贈り、贈られあう

関係のギフトとして生きられるように

 

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「不定形」 20201230

2020-12-30 | Weblog

 

ここにいない、なのに
いつも、ここに、そこにいる

どうしてなのかわからない

ここにはいない
いないことがインフレを起こしている

すべてに先回りするように
いつも、どこにいても、目の前にいる

ハイパーインフレーション
手に負えない存在過剰

はじまりはわからない
かたちは与えられない

かたちも起源もたどれない
たどれず、記述を許さない未来

わからない、わからなさが加熱する
なにも決めることができない
決めれないまま心は動いていく

いまも、つねに、すでに
空を切る問いが先走りする

かなしさ、せつなさ、息苦しさ

希望と絶望がからみあい
溶けあうように、カオスの淵を駈ける

もういい、かんべんしてほしい

そんなことは言わない、ぜったいに
ほかのだれかに強いられたことではない

すべてはいまここの出来事として
不定形のまま現象している

かたちを定められないまま
心がみずからに与える処方箋
ただ一つのことばがある

somewhere in time

 

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「音楽」 20201229 20191229

2020-12-29 | Weblog

 

実存の基底への一時的な帰還としての音楽体験
われわれは自らのBackstageの反応形式を無媒介的に目撃する

音楽の構成──音、リズム、メロディ、コトバ
用在として使用されるシニフィアンの諸形式

この固有の構成的展開のあいだから立ち上がり
因果的記述がけっして介入できないソレが現象する

連続的な〝情動の発火〟に置き去りにされ
おくれて後を追うことしかできない言葉の群れ

「So long」

音楽が告げる、かなしいわかれのエロス
かたちを与えられない情動の作動について

かたちを与え、言葉で囲むことで遠ざかり
生きられる経験の息の根を止めることになる
ただ襲われ、まみれ、味わう以外にない経験について

そして、そのことを知る他なる存在の心について

 

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「関係のモード」20201228

2020-12-28 | Weblog

 

小さな休止符を日常の楽譜に書き込むように
お互いに魂に息つぎするスペースを与えあう

記述と非記述はたえず入れ替わり
相互の新たな試行が連続しながら
休戦状態のまま強度が高まっていく関係のプラトー

あなたでもわたしでもない
どちらにも帰属しない

お互いの存在を資源としながら
ただ生成的に立ち上がり
生の華やぎを加えていく関係の位相がある

 

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「can be」 20201227

2020-12-27 | Weblog

 

ある日どこかで──

「ある」はつねに「ありうる」をたずさえ
たずさえることで「ある」を編み上げていく

ひとり歩みながら、世界を振り切り
はじき返せないと感じるときも

光が駆けていく方角に
道を空けておくことはできる

帰らない時間から照らされるのではない
新しい光が照らし返すように

決めごとに埋まり
諭し、導く世界に示されない

ただひとつの光源が失われないように
いまここに、心のうちに
光の道を開いておくことはできる

 

 

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「ふたつの記述形式」 20201226

2020-12-26 | Weblog

 

You live in your description of reality.(G・Bateson)


世界に生まれ
世界にまみれ
世界に記述され
記述に規定される「わたし」──記述形式A

記述の形式を逆向きに変換する

わたしに生まれ
わたしにまみれ
わたしに記述され
記述に規定される「世界」───記述形式B

「わたし」のリアリティはふたつの記述形式の二重記述
弁証法的展開から創発し、生きられていく

しかしABは等価ではない

 

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「小学三年生──肉まんの時間」

2020-12-25 | Weblog

 

教えてもらわなくても楽しいことは見つけられます。
つまらないことやイヤなことも、とてもよくわかる。

地球は時速10万キロ以上のスピードで、太陽の周りを回っているそうです。
図鑑を読んで知りました。

知らないこと知りたいことを、自分で知ったり発見するのは楽しい。
知らない自分が、知った自分に変身するからです。
いろんなことを自分で探して発見する方法をもっと知れば、
たくさん変身できるにちがいありません。

ひとつだけお願いがあります。

知らなくていいことを知るために、
ムリに勉強しろというのはやめてください。

知らないことで本当に困れば、きっと自分で知ろうとするでしょう。
知らなくても困らなければ、きっと知ろうとはしないでしょう。

知らなくていいことを知っていることを、ホメルのもやめてほしいな。
ホメラレルためだけのためにがんばると、
頭もお腹も痛くなるし、すごくヘンだと思います。
変身のための時間を知りたいと全然思わないことのために使うのはイヤだし、
すごくもったいないと思います。

肉まんを食べたあとのことは、食べてから考えます。
別のことを気にしすぎると、おいしい肉まんが味わえません。
二つのゲームは、同時にできません。
だから、いまは肉まんを食べることがすべてです。

 

 

 

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「猫と月」 20201224

2020-12-24 | Weblog

 

「こんばんは」

泣いてる?
笑ってる?
ふつうですって?

どんなメッセージを受け取ったらいい?
いらないって?

てがかりはこっちの心のうちにしかないのさ
どうころんでも 通じない相手だからな

おなかがペコペコ
なんかくれそうな予感

さびしくてやりきれない
孤独が身にしみる、ちがうか

ちょっとヒマだから
近づいてみました?

こっちから近づいたからって
おまえが特別というわけじゃない
そういいたいわけ?

わかりませんね

どうでもいいけど
深読みするバカづらが面白いって?

うるせえ黙ってろ
そうだよな

ま、いいや

今夜はきれいな月が浮かんでいる
たまには空を見上げてみな

とりあえずそんなところさ
人間の、おれの限界さ

猫語でなんていうのかな
ありがとうよ 

礼は失わないつもりさ
帰るぜ、元気でな、あばよ

 

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「セッション」 20201223

2020-12-23 | Weblog

 

妥協し折り合うのではなく表現する
みずからの固有の生の経験が告げるもの
それを言葉にする、かたちにして差し出す

「これが世界の本当の姿だよ」とだれが告げる
「そうかもしれないね」と女が応える
「そうじゃねえだろ」と男が反論する。
「それぞれにとっての世界がある」と別の男がつぶやく
「でも世界は一つだよね」と語る男と女がいる

セッションの視線は記述の優劣、真偽を問わない
それぞれの表出、表現の合流する位相を用意する

価値の極相──真・善・美、超越項の探索ではない
どこかに存在する〝ほんとう〟をめがけるのではない

「正解」にたどりつくのではない
セッションの本質はそこにはない

生きられるちがい、異質さ、へだたりを資源として
「いま・ここ」にない不在の経験
そのつどの二重記述、多重記述の場を用意する

多重の記述が奏でる、一人では奏でられない
その場かぎりの〝セッションの音〟の生成を促すために

 

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坂口安吾「教祖の文学」 (1947年「新潮」)

2020-12-22 | 参照

───出典「青空文庫」から抜粋

私は然し小林の鑑定書など全然信用してやしないのだ。西行や実朝の歌や徒然草が何物なのか。
三流品だ。私はちっとも面白くない。私も一つ見本をだそう。
これはただ素朴きわまる詩にすぎないが、私は然し西行や実朝の歌、徒然草よりもはるかに好きだ。
宮沢賢治の「眼にて言ふ」という遺稿だ。


だめでせう
とまりませんな
がぶがぶ湧いてゐるですからな
ゆふべからねむらず
血も出つゞけなもんですから
そこらは青くしんしんとして
どうも間もなく死にさうです
けれどもなんといい風でせう
もう清明が近いので
もみぢのわかめと毛のやうな花に
秋草のやうな波を立て
あんなに青空から
もりあがつて湧くやうに
きれいな風がくるですな
あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが
黒いフロックコートを召して
こんなに本気にいろいろ手あてもしていたゞけば
これで死んでもまづは文句もありません
血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄(こんぱく)なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを言へないのがひどいです
あなたの方から見たら
ずゐぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やつぱりきれいな青ぞらと
すきとほつた風ばかりです


半分死にかけてこんな詩を書くなんて罰当りの話だけれども、
徒然草の作者が見えすぎる不動の目で見て書いたという物の実相と、
この罰当りが血をふきあげながら見た青空と風と、まるで品物が違うのだ。
思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目。
そんな目は節穴みたいなもので物の死相しか見ていやしない。
つまり小林の必然という化け物だけしか見えやしない。
平家物語の作者が見たという月、ボンクラの目に見えやしないと小林がいうそんな月が一体そんなステキな月か。
平家物語なんてものが第一級の文学だなんて、バカも休み休み言いたまえ。
あんなものに心の動かぬ我々が罰が当っているのだとは阿呆らしい。
本当に人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰の当った奴でなければ、書けないものだ。
思想や意見によって動かされるということのない見えすぎる目などには、
宮沢賢治の見た青ぞらやすきとおった風などは見ることができないのである。
生きている奴は何をしでかすか分らない。
何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、
悲願をこめギリギリのところを這はいまわっている罰当りには、
物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。
自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。
芸術とはそういうものだ。

歴史の必然だの人間の必然などが教えてくれるものではなく、
偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当りだけが、
その賭によって見ることのできた自分だけの世界だ。
創造発見とはそういうもので、思想によって動揺しない見えすぎる目などに映る陳腐なものではないのである。

人生はつくるものだ。必然の姿などというものはない。
歴史というお手本などは生きるためにはオソマツなお手本にすぎないもので、
自分の心にきいてみるのが何よりのお手本なのである。
仮面をぬぐ、裸の自分を見さだめ、そしてそこから踏み切る、型も先例も約束もありはせぬ、
自分だけの独自の道を歩くのだ。自分の一生をこしらえて行くのだ。


人間一般は永遠に存し、そこに永遠という観念はありうるけれども、
自分という人間には永遠なんて観念はミジンといえども有り得ない。
だから自分という人間は孤独きわまる悲しい生物であり、はかない生物であり、死んでしまえば、なくなる。
自分という人間にとっては、生きること、人生が全部で、彼の作品、芸術の如きは、
ただ手沢品(しゅたくひん)中の最も彼の愛した遺品という外ほかの何物でもない。

人間孤独の相などとは、きまりきったこと、当りまえすぎる事、そんなものは屁でもない。
そんなものこそ特別意識する必要はない。そうにきまりきっているのだから。
仮面をぬぎ裸になった近代が毒に当てられて罰が当っているのではなく、
人間孤独の相などというものをほじくりだして深刻めかしている小林秀雄の方が毒にあてられ罰が当っているのだ。

自分という人間は他にかけがえのない人間であり、死ねばなくなる人間なのだから、
自分の人生を精いっぱい、より良く、工夫をこらして生きなければならぬ。
人間一般、永遠なる人間、そんなものの肖像によって間に合わせたり、まぎらしたりはできないもので、
単純明快、より良く生きるほかに、何物もありやしない。

文学も思想も宗教も文化一般、根はそれだけのものであり、
人生の主題眼目は常にただ自分が生きるということだけだ。
良く見える目、そして良く人間が見え、見えすぎたという兼好法師はどんな人間を見たというのだ。
自分という人間が見えなければ、人間がどんなに見えすぎたって何も見ていやしないのだ。
自分の人生への理想と悲願と努力というものが見えなければ。

人間は悲しいものだ。切ないものだ。苦しいものだ。不幸なものだ。
なぜなら、死んでなくなってしまうのだから。自分一人だけがそうなんだから。
銘々がそういう自分を背負っているのだから、これはもう、人間同志の関係に幸福などありやしない。
それでも、とにかく、生きるほかに手はない。生きる以上は、悪くより、良く生きなければならぬ。

小説なんて、たかが商品であるし、オモチャでもあるし、そして、又、夢を書くことなんだ。
第二の人生というようなものだ。有るものを書くのじゃなくて、無いもの、今ある限界を踏みこし、
小説はいつも背のびをし、駈けだし、そして跳とびあがる。だから墜落もするし、尻もちもつくのだ。

 

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「記述コード」 20201221

2020-12-21 | Weblog

 

記述コードを書き換える──

「客観世界」の正確な理解、認識の的中率を競うのではなく
「客観世界」という観念の生成的本質を見定め
一切の記述の起点としての「個」(わたし)の場所から一切をたどり返すこと

記述の方向を根本的に変更する──

確立され実体化された客観記述から逆算して〝ほんとう〟を問い、「個」を規定する
そうではなく、記述の方向を逆向きに変換し、すべての客観記述をとらえ返す
世界記述の絶対的起点、世界生成の原郷は「個」以外にはいない
ここから間主観化され、客観化され外部化される世界の信憑構造を明らかにし
客観記述に張り付いた絶対的規定性(超越性)を完全に取り除く
そのことではじめて、記述主体としての「個」という共通了解の道が開かれる

 

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「からだの声」 20201220

2020-12-20 | Weblog

 

システムとしてのからだは、人間の意識を対話の相手とするより
むしろ環境全体がつくる生態学的なネットワーク
関係の網の目としての世界との対話に「専念」している

眠っていても気を失っても、つまり意識が飛んだ状態でも
からだは世界との対話をつうじてつねに自己の組織化を継続している

からだにとって、意識は直接的な対話の相手ではない

意識にとって、からだは一切の思考の起源であり
思考を展開させる母体として存在している

からだとの対話はからだの声を聴くことからはじまる

なんのための対話なのか
生の本質にかなう世界と出会うために
さしあたりそう言っておきたい

からだの声、それが希望
ただ一つ、自由の入り口にあたっている
この入り口をたどらずに、希望に向かうことはできない

うちなる声は聞かれないかぎり
ひきつった言葉の群れに沈んでいく

世界記述、自己記述の確定を急ぐ関係項
社会体があつらえ示す一般解
侵入し混じり込み、かく乱する外部の声

現象する言葉と言葉のハレーション
かき消され、声を見失った心に差し出される結語

「パイは限られている」
「生きるか死ぬか」
「勝つか負けるか」
「遊びは終わりだ」

一義的世界記述から派生する「かくあるべし」「かくなすべし」

現実論理の規定に服すること
現実論理に一切の決済を仰ぐこと

一般解に媒介されてショートカットすれば失われる
はじまりの場所、はじまりでありつづける
まなざしをキープしなければ見失われるはじまりの場所がある

ざわめき、もやもや、いらいら、ためらい、ふるえ、ゆらぎ
うちなる声はいつも記述の確定を拒む表情をしている

ふるえ、ゆらぐものの原郷へ
深くわけ入ってはじめて出会うはじまりの意志がある

すべてノイズとして切り捨てることもできる
耳をふさき口をふさいで
〝自由を呪う道〟もこの世には開かれている

「いやだね」

からだとの対話だけが教える
守るべきマキシムがある

 

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「記述されざる地平」 20201219

2020-12-19 | Weblog

 

世界は記述を確定すること
〝解〟を急ぐものにあふれている

この街のどこにも表示されない
自明性が強権を振るうほど遠ざかる
そうじゃなく生きられている広大な地平がある

「わからないことだらけ」
「うん」

あらゆる記述は記述されざる〝海〟に浮かんでいる
全貌を白日の下にさらすことはできない

わからなことのわからなさをそのままに
そこから遠ざからないでいるために
ぼくたちは意志と知恵を必要とする

世界は自明性、曖昧さを許さない記述にアディクトしている
世界を記述してその姿を確定することに酔いしれている

決めつけ、断定、不動の信念、ぶれなさ、確定記述
〝世界像を確定するしぐさ〟に魅せられる倒錯の構造がある

なぜか──
おそらく不安、不信が先行する世界経験の形式がある

見いだすべき原理は別のことろにある
ゆらぎの地平、生成の位相といいかえてもいい

希望の原理、原郷としての〝ゆらぎ〟

ひとりでキープするのはむずかしいかもしれない
けれど、その意志をもつ〝友〟はかならずいる

非知を非知のままに、記述されざる海に抱かれ
生きるチカラに変換することを知る存在たちはいる

わかることとわからないこと
記述と記述されざることの境界があること

そのことを知りつくしたうえで
わからないことはわからなさのままに
わかりうることはわかり尽くすまでに

つねに未踏の記述をめがけるには
ひとつの意志と知恵がいる

「新たな記述のスペースを開いておく」

つねに〝ゆらぎの地平〟を駆けている友はいる
まなざしを柔らかくして「幽玄に心をとめる」
その血脈は途切れずに生きられている

その友たちの存在と意志に出会わなければならない

 

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「普通の人びと」 20201217

2020-12-17 | Weblog

 

ご近所では、あるいは職場でも評判のいい人である(かもしれない)
面白い人、個性的な人、憎めない人、できる人、冗談がわかる人
お互いに愉快に付き合える、生涯の友、そんなこともありうる

赤の他人がいきなり踏み込んであれこれ言っても仕方がない
ローカルな生活世界の領域

「やっぱ義理と人情」(寅次郎)

ホットな共同体、わが家、仲間、向こう三軒両隣、ローカルな暮らし
イケてる-イケてない、できる-できない、かっこいい-かっこわるい
「そんなのカンケイねえ」のまるごと包摂してくれるホットな関係世界

けれど、人間がつくる関係世界(関係のゲーム)はこの位相だけで完結できない
ローカルの多数性多様性はそのまま関係論理、関係倫理の多数性多様性を意味する

ローカルな価値に照らして査定される「よい人-わるい人-ふつうの人」
そんなこととは無関連に、切り離されてつづられるべき記述レベルがある

ローカル論理に照らして「よい人」は
汎ローカル論理に照らせば「極悪人」でもありうる

そうした逆説の展開としての人間の歴史、繰り返されてきた惨劇
最後にはカタストロフィ、黙示録的状況へ通じる道が口を開いている

異質なローカルとローカルが出会い、交わり、共存を主題とする場面では
ローカルな生活論理、倫理では処理できない知恵と実践的スキルがいる

あらゆるローカルを貫く関係意識、関係態度、関係理念
そしてルール設定がそこでは求められる(一般意志という統制理念)

この記述レベルにおいて思考し、語りあうためには
いったんみずからのローカリティから離脱しなければならない

この離脱には脱ローカルな経験、エクササイズ、学習を必要とする

 

 

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「二重記述 multi-description」 20201216

2020-12-16 | Weblog

 

 「因果交流電燈」(宮沢賢治)の光は交わり
交わりつづけることでカクテルの光となり
いまだここにない生のかたちを照らしだす

二重記述(multi-description)──未記述の地平へ
予期はみずからに走り、生きることの意味を指し示す

いまだ記述されざる地平に子を宿し
母はしたためるように子を産み落とす

ふたつの性の二重記述から
新たな生が創発する

すべてはうちなる「Backstage」の作動に由来している

描かれる絵はキャンバスにとって代われない
子は母を生むことができない

意識主体がどんなに望んでも
「Backstage」の作動に先行することはできない

手に負えない関係状況
糸口の見えない解決法
絡みに絡んだ信念対立
形を与えられない不安
見いだせない存在可能

やがて不可能は聖域化して
諦念が世界を呑み込むように

「C’est la vie」とだれかがつぶやく

万策尽きて、現実論理、暴力原理に席を譲り
悲劇を迎え入れる生のプロセスを歩むまえに

つねにそこにとどまり
ていねいに結んでおくべき
まなざしのフォーカスがある

柵に囲われたヒツジのことば──「これが現実さ」
ピリオドを打つようにどんなに世界を記述しても
みずからの生と世界の姿を確定させることはできない

二重記述、多重の記述へ向かう作動は止まず
作動は意識主体をそんたくしない

呼吸し、代謝し、感じ、欲望する
すべての〝発火〟の原郷があって
新たな光のカクテルをめがける内なる作動がある

 

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