モノには名前がついています。
けれども名前がまだつけられていないものもあります。
そのことを示し語りあうのはとても難しい。
なぜなら名前がないからです。
世界は名前のついたものだけで出来ているわけではありません。
そしてそれはモノだけではありません。
たとえば、まだ名前のない感情。
ずっと名前のないままの感情というものも考えられます。
ぼくたちはそれをどうもてなしてよいのか、曖昧なままです。
なぜなら、どう語ればよいのかわからないからです。
感情は一人の人間のこころに生まれます。
生まれたての感情に、こころはさまざまに色めき立ちます。
そしてそのことを経験し、味わっているのはただ一人の「ぼく」「わたし」です。
おなじ感情を同時にふたりで経験することはけっしてできません。
うれしい、かなしい、おそろしい、にくらしい。
名前をつけることで、ぼくたちは自分の感情を確認したり、ほかの人につたえようとします。
辞書を開けば、そうした名前のリストがたくさん載っています。
名前をつけてきたぼくたちの永い歴史の記憶をまとめたものといえるかもしれません。
けれどもしも名前がつけることができなければどうでしょうか。
「どう語ればよいかわからないもの」をなんとかかたちにして伝えたい。
そういう気もちを抱くことはごく自然なことですね。
この思い、この感情、この印象、この情景。
それにふさわしい言葉が見つからない。とても説明ができないような、ある感じ。
なんとかその人に、みんなに伝えたいという感情が湧きあがる。
けれどものその手だてがみつからない。
それでみつかったものだけ、さしあたり名前をつけられるものだけを伝えあう。
きょうも、いまも、いまだ名前を与えられていない感情とともにわたしたちは生きている。
そんなふうにいうことができるかもしれません。
そのことはとても鮮明なのに言葉によって運び伝えることができない。
そんなときはとても苦しい感じがします。そしてその苦しさそのものにも名前がない。
それでもぼくたちはむりにでも名前をつけようとする。
ぼくたちはそうすることで、そうしようと試みることで何を求めているのでしょうか。
それはなぜ言葉が生まれるのかというとても本質的なことにつながっているかもしれません。
いまある言葉を使って、生まれたての感情、生まれつつある新しい経験に名前をつける。
名前をつけてだれかに伝えたいと願うこと。
それはうまくいくこともあるしそうでないこともある。
なぜかそうしたいと願うこと、願いを実現したいと試みること、
ただそのことだけはだれも疑えないだれにとっても当てはまる真実であるように思います。