ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「理解─その個別と普遍」20190930

2019-09-30 | Weblog

                https://www.youtube.com/watch?v=fBq7waeZvkU

 

生命はそれぞれの固有の〝理解〟の構成として世界を捉えている。なんらかの〝理解〟をみずからに充てることなしに環境世界においてみずからの生を組み立てることはできない。この〝理解〟はただ実践的な要請、すなわちひとえに個(生命)の内部から湧き上がる固有の欲望にしたがい、個(生命)にとって、この構成以外に世界は存在しない。

みずからが直面する世界(「環境世界」)について、個(生命)にとっての「快-不快」「Good‐Bad」「Yes-No」という価値的分節にもとづく〝理解〟だけがそこにある。その固有性、切実性、わたくし性、痛切性。このリアリティはその実践的な企投の衝迫性においてどんな相対化も許さない。

「わたしにとって」という切実性、痛切性、固有性において現われる世界。この固有の現われそのものに、「わたし」の固有の欲望のかたちが書き込まれている。実践的な生の課題(欲望)において生きる個(生命)の生の固有性が、固有の世界を生成し、みずからに世界を出現させる。

そして、その固有の歴史性。個(生命)の〝理解〟の個人史、累積と更新の全プロセス、変容の経緯がたたみ込まれた〝理解〟の現在形として生。

この現在形を外の視線はいくらでも批評し、評価することができる。しかし、生きる主体(個)にとっての痛切性そのものにとって代わることはできない。「そう感じ」「そう考える」ことの動かしがたさ──第一には、このことの了解がなければ批評(外の視線)は、個の〝理解〟の本質に触れる契機を見出すことはできない。

「世界」がどのような〝理解〟において、意味として、価値として、痛切として生きられているか。それは個(生命)だけにしかわからないものとして生きられている。絶対的条件──この「世界」のリアリティは個(生命)のリアリティと一体であり、それ自体をどんな一般性にも解消することはできない。

    *

個と個がまじわる関係に位相において、その〝理解〟が「関係項」として提出されるとき、すなわち共同的な審議、評価の対象として持ち出されるときはじめて、一般化、普遍化(関係項)に足るか否か、その「真偽」「善悪」「正邪」の判定を受けることになる。

先行する個、後発する関係項。この先行関係は変化することはない。さらに、ここには単なる先行関係というだけでは足りない関係がある。個の〝理解〟を審議する関係の位相における関係項の生成、そしてこの関係項を審議し返すただ一つの存在、個という循環関係がある。

しかし、人間的関係世界においてはこの循環関係がしばしばあるいは常時失われ、先行関係が逆転して、関係項(超越化した関係項)からの全的規定としての個の存在という逆転が起こる。

 

 

コメント

「TOKYOスケッチ@café」 201929

2019-09-29 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=9ZfcS5NGjqI

 

「比喩として聞いてね。人はそれぞれ固有の理解のポッケというものをもっている。サイズ、カタチ、素材、色、意匠、そしてそれぞれに「入れられるもの/入れられないもの」があり、それが固有のスタイル、つまり個性とか人格とか呼ばれるものをかたどっている。どう」

「そうね。いろんなものをポッケに入れるわけだけど、究極的には、世界全体をまるごとポッケに収めたいという欲望をもっているかもしれないな。他者も含めてね。ポッケに収納して完全な理解、いいかえると完全な制圧の下に置きたいと願っている。どうよ」

「ちょっとちがうかな。制圧したいということもあるかもしれないけれど、逆に、よりよく理解して仲よくしたいということもあると思う。ひとことで言えないけどさ。これは余談だけど、最強最大最上のポッケ、〝カミ〟という想定もあるけど、わたしたちはそんなものに頼らないと決めたのね。じぶんを見失わないためにね。だよね」

「うん」

「ガチでいうとね、実際にはポッケに収まりきらないもの、それが世界、そして他者でしょ。ポッケに入れたと思った瞬間にはもうちがったものとして存在して動き回っている。もっと本質的にいえば、どんなポッケにも入り切らないもののことを、わたしたちは世界、他者と呼んでいる」

「かもしれない」

「ようするに、わたしの理解のポッケは、わたしの存在、わたしの理解から〝隔絶〟したものを理解しようとするための道具なのね。だから、最初に〝隔絶〟ありき、なの」

「そもそもこちらの理解の容量オーバーの存在が、世界、他者ということ?キャパを超えているのかな」

「まさしくね。この隔絶性、人と人との間に横たわる超えがたい深淵を、なんとかして超えたい、渡りきりたい、飛び越したい。そんな内なる願いが、抑えがたい欲望を抱いて生きているのだと思う、人間って」

「抱くというより、現に飛び越しながらつきあい、仲よくしたり、喧嘩したり、恋をしたり、いろんな関係の結びながらともに暮らしている。なんで?」

「なんでって、それができるからでしょ。そうできることを疑わないからそうできる」

「思いこみ?思いこみで生きているって、ちょっとバカみたいだけど。そうなのかな」

「本質的に、原理的に、渡り切ることは絶対にできないのね。わかる?そもそもわたしはわたしの外に出ることができない。あなたはあなたの外に出ることができない。ふたりはそれぞれの内なる経験の中にいることしかできない。でもね、お互いの思いが一つになる、という内なる確信をわたしたちは抱くことができる。できるというよりむしろ、それは訪れるといったほうがいいかな。否応なくね。あとからそれがカン違いだということがあってとしてもね」

「よくある。毎日かも」

「わたしたちはそれぞれの理解のポッケにいろいろなことを収めながら、それぞれの人生を生きている。そうすることで現実を生き現実を作っている。つまり、超えられない深淵を飛び越そうとする、その試みの連続としての生が生きられていく。日々、小さな納得、あるいは不納得を刻みつけるようにね」

「でもそんなことをいちいち意識していたら疲れない?」

「そう。でもね、そのことを一度だけでもみずから刻んでおくことには意味がある。胸のうち深くね。そうすることで飛び越しかたにある種の〝つつしみ〟のようなものが生まれるかもしれない」

「かもしれない」

「理解のポッケにもなにか変化が起こるかもしれない。よくわからないけどさ。少なくとも無理やり、頭ごなしに、理解のポッケに収めるような強引さというものは消えていくかもしれない」

「かもしれない」

 

 

 

コメント

「世界を黙らせる」 20190928

2019-09-28 | Weblog

            https://www.youtube.com/watch?v=fBq7waeZvkU

 

埋葬不可能な関係、ピリオドを打って終わりのカタチを与え墓場に封じ込めることができないもの、どんな儀礼にも回収されえないこと。なにものにも、どんな祭壇にも捧げることができないことがあることを。世界は学ばなければならない。

なにものにも捧げられない、捧げることで失われてしまうものを手放さないでいること──それは、ただひとりの秘めごととして保たれるものでしかないものであることを。どんな共同性もそのことを果たせないこと、ただひとりの胸のうちのことであることを。

共同性、世界ができるただ一つのこと、そのことの相互の了解を生み出すことだけはできる。世界を黙らせる。しかしできるなら、もしそれが可能なら世界みずから沈黙することを選びとる、そのような世界でありうる可能性。

ひとりひとりの経験の回収装置、としての世界ではなく、ひとりひとりの経験の支援に徹した世界でありうる可能性。それを夢見ることだけはできる。

教唆し、諭し、指示し、要請し、命じ、強制する世界ではなく、よりそい、ささえ、知恵をたくわえ、知恵を告げることでサポートすることに徹した、そしてひとりひとりの経験を侵害するものを懲らしめることができる世界である可能性。

コメント

「可疑性と不可疑性」 20190927

2019-09-27 | Weblog

                     https://www.youtube.com/watch?v=wOQUXMinY1g

 

なにかを疑うことができるということ。このことが可能になるには「疑えなさ」(不可疑性)というものが、内的に先行的に与えられているということを意味する。

疑うためにはそれを「あやしい」と判断できるための内的な確証の基盤がなくてはならない。すなわち日々の経験において出会う事物、事象の真偽について、そのつど「たしかめ」を行うことを可能にする「不可疑性」あるいは「明証性」が生きられていると言うことができる。

そしてどんな「懐疑(論)」も、こうした基盤があってはじめて成立する。すなわち懐疑論(相対論)は生の基底を構成できず、認識の妥当性、正当性の基盤たりえない。

現象学(フッサール)の第一の視線は、この「不可疑性」成立の構造、内なる自明性の地平に向けられる。

 

 

コメント

「正義は使えない」 20190926

2019-09-26 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=bM1iahyCNe4

 

非戦のツールとして「正義」は有効か否か──

非戦がめざす本質を「正義」の断行から生みだすことができるか。

 

非戦が「戦」を導くあらゆる〝戦線〟の克服をめざすものなら、

「正義」はただ一つ敵の完全制圧による戦線の抹消以外に妥当性を証明できない。

すなわち「力の論理」と一体化した「正義」の断行。

 

〝戦線〟が惹起する緊張が高まるとき「絶対の正義」という表象が浮上する。

正義の相対性、すなわち多様性多数性を糾合して一つにまとめる「絶対正義」。

 

それ自体を「絶対」として確証できる根拠は世界のどこにも存在しない。

それはただ〝信仰〟によって根拠づけるほかない。

 

相対論──「すべては相対的な正義でしかない」という言明はどこへも行きつけない。

正義の多数性、多様性を説明できても、生成する戦線とその対立を治める力はない。

むしろ相対性を説くことでそれぞれの正義の根拠についての検証を不問に付して乱立抗争を許す。

力の論理──正当性、妥当性を検証する根拠がどこにも存在しなければ最後の論理が決着をつける。

 

戦線がわけるこちら側とあちら側──「正義-不正義」。

むしろ「正義」は戦線を前提にみずからを根拠づけ〝戦線を維持する〟。

 

「正義」を戦線解消へ向けて断行、強行すればかならず聖戦化する。

すべてに承認を与える聖戦がもっとも過酷な状況をつくり出してきた。

大量殺戮に全的承認を与える〝絶対正義の戦い〟──

 

必然的に「戦線」を生み出すことになる「正義/不正義」、

世界に引かれる「善-悪」「正-邪」をわける透明な区分線。

その本質において、「正義」は世界全域をおおうことが原理的にできない。

 ***

正義・人格・価値観を問わない共通のルールを可能にする「ルール・ゲーム」。

正義・人格・価値観とは無関連に享受可能な「生のエロス」を提供するゲームの創出可能性。

セッションにおいて「人格は問わない」とマイルス・デイビスは語った。

正義に代わるもの「非戦」の可能性──ただ一つ、「合意」。その未踏の一致点。

合意を引き出すもの「生の享受可能性(エロス)」の展開、拡張への予期。その共有可能性。

 

コメント

「〝不可知性〟──その本質」 20190925

2019-09-25 | Weblog

 

「世界とは何か、その意味とは」──みえざる全体、〈世界〉に接近を図るとき、人間は物語=神話というツールを駆使してきた。

 全域を視野に収める「全知」が表象され像を結ぶとき、信仰の共同性が立ち上がるルートが出現する。 そのことから帰結することになる世界の様相──「信仰の共同体」の乱立、対立、抗争、そして調停、共存共生への試み。

物語の封印──見通せない全体性(という表象)に物語による回収、加工処理と修飾を加えるのではなく、 全知ならざる人間のまなざしのままにとどまるという、それとは別の、物語を用いない構えがある。

一般像として確立された「カミ」(客観、真理、絶対)という参照系への帰依ではなく、 そしてそれ(絶対命題)から演繹される「人間、私、社会」ではなく、 絶対命題の生成のただ一つの起源、「主観」の世界経験の構造から「カミ」を捉えかえすまなざし。

「主観は主観の外に出ることができない」。この原理に忠実にしたがうかぎり、 問いが向けられる相手はつねに「主観」であり、認識論的な問いの核心は次のようになる。

――「世界とは何か」、ではなく、「世界とは何か」と問うわれわれの経験の本質とは何か――

見通せない世界(全体)、そして見通せない他者──見通せず語りつくせないものとして主観に現出するものの隔絶性。 それは孤独の本質であると同時に、隔絶した存在とかかわりあうことの意味本質が主題として浮上する。

物語(カミ)の封印。そのことを徹底するとき、隔絶した存在と交わること、働きかけることの「試行性」が明らかになる。 そして試行をとおして告げられる「わたし」の情動の動き(情動所与)。 一切のてがかりはこの所与のなかにだけあること──意味と価値が生まれる「はじまりの場所」。

最終解、究極解、究極解、すなわち「カミ」の出力には至らない(物語の封印)、 さらに相互の隔絶性は消去できない、にもかかわらず「了解と納得」は生まれうること、そしてその相互的な了解、合意点が生成しうること。そのことの決定的な意味。

 

コメント

「〝みんな〟という魔法」  20190924

2019-09-24 | Weblog

                         https://www.youtube.com/watch?v=FY8xmYNn1fQ

 

だれもソレを信じていない──。

にもかかわらず、「わたし」のなかに、「わたし」以外の「みんな」がソレを信じているという信憑が生まれる。 「ソレ」という関係項、一般意味、ラングが指定する集合的な意味と価値をめぐる接続項。

共同信憑は生成する──集合的いとなみを維持するかぎり、その統一像に従って生きるかぎり、 「みんな」という信憑は、実存のうちがわに貼りついて引きはがせないものになる。

内なる参照系として主観に生成する「みんな」という関係項。 「みんな」というクラスの一員として生まれ、育ち、生きてゆくかぎり、その超越項化の不可避性。

だれひとりとして信じるものがいないのに、「わたし以外の全員」、という意識が全員に行きわたり、 すべての「わたし」のうちがわで「みんな」という魔法がはたらく。 そして、だれひとり信じていないソレが現実化するということが起こりうる、かつても、いまも、これからも。

「みんな」という魔法がはたらく条件── 個の滅却。「わたし」がつねに「みんな」の下位、劣位に位置するとき、そして従属の意識に染まるとき、 「みんな」という魔法は必然的に、その効力を最大化して現実世界にソレを具現化する。

だれも信じてない、にもかかわらず、「私」以外の「みんなが信じている」という共同的信憑はひとり歩きする。 だれも信じてないウソ、デマ、イカサマが、たとえひとりひとりにとって明らかであるにもかかわらず、 ほんとうに信じること信じたいこと、願うこととはうらはらの「さかしまの現実」が生まれる。そういうことが起こりうる。

だれ一人願わない、愚かで、悲しく、バカバカしく、無残で、酸鼻な現実を帰結することがありうる。 そのことを回避するための前提──生成ということの原理について、つねに、その起源にまでさかのぼり、 そこへ向けるまなざしをキープしながら「わたし」は「あなた」と出会わなければならない。

 

 

コメント

「音楽」 20190923

2019-09-23 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=b-hjQGG2xO4

 

心的領域はつねに、いまここに、〝審議〟の位相として開かれている。はじまりの触発と行為のあいだにスキマを開く非直列的作動があり、スキマだけに生成する予期があり、判断があり、選択があり、決定がある──このプロセスはそれを意志するかぎり、つねに、いまここに、連続的に開かれていく。そしてそれは、心に現象するはじまりの出来事、始原の触発を迎え、もてなす、「私」のかまえの本質と結ばれている。

         *

「さようなら」──かなしいわかれが教える。かたちを定めることができない感情があることを。かたちを与えることで見失われてしまう、いちどかぎりの経験が息の根を止めることになることを。 

確定記述──世界の結晶化crystallization。

いらだってカタチを与えることで見失われる経験があり、〝生成〟の起源がある。非知を既知に変換し、その先に確定された記述に収納することで、すみやかに霧散してゆく非知のクラウドがある。

知ること理解することと〈世界〉を一致させることで視界から消失する生成のふるさとがあり、そこを超えて記述することで経験の直接性が消えてしまう透明なボーダーラインがある。

音楽は教える。

音楽に誘われ、「私」はすみやかに言葉とは別の回路に入る。音に染まり、情動は走り、官能が舞う。この経験のモードは言葉の先行をけっして許さないように動いていく。

なぜかそう感じる──という「はじまりの出来事」において告げられるもの。なぜ、この音楽、このメロディに、このリズムに官能するのか。音と響きへの応答の由来を問うことに先んじて、つねに、すでに、心は経験を完了させて〈世界〉にまみれている。

すべては「非知」のことづけを起源としてはじまっている──知ることより早く駆けている作動があり、知ることに先行して知ることを促す世界の生成があり、世界の訪れがある。知ることの手前で知ることに火を灯す、由来をたどれない〝はじまりの発火〟がある。

つねに、すでに、いま、ここに。

知として関係するよりまえに、理として解釈するよりまえに、知と理を走らせる作動があり、生成としての〈世界〉の訪れがある。知覚は動き、情動は走り、世界は開かれ、心は沸き立ち、言葉はおくれて形をむすぶ。

     *

生成としての世界──みずからに内在するこの構造の原理性へのまなざしを失わないこと。

 

 

 

 

コメント

「インターミッション」 20190922

2019-09-22 | Weblog

                    https://www.youtube.com/watch?v=K3BhE3AsxK8

 

「世界を黙らせる」──そうしなければ生きられない、見殺しにされる内なる生成の位相がある。

世界は、われわれは、学ばなければならない。殺しあいを回避したいと望むなら知らなければならない。

世界を黙らせ、スキマを開き、相互に時間を与え、空間を与えあうもてなしの、関係の作法があることを。

インターミッション──〝魂〟が息つぎすることを許される「関係の域」がある。

お互いにはじまりの地平への帰還を許し導きあう作法がある。

コトバによる世界の切り取りが指定する場所への着地を拒み、はじまりの場所への帰還をみちびく細い道があることを知る関係がある。

コトバを結ぶことより早くつながる関係のモードがあり、世界記述、関係記述を確定させる誘惑をしりぞけることではじめて照らされる関係の位相がある。

ちいさな休止符(intermission)を日常の楽譜に書き込み、お互いに魂に息つぎする位相を与えあう。

すなわち関係の直列を外して、スキマを開く───

情動が所与するものとスキマなく直列した行為モード、関係のモードが出会えない〝生の位相〟があり、直列状態を外すことではじめて扉が開かれる経験の位相がある。

コトバに先行して生きられ、コトバがそこから動機を与えられる、始原的な経験のモードはつねに持続している。

コトバがその裏側に回り込めず、回り込もうとすると別のものに変質してしまう、コトバの動機そのものがそこから立ち上がる非知的生成の域がある。

世界を黙らせること。「あれはあれ・これはこれ・それはそれ」という世界をめぐる確定記述が消し去る位相へ。

そこへの帰還を願うなら、われわれは世界を黙らせ、世界が示す確定記述の直列状態にスキマを開かなければならない。

 

 

 

コメント

「関係の形式」 20190921

2019-09-21 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=iB-1f3NY1Vc

 

まなざし、表情、ふるまい、言葉。主観という相互に〝隔絶〟した存在同士は、さまざまな形式において「結びあうパターン」(関係の形式)において、関係的「意味と価値」を交換し、確証し、対立し、親和するという関係のゲームを生きている。

メッセージを運ぶまなざし。運び屋としてのまなざし。たしかにそこには「意味」(関係的意味)が運ばれているという確信あるいは信憑。すなわち相互の〝隔絶性〟を埋める相互的信憑が「関係」という抽象的な形式に実質を与え動かしていく。

一つのまなざしによって人間は心的な〝打撲〟を負うことができる。脱臼、骨折、ときに致命的となる心的な外傷を負うこともある。同時に、一つのまなざしによって天に昇る〝揚力〟を獲得することもできる。しかしそれはすべて「信憑形成」(確信形成)という人間的生における世界経験の本質によっている。

交換されるまなざし、表情、ふるまい、コトバ。すなわち、そこに込められた意味の投げかけと受け取り。いいかえると相互的な意味企投、関係企投の連続的展開としての「関係のゲーム」。

およそ自然の掟になじまない、物理法則から隔絶した特殊な関係の原理。われわれの経験のモードをもっとも深いところで規定している関係的な「意味と価値」、その交換の方法としての結び合わせるパターン(関係の形式)。われわれは関係的な「意味と価値」を交換するゲームを生きる「ゲーム的身体」として存在している。

つねに「関係の意味」という主題をたずさえながら生きる存在。「意味の受信と発信」という関係のゲーム。相互的な意味の投げかけと受け取り。このことを可能にする相互的な意味企投-意味了解における〝信憑構造〟。

それぞれのゲームにはそれぞれに経験のモードが切り替わるような「意味の閾(区切り線)」が存在する。結びあうパターン(関係の形式)のもつ定常性を打ち破るノイズやカオスは日常において出会うことがある。

「ちっ」

たったそれだけのことで決定的なトリガーが引かれる。取るに足りないノイズの混入からメルトダウンが始まる。肩が触れた瞬間、男の舌打ちする乾いた音が聞こえた。男がどんな顔をしたのか見なくてもわかった。視線が泳いだ途端にクソの毒が回りはじめる。クソの血がたぎって脳ミソに逆流する。このとき単なる「すれちがうだけの赤の他人」という存在(関係的意味)から、男は「関係の意味」を書き換える相手として顕現する。

「殺したろか」

このとき、ある関係の形式を定めるゾーンを確定する「閾」が決壊する瀬戸際にいるとも言うことができる。定常状態とは別の関係のゾーンが開かれ、経験のモードが切り替わり、習慣化した関係のゾーンの底が割れて基底に眠る「原理」が覚醒する。一気に、すべてを引きかえにすることを厭わない、「関係の清算」を迫るように作用する「暴力原理」が露出する。

         *

しかしこの決壊が現実化するには、両者の〝決壊の合意〟を条件とする。ある場合には、それが集合的な合意として表現され、歴史の惨劇を導くということも起こる。その凄惨な歴史は確かに刻まれてきた。

 

 

 

コメント

「召喚ポイント」 20190920

2019-09-20 | Weblog

                   https://www.youtube.com/watch?v=efvJ6dvYjnA

 

生きられる地平、位相──相互にとって「非知」であることの基底的原理を消し去ることはできない。しかし、その姿、表情、ふるまい、表現としてのコトバを捉えることはできる。その意味、意図、意志、感情について、理解の触手を走らせることはできる。 

同じ地平、同じ生きられる位相を生きていると信じられるかぎり、さまざまに描かれる上昇と下降のそれぞれの航跡、交わりの諸相は、「この世界」という共通の座標上にマップされる。 

出現、遭遇、接近、離隔、親和、異和、わかれ、並走、クラッシュ、墜落、消失、回帰、その無限的パターン。目撃され、体験される無数の航跡について、そのつど湧き上がる意味と価値をめぐる内なる告知、情動生起。 

「Yes-No」──「きれい-きたない」「ほんとう-うそ」「よい-わるい」 

相互の「非知」性が消えたかのように、座標の自明性を前提として意識下深く沈め、〈世界〉は生きられていく。すべては「非知」の乗りこえの実践的試行、展開、その歴史的連続性。 

この展開につけ加えておきたいものがある──すなわち、そのすべての「生成性」についての集合的な共通了解の形成。すなわち、マップ上に現象するさまざまな蹉跌、矛盾、クラッシュの地点において、そのつどに相互の「非知」と試行的乗りこえの原理性を示し、そのことの確証を導く「召喚ポイント」を心のうちに確保し配置すること。

 

 

コメント

「if」 20190919

2019-09-19 | Weblog

                   https://www.youtube.com/watch?v=DOQIQUb1q-c

 

公理系の教えない「if」にささえられ

「かつて何であり、いま、何であるか」という問い先に

「何でありうるか」という問いが開かれてゆく

 

公理系の生成──無数のプレーの成功と失敗、果実と負債

歴史的に、発生的に、選択的に形成されたプレーの回答の集積

あらゆるプレーヤーが参照する

それを前提にプレーを組み立てる定理のクラスがある

 

クラスの外へ──

 

みずからの経験が失われないように

こころは公理系の外にくちびるを向ける

 

「ここ」ではない「どこか」

「いま」ではない「いつか」

 

疑われざる前提、常識、習慣の海に生まれながら

前提を検討にかけないという定理のクラスを離脱するには

 「if」という「虚数項」を必要とする

 

なんのために。

 

みずからに生成する生の主題によく応えるために

外部になく、ただ内なる要請のままに

問いを現実に下ろし

みずからの生を素通りしないために

 

 

コメント

「狼のまなざし」 20190918

2019-09-18 | Weblog

    https://www.youtube.com/watch?v=IbmZkB02VcI

 

確定記述──あれはあれ、これはこれ、それはそれ。存在について、関係について、世界について、確定する権利は与えられていない。

「その人にとって、いまここに、生きられている意味」

未規定性、不確実性、未決性──確定すべきソレ(実体)は存在しない。

確定記述の「可能-不可能」を問うのではなく、内なる明証、〈世界〉の訪れ、情動が所与するものを所与されるままに。

目にみえる世界とその背景をつくる未踏の領域のすべてを含んで、画然と分けられた〈ソレ〉と〈ソレでないもの〉があると信じられたとき、世界は煉獄の風景として開かれてゆく。

そこにとどまるかぎり、世界の区切りを確定させようとするかぎり、貧血したニヒリズムを、滅びの種を、心はみずからの糧としてみずからに処方する。そしてこれまでそのように生きられ、いまも生きられている。

     *

希望でもなく絶望でもなく、どちらも一つの始原とする、はじめに示され告げられるコトバが生まれる場所、ここからすべてがはじまる、その場所に降りてゆく。

知らないことの知りえなさ、わからないことのわかりえなさ、語りえないことの語りえなさ。

内なる明証──〈世界〉はつねに訪れ、訪れつづけている。かたちにできないものはかたちにできないままに。ソレとして特定するコトバが拒まれれば拒まれるままに。

最初の内なることづけ──訪れる情動が告げるもの、告げられる場所を捉えるまなざしが保持され、確定に走るものが滅ぼされ、不可疑の原理が浮上する。生成としての〈世界〉、そのただ一つの起源としての生。

 

 

 

コメント

「関係企投、未決性」 20190917

2019-09-17 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=b-hjQGG2xO4

 

主題はつねに〝関係〟をめぐっている。そのつどの関係状況の把握に努める感性的作動は絶えることなく「私」に告げる──「Good-Bad」「Yes-No」。その包括的シグナルに色づいた〈世界〉。遷移しつづける色づきとしての〈世界〉の現われ。その基底をのぞき込めばつねに「私」という存在の生の主題(欲望)が動いている。 

生の主題(欲望)。つねに〝「私」にとって〟という絶対的な条件節において、ある不定の、しかし絶対性の強度を伴った「アトラクター」(「よきもの」「素敵なもの」)を求める根源的志向性。

にもかかわらず、それが〝なにか〟であるかは明示的にはわからない。それは焦点を定めがたい衝迫として、かたちを結ぶことができない予期とともにある。

しかし時に、その焦点がある特定の存在、あざやかな存在の形象に向かって結ばれることがある。絶対的な「attractor」の現前──ほかのすべてを引きかえにできる、あるいは、その存在自体が〈世界〉に完全性、全円性を与えるただ一つの存在であるかのように、可能な関係企投の一切をそこに注ぎこむに値するものであるかのうように現前する、ということが起こる。

     *

情動生起の根源性。このとき、情動的作動は人間的生の〝最終法廷〟をなすかのように、悟性的理性的作動を包括し、その反旗にも必ず勝利するように、動かしがたい不可疑性において「価値の極相」を告げる。

     *

絶対的な色づきとして現出する〈世界〉は、しかし、関係存在としての「私」をそのまま〝バラ色のよきもの〟として染め上げるわけではない。つまり、現われ自体が、完全なる充足として、完結性として与えられるわけではない。

絶対的な「attractor」の現前は、あざやかに「私」という生の主題の本質を〝このこれ〟として指し示すように教える。隠された本源的欲望の暴露、であるかのように。しかし、「私」と対象としての〈世界〉、この二極の構造はつねに維持されている。関係存在としての「私」は、〈世界〉の現われそのものを「私」とすることはできない。

関係企投──その未決性はつねに残され、新たな〈世界〉の生成、現出の位相、契機として生きられていく。

コメント

「 Another Galaxy」 20190916

2019-09-16 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=K4i76XiKViM

 

     *

システムの意志に先行してfeelは走り抜け、ギャラクシーはそのつど新たな光芒で生成する。

      * 

ここにあるもの、ここにないもの、すべてが交響するギャラクシーはつねに生まれつづけている。

ギャラクシーの中心は想定できないが、数えきれないサブシステムが立ち上っている。

セットアップの発端は永遠に不明だが、尽きることのない無数の応答が励起している。

システムは未決の形式をたずさえギャラクシーへ向かい、拡張可能なランデブーを探索しつづけている。

ギャラクシーはランダムなシグナルに満たされ、同期と非同期のイルミネーションが明滅している。

ギャラクシーとの遭遇はfeelとして入力され、新たなfeelの組織化として出力されていく。

かつて-いま-これからという時制の生成と、ここ-そこ-どこかという座標の生成。

システムは相互に干渉のウェーブに浸潤され、流動する全体としてみずからギャラクシーを創発する。

終わりなき創発としてのギャラクシーがあり、意味と価値の連続的配列としてのギャラクシーがある。

歴史的累積と固有性において現在は未来へ接続され、システムの志向性が交響的世界像を展開させていく。

空位は充填されなくてはならないが、完全に充填され尽くされてはならない。

一定のビートとリズムに感応する身体性において、システムにはエシカルなセンサーが動いている。

       *

システムは離合集散のリンケージを伸ばしながら、開閉するウインドウからウインクを交換している。

      *

 

コメント