ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「インターミッション」20181029

2018-10-29 | Weblog

                https://www.youtube.com/watch?v=zCSG0qV5aGI


   *

非知を既知に還元し、その先に「明徴のカミガミ」を見ることで、
すみやかに霧散してゆく非知のクラウドがある。

知ること理解することと〈世界〉が一致すると、
生成としての〈世界〉を失うことになる閾がある。

   *

情動とスキマなく直列した行為モードが出会えない〝結界〟があり、
直列状態を外すことではじめて扉が開かれる経験の位相がある。

コトバがその裏側に回り込めず、回り込もうとすると別のものに変質してしまう、
コトバの動機そのものがそこから始発する不可視の域がある。

経験の記述を拒み留保することによって、
はじめてその作動の本質を目撃しうる〝閾〟がある。

コトバに先行して生きられ、コトバがそこから動機を与えられる、
始原的な経験のモードはつねに持続している。

コトバの切り取りが指定する場所への着地を拒みながら、
始原への帰還をみちびく細い道があることを知る関係がある。

   *

インターミッション──〝魂〟が息つぎすることを許される「関係の域」があり、
相互に始原的地平への帰還を許し導きあう作法がある。

コトバを結ぶことより早くつながる関係のモードがあり、
記述の誘惑をしりぞけ停止することではじめて照らされる関係の位相がある。

   *

インターミッションがそこに用意される──
すこしでも急ぐことでソレが消えてしまうかのように。

「……………」

ちいさな休止符が日常の楽譜に書き込まれ、
お互いに魂に息つぎする位相が与えられる──その連続的展開。

記述と非記述の絶えざる入れ替わり、
いいかえると相互的な試行が連続しながら、
休戦状態のまま関係の強度を高めあってゆくプラトー。
生成に向かう意志の強度を相互に蓄え与えあう関係的モードがある。

「……………♪♪♪♪♪」

   *

行為と行為の間にスキマを開く非直列的作動があり、
始原の〝発火〟を目撃し、意味生成の原郷に身を浸して生きる位相がある。

決議保留、判断停止の位相に開かれた心的経験の位相、
そのことへの了解性がみちびく相互的な承認の位相がある。

   *

「ありうる」をめがける根本動機の起点に未規定性(わからなさ)があり、
「ある」「ありき」「あるべき」のバインドをほどいて結び直すことが許された、
新たな「ありうる」の予期がわき立つ〝関係の踊り場 plateau〟がある。

いまここにたえず現象している〝生成としての世界〟を告げるように、
「私」と「あなた」、それぞれが生きる位相に承認を与えるように、
相互の非知性、不確実性を享受可能な資源に変換するように奏でられる関係があり、音楽がある。

   *


 

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「二重記述・多重記述」20181023

2018-10-23 | Weblog

                          https://www.youtube.com/watch?v=vwZF6BcFBes


語りうる水準で語りあうのではない
わかりあえる水準でわかりあうのでもない

理解できないことがかなしいのではない
理解してしまうことで消えていくものがある

理解のポケットに慌てて収めないことで
未知の未知性、非知の非性のままに
もてなしの意志が動きだす関係のテーブルがある

理解できないことの理解できなさ
語りえないことの語りえなさ

知りえないことの知りえなさ
わからないことのわからなさ

相互に非知として向き合い生きあうかぎりにおいて
はじめて開かれる二つの記述がまじわる位相がある

みずからの記述の形式に収納できないということ
みずからの分節コードによって規定できないということ

ちいさな理解のポッケに収められない生成として
相互に認め合うかぎりにおいて
自明性の外側に開かれてゆく未踏の第三の領域がある

相互に相互にとっての非知を資源として
新たな記述形式が立ち上がっていく

二重の記述から立ち上がる未踏の記述形式があり
相互の記述形式が交わることで加えられる〝世界の奥行き〟がある

  *

関係了解の過度の自明性がゆるむことで、
開かれていく新たな経験と再組織化へ向かう位相があり

関係了解の過度の自明性がゆるみ、
相互の「非知」性がオープンになることで、
逆説的に、活性を増して形成的に動きだす関係の位相がある。

  *

 

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出発の日に。2018年10月21日

2018-10-21 | Weblog

                 https://www.youtube.com/watch?v=sBSYXcNfIdw


狼──徹底したニヒリズム。

底を打った虚無の淵から生成する新たな視覚がある。
底を打つことを条件としてのみ生成する視覚があり、
照らし出される内なる作動の光景がある。

〈世界〉の到来──みずから預かり知らぬ非知性において示される〈世界〉。
到来が現象する位相としての「自己」があり、
それを目撃し経験している意識(自我)がある。

それをそのように、これをこのように、あれをあのように、
見させ、感じさせ、なんらかの配慮を促すように動いている内なるプレゼンテーション。
「自己」がなすみずからのプレゼンテーションとしての〈世界〉。

それをただ一人、目撃し、感じ、触発され、誘因として、あるいは忌避として、
生き抜いている存在としての「意識」(自我)がいる。

開かれる意味と価値のランドスケープとしての〈世界〉。
その色合い、感触の疑えなさを絶対的始原として動いている「私」という意識。
そのことの了解からはじめて開かれる視覚がある。

限界線の確定。すなわち、物語、形而上的独断論へと越境する推論の禁止。
推論から導かれ自己の外部に設営される虚数項、超越項の一切の完全棄却。

自己の外に推論された価値の極相と関連づけることでリストアップされ位階化される、
「私」の経験の諸相──そのことの徹底的な否認。
そのことをただ一つの絶対的条件として、
そのことではじめて可能になる二重記述・多重記述の「関係的な」創発の位相がある。
そのことの原理を明証的にシンプルに示すこと。

 


 

 

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「羊と狼」 20181020

2018-10-20 | Weblog


インターミッションの消去──情動と行為の直列状態。
生成の契機を失くしてゆく〈世界〉。

あれはあれ、これはこれ、それはそれ、かくありき、かくあるべし。
創発の原郷を捨て去るように、事後的に確定される世界記述。

それが先行的に未来を、そのありようを指定しはじめる倒錯的な世界記述の一元化。

未踏の、生成可能性の領域の先行的〝過去化〟──。
〝過去化〟が意味するもの、そのことで何が獲得されるのか。
その詳細な精確な動機を明らかにする必要がある。

なぜか──
可能態から既定態への全域的な変位。創発の原郷の全的棄却。

記憶と学習──資源としての経験のクラス、その概念的一元化による把持。
特定の〈世界〉(というランドスケープ)との癒着、癒合。

癒着状態の正当性を補強するように選択的に集合する経験と学習。
〈世界〉経験を制御するそのパターン化された解釈コードと禁則コード。

目撃したもの目撃するものの絶対化、共同化、統一像の一元化。
その偶有性と必然性の本質について。

「羊」と「狼」が分岐する地点──
羊はすべてを外部化し、狼はすべてを〝ワレ〟のこととして引き受ける。
外部は存在しない。ただそれは、〝ワレ〟の構造から必然にように浮上する虚数項を意味する。

 

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学習、L'enfance

2018-10-16 | Weblog

      https://www.youtube.com/watch?v=sBSYXcNfIdw


これはこれ、あれはあれ、それはそれ。かくあるべし、かくあってはならぬ──
〈世界〉を教える記述命題のつぶてが嵐のように毎日「あなた」を襲っている。

日々の生活は、同時に、〈世界〉へのガイダンス、オリエンテーションとの遭遇でもある。
ただし、ガイダンスやオリエンテーションそれ自体が「真であること」を承認する理由も、
それを否認しうる確かな根拠も「あなた」はもっていない。

学習は二重の対話として進行する。
「快/不快」を分光するみずからのカラダが示すものと、
「よい/わるい」を指定し、ほほえみと怒り、やさしさときびしさ、
許しと禁止のコトバを投げかける「母なるもの」との対話。

この二重性は合流して「言語ゲーム」として展開してゆく。
二重性から生成する、葛藤・不全感・不安・いらだち・焦燥・怒り・悲しみ・懐疑、
そして親和・歓び・楽しさ・期待・発見・いやし・安心。

了解と納得。肯定的な関係のエロス(快)。
そのことをどこかで学び、深く基底に沈めること。

そして、いつか、ある時点で、それ以上に学んでおきたいこともある。
多様な学びの存在。あることを学びうることと学び損ねることの偶有性。

そのことの了解と〈世界〉をめぐる意味と価値の生成と消滅の可能性、
その位相を成立させている普遍的な「本質」について。
そしてそのことが可能にする合流可能性について。

 

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20181009 「原理の思考」へ

2018-10-09 | Weblog

             https://www.youtube.com/watch?v=zCSG0qV5aGI


〝世界記述〟の絶対性、真理性、固有性がゆるむ位相に発するコトバ。

「ヒトそれぞれ」
「人生いろいろ」
「みんなちがってみんないい」

ロジカルタイプを踏み上がると相対化のまなざしが、
いわば人類学的視線が生きる相対性の位相が現われる。

日常の、それぞれにとっての〝真〟同士が出会い、齟齬や矛盾や抗争を生む場面で、
ある意味で、〝停戦〟のテーブルが用意される位相といえる。

ただし、「それぞれには理由があり由来がるあり、それぞれの妥当性がある」は、
同時に、「根本的で原理的な真=世界記述は存在しない」を暗々裡に示している。

この宙吊りのままの状態で「現実」を構成することはできない。
つまり、相対化、相対性に留まりつづけることには限界がある。

この限界はつねに「力の論理」によって乗り越えられてしまう可能性がある。
少なくとも「力の論理」に拮抗的できない弱さを脱することができない。

この位相からさらに踏み上がらないと現実を構成できない別の位相がある。

 

 

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20181007 「客観」の拡張の原理。

2018-10-07 | Weblog

              https://www.youtube.com/watch?v=6P0OuqW9qZQ


「客観」の生成──

ストライクゾーン、オフサイドラインと等しく、
自然界に存在しない、物理的にマップ不可能な、
人間的関係世界にのみ創発する関係項、関係子。

それぞれに固有のプレーのエロスを享受可能にするゲームの生成。
それぞれの関係世界のローカリティの中で、
その多様性と多数性において生成するゲームがあり、
それぞれにゲームを可能にする条件として要請される〝関係子〟がある。

あらゆる関係のゲームがもつ普遍的要請としての〝関係子〟の本質。
この普遍的本質を共有するクラスのメンバーとしての「客観」「真理」「正義」「倫理」。

ゲームの拡張、普遍化の条件──
ローカルなゲームの関係子の棄却、新たな関係子の創発。
そしてなにより〝関係子の創発可能性〟をめぐる本質的な認識論、原理の確立。その共有。

 

 

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