ASAKA通信

ノンジャンル。2006年6月6日スタート。

「〝不可知性〟──その本質」20200925 20190925

2020-09-25 | Weblog

 


「タンポポの花一輪の信頼が欲しくて、……一生を棒に振った」(太宰治『二十世紀旗手』)

そんな存在の姿をあからさまに見ることは少ないけれど、(多くは秘め事として)
人間が魅せられ誘われる不可抗の力の作用、そのことは普遍的で自明なことだと思える。

          *

問いを生む存在。一切は「問い」の生成から開始される。

理解を求め、なんらかの理解を充てることで組織化する原理。

内なる問いの生成は、つねに抗いようのない〝非知的〟な到来性として現象する。

「世界とは何か、そして他者とは。その意味とは」──
みえざる全体、〈世界〉に接近を図るとき、人間は物語=神話というツールを駆使してきた。

全域を視野に収める「全知」が表象され像を結ぶとき、信仰の共同性が立ち上がるルートが出現する。 
そのことから帰結することになる世界の様相──
「信仰の共同体」の乱立、対立、抗争、そして調停、糾合、共存共生への試み。

物語の封印──見通せない全体性(という表象)に物語による回収、加工処理と修飾を加えるのではなく、
全知ならざる人間のまなざしのままにとどまるという、それとは別の、物語を用いない構えがある。

一般像として確立された「カミ」(客観、真理、絶対善)という参照系への帰依ではなく、 
それ(絶対命題)から演繹される「人間、私、社会」ではなく、 絶対命題の生成のただ一つの起源、
「主観」の世界経験の構造から「カミ」の生成を捉えかえすまなざし。

「主観は主観の外に出ることができない」

この原理に忠実にしたがうかぎり、 問いが向けられる相手はつねに「主観」であり、
認識論的な問いの核心は次のようになる。

――「世界とは何か」、ではなく、「世界とは何か」と問うわれわれの経験の本質とは何か。

見通せない世界(全体)、そして見通せない他者──
見通せず語りつくせないものとして主観に現出するものの隔絶性。 
それは孤独の本質であると同時に、隔絶した存在とかかわりあうことの意味本質が主題として浮上する。

たえざる〝挑発〟としての世界、他者の現出。
生の動機、理由を与えるものとしての、その始原的な所与性。

物語(カミ)の封印。そのことを徹底し、主観(実存)の内側にとどまり、
ここでのみ現象する隔絶した存在(世界、他者)と交わること、
理解すること、働きかけることの「試行性」が明らかになる。 
そして試行をとおして告げられる「わたし」の情動の動き(情動所与)。
この循環のなかに「わたし」の生が展開してゆく。

一切のてがかりはこの所与のなかにあること──意味と価値が生まれる「はじまりの場所」。

そのつど、つねに新たな相貌で現われる「見通せない世界(全体)」、「見通せない他者」の姿。
この「非知性」は原理的に消去することができない。

このことが示す意味──人間的理解の〝可謬性(修正可能性)〟から導かれる結語。
すなわち、最終解、究極解、究極解、絶対的真理は原理的に存在しえないということ。

相互の隔絶性は消去できない、にもかかわらず「了解と納得」は生まれうること。
その相互的な了解、合意は生成しうること、そして現に生きられているということ。

隔絶性、試行的企投性、その可謬性、にもかかわらず生まれる合意可能性。
こうした思考、認識、関係の本質から導かれる人間的知恵、かまえ。
つねに試行へ赴くスペースを用意し、新たな記述を可能にするスキマをキープすること。

 

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