ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「新しい存在論」20190330

2019-03-30 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=2_gk0563ggw

 「客観(存在)」の正しい記述の競い合い、ではなく、 「客観(存在)」という観念の生成の本源にまなざしを定位すること。

「客観(存在)」という〝真〟、高見に想定されバインドされた最終解、究極解から 〈世界〉の欠落、矛盾、瑕疵、対抗の諸相をながめ、評価し審判するのではなく、 そもそも「客観(存在)」は想定されたようには存在しえないということ。──むしろ、「客観」を立ち上げる背景、根拠、動機を問うこと。客観、真理、正義、善という「関係子」の系列。

人間の関係世界においては、必然的に、関係子としての「客観」は立ち上がっていく。 しかし、本質的に「客観」は存在しない。

存在しないものの立ち上げが無意味だということではない。 人間にとって「客観」は、たしかに存在し、真である、というふうに生きられていく。 関係世界をいとなみ、関係存在として生きるかぎり、そのことには必然的な理由がある。

にもかかわらず、「客観」がその過剰性において導く専制と制圧が起こるということ。 「客観」が個の実存の位相にまで手を伸ばして、 〈世界〉の全域をその統制の下に置こうとするとき、 人間的生は不可避的にみずからの生成性の根を腐食させることになる。

その相互的な展開において、人間的な関係世界は貧しさを加算させるループに入る。 そして「客観」という関係子の役割と有用性もその貢献の対象を失うことになる。

 

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「生成性」(創発性)20190326

2019-03-26 | Weblog

 

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自然界にはストライクゾーンもオフサイドラインも存在しない。   (ただし自然それ自体も人間的生の関与性においてその姿を現出している)。 

自然の法はペナルティを与えず、何ごとも語らず、何ごとも教えない。  弱肉と強食、共生関係、生と死の即物的サイクル──  その展開の論理は過酷でありシンプルである。 

自然の環境と生き物それぞれの生のカタチが相関的に見出し、 指定される関係のゲームがあり、変化の方向があり、 動かせない記述形式に従って実現される秩序と調和があり、全体性がある。 

ルール変更をともなわない絶対環境として、   唯一絶対的なゲームが世界のリアリティにおいて、  進化の論理はこの展開の中で自然と生き物の相互性として動いていく。 

     *

「自然への回帰」という幻想──そこには人間的生の現実から派生する錯誤がある。 自然の秩序、調和を支える論理のシンプルさ、過酷さに人間的生は堪えることは出来ない。 

     *

ただ一つ、人間的生がつくる関係のゲーム(関係世界)においては、  新たなゲーム、新たな現実の生成、ルール刷新の可能性が潜在し、 そのことが人間的生の本質、関係の原理として生きられていく。 

生成としての〈世界〉。創発としての関係のゲーム、ルールの刷新可能性。 新たな記述の書き入れ可能な固有の潜在領域、インターミッション。 

未規定性、非知性。未記述において開かれる新しいコトバ、新しい現実。 そのことには原理的な条件がある。 

創発を貫く共通本質、「主体的関与」── 

新しい関係項創発への確信的予期、変容可能性としての人間的生の自覚。 関係のゲーム、関係条件の変容可能性。 

ルール変更可能性がみちびくプレーの快(エロス)への「個」の確信の意識。  内的確信と予期が導く、新たな記述可能性へ向かう企投的展開としての実存。

 

 

 

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「ブラック規則」 20190323

2019-03-23 | Weblog


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「個」の制圧という関係のゲームにおける集合的倒錯──その歴史的展開はいまも継続している。

集合的生活における禁則群の形成の必然性。
しかしその正当性、妥当性の根拠はいまだ明確ではない。

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感じなくともよい感情を強いられ、
あってはならない脅迫のために、
心がグリップされ、からだが閉じ込められる。

それだけではない。禁則群をめぐる不安と不信、監視と警戒、糾弾。
ゲームとしての世界は相互に貧しさを加算しあうループに入る。

   *

「やましさ」「後ろ暗さ」「罪の意識」の発生装置としてのブラックルール。
いだく必要のない自己意識、関係意識、関係感情が関係のゲームを苦役へ変換する。

承認と合意に付されざる禁則群が集合的身体のあり方を指定し、
個の意思の捨象を条件として成立する関係のゲーム。

一つの命題設定──人間的自由とバーター取引され実現される関係秩序。
自由と秩序はゼロサムゲームとして認識されている。
このとき自由は秩序に波乱をもたらすランダムネスとしてのみ規定される。

全面帰属を求める全員集合のマスゲーム──その貢献対象はだれなのか。

   *

マスゲームの形成の基底には、「死」と「生存」をめぐる主題が存在する。
死の回避と生存の維持という基底をなす主題が前景に移動し、
だれにとってもそれが第一の主題でありうるという信憑において、
その疑われざる前提が禁則群の正当性、妥当性を担保する。

しかしこの前提から導かれる禁則群が提供する生のフィールドは、
生の全域をカバーできるほどの絶対的領域性をもつことができない。

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さらに重要なことがある。

 

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「戦士の作法」20190318

2019-03-18 | Weblog


 濁った風が吹くとき予感された純潔を消せ
 集められた廃疾の物語をまえに未来を語るな

少しでも距離を埋めようとすると
すみやかに遠ざかっていく

なにか誘うシグナルが動いている
なのに向かう唇を拒むものがいる

呼ぶ声が響いている
けれどもわずかな接近さえ
禁じる声が混じっている

願うことがすでに接近を意味していて
つましい明示の気配が滲んだ途端に
変異の種子が芽吹いていく

接続のラインが希望へ向かうと
透明な裏切りへと転位していく

 無形なものには無形を
 有形なものには有形を

語りえないものは聴こえている
物語に奉げることが
虚偽に転移する境界をまたいではならない

忘れないでいよう
どんなに難しくても
その意思だけはキープしよう


 

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「エクササイズ」と「関係原理」20190317

2019-03-17 | Weblog


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自転車に乗れるためには一定のエクササイズを必要とする。
エクササイズを動機づけるもの──自転車に乗ることの快(エロス)の確信的予期。
(この予期に担われるとき、エクササイズには快のドライブに支えられていく)

この確信的予期の不在の場所では、エクササイズの内発的動機は生じない。
強いられたエクササイズ、命令や要請にもとづくエクササイズは単なる苦役に転化し、
不安やおそれ、回避の意識に染まったものになる。

このときエクササイズの快は生まれず、自発的な展開可能性、試行的拡張可能性、
そこに注ぎ込まれる自由な発想、アイデアの本源をなす主体的関与は閉じたままである。

命令や要請によって、結果的に、自転車に乗れるようになった場合も、
乗ることの快(エロス)の享受は可能である。
しかし同時に、歪んだ関係原理も学習されてしまうことになる。

命令と要請によるエクササイズのプロセス──調教と訓練。
「支配と服従」の論理が支配する経験が一つの「快」と合体することで、
命令する者も服従する者も、この論理を肯定し正当化し実践する担い手になりうる。

さらに、この関係原理は人間関係における基礎原理として拡散され、
さまざまな関係のゲーム(関係世界)に持ち込まれ、適用されていくことになる。

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「重力の発見~東京スケッチ@コーヒーショップ」20190313

2019-03-13 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=124NoPUBDvA&index=5&list=RDGWZTyiMXulQ


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ピッチ上ですべてのプレーヤーはそれぞれにとっての「ファンタジー」の出現を夢見ている。
そのために必然的に出会うことになる、回折、迂回、曲率、ズレ、希望と絶望がある。

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だれかが同意すると、ひとつの現実が生まれる。
だれかが否定すると、ひとつの現実が壊れる。

わたしの現実は人の意見によって、
猫の目のようにくるくると生きたり死んだりする。

「でもちゃんと生きてる」
「そうだけど」
「あんたの何が生きて死ぬのか。その何かとは何か。それが問題だ。
だけどそれだけじゃない」

「相手次第だよね」
「そうかな」
「考えてごらん。とんでもないアホなら、どってことない」
「ふむ」
「そのだれかとはすべての人間を含むわけじゃない」
「かもしれない」
「こいつの言うことはバカすぎて問題外、ということは普通にある」
「まあね」
「つまり、気にする相手と気にしない相手の区分は、具体的な経験に先立って確立されている。
ようするに人間をクラス分けする確固たる基準が確立されているわけですよ。
意識しようがしまいが、あんたの中にね。それがなければ生きられない内なる基準をゲンゼンとしてお持ちです」

「だから?」
「猫の目のようにくるくると生きたり死んだりするとは、その基準とのズレが目撃されて、
ズレを受け止めきれないで右往左往するあんたがいるということになる。
だけど話はそれだけでおしまいじゃないわね」
「どういうこと」
「右往左往するあんたを目撃しているもう一人のあんたがいる。目撃者、ある詩人はそれを見者と名づけた。
だからこうしてそのことを語ることができる。ちがう?」
「そうね」
「そのことの発見、つまりそうした内的な出来事の現象を見ている「私」、その発見はあまり注目されないけれど、
人間の歴史にとってニュートンの重力の発見に匹敵するかそれ以上のことだと思う」
「はあ」
「だけどそのことはおいておこうね。本日のところは」

「基準に照らして想定外の反応を相手が示すとき、基準の正当性や精度が脅かされ、疑われたりもする。そんな感じかな。つまり、内なる基準に収まらない現実に直面して、基準の不完全さが露呈すると自信がもてない感情が動きはじめる。こんなはずじゃない、そんなんじゃだめなのかな、というね。
もっと本質的にいえば、すべてはその基準を満たすように丸く収まってほしいという欲望が背後にある」
「どうしたらいいわけ」
「ずっと右往左往してなさい。断固死守の精神よりも迷うことね」
「いいの?」
「ヘタに自信を持とうとするともっと悲惨なことになる可能性がある」
「どうして?」
「信念の人。一見かっこよさげだけど、そんなの銅像のようなものでしょ」
「石アタマ」
「ブレないってことはある局面では必要であっても、そのことで失われる大事な変化の契機がある。
人間や世界を区分したり分節する基準が陳腐化する。時代においてけぼりになる。
その基準にこだわり固定することで失われることがある。あんた自身の滅びの種にもなりうる。
そういうことがありうるということは自覚しておいたほうがいいかもね」

「かりに人間はそれぞれに固有の理解のポッケをもっているとしてしましょうか。
相手を受け入れる理解のポッケが小さすぎるかもという内省が働くかどうか。
あまりにも防衛的であるとき、あるいは攻撃的であるとき、
自分のポッケを問題として捉えるのではなくて、
相手がすべての原因であって、みずからのポッケの質や大きさ、その妥当性については不問に付されるわけ」

「いいかえると部分を全体として捉える。見積もり方をまちがうと全体の収支が合わなくなる」
「どういうこと?」
「人生によくある計算ちがい。なくてもいい負債を背負う、あるいは、非現実的な資産家のつもりにもなる」
「毎日起きている?」
「たぶん。ないはずの資産を喜ぶ妄想、逆にないはずの負債に苦しむ幻想もある」

「世界に切れ込みを入れて、右と左、上と下、よいと悪い、きれいときたない、そんなふうに分節していく。
この切れ込みはゆらぎながら動いたり引き直されたりしていくけれど、
さしあたり固定されるカタチで日々の対人関係は営まれ、関係の定常性が保たれる」
「ゆらいだまま関係をつくることはできないってこと?」
「できるかもしれないけれど、日常のかまえとはちがうかまえが必要ね。
ふつうはお互いさまで、相手を固定して色づけして見ないとヒトのコミュニケーションは成立しない」
「さしあたり?」
「さしあたり」

「そのへんの区分線はだれにでもあるはずだよね」
「世界には細かく入り組んだ透明な区分線が入っている」
「でも世界をマップしないと人は生きられない」
「そう。けれど、ダイコンを刻むように自由自在に切り刻むことができるわけじゃない。
そこにはちゃんと内的な基準のようなものがあるわけよ。一人ひとりのね」
「それぞれに身に付いた調理のレシピと作法、パターンがある」

「つまり、アホの認定にはアホとアホでないものを分ける価値の基準がある、これが第一ね」
「区分線の入れ方次第でお里が知れるということもあるわけか」
「切れ込みの型が、その人間の生まれ育ち、志向関心欲望をそのままプレゼンテーションしているともいえる」

「だれかをアホと言ったり言わなかったりする、その内的な基準ということね」
「そう。そして絶対的で普遍的な基準がどこかにあるわけじゃない」
「一人一人に生まれ育ち、お里があり、固有の経験の歴史、欲望と関心がある」
「お里は知れるけれど、ふるさとは懐かしさと同時に呪いでもある」
「そしてお里はだれも選べない」
「選べないけれど変化は起こる」

「人間における重力の法則?」
「あたりまえに働いている自然の法則は、それを生きる以外ないけれど、
それを知ることで何かが付加されることはたしかだね。
ある意味で、世界になんらかの奥行きが生まれる、とも言えるかもしれないな」

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「正しさの地平」 20190308

2019-03-09 | Weblog


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関係世界を生きる関係存在としての各主観は、それぞれの生を照らす内なる参照系を常備している。

関係存在としての人間的生(主観)が生きるうえで必須となる参照系は、
思考と行動のすべてにわたる「正しいプレー」という関係価値を示すように主観内に立ち上がっている。

思考と行動のすべてにわたる関係的プレー(関係企投)の正当性、妥当性、ひいては普遍性をめがけるように、
それに照らして修正し制御を図る参照系としての関係子群、その諸相が生成し展開する「正しさの地平」。

   *

主観は主観の外に出ることができない。この動かせない原理にもかかわらず、
主観の外に出ることが可能であるという信憑とともに主観は生きている。

この信憑の基底に広がる主観を超えた「正しさの地平」。
主観と主観をむすび合わせる関係子が群生する参照系としての「正しさの地平」。

   *

言いまちがい、書きまちがい、思いちがい、勘ちがい──

文字を書きながら「なにかヘンだな」「あっ、まちがった」と誤字に気づいて修正する。
意見を述べて「それちがうんじゃない」と指摘されて「そうかも」と感じる、あるいは「そうかな」と反論する。

このとき、われわれは暗黙のうちに内なる参照先のページをめくっている。

言い淀み、まよい、ためらい、はにかみ、とまどい──
一方に情動が走りながら、それに関係子としてカタチを与えられないとき、
関係ゲームにおける意見や信念の対立、プレーとプレーの矛盾、紛争に遭遇するとき、
われわれはいつも参照先を探したり、参照先のページをめくりつづけている。

内なる参照系としての「正しさ地平」。さまざまな関係子が自生的に群生する地平。

   *

関係世界における本質的な矛盾の現出──それは常に「正しさの地平」の〝ただしさ〟をめぐっている。

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