https://www.youtube.com/watch?v=fBq7waeZvkU
生命はそれぞれの固有の〝理解〟の構成として世界を捉えている。なんらかの〝理解〟をみずからに充てることなしに環境世界においてみずからの生を組み立てることはできない。この〝理解〟はただ実践的な要請、すなわちひとえに個(生命)の内部から湧き上がる固有の欲望にしたがい、個(生命)にとって、この構成以外に世界は存在しない。
みずからが直面する世界(「環境世界」)について、個(生命)にとっての「快-不快」「Good‐Bad」「Yes-No」という価値的分節にもとづく〝理解〟だけがそこにある。その固有性、切実性、わたくし性、痛切性。このリアリティはその実践的な企投の衝迫性においてどんな相対化も許さない。
「わたしにとって」という切実性、痛切性、固有性において現われる世界。この固有の現われそのものに、「わたし」の固有の欲望のかたちが書き込まれている。実践的な生の課題(欲望)において生きる個(生命)の生の固有性が、固有の世界を生成し、みずからに世界を出現させる。
そして、その固有の歴史性。個(生命)の〝理解〟の個人史、累積と更新の全プロセス、変容の経緯がたたみ込まれた〝理解〟の現在形として生。
この現在形を外の視線はいくらでも批評し、評価することができる。しかし、生きる主体(個)にとっての痛切性そのものにとって代わることはできない。「そう感じ」「そう考える」ことの動かしがたさ──第一には、このことの了解がなければ批評(外の視線)は、個の〝理解〟の本質に触れる契機を見出すことはできない。
「世界」がどのような〝理解〟において、意味として、価値として、痛切として生きられているか。それは個(生命)だけにしかわからないものとして生きられている。絶対的条件──この「世界」のリアリティは個(生命)のリアリティと一体であり、それ自体をどんな一般性にも解消することはできない。
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個と個がまじわる関係に位相において、その〝理解〟が「関係項」として提出されるとき、すなわち共同的な審議、評価の対象として持ち出されるときはじめて、一般化、普遍化(関係項)に足るか否か、その「真偽」「善悪」「正邪」の判定を受けることになる。
先行する個、後発する関係項。この先行関係は変化することはない。さらに、ここには単なる先行関係というだけでは足りない関係がある。個の〝理解〟を審議する関係の位相における関係項の生成、そしてこの関係項を審議し返すただ一つの存在、個という循環関係がある。
しかし、人間的関係世界においてはこの循環関係がしばしばあるいは常時失われ、先行関係が逆転して、関係項(超越化した関係項)からの全的規定としての個の存在という逆転が起こる。