蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

身から出たサビ

2017-09-21 | 趣味
わたしは、努力嫌い。
いつもサボることばかりを考えている。
いかにすると、手を抜き、効率の良い結果を出せるか、試行錯誤する。
そんな「手の抜き方」の試行錯誤なら、手を抜かず、一生懸命マジメに真摯に取り組んだほうが、早道かも知れない。

嫌だ嫌だと避けても、結局は、やらなければいけない、通らなければならない道なら、ぐずぐず入り口でダダをこねてないで、潔く努力の道に突入すればよいものを。
努力しない道を探すことに、全力をかけ努力している。
これって、明らかに努力の方向性、方法を間違えている。

努力しなければ、思いは達成しない。
努力せずに思いを達成しようとするなら、努力を怠った分の内容しか、思いは達成できない。
ちょっと、ほんの少しだけ効率が良いとしても、30%の達成率のところが、40%になるだけであり、100%からは程遠い。
頭から努力をしない方針で計画を立てている。
そこに、わたしの、何事も達成できない、超中途半端な、サボり人生そのものが凝縮されている。

サボっているのだから、結果を受け止めなければいけない。
自分のやったこと、自分の判断したこと、自分の能力に対する結果は、誰のせいでもなく、自分のせいである。
より達成率を上げたければ、サボるのはやめて、努力を重ねるしかない。

努力を重ねて脂汗をかき、苦しいけれど乗り越え、達成感、充実感を味わうのだろうが、、、
悲しいことに、わたしは充実感を得る前に苦痛のために、努力を放棄する。
ここが頑張りどころ、という点に立つと頑張れずに倒れる。
根性がない。

頑張れないということは、目標設定が高すぎるのではなかろうか。
あっさり降りて、自分を守ってもいいのではないだろうか。
戦おうが、降りようが、負けは負け。
負け犬、負傷兵で目に見えない傷を負いながら、静かに生きていてもよい。

戦う勇気、立ち向かう精神は目立つし、称賛に値するが、戦わないのは意気地なしと見なされ蔑まされる。
蔑まされてもいい。
世間の称賛を浴びたいために、わたしは生きているのではない。
自分のために生きている。
なので、戦うか戦わないかは、自分のこころだけに忠実になる。

いま、こころの声を聞こうとしている。

昨夜、あと数秒で戦いから降りるところだった。
降りる具体的なアクション・ツールとしては、スマホ。
入力はしたが、送信をためらっていた。
まだ迷っている、意思が固まっていないのにその段階で、誤って指が滑ってスマホ送信してしまっていたとしたら、事態は変わっていただろう。
一日、待とう。
そう思い、送信画面に何度も行ったが、送信するのを思い留まった。

しかしながら、戦いから降りたところで、また新しい戦いが待っている。
自分が変わらない限り、戦いはずっと続く。
自分が変わるというのは、努力して自分を高めるということだ。
努力を放棄して戦いから逃れても、目標から脱落した自分とどう向き合い、どう認めるか。
答えは、、、「諦める」。
惨めになった事柄から遠ざかる、距離を置く。
戦って負けた時と、結果は同じ。
戦っても戦わなくても、どっちみち、同じなのだ。

個人個人の性格は違う。
戦わないで負けるなんて、そんな屈辱は耐えられない人もいる。
戦っていたら勝っていたかも知れないのに。
「飛び込むんだ、勇気を出して!」
などと映画のワンシーン。

戦うか戦わないか、考えて考えて、究極のところまできたら、わけがわからなくなって、その場の成り行きに任せそう。
黒田官兵衛には、なれない。

いいかげんな人生。
いいかげんな性格。
わたしは、アタマのネジがゆるい楽天家?

が、考えて考えて、悩んで、わけがわからなくなること自体、戦いの真っ最中なのかも知れない。

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