https://www.youtube.com/watch?v=Xs7RC0hAlhw
「比喩として聞いてね。われわれ人間はそれぞれ固有の理解のポッケというものをもっている。サイズ、カタチ、素材、色、意匠、そしてそれぞれに「入れられるもの/入れられないもの」があり、それが固有のスタイル、つまり個性とか人格とか呼ばれるものをかたどっている。どう」
「そうね。いろんなものをポッケに入れるわけだけど、究極的には、世界全体をまるごと自分のポッケに収めたいという欲望をもっているかもしれないな。他者も含めてね。ポッケに収納して完全な理解、いいかえると完全な制圧の下に置きたいと願っている。どうよ」
「ちょっとちがうかな。制圧したい、コントロールしたいということもあるかもしれないけれど、逆に、よりよく理解していい関係を築いて仲よくしたいということもあると思う。ひとことで言えないけどさ。これは余談だけど、最強最大最上のポッケ、〝カミ〟という想定もあるけど、わたしたちはそんなものに頼らないと決めたのね。じぶんを見失わないためにね。だよね」
「うん。そうかもしれない」
「ガチでいうとね、実際にはポッケに収まりきらないもの、それが世界、そして他者でしょ。理解のポッケに入れたと思った瞬間にはもうちがったものとして存在して動き回っている。もっと本質的にいえば、どんなポッケにも入り切らないもののことを、わたしたちは世界、他者と呼んでいる」
「かもしれない」
「ようするに、わたしの理解のポッケは、わたしの理解から〝隔絶〟したものを理解しようとするための道具なのね。だから、最初に〝隔絶〟ありき、なの」
「そもそもこちらの理解の容量オーバーの存在が、世界、他者ということ?キャパを超えているのかな」
「わたし自身の存在も含めてね」
「そうかな。自分のことはちょっとちがうんじゃない?」
「もちろん他人とはちがう。でも理解のポッケは自分という本体の付属品でしょ。付属品が本体ぜんぶを入れることはできない。これは構造的にそうなのね」
「靴ひもを引っ張ってカラダを持ち上げることはできない。そんな感じかな?」
「そんな感じ。この隔絶性、人と人との間に横たわる超えがたい深淵を、なんとかして超えたい、渡りきりたい、飛び越したい。そんな内なる願いが、抑えがたい欲望を抱いて生きているのだと思う、人間って。そのための理解のポッケ」
「でもね。そうした願いを抱くというより、現に飛び越しながらつきあい、仲よくしたり、喧嘩したり、恋をしたり、いろんな関係を結びながらともに暮らしている。なんで?」
「なんでって、それができるからでしょ。そうできるって疑わないからそうできる」
「単なる思いこみ?思いこみで生きているって、ちょっとバカみたいだけど。そうなのかな。疑えよ」
「そうじゃなくて、疑えないように生きているわけ。生きざるをえないのね。なぜかそうできている。疑えない確信みたいなものがそもそもの最初にあるわけです、われわれの心のありようとしてね。たまに、あるいはしばしば〝そうかな〟という疑問は湧いて出てくる。でもね、それは事後的なものなの。疑問が浮かぶためには、疑問を発する根本にある確かさの感触があるからなのね。それやあれとこれとズレてるかも、そんな確かめの根拠が自分の中にあるから疑問を発することができる。どう?」
「ちょっとよくわかんない」
「たとえば、〝すき-きらい〟といった感情は、否応なく、ゴマカシようなく、理解のポッケとは関係なく自分に訪れる。わたしという存在の本体の声なのね。この意識するより先に訪れるものに、理解のポッケは取って替わることはできないわけ。つまりね、お互いの存在が隔絶していようがいまいが、端的に〝すき-きらい〟といった生身の感情は動いてゆく。そしてそれが存在の一番の底、つまり突き当りになっているわけ。隔絶ということは、理解のポッケに収めておきたい関係の本質だけど、それと関係なく感情は動いている」
「まだよくわからないけど。まあいいや」
「本質的に、原理的に、渡り切ることは絶対にできないのね。わかる?そもそもわたしはわたしの外に出ることができない。あなたはあなたの外に出ることができない。ふたりはそれぞれの内なる経験の中にいることしかできない。でもね、お互いの思いが一つになる、という内なる確信をわたしたちは抱くことができる。できるというよりむしろ、さっき言ったみたいにそれは感情や情動のかたちで訪れるといったほうがいいね。否応なくね。あとからそれがカン違いだということがあってとしてもね」
「よくある。毎日かも」
「わたしたちはそれぞれの理解のポッケにいろいろなことを収めながら、それぞれの人生を生きている。そうすることで現実を生き現実を作っている。つまり、超えられない深淵を飛び越そうとする。その試みの連続としての自分を生きていく。日々、小さな納得、あるいは不納得を刻みつけるようにね」
「でもそんなことをいちいち意識していたら疲れない?」
「そう。でもね、そのことを一度だけでもみずから刻んでおくことには意味がある。胸のうち深くね。そうすることで飛び越しかたにある種の〝つつしみ〟のようなものが生まれるかもしれない」
「かもしれない」
「感情の動きにもなんらかの変化が起こるかもしれない。よりましな方向に動けばいいけど。よくわからないけどさ。少なくとも無理やり、頭ごなしに、理解のポッケに収めるような強引さというものは消えていくかもしれない」
「かもしれない」