ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「世界記述」20240331

2024-03-31 | Weblog

 

 

 われわれの生活の中では、知覚はおそらくつねに部分の知覚である。
 部分を知覚して、そこから全体を推測する。
 そして、後に他の部分が提示されるに及んで、
 その推測が確証されたり、崩されたりする──すべてその繰り返しである。
 われわれの前に全体が提示されることはあり得ない。

              (G.ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳)


けっして全貌を現わすことのない世界、他者
存在の全域をくまなく知覚に収めることはできない
この想定が、つねにことばに修正を促がす起点をつくる

確信は訪れ、ことばは記述の確定を急ぐ
にもかかわらず修正の契機はつねに保持される

まよい、ためらい、とまどい、ゆらぎ

想定された全体への接近を願い
ありえない成就を求めながら

記述の確定を決して許さないように
かたわらにはつねに未記述のエリアが付き添っている

 

 

 

 

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「メタファーの翼」20240330(20240303)

2024-03-30 | Weblog

 

 

真摯な精励の日々を疑うことはない
そのうえで一つだけつけ加えたいことがある

鍬を入れる場所はそこだけではない
耕して掘り進む無限の作業エリア、空域がある

地にありながら空域を翔けるニンゲンの翼があって
メタファーの翼と呼ばれている
翼はこんなふうに羽ばたいて歌を歌う

 かいすいよくすなやまかいがらすいかわり (小一女子)

メタファーの翼が羽ばたくには条件がある
正と負、ソフトとハード、此岸と彼岸、なんでもいい
あれかこれかではない、二つのまったく異質な世界が等しく出会い
ぶつかってはじめて空域を照らし出す発光が起こる

そうしてはじめて開かれる未踏の飛翔ルート
全時間、全方位へ向かうオープンエンド
メタファーの翼が自由に翔ける空域が現われる

一つのサークルの円周内に留まればこの空域は消える
サークルに穴を空けて開口部をあつらえておく
二重の発光、多重の発光が連続して現象するように

 

 

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「博多っ子@博多駅」 20240330

2024-03-30 | Weblog

 

 

春、仲良し三人組とプラス、ワンボーイ──
ひとりひとり、別れのことばを交わしながら
卒業して故郷へ帰る一人の娘を見送るためにホームにいた
列車に乗り込む娘が、刹那、親友の二人につぶやいた

「ねえ、一緒に行かない」
「鹿児島まで?」
「うん。行こうよ」
「だって手ぶらだよ」
「いいじゃん、ねえ」
「う~、行っちゃう?」
「行っちゃうか?」
「行こう、行っちゃえ」

あっという間の出来事だった
三人は一緒に列車に乗り込んだ
呆然と感動しながらホームに置き去りにされた一人に
三人は笑顔で手を振りながら出ていった

 

 

 

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「一つの問い」20240329

2024-03-29 | Weblog

 

 


知に憧れ、知に加わり、知を学び、知を競い、知を誇り
知の高みに昇ったつもりで無知を見下ろし赤ペンを入れる

俺たちはこのルートに入って抜け出せない歴史の中にいる

知に染まり、知にまみれ、知に毒され、知に呪われ
日々、赤ペンを入れ、赤ペンを入れられる

白紙のままに生きることは許されない
赤字だらけのことばを交換しながら白紙を埋めていく

(一つの仮想の問いが浮かぶ)

はるかに遠いいつか、知の限界線を目撃して
赤ペンを捨て、このルートの外に出る日が訪れるのか

もしそうならそのとき
知はどんな形態で生き延びるのか、否か

 

 

 

 

 

 

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「ゲーム世界」20240328 20240212

2024-03-28 | Weblog

 

 

 

ストライクとボールがゲーム空間を構成するように
天使と悪魔がカップリングして一つのゲームが生まれる

天使化が起こると即時に悪魔化が起こる
ただちに絶対的分断線が走り
呪われたゲーム世界が姿を現わし、プレーが開始される

天使の側に配置される「正義、真、善、美」
悪魔の側に配置される「不義、偽、悪、醜」

このゲーム世界で「人間」は消え、天使と悪魔だけになる

ゲームの呪いに吞み込まれ
俺たちはいつのまにか、天使の側に身を置いている

もしも、人間でありつづけたいと願うなら
呪縛をほどき切って別のゲームを創出しなければならない

 

 

 

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「やさしい光」20240327 20230623

2024-03-27 | Weblog

 

 

ことばが侵入できない先史時代が終わり
ユーフォリアの記憶を深く沈め
万事オーケーの地層を抜け出る

きみの紀元ゼロ年
真理も正義も悪もないはじまりの頃

このうえなく大事な主題に出会う──
無力な生の意志が願うもの、不安の全解除

からだに刻まれた快と不快の文法
シンプルな探索装置にスイッチが入り
生きる意志がぎりぎりに世界をスキャンする

やさしい光を求めて心がハンティングを開始する

幼い心が願い求める最大の生の報酬
だっこ、愛撫、存在まるごと抱きしめられること
全肯定、全承認、全的受け止めの地平を生きること

この主題は心の一番深い地層をつくり
生涯にわたって変化しないまま生きられていく

 

 

 

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「実存、未決の系」20240326

2024-03-26 | twitter

 

 

 文法家は好んで文を一つの完結した系と考える。
 しかし、われわれが一つの文を言い放ち、それが虚空に漂い去るのを、
 あたかも煙草の煙の行方を追うように、ただ眺めていることは、ごく稀である。
 文は、つねに次にくる何ものかを予想している。
 会話においては相手の文を、命令においては行動を──。
 ひとりぼっちで長い文章を綴る時ですら、文は先行する文章を承け、
 次の文章を喚起してゆく。いわば対話的構造が潜在的に存在している。
 数学の証明ですら対話的構造をもっているといえるのではなかろうか。

             ──中井久夫「統合失調症の言語と絵画」

 

そこにいない応答する相手を心は追いかけている

なんらかの応答、返信のシグナル
願わくはよりよき応答
よりさいわいの方角へ誘う声を求めるように

かたわらにはいつも
待ち受けのフォームが付き添っている

途切れない無声のダイアローグ
ひとりでは完結しえない未決性
実存がひそかに携える普遍的モード

かなってもかなわくても
どれほど失望に沈んでも

わが身に限りなく近接した場所から
全時間全方位へ向かう透明なリンクの糸が伸びている

 

 

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「他者」20240325

2024-03-25 | Weblog

  

 

 他人のことを「理解した」と信じて疑わないのは、 
 そもそもの対人関係が萎え干乾びている者だけである。

     ──H.S.サリヴァン『精神病理学私記』阿部・須貝訳


 現実の他者は、まず、私に対して、たえず他なる主権的他者(他格)として
 自らを表現しつつ向き合ってくる存在である(たとえ、いたいけな子どもであっても)。
 すなわち、その表情、言葉、振る舞い、行為を通して、つねに一つの意志、感情、人格、
 あるいは精神として、その主格性、内的主権性を私に現わす。

 そのことで他者は、私に対して要求-応答関係を開く存在となる。
 他者はそうした仕方で内的主権性を表出してくるが、
 しかしそのことで存在の全体を示すことは決してない。
 
             ──竹田青嗣『新・哲学入門』2022

           *

非知性、未知性、不可知性、知られざる全域性
測りがたさ、汲み尽くしがたさ、そしてその相互性

相互に隔絶して生きる存在同士であること
お互いがお互いにとって他者であることの了解

この了解に留まることを拒む心は開始する
すなわち互いにそうであることの乗り超えの試行

心はみずからに開口部をあつらえ
他者へ向かうルート、ことばの通り道を開く

ことばに託されたシグナル群と交換ルートの敷設

相互の試行が合流するという確信の訪れを求めるように
切り開かれていくことばの応答と交歓の位相がある

 

 

 

 

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「新しい朝」20240324

2024-03-24 | Weblog

                                                                            上妻宏光 -  暁の光 MUSIC VIDEO (youtube.com)

                     Blown Away (youtube.com)

 

 

朝の光に火を灯され
泡立ち、駆け出そうとするものがいる

ことばに手を掛ける手前で生の波形が動いている

願ったもの 願わないもの
求めたもの 求めないもの
見たいもの 見たくないもの

かたちを定められないまま
すべては心の水面に現象している

わからない
つなぎ合わせる糸が見つからない

「どうしたらよいのだろう」

朝の光が告げる──
一つの意味に収めることはできない

ことばは走りやすく、行きすぎ
生の波形とすれちがってしまう

新しい朝を迎える作法がある

記述の手を休め、心を柔らかく
光が満ちる時間と場所を開いておこう

 

 

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「間主観性、二重記述」 20240323

2024-03-23 | Weblog

 

 

 


人間と人間の間に起こる同じ出来事について語られている
一人は「間主観性」とよび、もう一人は「二重記述」とよぶ

異質な存在と存在が出会い、交わり、対話し、混じりあい
どこにも存在しなかった、ひとりのままでは見ることのなかった
第三のカクテル空間、関係の地平に創発しつづける〝ことば〟について


 哲学者はいつも状況のなかに置かれ、個性化されているのであり、
 だからこそ、彼は対話を必要とするわけです。
 彼がおのれの制限を飛び越える最も確実な手段は、
 他の状況(他の哲学者・他人)との交渉のなかに入り込むことです。
 フッサールが晩年に書いているように、
 最終の・哲学的な・究極の・根源的な主観性、
 つまり哲学者たちが超越論的主観性と呼ぶものは、
 間主観性(intersubjectivite)にほかなりません。

  (M.メルロ=ポンティ「人間の科学と現象学」『眼と精神』滝浦・木田訳)


 そして関係とは常に、二重記述の産物である。
 相互作用に関わる二者は、いわば左右の眼だと言ってよい。
 それぞれが単眼視覚を持ち寄って、奥行きのある両眼視覚を作る。
 この両眼視覚こそが関係なのである。
 この発想に立つことは、大きな進歩である。 
 関係とは、一個の人間の中に内在するものではない。
 一個の人間を取り出して、その人間の〝依存〟だとか〝攻撃性〟だとか
 〝プライド〟だとか云々しても、なんの意味もない
 これらの語はみな人間同士で起こることに根ざしているものであって、
 何か個人が内にもっているものに根ざしているのではない。 

                (G.ベイトソン『精神と自然』佐藤良明訳) 
             
      
         *

太陽のカクテル光線が大空の水蒸気にぶつかり、「虹」が現象する
さらに、だれかのまなざしが虹とカクテルされて、「歌」が生まれる

 somewhere over the rainbow
    
朝の光に洗われ、風にゆれ、コスモスの花があなたの瞳に交わり
心の変換規則に出会って、一つのアンサンブル
いちどきりの情感に濡れた「秋の光景」がそこに生まれる

ふたつの性の二重記述から
いまだ記述されざる地平に子を宿し
新たな記述をしたためるように、母は子を産み落とす

ひととひとが出会えばなにかが起こる

メッセージが交換され、結びあわされ、積み重なり
ふたつのことがひとつのことして融けあい
固有のコンビネーションパターンが生まれ、動いていく

このパターンを言語的にコードしたとき
「愛」として「憎しみ」として記述される

すべてはひととひとの間を原郷として
心に現象する出来事として

真理、正義、客観と名付けられたものすべて
すべてはあいだに開かれる関係の地平に芽吹き
ひととひとを結び合わせる関係項(子)として創発していく

 

 

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「ほんね」20240322

2024-03-22 | Weblog

 

 

久しぶりに一緒に呑んで目の前で居眠りとは口あんぐり
たかくくって安心極楽のおやすみタイム、ちょっとびっくり
よっぽど安心なのかな、信頼しすぎないでね、けどいいかもね
ひとつだけ、急に起き上がって真理正義を語らないでね
かわゆいゆるキャラが台なし、ぶちこわしです
ずっと居眠りのままでいいです、かっこつけなくていいです
そんな得がたい存在が身近に居てくれるしあわせ、ありかもね

でもさ、少しだけ長男坊のことも考えに入れて生きたらいいかな、次男坊

 

 

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「求心性の親和力」20240322

2024-03-22 | Weblog

 

 

はじめから居心地がいいに決まっている場所なのでしょう
承認以外ない仲間と呼ぶ存在だけが構成するサークル関係

皮肉を込めて云えば、善人だらけ

サークル言語、サークル村のサークルゲーム
ことばが必ず最後に着地する場所になっています

そうしたことばを使って思考を鍛えることはできません
ほんとうに考えたことにはならないと断言します

なぜか。「他者の契機」を見つけることができません
つまり、理解のポッケに収まらない存在を資源化する視線が閉じている
人権、正義、真理を名乗ることとの大きな乖離がそこにあります

サークルの円周内にすべてが収まってしまう
サークルを外へ向かって拡張する遠心性の展開契機が見当たらない

自明性の宇宙は異言語の注入によっていったん解体したほうがいい
第一の作業は、外部ではなく内部にあってそれを見出すことを意味します
論理階型を一段踏み上がったサークル全体を俯瞰する視線の獲得です

この視線からはじめて、内も外もない関係の地平が開かれる
ちがっていい、多様性がほんとうに生き合うことができる可能性
つまり、人権、正義、真理という概念が生きる地平が開かれていく

 

 

 

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「海華荘@福岡市東区箱崎」

2024-03-22 | Weblog

 

 

21歳。こんな会話をしたことがあったと思う
善人は勘弁、清く正しくひねくれの空気を吸って生きていた

勝手にわかられたらうんざりだよね、どう?
うん、わかりすぎるわかりやすいボケがいる
わかってもらっちゃ困るんだよ、とか
でも修正を求めるほどトンマじゃない
うん、相手してる暇はないね

 

 

 

 

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「外部観察」20240321

2024-03-21 | Weblog

 

 

生きられる構造(ゲシュタルト)の本質は、時間的にも空間的にもスライスして取り出すことができない。
かりに何万回カメラのシャッターを切っても、展開本質がそこに映し出されることはない

(外部観察は仮説的にその痕跡を追うことだけができる)

存在と非在の合金、仮象のイデア(真善美)とリンクして生きられる本質を捉える方法はただ一つ
そこにそうしてゲシュタルトの内側を生きる第一人称のことば、個の経験として語られるほかない

 

 

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「ことば、情動、倫理」20240320

2024-03-20 | Weblog

 

 

知(ことば)に情(ハート)が参加しないとき
おとなも同じだが、こどもは退屈な顔をする

その理由は明らかである

ヨーダ風にいい直すとこうなる
ことばの体験に情動の奔流が合流してはじめて「force」が満ちる

この体験そのものに倫理の問題は存在しない
倫理は「force」と「force」が出会い、交わる場所で生成する

情動の動きにはじめから倫理を持ち込めばことばの体験は成就しない
それゆえ倫理の生成的本質は失われ、既定の倫理が占拠することになる

 

 

 

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