ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「第三の領域」 20191030

2019-10-30 | Weblog

            https://www.youtube.com/watch?v=BNwBR09Md3Y

 

 

「本日、空は青く澄みわたり、とても心地よい」──

「わたし」の内的経験において訪れる「ほんとう」という疑うことのできないある確信の意識は、

「あなた」という存在が現われ、相互に経験を交換する場面で変容の契機を付与される。

 

同じ経験において、「わたし」とは異なる経験の〝意味〟を生きる「あなた」という存在に出会うことで、

「わたし」の確信の意識はいわば自明性からすこしだけ浮き上がった場所に移動する。

 

あなたにとって、「本日、気分がすぐれず、空はまぶしすぎる」。

それぞれの体験の〝真実〟は疑いようがない。

しかし相互の経験の交換において、それぞれの〝真実〟は行きちがう。

 

体験が消えるわけではない。どちらかが真であり、偽であることを意味しない。

しかし経験を交換しあうことで、体験の輪郭づける意味がゆらぎはじめる。

関係という位相、つまりなんらかの確定を拒む「未規定」の領域が意識内に生成する。

 

未規定性。不確実性。経験の交換における確信のゆらぎ。

このゆらぎの中でなにか、どちらの経験にも属さない第三の位相が萌している。

 

 

 

 

 

 

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「フォーカス」 20191029 20170311

2019-10-29 | Weblog

 

抱かれた希望や夢や善意は、いまも、かつてと同じく

惑星を一周めぐると悪夢に変わっているかもしれない

 

信じた平安や正義が殺戮や拷問を準備することもある

ともに抱かれた〝理想のカタチ〟は滅びの道へ通じているかもしれない

 

もっと遠くへとまなざしを凝らしたオレたちは

地上の幸いを酷薄に見捨てる可能性もあった

 

加担することなく加担し

悪意することなく悪意し

共犯することなく共犯する

 

なにもない空の向こうに心は深く交わり

赤く染まる時間を悲しく受け入れながら

オレたちはほんとうに投げるべき言葉をもたなかった

 

オレたちが感慨を結ぶより先に季節は移ろい

流れる雲はいつの間にかオレたちを追い抜いていった

 

出来事がどんなメッセージをたずさえ

どんな意味を告げたのか 

すべては関係企投、オレとオマエの関係企投にかかわっている 

 

覚えておくべきことがある

──確信や信念の構造はそれ自体で「普遍」を妥当しない

「このこれ」という固有の確信は訪れる

しかしオレたちは確信の多数性が存在する〈世界〉を生きている

 

まちがうかもしれない、そうでないかもしれない

──だが一体何に照らしてそうなのか

──オレたちは何を根拠としてそのことを確かめようとしているのか

 

あれかこれか──どれが正しいかと問えば思考は行き止まりになる

究極解、最終解を問えば信仰の問題になる

 

普遍的に妥当する(オレの)確信という「確信の意識」に留まれば

〈世界〉はバインドされフリーズする

〈世界〉を確定するような最終的な根拠は存在しない

 

一切は確信の意識であることを確認することははじまりにすぎない

解凍してバインドをほどくことの困難さは〝だれか〟に出会い交わることで破られる契機をもつ

 

にもかかわらず訪れる「このこれ」という確信の意識

あるいは「非このこれ」という懐疑の意識

そのことを交換し記述を混じあわせる以外にオレたちは可能性の地平をもたない

 

にもかかわらず──という条件節は無限に循環する

生きられる意味は企投の相互的な関係において現われたり去ったりする

循環の回路を破るには「究極解」を求めることを止めなければならない

 

ひとつだけ確認しておきたい

不可能が〝聖域化〟するまえに

不可能を意志の理由とするために

そこにとどまり、ていねいに結んでおくべき焦点があることを

 

「いったい何だ」

 

悲劇の経緯、悲劇が現象する姿を視界に収めておかなければならない

悲劇の本質、なんどでも繰り返されるその原理的な構造について

悲劇を避けたいと願うなら、それとは別の原理を用意しなければならない

嘆き悲しみ怒り憤ることとは別の作業がそこに待っている

 

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「理解のポッケ」20191028  20190929

2019-10-28 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=Xs7RC0hAlhw

 

「比喩として聞いてね。われわれ人間はそれぞれ固有の理解のポッケというものをもっている。サイズ、カタチ、素材、色、意匠、そしてそれぞれに「入れられるもの/入れられないもの」があり、それが固有のスタイル、つまり個性とか人格とか呼ばれるものをかたどっている。どう」

「そうね。いろんなものをポッケに入れるわけだけど、究極的には、世界全体をまるごと自分のポッケに収めたいという欲望をもっているかもしれないな。他者も含めてね。ポッケに収納して完全な理解、いいかえると完全な制圧の下に置きたいと願っている。どうよ」

「ちょっとちがうかな。制圧したい、コントロールしたいということもあるかもしれないけれど、逆に、よりよく理解していい関係を築いて仲よくしたいということもあると思う。ひとことで言えないけどさ。これは余談だけど、最強最大最上のポッケ、〝カミ〟という想定もあるけど、わたしたちはそんなものに頼らないと決めたのね。じぶんを見失わないためにね。だよね」

「うん。そうかもしれない」

「ガチでいうとね、実際にはポッケに収まりきらないもの、それが世界、そして他者でしょ。理解のポッケに入れたと思った瞬間にはもうちがったものとして存在して動き回っている。もっと本質的にいえば、どんなポッケにも入り切らないもののことを、わたしたちは世界、他者と呼んでいる」

「かもしれない」

「ようするに、わたしの理解のポッケは、わたしの理解から〝隔絶〟したものを理解しようとするための道具なのね。だから、最初に〝隔絶〟ありき、なの」

「そもそもこちらの理解の容量オーバーの存在が、世界、他者ということ?キャパを超えているのかな」

「わたし自身の存在も含めてね」

「そうかな。自分のことはちょっとちがうんじゃない?」

「もちろん他人とはちがう。でも理解のポッケは自分という本体の付属品でしょ。付属品が本体ぜんぶを入れることはできない。これは構造的にそうなのね」

「靴ひもを引っ張ってカラダを持ち上げることはできない。そんな感じかな?」

「そんな感じ。この隔絶性、人と人との間に横たわる超えがたい深淵を、なんとかして超えたい、渡りきりたい、飛び越したい。そんな内なる願いが、抑えがたい欲望を抱いて生きているのだと思う、人間って。そのための理解のポッケ」

「でもね。そうした願いを抱くというより、現に飛び越しながらつきあい、仲よくしたり、喧嘩したり、恋をしたり、いろんな関係を結びながらともに暮らしている。なんで?」

「なんでって、それができるからでしょ。そうできるって疑わないからそうできる」

「単なる思いこみ?思いこみで生きているって、ちょっとバカみたいだけど。そうなのかな。疑えよ」

「そうじゃなくて、疑えないように生きているわけ。生きざるをえないのね。なぜかそうできている。疑えない確信みたいなものがそもそもの最初にあるわけです、われわれの心のありようとしてね。たまに、あるいはしばしば〝そうかな〟という疑問は湧いて出てくる。でもね、それは事後的なものなの。疑問が浮かぶためには、疑問を発する根本にある確かさの感触があるからなのね。それやあれとこれとズレてるかも、そんな確かめの根拠が自分の中にあるから疑問を発することができる。どう?」

「ちょっとよくわかんない」

「たとえば、〝すき-きらい〟といった感情は、否応なく、ゴマカシようなく、理解のポッケとは関係なく自分に訪れる。わたしという存在の本体の声なのね。この意識するより先に訪れるものに、理解のポッケは取って替わることはできないわけ。つまりね、お互いの存在が隔絶していようがいまいが、端的に〝すき-きらい〟といった生身の感情は動いてゆく。そしてそれが存在の一番の底、つまり突き当りになっているわけ。隔絶ということは、理解のポッケに収めておきたい関係の本質だけど、それと関係なく感情は動いている」

「まだよくわからないけど。まあいいや」

「本質的に、原理的に、渡り切ることは絶対にできないのね。わかる?そもそもわたしはわたしの外に出ることができない。あなたはあなたの外に出ることができない。ふたりはそれぞれの内なる経験の中にいることしかできない。でもね、お互いの思いが一つになる、という内なる確信をわたしたちは抱くことができる。できるというよりむしろ、さっき言ったみたいにそれは感情や情動のかたちで訪れるといったほうがいいね。否応なくね。あとからそれがカン違いだということがあってとしてもね」

「よくある。毎日かも」

「わたしたちはそれぞれの理解のポッケにいろいろなことを収めながら、それぞれの人生を生きている。そうすることで現実を生き現実を作っている。つまり、超えられない深淵を飛び越そうとする。その試みの連続としての自分を生きていく。日々、小さな納得、あるいは不納得を刻みつけるようにね」

「でもそんなことをいちいち意識していたら疲れない?」

「そう。でもね、そのことを一度だけでもみずから刻んでおくことには意味がある。胸のうち深くね。そうすることで飛び越しかたにある種の〝つつしみ〟のようなものが生まれるかもしれない」

「かもしれない」

「感情の動きにもなんらかの変化が起こるかもしれない。よりましな方向に動けばいいけど。よくわからないけどさ。少なくとも無理やり、頭ごなしに、理解のポッケに収めるような強引さというものは消えていくかもしれない」

「かもしれない」

 

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「ゲーム仕様の主観=客観」 20191027

2019-10-27 | Weblog

 

心が動く。意識が動くよりはやく駆けながら〈世界〉を告げる作動がある。 意識の先行を許さず、意識に動機を与える内なる作動がある。

なぜか、心が動く──意識の恣意がとどかない端的な〈世界〉の直撃があり、 直撃を受けて泡立つものがあり、そのイベントのただ一人の目撃者としての「私」がいる。

〈世界〉の由来を問うこと自体が無意味であるような突き当りにおいて、 いつも、すでに、意識に先んじてわたしは「経験」を完了させている。

意識は「この世界!」という経験の背後に回り込んで、 みずからの作動の理由と根拠を明らかにすることはできない。「われ感じる」「われ欲す」という始原的現象の裏側に回り込むことはできない。

「この世界!」の訪れという根源的な受動性── 〈世界〉の訪れという出来事があり、その受け止めにおいてはじめて、「私」(主観)は動きだす。

意識主体──根源的な受動性から、事後的に発動する能動性。

泡立ち、色めき立ち、青ざめ、翻弄され、陶酔し、流動し、変化する。 主観(わたし)はポリフォニックな情動が輻輳するみずからの身体において、 気づくよりやはく〈世界〉に没入し、〈世界〉を味わいつつ、〈世界〉にまみれている。

人と人が出会えば必ずなにかが起こる──

〈世界〉にまみれながら、そこに立ちあがる第二の主観。 関係のゲームにおける「ゲーム仕様の主観」、すなわち〝客観〟の位相が主観内に生成する。

関係のゲームの形式と内容をどう捉え、どう生きるか。 〝客観〟の生成が関係的予期、期待と不安にになわれ、関係パターンの相互的了解点をめがける。この位相に対するかまえが関係のゲームの形式と内容を決定していく。

〝客観〟──「ほんとう・正義・うつくしい」という関係価値(ゲーム価値)、意味の系列がそこから立ち上がる位相。主観において、ただ主観のいとなみの中でのみ立ち上がる位相は、関係のゲームという主観同士の世界経験の「多重記述」が現象する位相として生きられる。

「主観は主観の外に出ることができない」── この絶対的な原理の内部にありながら、内的な多重記述に担われ関係のゲームは進行する。

第二の主観の立ち上げから始発する関係のゲーム。ゲーム仕様の主観同士の経験が交わり。この位相における多重記述の連続的展開において、ゲーム仕様の主観=客観も連続的に変容可能性を潜在させながら動いていく。客観をバインドすれば関係のゲームのフレームもバインドされ、関係ゲームはその生成的特性を失い、かぎりなく物理的因果律が支配する位相へ近づいてゆく。

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「共同幻想──〝解〟の求め方」 20191026

2019-10-26 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=Kmilroif-dw

 

いろいろな出来事、関係をめぐり

「みんな」をおもんばかり

「みんな」がすべからくかくあるべし

と、みんながみんな考えるだろう

と、ひとりひとりは考えるだろう

かくあるべし、かくなすべし、かくなるべし

と、だれもが考えるにちがいない、まちがいない

と、だれもが、ひとり、ひとりが推論し、考える

 

思考、情動はつねに「関係」という主題をめぐって動いてゆく。 それぞれに動きながら突き当たる〝解〟がピタリと重なるわけではない。 その重ならなさの感知がさらに〝解〟の極相へと歩ませる。

主観がみずからを抜け出て関係を結ぼうとする、その意志の極点で結ばれる参照項── あるいは関係項としての「みんな」(全体)という関係価値、そしてその諸相。 関係をコードする「関係価値」が生成し、そこから必然的にみちびかれるその極相(イデア)がある。

「ほんとう-よい-うつくしい」(真善美)

価値の極相はつねに姿を隠しながら、つねに関係企投を方向づける無形の参照項として、 つまりはあらゆる関係をめぐる主題を制御するように、そのつど意図せざる総意としての結語(悲劇・喜劇)を現実の歴史に刻んでゆく。

「超越項」か「合意項」か──

サバイバル、その集合的主題化としての「共生」(みんな)が生の前景を埋めるとき、その〝解〟の求め方は二つの道に分岐する。

一つは、「個」をかぎりなく「みんな」に照らして縮小化する〝解〟の求め方、すなわち〝解〟の「超越項」化の道。 このとき「個」すなわち実存の未決性は、〝解〟の記述主体としての「みんな・全体」という項を見出す。

もう一つは、〝解〟を「個」と「個」の「合意項」として鍛え上げ、総意として納得と了解をみちびく道。このとき「個」すなわち実存の未決性は、みずから記述主体としての位置にとどまり、「普遍」という項の生成をめがける。

 

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「関係子の用法」 20191025

2019-10-25 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=cM3v2PeObd0

 

   *

関係のゲーム(関係世界)の結節をなす「関係子」の用法。 それは個の解放としても、個の制圧としても機能しうる。

    *

ルールブックを条件としてゲームは立ち上がる。 しかしゲームの展開はルールブックの記述から演繹することができない。

ゲームの展開可能性、拡張可能性、享受可能性の増大を願うなら、 ルールブックの記述は修正可能性へ開かれていなければならない。

未規定な展開においてゲームは展開する。 展開の未規定性がゲームの本質をなし、享受可能性の位相をつくる。

試行的であること。発見的であること。生成的であること。 プレーヤーそれぞれのプレーの享受可能性は、 ゲーム展開の未規定性と結ばれた新たなありうる(存在可能)と結ばれている。

この位相におけるプレーの展開可能性を確信するとき、 すべてのプレーヤーの「自由」ははじめて沸き立つ。

   *

「個」の当為(なすべし・あるべき)を指定する「関係子」の用法。 この用法を必然化する集団優位の状況性──対抗・防衛・戦争・サバイバルという主題の前景化。

関係のゲームはこのとき危機と不安、不信と敵意に覆われている。 関係子はすべてのプレーの方向を指定し司令することで対処する──〝大義〟との一体化。

全プレーの完全記述──プレーの全域を確定するように記述されるルールブックの聖典化。

「当為」(なすべし・あるべき)がこの位相を埋めるとき、 事前に規定され指定されたプレーに従うとき(強いられるとき)、 享受可能性に開かれたゲームの本質は失われ「人間的自由」は窒息する。

「当為」が世界を埋め尽すとき、ゲームの創発可能性(自由の展開)は消失する。

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「時間化」 20191021

2019-10-21 | Weblog

 

「いま、ここ」という生の経験は、つねに時間という秩序をたずさえている。時間的秩序としてトレースされ、経験の全プロセスを畳み込んだ「いま、ここ」。

ただ生きられるだけではない。時間はそのつどの心の泡立ち、情動に染まり、混じりあい、溶けあい、次々に色あいを変化させてゆく。われわれはある時点的に切り取られたデジタルな「いま」ではなく、過去-現在-未来という〝時制〟の重なりにおいて色づいた世界以外の世界を経験することができない。

生の経験はつねに時間と連れ立つ感情、情動、そのつどの生成と重なりから新たな色合いに染まり、染まってゆく。

それぞれにおいて生きられ形成される時間的秩序──その固有性はそのまま「生きるかまえ」をプレゼンテーションしている、ともいえる。固有の時間的秩序としてみずからに示される価値と意味の配列。大事なもの、めがけるもの、保持すべきもの、捨てるべきもの、唾棄すべきもの。心的所与の諸相はすべて固有の時制を帯びて、みずからに現出する。

──〝永遠の遠ざかり〟という、ある生の意識として経験される意味。〝絶対に戻らない時間〟という内なる情動が告げる経験の本質。死に別れ、生き別れ、だけではない。帰ってこない時間、それは、つねに、いま、ここに生きられ、これからも生きられていく……。

たとえば、そのように感じる「生のかまえ」があり、世界を、みずからの生を、そのように経験しつつある固有の生の主題がある。そのつどの情動が告げ、時間的秩序性において現われる〈世界〉と関係的に存在する「私」の、「だれか」の、「それぞれ」の「いま、ここ」がある。

かつて-いま-これから。ふりかえること、遠くをみやること、そのすべては「いま、ここ」の出来事として現象している。「こころの文法」は情動の生成とともに時制を分泌し、時制の秩序性において世界を記述し、記述された経験の意味の配列、その時間的な重なりに照らされる「いま、ここ」。そして「いま、ここ」から始発する新たな価値と意味の生成へ向かう試行的展開がある。

 

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「コール-intermission─レスポンス」 20191020 

2019-10-20 | Weblog

            https://www.youtube.com/watch?v=bIwHUQOGR_0

            https://www.youtube.com/watch?v=0NPuJdV49NY

 

   * 

「呼びかけ」がそのままダイレクトに、線形的に「応答」を引き出すわけではない。単に「ああ言えば、こう言う」のではない。コールはつねに「私」の内なる圏域をくぐってレスポンスが導かれる。 

コールとレスポンスをつなぐもの──feelが動いてthinkに火を灯す、その場所、インターミッション。 

みずからにも全貌が明かされない内なる経験──留保、逡巡、迷い、解釈、理解、判断、了解、否認、決断、あるいは翻訳、変換、マッピング。そこで合成され輪郭を整えたかのように世界が姿をみせる、すべての、はじまりの場所。この場所が一切の「価値」と「意味」の配列が生成し、更新される圏域にあたっている。

だれかの声、コールがする──サイエンスのまなざしにとっては単なる物理的な振動にすぎないものが、意味として、固有の価値を帯電した意味、一つの意志が運ぶメッセージとして受信される。ともに生きる意志と意志が出会うと確信(信憑)された圏域において、混じりあって、新たな意味と価値が合成される場所、インターミッションの気圏。

人間的関係世界の生成と展開、その意味と価値の生成の起点であり、消失点でもある、intermissionの位相。関係のゲームの価値的、意味的展開を駆動する起源でありつづける人間的生の位相。 

コールはレスポンスと線形的な、デジタルな接続関係にはない。もしそう見えるとすれば、致命的に大事なことが見失われている。関係世界における〈世界〉の生成性、人間的価値と意味の配列をめぐる根源的な創発性、そしてその無限性。関係企投、関係了解の無限性と展開可能性、そのこと完全廃棄、自死につながる決定的な錯誤性。

 

   *

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「Another Galaxy」 20191019

2019-10-19 | Weblog

 

      *

 内部観測と外部観測は相互に照らし合い、

 交わる光のハレーションになにかが兆す。

       *

 「かくありき」から「かくありうる」へ。

虚無と諦念はある地点で刹那に破られる。

 

シグナルの無限連結が偶発的な転移を用意し、

エロスの奔流は超出への「窓」を開いていく。

 

エモーショナルな走査線が風景を走り抜け、

一回的コンテキストが次々にピックアップされる。

 

期待の地平線が開示されるとき、

システムには光度が増していく。

 

 相剋と蹉跌に打ちひしがれるとき、

 新たなコードの創発が強いられる。

 

システムは絶えざる流動に晒されながら、

未踏の均衡点を際限なくめがけていく。

 

 応答され応答するものの属性において、

 巡航速度はキープされなければならない。

      *

 

 

 

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「一次過程と二次過程」 20191018 20170619

2019-10-18 | Weblog

                   https://www.youtube.com/watch?v=kUBjnfRn3SY

 

「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象にする。これが宗教の秘密である。」

「神を富ませるためには人間は貧困にならなければならず、神が全であるためには人間は無でなければならない。」(ルートヴィヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』船山信一訳)

 

 一次過程──一切のはじまり、起源としての主観内に現象する〈世界〉の訪れ、生成という心的体験。知覚、情動の始原的生起、そのことへの配慮としての自己意識の起動。さらにその展開としての「関係項」(コトバ)を介した第二次の関係的プロセス。

二次過程──心的体験の交換プロセスにおいて主観内に生成する間主観的位相。関係存在としての生が要請する関係項(客観)。すなわち、主観と主観が交わるために必然化される客観=「主観の一様態」(ニーチェ)の生成。すなわち主観と主観との交渉、調整あるいは相互的な了解形成を媒介するための関係項(コトバ)の生成。

一次と二次の循環関係(二重性)として動いていく心的体験は、主観内においては主観(実存)と間主観(普遍)の弁証法的展開(関係構造)として経験され、その集合的な現実の表現型として〝社会〟を形成する。「客観」(関係項)の生成、そして「客観」(関係項)に媒介されて創発するさまざまな関係のゲーム。 

一次と二次の先行関係、根拠関係が見失われると、客観という関係項は超越項(絶対項)という怪物(カミ)の属性をもつものに変異し、相互に対等な関係において納得や妥当、相互的了解を生み出すための役割の地平を離脱する、ということが起こる(共同信憑)。すべての個(実存)から独立したポジションを与えられ、すべての個(実存)を呑み込むように価値下落させ、命令し制御する中心として機能しはじめる、という歴史的展開プロセス。

 

 

 

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「Fragile」 20191017 

2019-10-17 | Weblog

           https://www.youtube.com/watch?v=T5al0HmR4to

 

アレはアレ、コレはコレ、ソレはソレ、アレとコレとソレ以外ではありえない──

世界は記述の確定を急ぐものにあふれている。

ゆらぎ、とまどい、まよい、ためらうものの痕跡を消し去るように、みずからもそのようにふるまってしまう。だれに、なにに、なんのために。いったい、なぜ。はじめから決められていたことのように。なにごともなかったかのように。なにかの、だれかのそばにいる資格を手にするために、みずからを捧げる、かのように。

この街が示さない、この街が知らない、どの街のどこにも記述の痕跡をみつけることができない、生きられている時間、ひとつひとつが静かに消えてゆく、しかしたしかに生きられ、生きられつづける位相がある。 

ゆらぎ、とまどい、まよい、ためらい。ある記述への移行に、記述から記述へと向かうことのあいだに、ふるえているものがいる。アレ、ソレ、コレと指示するシニフィアンの明証性、明示的な意味の輪郭を拒むように。

 

 

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「Another Galaxy」 20191016

2019-10-16 | Weblog

                  https://www.youtube.com/watch?v=XmpaSADK1mY

 

     *

ここにこうしてあること―あらぬこととの距離において、

可能性のエロスがシステムに時制を滲ませる。

      *

かつて-いま-これから──

訪れる経験はつねに時間の秩序をたずさえている

 

新たな風景へ向かうまなざしの作動には、

いつもすでに遠い面影が忍び込んでいる。

 

単時点における状態の立ち上がりには、

時間の厚みと広がりが連結されている。

 

システム全域を覆う絶えざる流動の波頭は、

時制の介入によってはじめて意味を獲得する。

 

時制の両極からのまなざしの照射によって、

システムの巡航速度は照らし出されていく。

 

システムは不可抗の誘いと衝迫に包まれながら、

こうしてあることへの惜別を準備している。

 

意思の発動はつねに非知の作動に先行され、

訪れとしての体験には固有のfeelが刻印されていく。

 

システムは参照可能な全履歴をたずさえ、

新たな企投とビジョンの創出をめがける。

 

変わることと変わらないことのゆらぎにおいて、

システムはつねに非線形的分岐に遭遇している。

 

システムの作動は抗えない宣告に準じる苛酷して、

たえざる創発をめがける祝祭として現象していく。

      *

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「子供時代」20191015 20181016

2019-10-15 | Weblog

               https://www.youtube.com/watch?v=Z68aSTF6DGs

              https://www.youtube.com/watch?v=G1HSwRM1Ca8

 

 

             

これはこれ、あれはあれ、それはそれ。かくあるべし、かくあってはならぬ──〈世界〉を教える記述命題のつぶてが嵐のように毎日「あなた」を襲っている。 

日々の生活は、同時に、〈世界〉へのガイダンス、オリエンテーションとの遭遇の連続でもある。ただし、ガイダンスやオリエンテーションそれ自体が〝ほんとう(真)〟であることを承認する理由も、それを否認しうる確かな根拠も「あなた」はもっていない。しかし理由も根拠ももたなくとも、そのつど決するものがいる。 

〝ほんとう〟とはなにか。求める心。心は求める。求めとしての心。問いはその果てに「最後の答え」、〝ほんとう〟を求めている。どこに、なにを、だれが、なにが、それをそれとして、「最後の答え」とするか。決するのはすべて、考えるよりはやく決する「あなた」がいる。そして解はそのつどの状況において現われるともいえるが、しかし「最後の答え」、その不在はそのまま保持され、求める心が生きられてゆく。 

学習は二重の対話として、内なる声、外なる声、拮抗する力の対話として進行する。「快-不快」を分光するみずからのカラダが示すものと、「よい-わるい」を指定し、ほほえみと怒り、やさしさときびしさ、許しと禁止のコトバを投げかける「母なるもの」との対話。 

この二重の対話は合流して「言語ゲーム」として展開してゆく。二重性から生成する、葛藤・不全・不安・いらだち・焦燥・怒り・悲しみ・懐疑、そして親和・歓び・楽しさ・期待・発見・いやし・安心。この世界に生きてゆくかぎり、「あなた」はそのつど結語をみずからに刻んでゆかなくてはならない。 

いつか、ある時点で、学んでおきたいことがある。

多様な学びの存在、その可能性と不可能性について。あることを学びうることと学び損ねることの偶有性。学ぶことの幸いと不幸について。そのことの了解と〈世界〉をめぐる意味と価値の生成と消滅の可能性、その位相を成立させている普遍的な「本質」、求める心の本質について。

とても大事なことがある。二重の対話に刻まれるべき了解と納得、肯定的な関係の快(エロス)、よろこびの深さについて。そのことをどこかで学び、深く基底に沈めること。沈めることができなければ〈世界〉は嵐が吹きすさぶ不安の海になる。そのことについて。

なぜか。「あなた」のうちに多くの存在を招き入れるために。そしてそのことの了解から導かれる新たな〈世界〉生成と合流可能性について。

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「競争原理」 20191014

2019-10-14 | Weblog

                https://www.youtube.com/watch?v=e1sZVdw4RcI

                https://www.youtube.com/watch?v=AQVxRZJF3Bk

 

アレ!ソレ!コレ!──どんなに切実に説得的に焦点化をうながされ、さとされ、指示され、命令されても、目を逸らしてはならない、外したら消えてしまう、キープされるべきまなざしのスコープがある。

    *

競争ゲーム(あるいは現実論理)。ひとつの達成が新たな競争の水準点として再設定され、連続的に再起動される。そこで実現されるはずの「ゆたかさ」「ゆとり」は、次なる競争のステージの資源として再投下される。

終わりのない水準点の再設定の連続として、相互に達成(エロス・よろこび)を相対化し資源化していく循環と高度化の回路。プレーし勝利することのエロスと達成がただちに、味わういとまなく、新たに次々にセットされるゲームへ向けてリサイクルされる。プレーヤーたちは過呼吸の症状に襲われるように、没落のおそれと不安によって駆り立てられていく。

競争からの脱落、プレーヤーとしての資格喪失、生の没落という不安と恐怖。勝者も敗者も、もてる者ももたざる者も、等しく没落回避に向けて走りつづける。すべてのプレーヤーが没落回避という強迫に追い立てられて生きる日々、その構造的一元化。

この循環の回路をエンジンとするシステム的作動の中で、「さいわい」をつかむことができたと信じた時点で、つねに、ただちに、次のステージに向けて再起動を強いられていく。永遠に「さいわい」を先送りされる回路の全域化。没落と不幸から逃れることを駆動のエンジンとするシステム、その閉じた構造の中で展開するゲーム。 

仮に、この回路を人間の「さいわい」にとって適切に作動させるには、あるいはこの回路の正当性、妥当性を根拠づけるためには、別の回路──ゲームを離脱することが「少しも不幸ではない」回路へのまなざし、ゲームの多様性と生成性、その実践的な展開と支え、そしてそのことの集合的な共通了解を必要とする。

 

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「Call -Response」20191013

2019-10-13 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=CoNkqBabL4E

 

透明な回路を開いておく。相手を選ばず、黙って。目の前に現われるものが〝敵〟だと感じられても。なぜか。〝発火〟の原郷をみずから閉ざさずに生きるための、それが条件となる。

生成するものの本質、メカニズム、その由来をたどりつくすことはできない。ただ経験が示すものとしかいえない。ただ予期として、直観として訪れるものが告げる。開いておけ、と。

フォーメーションの連続的な接続展開の結び目に、わずかなスキマが存在する、という新たな直観が動くことがある。選択に出会う──あれか/これかという単純な選択肢の提示ではない。ある種の「自由」の感覚、新たな記述が許されたフリースペースがそこに生きられる。経験の未踏の、未決の、拡張可能性が開かれるスキマ、あるいはトビラのようなものとの遭遇。

「私」というフォーメーションの、魂と呼ばれるもののフリーハンドを許す、新たな「ありうる」が点滅する第三のエリア。呼びかけると応答するものがいる、その相互性そのものが生成の本質であるように現象する位相がある。

この位相を見逃すと、〈世界〉は「手のほどこしようのないもの」、あるいは「なるようにしかならない」ものとして現われ、因-果連関の必然的展開としてだけ、ただ世界は無機的な存在同士の接続連鎖としてだけ記述されることになる。

 

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