ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「メッセージ」 20190831

2019-08-31 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=N8QQ6iM-QhI

     https://www.youtube.com/watch?v=4v8duxsqsls

 

気づくより早く

かんがえること

問うことに先んじて

ぼくのまえに 「いま」を生き

 「いま」を告げるものがいる

いまここに こうしてあるという感触は

つねに、すでに あらゆる場面で

ぼくに先行してぼくに告げられる

色づいた世界── 一つの訪れとしてそれは

いま、ここに こうしてあることのかたちと意味を教える

〈世界〉は存在し、たしかに生きられている

意のままにならないたしかさにおいて

いい感じとして、いやな感じとして

ぼくの思考に先行する訪れとして

世界を、いまを、駆け抜けているものがいる

いつも、すでに、あらゆる場所で

ひとつのかたちの告知と

あらがえないうながしとして

ことばを結ぶことの手前で

 「いま」を生き抜いている

もう一人のぼく、一人の他者がいる

 

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「2色の絵具──絶望の諸形式」 20190830

2019-08-30 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=Hyg577wxfDw

 

どこかにある価値の本体「ほんとう」──ソレはどこか、ここに、近くに、はるか遠くにあり、そして同時にソレの顕現を阻害しているものがある。すると、現実世界は「信」と「不信」、「可能」と「不可能」、「希望」と「絶望」の2色の絵具で描かれたものになる。

          *

ソレに対する「信仰」をめぐる信と不信、可能と不可能、希望と絶望に分岐する存在の形式。 2色の絵の具が描く世界の姿、どちらかの色にアクセントを置いて組織される存在の諸形式。

最初に希望を仰ぎ見た兄弟たち──「ほんとう」の存在を信じた兄弟たちは、その本体へのアクセスへの可能と不可能、信と不信において決別し、現実世界においてお互いに敵同士として対峙しあう。

          *

すべてはソレをめぐって展開する。しかし本体は一度も確かめられたことのない、そしてこれからも永遠に検証不可能なものであることの根本事実!

          *

決定的なこと──「ソレを完全棄却する」ことですべては仮象の出来事へと転移する。 いちどもまなざしを向けられることのなかった内なる〝生の原郷〟。完全棄却することで出会われる生成としての世界、その現出の内なるふるさと。

          *

生の原郷を知らないことにおいて、同じ兄弟であり敵同士でありつづける存在の形式。多色の、無限の、生成する色の世界を知らない者同士、すなわち仮象の「希望」と仮象の「絶望」を強いられた、仮象の兄弟であり仮象の敵同士であるものたち。

          *

どこかにある本体としての「ほんとう」、ではなく、いまここにおける生成としての「ほんとう」。人間的生における生成としての「価値。その根本的生成性。

 

 

 

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「Encouragement」  20190829

2019-08-29 | Weblog

https://www.youtube.com/watch?v=KOLbRPeTGQ4&list=RDqRB9i_f0ugs&index=2

 

 

否定的媒介物を用いずに、肯定性を指示する包括的「然り」が導かれるように。その条件を整備するように。

相対主義的〝冷笑優位〟にまみれた濁った言説から自由な清らかな空気がそこに流れ込むように。

     *

だれも本質的に励ますことはできないことの認識。内発するもの以外のないものである「意志」を、その本質を失くすことなく外部から制御することはできないということ。

物理的に制圧することはできる。あるいは関係存在としての関係意識をかく乱し、ある超越項を埋め込み、内なる外部‐外力によってその「意志」を奪い制御することもできないことではない。

しかしそれは「個」の抹消でしかない。そこに「個」はなく、ある〝全体〟に帰属し奉仕する部品、一機能として用在化された「個」のヌケガラだけがある。

     *

「励ます」のではなく、生成するチカラからその生成性が失われないように、その障害となるものを取り除くように。周辺のゴミ清掃に徹したルーティーン、それが通常の主業務として遂行されるように。

 

 

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「言語ゲーム──〝関係場〟の先行的生成」 20190828

2019-08-28 | Weblog

       https://www.youtube.com/watch?v=4v8duxsqsls&list=RDOShsUEzfMYY&index=19

 

コトバを運ぶもの──「場」(関係状況)を捉えるまなざしが示しているものがある。言語ゲームを推進するもの、コトバの交換を可能にする先行的な見えざる対話、まなざしの交換がある。

    *

コトバ自体の指示性、字義的意味指定を逸脱するように暗い意思がにじむことがある。たとえば、「I love you」ににじむ猜疑、嫌悪、侮蔑、怒り、被害感情、ルサンチマン、贖罪要求。

コトバの表層を突き破るように、一般意味としてのコトバの指示性を粉砕するように伝わるものがある。このとき、あるいはつねに、われわれはコトバではなくコトバを運ぶものにまなざしを凝らしている。

    *

われわれはコトバ(一般意味)を用在として経験を交換しあっている。しかしコトバを用いた交換は、コトバそのものではなく、コトバを運ぶものへのまなざしの交換によって成立している。このまなざしが捉えるものは意識の作動に先行して意識にとどけられている。

    *

「I love you」──関係状況において、それは愛の表現でも悲しみの表現でも憎しみの表現でもありうる。関係の状況性、現実性は、コトバの指定性(一般意味)を踏み台にして、そこからつねに離脱するように、関係的意味を生成する。この生成の変容可能性、了解可能性の無限性、その相互的展開として現象し生きられていく関係のゲーム、言語ゲーム──生成的第三領域。

コトバの用在性(一般意味)は、この位相において、いつも背景に消えている。

 

 

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「Intermission──自由の本質」 20190827

2019-08-27 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=K4i76XiKViM

心が動く──その展開、企投が出会うさまざまな禁則、「できること-できないこと」の分割ライン。それはいまだ確定を留保する曖昧さを含んでいる。その条件において、その感知があるかぎりにおいて、「自由」という呼ばれるものの本質は顕現の契機をもつ。 

新たな情動生起、その連続的展開──〈世界〉の感触をみずからに告知する情動の生成、その連続的展開は、先行する情動と混じり合い、そのすべてを含みながら、ある「予期」を突端とする生成的構造において、新たな「ありうる」「ありたい」の展開するフィールドを開いてゆく──それが〈世界〉と呼ばれている。

「この世界!」と名指し可能な状態にあるとき、「自由」と呼ばれるものの本質的契機がそこに現われている。それをそれとして名指すこと、名指しできることを、それ自体として一つの理念としてカタチに結ぶことができたとき、言葉が与えられ、「自由」という名づけが行われる。

 この名づけは、しかし、経験的本質と同伴なしに、現実に着地することはできない。

Intermission──〈世界〉と存在が直列するとき、「自由」の位相は深く潜行したまま生きられることはない。

 

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「価値──その極相との遭遇」 20190826

2019-08-26 | Weblog

          https://www.youtube.com/watch?v=CKVuQVCcG7k

          https://www.youtube.com/watch?v=z_VDr-xQz_w

 

どんな〝現実real〟も眠りにつく時間はある。

しかしある価値の極相、その顕現と遭遇は〝現実real〟をねじ伏せ完全に眠らせる。

生の主題を示し、疑えない明証として〝価値アリ〟を告げるものとの遭遇。

一つの事件、発火、起爆──存在拉致として現象するこの上ない価値の所在を示すもの。 

「ありうる」「ありたい」の「極相」(idea)──みずからの生の本質の顕現としての「美の体験」、〝美〟なるもの。〈世界〉はいわばこの価値の極相を戴く構造として、あるいはむしろ極相に抱かれた構造として、そして生の理由を告げるものとして「私」において顕現する。 

ソレを「美eros」として経験し、みずからに示す自然界の住人は、ただ一人の人間、「私」しかいない。

この経験の本質は「私」においてのみ現象し、「私」の経験の内側以外には存在しない。

「経験の記述」、それはすでに「経験」を離れ、別の「経験」へと移行している(二次過程)。

 

 

 

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「指定性──内なる不可抗の命令」 20190823

2019-08-23 | Weblog

    https://www.youtube.com/watch?v=4mB-4r3bPTs&list=RDnub0ygpoFrI&index=9

    https://www.youtube.com/watch?v=QW99COxDyAw

 

すべては関係的に立ちあがり、変化し、展開し、関係的に終わり始まってゆく。

情動が告げるシグナルはつねに関係をめぐって生成し、変化し、展開する。

 「Good‐Bad」「True‐False」「Yes‐No」──それはデジタルな明示としては告げられない。

意味の連関は輻輳し、混じりあい、循環し、濃淡と強度を変化させ、ときに反転する。

 同時に、それじたいの展開において時制を滲ませ、記憶を刻み、そこから基底の動機を立ち上げるように予期を構成しつづけてゆく。

この展開の一切は「関係的本質」から離れることはない。

 関係存在──関係はつねに生成的であり、生成的であることが関係存在の自己更新の本質を示している。

「double description」(multi‐description)──

単独のプレーヤーに帰属させることができないアンサンブルの〝音〟の生成。 それは〈世界〉の生成そのものと照応している。 全プレーヤーが完全に独立性を保つことを条件としてのみ立ち上がる〝音〟の生成があり、〈世界〉の生成がある。 (独立性が失われるとき〝生成〟は衰退し、「因-果」的記述の形式の内側に収まってゆく)

          *

二重記述、多重記述──アンサンブルの生成性へのいざないが関係存在であることを選ばせている。               

         *

ある予期が告げる関係の創発可能性、激しい誘引──

〝あの人〟〝この人〟という内なる特別な指定性が、日常のフレームを逸脱するように存在に突き刺さることがある。 未知の「二重記述(double description)」への抗い難い予期の生成、たとえば、〝love〟という現象。

 

 

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「1998 転位する時間」

2019-08-22 | Weblog

 

6番目のシグナルは血脈を求めた

 「又、淋しくなった」

  瀰漫する虚無の累積と威圧に膝を折り  

 斃れていく無数のニンゲンの悲鳴が聞こえ  

 それをもっとよく聞きたいと思った

 焦燥は苛立ちと野望と渦をつくり  

 コスモスに拮抗するもうひとつのリアルを  

 いつか樹立したいという妄想に駆り立てられていた

7番目のシグナルは徒労を呼び寄せた

 手応えのない焦燥と苛立ちが生活を覆い  

 勝算のない努力に倦怠と退屈が重なり  

 エネルギーの自縛は弛緩へと流れた

 記号の森のフェスタは加熱し  

 哄笑にまぎれて不逞な自尊が励起し  

 かつて信じたことのひとつひとつに  

 バッテンがつけられていった

 なんでもありの賑わいと余裕に  

 怖気と吐き気を催しながら  

 迷路の出口がみえなかった

8番目のシグナルは霧散化だった。

  すべてがアトマイズされた果てに   

 憎悪が死に 愛が死に 友情が死に   

 感情は死んだように感じられた

 こころは嘆きたいのに  

 嘆きの起点が不在だった  

 嗚咽し 慟哭し 感涙したいのに  

 情動をつなぐ撚り糸が見当たらなかった

 エネルギーは零れるのに  

 めがけるべき相手を捉えることができない

 衝逼は切実なのに  

 身を投げる回路が不在であり  

 沸き上がる細胞の波立ちは  

 どんな表情も確定できなかった

9番目のシグナルは秘儀を暗示した

 言葉が織り上げる微細なぜん動が風景を分光し  

 開示されたスペクトルには  

 虚数のシルエットが隠れていた

 告発が帰結する和解でもなく  

 結詞が招く融解の風景でもなく  

 闘争を導く信仰や矜持や侮蔑でもない

 コスモスに裂開を導き  

 内側から視覚を発動させる何か

 こころは明かされたことのない秘儀の可能性を  

 信じることなく信じていた

10番目のシグナルはすべてを含んでいた

 どんな場所でも  どんな時でも

 これはこれとしてここにあり  

 それはそれとしてそこにあり

 ど真ん中の感情も  そこを外れたあらゆる感情も

 言葉はただ紡がれることを待っていた

 世界はその表情のうらがわに  

 最後の願いをもっており

 あでやかにか ひそやかにか

 みずからとみずからを取り巻くすべてを含んで  

 華やぎたい、という願いに深く担われているようにみえた

 シグナルはスパイラルを描いて入り乱れ  

 それぞれが指示する内容を重ね合わせながら  

 転位への運動を持続していた

 

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「二重の世界性」 20190820

2019-08-20 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=ueMw0HW9tcU

 

「善と倫理がなければわれわれは闘争によって互いを滅ぼし合う。しかし、美がなければ生の根本的な理由が枯死する。」(竹田青嗣『欲望論2・411)

意味と価値を告知する情動に彩られたランドスケープ(世界)の訪れ── この訪れは、つねに、先行的に生成する「われ欲す」に携えられている。

実存はつねに自らに訪れるランドスケープを詳細に走査するようにまなざしを凝らしている。 いかに生きるべきか、いかに生の享受可能性を拡張するか、よき生とは── それぞれの固有のランドスケープの訪れに触発され、意味と価値の問いをたずさえ、 新たな「ありうる」へ向かう企投が探索されてゆく。

このときランドスケープは「客観世界」として了解されている──

関係世界を生きるかぎり個と個を結びあわせる結節(関係項)としての「客観世界」は必然的に生成する。 関係存在としてわれわれは「関係世界」を前提とし、その記述の〝真〟をめぐり果てしない相克性を生きる。

「intermission」──

われわれには、しかしもう一つ、行使されざるあるいは見出されざるまなざしが潜在している。 「客観世界」からの規定としての実存ではなく、実存において生成するランドスケープとしての「客観世界」。 「客観世界」の自明性(不動性)から照射される実存ではなく、 実存(生)の主題において変幻するランドスケープの現われ、その生成性を見るまなざし。

〝世界〟の生成を捉えるまなざしは、ある反照から現われる。 まなざしが「客観世界」が一つではなく「客観世界」の多様性、多数性に出会い、 みずからのスコープに収めるとき、その理由と根拠への問いへとみちびかれる。

     *

絶対的な唯一の客観(本体)としての世界ではなく、 生成する意味と価値のランドスケープ、としての世界。 この生成性に向けるまなざしを見出すことでもたらされるものとは何か──

絶対と絶対が出会うとき、そこには必然的に対抗の論理が動きだす。 このとき絶対はみずからの記述の変更の動機もたず、 別の絶対を〝騙る〟存在に変更を迫り、かなわなければその抹消へ向かうことがある。

     *

絶対の生成性の理解から、絶対の刷新可能性へ── このことの了解においてはじめて「絶対」と「絶対」の停戦のテーブルが誂えられる。 そしてそのことの契機は絶対の生成的本質をとらえるまなざし以外にはない。

なんのためにか──〈世界〉の豊穣化の原郷としての「生成」の原理、 このことからみずから見離されないために。

 

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「経験のモード」 20190818

2019-08-18 | Weblog

 

      濁った風が吹くとき予感された純潔を消せ    

        集められた廃疾の物語をまえに未来を語るな

希望を語ることが虚偽に転じる転移点がある

ただそこにたたずむことでしか示されないことがある

未来と希望へ向かう高揚から失われる経験の実質がある

 しかし「そうしないこと」を選択することは難しい

困難を克服するには見出すべき条件がある

「そうしないこと」を「する」ことの積極的意味──

ほんとうの「未来」と出会う条件となるように    

         *

少しでも距離を埋めようとすると

すみやかに遠ざかっていく

なにか誘うシグナルが動いている

なのに向かう唇を拒むものがいる

呼ぶ声が響いている

けれどもわずかな接近さえ

禁じる声が混じっている

願うことがすでに接近を意味していて

明示の気配が滲んだ途端に

変異の種子が芽吹いていく

接続のラインが希望へ向かうと

透明な裏切りへと転位していく

     無形なものには無形を   

    有形なものには有形を

語りえないものは聴こえている

物語に奉げることが

虚偽に転移する境界をまたいではならない

忘れないでいよう

どんなに難しくてもその意思だけはキープしよう

 

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「客観」の用法 20190816

2019-08-16 | Weblog

 

われわれは「主観」から抜け出すことができない。

しかしそのことはしばしば忘れられ、あるいは常時忘れられる。

 

主観Aと主観Bは相互に固有の実存を離脱して入れ替わることはできない。

それぞれの経験の入れ替え不可能性、固有の生の一回性、かけがえのなさを生きるほかない。

 

にもかかわらず、主観内には主観ならぬ「客観」という概念が生成する。

 「客観的に言えば~」──と主観は語る。関係場面において頻出するクリシェ。

 

みずからのコトバの妥当性や正当性を修飾するクリシェとしての「客観」。

主観と主観の関係場面において、相互のちがいや矛盾や対抗を超えることが可能なように、

関係しあう主観すべての納得と了解をめがけるように生成する「客観」という〝関係項〟。

 

主観が主観にはたらきかける「主観の一様態」としての「客観」(ニーチェ)。

すなわち、「関係のゲーム」における〝ゲーム仕様の主観〟、としての「客観」。

 

「主観」をこえた正当性をもつ位相にあるコトバ、という自己規定。

そのことをめがける「主観」の意思と結びついた「客観」という言葉。

その由来、動機はつねに関係場面において発動している。

 

自己中心的でないこと、独断論ではないこと。

そのことの自己申告としての「客観的に言えば~」という言明。

    *

「客観」という実体(世界)は存在しない。

ただし「客観」という信憑、確信は「主観」内に生まれる。

「主観」と「主観」を結びあわせる「関係子」(関係項)としての「客観」(という観念)をもとめる根本ニーズ。

結び合わせるパターンの多様な形式、ゲーム関係者の総意として承認を調達する〝客観的確定記述〟としての関係項の生成。

関係世界の関係存在として生きるかぎり、原理的にこのことを滅ぼすことはできない。

 

関係項(客観)の適切な構成と用法の決定的な重要性──

その人為性、生成性の自覚的な共通の了解の有無。

 

「客観」の用法において適切なありかたを身につける必要がある。

なぜか。「客観」は暴走する──個の制圧、蹂躙を正当化する〝超越項化〟という機制。

   *

「客観」という概念の適切な書き換え──主観同士の「共通了解」(関係項)としての「客観」。

その人為性、生成性、さらに刷新可能性についての自覚の必須性。

 

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「先生の言葉」20190814

2019-08-14 | Weblog

 

モノには名前がついています。

けれども名前がまだつけられていないものもあります。

そのことを示し語りあうのはとても難しい。

なぜなら名前がないからです。

 

世界は名前のついたものだけで出来ているわけではありません。

そしてそれはモノだけではありません。

たとえば、まだ名前のない感情。

ずっと名前のないままの感情というものも考えられます。

 

ぼくたちはそれをどうもてなしてよいのか、曖昧なままです。

なぜなら、どう語ればよいのかわからないからです。

 

感情は一人の人間のこころに生まれます。

生まれたての感情に、こころはさまざまに色めき立ちます。

そしてそのことを経験し、味わっているのはただ一人の「ぼく」「わたし」です。

おなじ感情を同時にふたりで経験することはけっしてできません。

 

うれしい、かなしい、おそろしい、にくらしい。

名前をつけることで、ぼくたちは自分の感情を確認したり、ほかの人につたえようとします。

辞書を開けば、そうした名前のリストがたくさん載っています。

名前をつけてきたぼくたちの永い歴史の記憶をまとめたものといえるかもしれません。

 

けれどもしも名前がつけることができなければどうでしょうか。

「どう語ればよいかわからないもの」をなんとかかたちにして伝えたい。

そういう気もちを抱くことはごく自然なことですね。

 

この思い、この感情、この印象、この情景。

それにふさわしい言葉が見つからない。とても説明ができないような、ある感じ。

なんとかその人に、みんなに伝えたいという感情が湧きあがる。

けれどものその手だてがみつからない。

それでみつかったものだけ、さしあたり名前をつけられるものだけを伝えあう。

 

きょうも、いまも、いまだ名前を与えられていない感情とともにわたしたちは生きている。

そんなふうにいうことができるかもしれません。

 

そのことはとても鮮明なのに言葉によって運び伝えることができない。

そんなときはとても苦しい感じがします。そしてその苦しさそのものにも名前がない。

 

それでもぼくたちはむりにでも名前をつけようとする。

ぼくたちはそうすることで、そうしようと試みることで何を求めているのでしょうか。

それはなぜ言葉が生まれるのかというとても本質的なことにつながっているかもしれません。

 

いまある言葉を使って、生まれたての感情、生まれつつある新しい経験に名前をつける。

名前をつけてだれかに伝えたいと願うこと。

それはうまくいくこともあるしそうでないこともある。

なぜかそうしたいと願うこと、願いを実現したいと試みること、

ただそのことだけはだれも疑えないだれにとっても当てはまる真実であるように思います。

 

 

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「心身二元論、その必然的生成」 20190813

2019-08-13 | Weblog

 

「精神は身体のメカニズムの意味である。(しかし)身体のメカニズムに焦点を合わせるとき、 この意味は視界から消えてしまうのである。」

Mind is the meaning of certain bodily mechanisms; it is lost from view when we look at them focally.──Michael Planyi

             *

世界感受、世界分節の主体としての身体は、世界を対象化し「用材化」する固有の実存を生きる。

 何らかのはたきかけ(治療・訓練)の対象としての身体は「用材化」される。

 

 

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「言語ゲーム」 20190810

2019-08-10 | Weblog

        https://www.youtube.com/watch?v=sHdjiLGNzMo

 

言語ゲームが導くあらゆる関係状況をめくり返すと、そこには必ず「われ関係を欲す」と記述されている。

どんな関係を望むのか。

関係企投が向かう存在対象があり、関係において成就する何か、その予期に担われた関係企投の意志の展開がある。

 

予期の相互性においてゲームは展開し、相互の予期と予期が出会い交わることで、せめぎあい、親和し、憎悪し、対立し、融和し、関係は生成的に「第三の位相」を立ち上げていく(double description, multi-description)。

 

主観は主観の外に出ることができない──

しかし関係企投は〝脱自〟、主観の外に出て出会うこと、出会えることを「確信」している。

この不可疑の「確信」によって、正確にはこの内的な疑えなさだけが言語ゲーム全体を支え動かしていく。

 

原理的に主観は主観と相互にのぞき込むことも入れ替われることもできない。

主観と主観はまたぎ越すことの不可能な「淵」によって隔てられている。

「われ欲す」──この「淵」の原理性にもかかわらず、われわれは乗り越えられない「淵」を渡りあうように関係のゲームを形成し、人間的生の一切を展開させている。

 

 

 

 

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「言語ゲーム」 20190809

2019-08-09 | Weblog

                    https://www.youtube.com/watch?v=zIz85dwehIg

 

ボールゲームにおいて〝ボール〟が必須であるように。

言語ゲームにおいてわれわれは、みずからの内に、

〝他者を棲まわせる〟ことでプレーヤーとしての属性を獲得する。

 

自己と対話する動物──関係存在としての人間的生。

人間的身体(幻想的身体)は、「自己-他者」のまなざしが出会い、

せめぎあい、親和し、対立し、輻輳し、関係項を生成するトポスとして構成される。

 

関係項の生成──コトバの交換可能性、共有可能な確定記述へ向かう展開において、

解放としても抑圧としても変異するその両義性。

      

関係項からの規定としての「個」。

個からの規定としての「関係項」。

 

人間的自由の生と死をわける関係項の用法、その取り扱いについて。

「個」(プレーヤー)の経験的本質からの生成として、

その派生性において「関係項」を捉えること。そのことの決定的重要性。

 

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