箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

自己責任とは

2018年11月21日 10時16分52秒 | 教育・子育てあれこれ



紛争地を取材するために入ったジャーナリストが捕らえられ、解放されたときわが国では「自己責任」で行ったのだから、捕まえられても仕方がない。

くわえて、周りに迷惑をかけたのだから、謝るべきだという批判が、ネット上でそのジャーナリストに向けられました。

私は、この批判が適切かどうかについてコメントをする立場ではないので、差し控えます。

しかし、その「自己責任」について考えていることがあります。

それは、わが国では、自己責任という言葉が、本来の意味とは違う意味で、現在使われていることです。

1990年代に、わが国で「自己責任」が言われ出したころは、「自己責任・自己決定」と、二つの概念が並んで使われていました。

自分の行動を人まかせにせず、自分で責任をもち、主体的に意欲的に日々の生活を送り、自分の人生や生き方を自ら決定していく大人にしていきたい。同時に、他者とつながり、協力しながら生きていくという教育的な意味をもつ言葉でした。

私は英語科の教員であり、英語での自己責任については、次のように理解しています。

Self-responsibilityとは、たとえば・・・

「山に今日登ってもいいですが、途中で暴風雨になると聞いていますよ。事故が起こりやすくなることは分かっているよね?それでも登山を楽しみたいなら、行くのは自由だよ。」です。

つまり、この場合、行くなとは言っていないのです。行く人の自由も認めているのです。

これが、本来の自己責任の意味です。

しかし、わが国で現在使われている「自己責任」は、行ってはいけないと言っているのに、それをきかずに行ったのだから、自分で責任をとれ、自業自得だという、誤った解釈になるのです。

また、「あなたの貧困や生活苦は、あなたの努力が足りなかったたからだ」ときめつけるのも、誤った自己責任論に基づいています。

本人の力だけではどうしようもないことを、本人の責任だと責める今の風潮に、私は違和感と戸惑いを覚えます。

たとえば、貧困で学費がなく、大学進学をあきらめるのは、本人の責任ではなく、社会のしくみの問題です。

それは、個人の責任にかえしてはならない問題です。


今の日本社会は、みんな余裕がなく、閉塞感も漂っています。何か息苦しさを感じながら生活しています。

失敗すれば、お前自身のせいだから、仕方がない。

今の時代は、「自立」として、誰にも頼らない孤立を子どもや大人に強いることになってはいないでしょうか。

私が三中の子どもたちに伝えたい「自立」は、

学校教育目標にあるように、

自分でできることは自分の力と責任でやりましょう。でも、人にはできないこともあります。そんなときには、「助けて」と言える豊かな人間関係を広げようね、ということです。

三中の子には、つまずいたり、失敗した人に自業自得だとは言って排除しない、そのつまずきや失敗の後ろにある社会の問題を見つけ、他者とつながり、助け合って生きていく人になってほしいと、強く願います。