ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「ヒトが歩いている」20180529

2018-05-29 | Weblog


身体は膨大なデータ、ランダムにおとずれる世界を日々刻々と受信している。
そこに混乱が起こらないのはなんらかの交通整理──「存在のまとまり」をキープするために、
取捨選択・変換・無視・マッピングといった「情報処理」(縮約)が行われている。

重力・光・音・振動・気圧・気温・湿度・風景・地面の起伏・対象物の肌理。
歩くシステムが対話し、情報をピックアップし、
固有の変換コードによって世界図式を描き出す源泉としての「変数のネットワーク」。

「歩く」という行為──〈世界〉の渦中において、〈世界〉にまみれながら生きる行為連鎖。

生きられる環境と〝わたし〟の「コール&レスポンス」の絶えざる進行。
その渦中において、日々刻々、「わたしという生存のまとまり」という命題を維持するべく、
めまぐるしい演算(コンピューティング)が行われている。

ところが、外部観察者の視線には単に「ヒトが歩いている」という像が映るだけである。

「歩くゲシュタルト」が自己組織化を継続するために、
環境世界を構成する膨大で微細な情報を拾いあげ、解釈し、意味づけ、
歩くシステムは環境との対話をキープをしている。

巨大な労苦によって担われ動くこのシステムは、
意識に先行しながら意識の作動を許すように動いている。

世界を創り上げている「歩くゲシュタルト」──「生きるゲシュタルト」。
「ヒトが歩く」というきわめてシンプルな視覚像の裏側に、
いまこのときも「意識」に先行して〈世界〉をマップしている「生」の意思がある。

歩くゲシュタルト自体が、〈世界〉形成(対話=情報の総合)と相即している。
欲望‐対話‐運動形成‐モニタリング‐解釈‐判断‐予期形成‐決断‐選択。

意識に先行して意識の作動を許すマトリクスの作動──
生きられる地平と自己の関係づけ、パターン形成から運動の試行と連続的展開。

目的というもう一つの包括的全体の位相を生きる意識──
しかし意識はつねに内なるマトリクスをあてにしながら、そこからのズレを生む原因でもある。

 

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「一次過程」20180527

2018-05-27 | Weblog


見たものは見たのであり、感じたものは感じたのであり、経験したものは経験したものである。
すべてのはじまりでありつづける現象──意識の恣意を超えて意識に訪れる〈世界〉。

「だってそう感じたのだもの」

この経験の位相において客観は存在しない。客観が生成する理由も存在しない。
すべては〝わたしにとって〟という位相において端的な〈世界〉の訪れがあり、
〈世界〉はわたしに感じられ、味わわれ、目撃されているだけである。

この第一次の過程のまま生が直進可能であれば、訪れとしての〈世界〉は揺るがず、
わたしはただ〝わたしにとっての世界〟に直面して生きるだけである。
この段階において、わたしの内的経験として現象する〈世界〉はそのまま「世界」である。

しかしこの第一次の過程として示される〈世界〉はそのまま維持することができない。
〈世界〉の現われは一つではない──そのことを告げる存在、他者がいる。

他者、わたしとは異なる経験を生きるわたしに似る存在がいるという、
もう一つの確信の意識が〝わたしにとって〟現象している。

「おれはそう感じない」

わたしに似ながらわたしとは異なる経験としての〈世界〉を生きる存在がいる。
他者経験の意識は〈わたしにとっての世界〉が揺らぎ亀裂が入る根拠であると同時に、
それは〈わたしにとっての世界〉が拡張される契機(資源)でもありうる。

 

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「最後の戦争」20180526

2018-05-26 | Weblog


最後の戦争──これを限りに最後でありうる条件、その主題とすべきものは何か。

つねに、すでに、血が流れるまえに透明な〝戦線〟は引かれている。
価値をめぐる「よい/わるい」という根本的なクラス分けの区切り線。
クラス分け、分節することなしに経験できない〈この世界〉という経験。

身体化し生きられる関係のコード、認識論、クラス分けの思考。
検討に付すことの免除をみちびく認知エコノミー。
ハードプログラムされた習慣の集体としての〝人格〟、〝個性〟。

区切り線はつねに文脈依存的であり、関係相関的でありながら、
「関係の絶対性」から導かれるクラス分けの思考によって拘束されている。

利害関係、階層関係、役割関係といった、つねに、すでに営まれている生活において、
クラス分けの思考、分節のコードを身体化することは最初の学習課題である。

区切り線はつねに〝戦線〟を生むように引かれていく。
意味と価値をめぐる〝戦線〟、ゆずることのできない〝戦線〟形成の不可避性。

「あれか/これか」「ほんとう/うそ」

思考を可能にし、組織化を可能にし、生のフォーメーションを可能にし、
経験としての〈世界〉そのものに張り付いたクラス分け、分節のコード。

分節された意味と価値のランドスケープをみちびく生の主題(欲望・関心)の先行性。

人類というクラスに任意の分類線を30数回ほど書き込むと、
サブのクラス分けを経て、最後に民主主義の基礎単位とも呼ばれる「個」に分解する。
しかし現実的には「個」に到達する前の任意の段階に留まるように、
〈世界〉を分節し構成しながらわれわれは生きている。

生のフォーメーションを決する、〈世界〉の訪れの先行性。
第一には、この先行性が乗り越え不可能であることの認識。
倫理的にも、理念的にも乗り越えることができないことの意識の限界線の確定。

そのことから開かれるものがあるとすれば、それは何か。


 

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「インターミッション」2018052

2018-05-24 | Weblog


あれはあれ、これはこれ、それはそれ。
世界が確定記述に覆われてしまわないないように、

すこしでも急ぐことでソレが消えてしまうかのように、
ちいさな休止符が日常の楽譜に書き込まれ、
お互いに魂に息つぎするスペースが与えられる。

インターミッション──

あえて、ゆっくり、うごく。
デジタルな時間指定を裏切るように、そうしたほうがいい。

情動の発火との直列をゆるめる経験のモードがあり、
決議保留のまま新たな意味生成の起源をつくる心的領域がある。

未規定性、不確実性が享受可能な資源に変換される
「ありき-ある-あるべき」の当為のバインドをほどいて結び直すことが許された、
「ありうる」の予期がわき立つ〝踊り場 plateau〟がある。

非知性のただなかにあって、非知を非知のままに、
ただ、生成としての世界を生きるように対話するセッションの位相へ。

   *

非知を既知に還元し、その先に「カミガミ」(超越項)を戴けば、
生成の原郷としての非知のクラウドは霧散する。

知ることとわかることと〈世界〉が一致すると、
因-果的記述が〈世界〉を覆い尽くし、〈世界〉をやせ細らせていく。

理解のポケットにすべてを収めようとすると消えてしまう、
生成としての〈世界〉を失うことになる閾がある。

「この世の判例に照らして おまえの所属はアレとコレ」
「この世のならわしに従って おまえの与件はコレとアレ」

明徴されざる「カミガミ」の指定に従う生のフォーメーションにおいて、
パロールの実践はすべてラングの一般意味、確定記述へと収束していく。

未規定性、不確実性において湧き立つプレーのすべてが、
既知のフォーメーションの内部へと刈り込まれていく〝ゲーム〟がある。

 

 

 

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「二重記述」20180523

2018-05-23 | Weblog


「ぶつかりあういくつかの存在が、複雑な学習やコミュニケーションをなしうる有機体である場合には、
それらのシステム全体は、均一状態か体系的差異化に向けていずれにしても
より単純な方向へ─急速に変化する。それはいわゆる組織化にほかならない」(ベイトソン『精神の生態学』佐藤訳)


語りうる水準で語りあうのではない
わかりあえる水準でわかりあうのでもない

理解できないことがかなしいのではない
理解してしまうことで消えていくものがある

とかろうじて感じられるとき
開かれるはかない関係のテーブルがある

理解できないことの理解できなさ
語りえないことの語りえなさ

知りえないことの知りえなさ
わからないことのわからなさ

相互に非知として生きあうかぎりにおいて
はじめて開かれる二つの記述がまじわる位相がある

みずからの記述の形式に収納できないということ
みずからの分節コードによって規定できず

理解のポケットに収めることができない存在として
相互に認め合うかぎりにおいて
自明性の外側に広がる未踏の第三の領域がある

相互に非知を資源としながら
新たな記述形式が立ち上がっていく

二重の記述から立ち上がる未踏の記述形式があり
相互の記述形式が交わることで生成する〝世界の奥行き〟がある

  *

関係了解の過度の自明性がゆるむことで、
開かれていく新たな経験と再組織化へ向かう位相があり、
関係了解の過度の自明性がゆるみ、
相互の「非知」性がオープンになることで、
逆説的に生まれる形成的な関係の位相がある。

また一方には、関係了解の自明性の強度が増すことで、
未規定性が閉じられ、確定され、バインドされていく関係構造がある。

どちらも本源的原理──相互的な関係の〝了解点〟の探索──から発しながら、
そこから関係のゲームの「質」がわかれる決定的な分岐点がある。


 

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「関係のゲーム」20180519

2018-05-19 | Weblog

                 https://www.youtube.com/watch?v=MJUuDoRZpyU


心が動く。意識が動くよりはやく駆けながら〈世界〉を告げる作動がある。
意識の先行を許さず、意識に動機を与える内なる作動がある。

なぜか、心が動く──意識の恣意がとどかない端的な〈世界〉の直撃があり、
直撃を受けて泡立つものがあり、そのイベントのただ一人の目撃者としてのわたしがいる。

〈世界〉の由来を問うこと自体が無意味であるような突き当りにおいて、
いつも、すでに、意識に先んじてわたしは「経験」を完了させている。

意識は「この世界!」という経験の背後に回り込んで、
みずからの作動の理由と根拠を明らかにすることはできない。

「(なぜか)そう感じる」という始原的現象の裏側に回り込むことはできない。

「この世界!」の訪れという根源的な受動性──
〈世界〉の訪れという出来事があり、
その受け止めにおいてはじめて、わたし(主観)は動きはじめる。

意識──根源的な受動性において、事後的に発動する能動性。

泡立ち、色めき立ち、青ざめ、翻弄され、陶酔し、流動し、変化する。
主観(わたし)はポリフォニックな情動が輻輳するみずからの身体において、
気づくよりやはく〈世界〉に没入し、〈世界〉を味わいつつ、〈世界〉にまみれている。

人と人が出会えば必ずなにかが起こる──

〈世界〉にまみれながら、そこに立ちあがる第二の主観。
関係のゲームにおける「ゲーム仕様の主観」、〝客観〟の位相が生成する。

関係のゲームの形式と内容をどう捉え、どう生きるか。
〝客観〟の生成が関係的予期、関係パターンの相互的了解点をめがけている。
この位相に対するかまえが関係のゲームの形式と内容を決定していく。

〝客観〟──真理・正義・ほんとうという意味の系列がそこから立ち上がる位相。
主観において、ただ主観のいとなみの中でのみ立ち上がる位相は、
関係のゲームという主観同士の世界経験の「多重記述」が現象する位相として生きられている。

主観は主観の外に出ることができない──
この絶対的な原理の内部にありながら、内的な多重記述がみちぎく関係のゲームは進行する。

第二の主観の立ち上げから始発する関係のゲーム、主観同士の経験が交わり、
その位相における多重記述の連続的展開において、
ゲーム仕様の主観=客観も連続的に変容可能性を潜在させながら動いていくが、
客観をバインドすれば関係のゲームのフレームもバインドされる。

 

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「処方箋」20180513

2018-05-13 | Weblog

         https://www.youtube.com/watch?v=MkrwU5Pd93c

 


人間の生はニヒリズムを分泌する。
しかしニヒリズムは生の基底を構成しない。

「挫折の意識」「苦悩」(ニーチェ)がみずからに与える処方箋──、
そのバリアント──シニシズム、ニヒリズム、ペシミズム、スケプチシズム。

「あるべきではない」現状と「あるべき」状態、その落差、距離の意識。
ニヒリズムという処方箋には、ある理想とその断念(症状)が記述されている。

破れた恋は絶望をみちびくが、
絶望は恋の成就を願うことに先行して訪れることはできない。

  *

すべてに先行し、すべての記述形式を規定する、
根本的事実としての「われ欲す」の内なる生成。

生の主題(欲望・関心)の内なる生成という第一の作動が描きだす、
意味と価値のランドスケープとしての〈世界〉。

このとき、かつて-いま-これからという時制の生成とともに、
さまざまな予期的了解──意味が生成している。

現われ、到来としての〈世界〉の受け止めにおて、
意識がとりうる〝かまえ〟のさまざまな変奏形態、存在のフォーメーション。

可能性と不可能性の条件としての〈世界〉の内なる生成。
このいわば板挟みの中で展開し遷移する「われ欲す」と存在企投としての実存。

 

 

 

 

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