https://www.youtube.com/watch?v=QpL-ED9cQ5I
なに・なぜ・どうしたら──
問うことのうちには、つねに新たな企投への意志が滲んでいる。
生の主題(欲望)は問いのなかに記述され、
新たな「ありうる」へ向かう意志として示されている。
われわれの経験のすべては「いま、ここ」以外にはない。
しかし実存のうちがわから経験をみるとき、
「いまここ」「このこれ」として時点的に切り取られた記述として、
人間的生の経験を示すことはできない。
かつて・いま・これから──
われわれのあらゆる経験にはつねに時制が滲んでいる。
均質な直線として実体化された過去-現在-未来、
あともどりも先行することもできない厳格な数学的展開としての時間ではなく、
人間的生にとっての世界経験の意味的な秩序としての「かつて・いま・これから」。
そのことの了解のうえで、「いま、ここ」を出発点と捉えること。
つねに展開形として生きられている人間的生の本質から「現在」をみること。
さらに、このことを「世界の生成」という言葉に置き換え経験の本質をみること。
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実存──「世界生成」の唯一つの源泉であること、その固有性、各自性、一回性。
さらにそれ自体の生成性と歴史性、そして完全消滅するものとしての実存。
その生成の現場に立ち入らないという基本的、そして絶対的な作法。
立ち入ることを許された特権的な存在者はどこにもいないということ。
本質的にはそのことが絶対に不可能であることの認識。
それは、現実の論理が〝力〟を中心に展開して行こうとするほど、重大で決定的な意味をもつ。
そのことで何が守られるのか。
答えはきわめてシンプルである──人間的生として、ともに生きるために。
意味と価値の生成のただ一つの始原、人間的自由が湧き立つ位相。
それぞれがそれぞれ自身にとって唯一つの世界生成の始原であり、
そして相互に世界を与えあい、交換しあう存在であろうとするかぎり、
そのことは必然的に、不可避的に守られるべきものとなる。
とんなに事態が関係の病理の猖獗として展開しようと、あるいはそうであればあるほど、
われわれが守り抜かなければならない始原があり、関係の作法がある。
そうすべきことの理由を、要請としてではなく、命法としてでもなく、
大いなる「然り」において認めるために、知るべきことがある。