https://www.youtube.com/watch?v=124NoPUBDvA&index=5&list=RDGWZTyiMXulQ
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ピッチ上ですべてのプレーヤーはそれぞれにとっての「ファンタジー」の出現を夢見ている。
そのために必然的に出会うことになる、回折、迂回、曲率、ズレ、希望と絶望がある。
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だれかが同意すると、ひとつの現実が生まれる。
だれかが否定すると、ひとつの現実が壊れる。
わたしの現実は人の意見によって、
猫の目のようにくるくると生きたり死んだりする。
「でもちゃんと生きてる」
「そうだけど」
「あんたの何が生きて死ぬのか。その何かとは何か。それが問題だ。
だけどそれだけじゃない」
「相手次第だよね」
「そうかな」
「考えてごらん。とんでもないアホなら、どってことない」
「ふむ」
「そのだれかとはすべての人間を含むわけじゃない」
「かもしれない」
「こいつの言うことはバカすぎて問題外、ということは普通にある」
「まあね」
「つまり、気にする相手と気にしない相手の区分は、具体的な経験に先立って確立されている。
ようするに人間をクラス分けする確固たる基準が確立されているわけですよ。
意識しようがしまいが、あんたの中にね。それがなければ生きられない内なる基準をゲンゼンとしてお持ちです」
「だから?」
「猫の目のようにくるくると生きたり死んだりするとは、その基準とのズレが目撃されて、
ズレを受け止めきれないで右往左往するあんたがいるということになる。
だけど話はそれだけでおしまいじゃないわね」
「どういうこと」
「右往左往するあんたを目撃しているもう一人のあんたがいる。目撃者、ある詩人はそれを見者と名づけた。
だからこうしてそのことを語ることができる。ちがう?」
「そうね」
「そのことの発見、つまりそうした内的な出来事の現象を見ている「私」、その発見はあまり注目されないけれど、
人間の歴史にとってニュートンの重力の発見に匹敵するかそれ以上のことだと思う」
「はあ」
「だけどそのことはおいておこうね。本日のところは」
「基準に照らして想定外の反応を相手が示すとき、基準の正当性や精度が脅かされ、疑われたりもする。そんな感じかな。つまり、内なる基準に収まらない現実に直面して、基準の不完全さが露呈すると自信がもてない感情が動きはじめる。こんなはずじゃない、そんなんじゃだめなのかな、というね。
もっと本質的にいえば、すべてはその基準を満たすように丸く収まってほしいという欲望が背後にある」
「どうしたらいいわけ」
「ずっと右往左往してなさい。断固死守の精神よりも迷うことね」
「いいの?」
「ヘタに自信を持とうとするともっと悲惨なことになる可能性がある」
「どうして?」
「信念の人。一見かっこよさげだけど、そんなの銅像のようなものでしょ」
「石アタマ」
「ブレないってことはある局面では必要であっても、そのことで失われる大事な変化の契機がある。
人間や世界を区分したり分節する基準が陳腐化する。時代においてけぼりになる。
その基準にこだわり固定することで失われることがある。あんた自身の滅びの種にもなりうる。
そういうことがありうるということは自覚しておいたほうがいいかもね」
「かりに人間はそれぞれに固有の理解のポッケをもっているとしてしましょうか。
相手を受け入れる理解のポッケが小さすぎるかもという内省が働くかどうか。
あまりにも防衛的であるとき、あるいは攻撃的であるとき、
自分のポッケを問題として捉えるのではなくて、
相手がすべての原因であって、みずからのポッケの質や大きさ、その妥当性については不問に付されるわけ」
「いいかえると部分を全体として捉える。見積もり方をまちがうと全体の収支が合わなくなる」
「どういうこと?」
「人生によくある計算ちがい。なくてもいい負債を背負う、あるいは、非現実的な資産家のつもりにもなる」
「毎日起きている?」
「たぶん。ないはずの資産を喜ぶ妄想、逆にないはずの負債に苦しむ幻想もある」
「世界に切れ込みを入れて、右と左、上と下、よいと悪い、きれいときたない、そんなふうに分節していく。
この切れ込みはゆらぎながら動いたり引き直されたりしていくけれど、
さしあたり固定されるカタチで日々の対人関係は営まれ、関係の定常性が保たれる」
「ゆらいだまま関係をつくることはできないってこと?」
「できるかもしれないけれど、日常のかまえとはちがうかまえが必要ね。
ふつうはお互いさまで、相手を固定して色づけして見ないとヒトのコミュニケーションは成立しない」
「さしあたり?」
「さしあたり」
「そのへんの区分線はだれにでもあるはずだよね」
「世界には細かく入り組んだ透明な区分線が入っている」
「でも世界をマップしないと人は生きられない」
「そう。けれど、ダイコンを刻むように自由自在に切り刻むことができるわけじゃない。
そこにはちゃんと内的な基準のようなものがあるわけよ。一人ひとりのね」
「それぞれに身に付いた調理のレシピと作法、パターンがある」
「つまり、アホの認定にはアホとアホでないものを分ける価値の基準がある、これが第一ね」
「区分線の入れ方次第でお里が知れるということもあるわけか」
「切れ込みの型が、その人間の生まれ育ち、志向関心欲望をそのままプレゼンテーションしているともいえる」
「だれかをアホと言ったり言わなかったりする、その内的な基準ということね」
「そう。そして絶対的で普遍的な基準がどこかにあるわけじゃない」
「一人一人に生まれ育ち、お里があり、固有の経験の歴史、欲望と関心がある」
「お里は知れるけれど、ふるさとは懐かしさと同時に呪いでもある」
「そしてお里はだれも選べない」
「選べないけれど変化は起こる」
「人間における重力の法則?」
「あたりまえに働いている自然の法則は、それを生きる以外ないけれど、
それを知ることで何かが付加されることはたしかだね。
ある意味で、世界になんらかの奥行きが生まれる、とも言えるかもしれないな」
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