人間と人間の間に起こる同じ出来事について語られている
一人は「間主観性」とよび、もう一人は「二重記述」とよぶ
異質な存在と存在が出会い、交わり、対話し、混じりあい
どこにも存在しなかった、ひとりのままでは見ることのなかった
第三のカクテル空間、関係の地平に創発しつづける〝ことば〟について
哲学者はいつも状況のなかに置かれ、個性化されているのであり、
だからこそ、彼は対話を必要とするわけです。
彼がおのれの制限を飛び越える最も確実な手段は、
他の状況(他の哲学者・他人)との交渉のなかに入り込むことです。
フッサールが晩年に書いているように、
最終の・哲学的な・究極の・根源的な主観性、
つまり哲学者たちが超越論的主観性と呼ぶものは、
間主観性(intersubjectivite)にほかなりません。
(M.メルロ=ポンティ「人間の科学と現象学」『眼と精神』滝浦・木田訳)
そして関係とは常に、二重記述の産物である。
相互作用に関わる二者は、いわば左右の眼だと言ってよい。
それぞれが単眼視覚を持ち寄って、奥行きのある両眼視覚を作る。
この両眼視覚こそが関係なのである。
この発想に立つことは、大きな進歩である。
関係とは、一個の人間の中に内在するものではない。
一個の人間を取り出して、その人間の〝依存〟だとか〝攻撃性〟だとか
〝プライド〟だとか云々しても、なんの意味もない
これらの語はみな人間同士で起こることに根ざしているものであって、
何か個人が内にもっているものに根ざしているのではない。
(G.ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳)
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太陽のカクテル光線が大空の水蒸気にぶつかり、「虹」が現象する
さらに、だれかのまなざしが虹とカクテルされて、「歌」が生まれる
somewhere over the rainbow
朝の光に洗われ、風にゆれ、コスモスの花があなたの瞳に交わり
心の変換規則に出会って、一つのアンサンブル
いちどきりの情感に濡れた「秋の光景」がそこに生まれる
ふたつの性の二重記述から
いまだ記述されざる地平に子を宿し
新たな記述をしたためるように、母は子を産み落とす
ひととひとが出会えばなにかが起こる
メッセージが交換され、結びあわされ、積み重なり
ふたつのことがひとつのことして融けあい
固有のコンビネーションパターンが生まれ、動いていく
このパターンを言語的にコードしたとき
「愛」として「憎しみ」として記述される
すべてはひととひとの間を原郷として
心に現象する出来事として
真理、正義、客観と名付けられたものすべて
すべてはあいだに開かれる関係の地平に芽吹き
ひととひとを結び合わせる関係項(子)として創発していく