経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

「君民令和 美しい国日本の歴史」ch2大仏開眼 注2

2022-01-29 00:21:56 | Weblog


[君民令和 美しい国日本の歴史」 ch2大仏開眼 注1
(年表)
大宝律令制定・701年
平城遷都・710年
太安万侶「古事記」を撰上・712年
行基の活動を禁止・717年
養老律令完成・722年
三世一身の法・723年
聖武天皇即位・724年
長屋王の変・729年
多治比広成遣唐大使・732年
藤原広嗣の乱・740年
国分寺国分尼寺建立・741年
墾田永世私有の法・743年
行基大僧正・745年
大仏開眼供養・752年
藤原仲麻呂の乱・764年
道鏡法王に・766年
称徳天皇死去、光仁天皇即位・770年
(時代区分)
 年表に示した通りです。平城遷都・710年から光仁天皇即位・770年を奈良時代と言っております。都が平城京・奈良にあった時代です。
(官制)
 聖徳太子、天智天皇、天武持統天皇は政権の中央集権化に邁進してきました。その標識が701年天武天皇の時、制定された大宝律令です。それ以前に近江令(天智天皇)や飛鳥浄海原令(天武天皇あるいは持統天皇)が制定されたとありますが、現存するのは極一部しか確認されていません。722年養老律令が制定されます。ところが大宝と養老の二つの関係がややこしいのです。大宝律令は制定されたがそのほとんどは残っていません。養老律令は制定されたが実施されてはいないと言われます。そして大宝律令の名でほぼ養老律令と同じ内容が施行されたそうです。とまえ大宝・養老の二つの律令制定で100年間の中央集権化は一応完成しました。律令の内容を説明するより奈良時代の官制を説明した方がいいでしょう。法律を具体的に示すものが官制であるからです。また大宝と養老の二つの律令制定の主導者は藤原鎌足の子供である不比等です。この事はいくら強調しても、したりません。
 中央官制は二官八省が基幹です。二官のうち一つは神祇官ですから直接政治には関係しません。もう一つが太政官です。太政官は議定官、行政官、事務局からなります。議定官は左右の大臣に二名程度の大納言からなります。後に中納言や参議が追加され、権官の制も加わって最大30名弱にまでなりました。ここで政策を議定しほぼ決定して天皇に奏上します。決定された政策を執行するのが行政官です。中務、治部、兵部、式部、宮内、大蔵、刑部、民部の八つの省からなります。現在の日本の財務財とか防衛省に相当します。決定された政策を実施します。事務局は左右の弁官(大中小の弁)と少納言局そして内外の外記からなります。事務局は情報を整理し文書化して法と為し、それを議定官に取り次ぐ役目でした。従って左右大弁の役目は重要で出世の踏み台になります。天武持統朝でまず急いで制定されたのが弁官でした。現在で言えば政府官房と総務省に当たるでしょうか。
 地方は国司・郡司制です。任務は徴税と治安維持です。国司は長官の守、時間の介以下四段階ありました。郡司制も同様です。八省も四等官制です。日本の律令制はほとんどの部位で四段階の地位つまり四等官制をとります。任務分担もありますが、互いに競わせて牽制しあい権力が一部に集中しないように配慮されていました。
 税制は租庸調と出挙および雑徭です。租とは田稲つまり田畑の収穫物への課税です。この租はほとんど地方政治の費用として使われました。庸は労役で、調は諸国の名産品例えば絹麻塩鉄などなどです。これらは中央に運ばれ政府の財源になります。出挙は稲の貸付です。国司が農民に春、稲モミを貸し付け秋、収穫物から利子を加えて返させます。現在の感覚で言えば高利になりますが、一粒のモミは数百の米になりますので見た目ほどの高利でもなかったようです。この出挙は金融制度の始まりになります。私人が出挙すれば私出挙と言い、金融になるのですから。問題は雑徭です。これは国司(特に長官の守)の判断で必要と認められれば最大50日以内で農民を労役に使用できるという制度です。50日と言えば仮に一年330日働いたとして15%の利子になります。農民の苦痛の種、そして国司の私的蓄財の温床になりました。
 兵制は徴兵制です。兵士は武器自弁です。これが北九州の沿岸防備に廻されると防人になります。いやいや従軍するのですから強兵であるはずがありません。新羅との緊張が緩和するに従い徴兵制は崩れ、郡司の子弟を中心とする騎兵集団の健児制になります。日本には古代から「伴」と「舎人」という二つの兵制がありました。伴は大王に仕える軍事氏族の軍隊です。大伴・物部氏がこの任務を担いました。この伴が後宮門警備の衛士更に変化して衛門府の兵士になります。舎人は地方の豪族から人質として献上された子弟です。舎人が大王天皇の親衛隊になります。後の兵衛府です。また中央集権化が進むに従い政争も激化します。そこで天皇の身辺を警衛するための特殊兵団、授刀の舎人(太刀はきの舎人)が造られました。これは事実上藤原氏の私兵で政争には常に動員されました。授刀の舎人は後近衛府になります。
(政争)
律令制の発展の結果である官制を概観しました。ではこのような制度は円滑無血に葛藤なく行われたでしょうか。ま反対です。政争と流血に彩られています。673年即位した天武天皇は皇親政治を推し進めます。政府首脳は天皇と鵜野皇后(後の持統天皇)を中心に皇族を用いた政治を行います。壬申の乱に協力した有力豪族は政治の表舞台から締め出されます。天智天武天皇は同母兄弟であるのみならず、相互に婚姻関係を結び多くの皇子皇女を設けていました。鵜野皇后自体が天智天皇の皇女です。新羅との関係が良くないので、外寇に備えなければならず、勢い武断的政治になります。天武天皇には皇位継承資格者として二人の皇子がいました。鵜野皇后腹の草壁皇子ともう一人大津皇子です。人物としては大津の方が優れていたようです。二人は対立する関係になります。686年天武天皇が死去するとほぼ同時に「大津皇子は謀反罪で捕えられ処刑」されます。鵜野皇后の仕組んだ陰謀です。草壁皇子は病弱で三年後死去します。鵜野皇后は三年間称制を行い、690年即位し持統天皇となり、697年退位し、5年間太政天皇として政治の実権を握ります。持統天皇の時代は天武天皇の時より豪族への締め付けは緩やかであったようです。
持統天皇の執政期に藤原京が造られ遷都します。それまでの都は各天皇の代ごとに造られていました。藤原京は持統、文武、元正と三代が統治する都となります。以後平城(奈良)、平安(京都)、東京と続きます。持統天皇の次代は草壁皇子の孫である軽皇子が継ぎ、文武天皇になります。文武天皇も若くして死去し、その子供である首(おびと)皇子が724年23歳で聖武天皇として即位するまで、文武天皇の母親が元正天皇としてその後は姉である元明天皇が中継ぎとして天皇となります。この間政界の実力者藤原不比等が720年死去します。死後贈太政大臣を追号されます。
 台閣は左大臣長屋王と台頭してきた不比等の子息である四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が中心になります。聖武天皇の母親宮子の称号問題で長屋王は正論を貫き(臣下上がりの妃を正妃とは言えないと主張)729年「長屋王は藤原氏の私兵に包囲され自殺」を強いられます。王の正妻である吉備内親王(草壁皇子の皇女)とその腹の子女も殺されます。後、冤罪と解ります。長屋王は天武天皇の子供高市皇子の子供であり、また父親の高市皇子は壬申の乱に大功があり太政大臣となり、次の天皇と目されていました。父親と妻の系譜から言えば長屋王には皇位継承資格があると判断され、藤原氏の陰謀の犠牲者になります。
 737年疫病が大流行し藤原四兄弟は全員死にます。台閣は右大臣橘諸兄が中心になります。阿倍内親王立太子。ここで橘美千代という女傑について寸言しておきます。彼女は前夫と別れた後藤原不比等と結ばれ子女を一人産みます。この娘が聖武天皇の正妃(?)である光明皇后です。同時に美千代は聖武天皇の母親宮子の側近であり保護者でもありました。宮子は長らくうつ病で誰にも会えない生活を送っていたのです。宮子の父親が不比等です。美千代は藤原氏の宮廷工作の影の人物です。また美千代と前夫の間に生まれた子供が橘諸兄です。
 「740年藤原広嗣の乱」が起こります。741年、国分寺・国分尼寺建立の詔。743年、墾田永世私有法。744年「安積親王死去」。ちなみに安積親王は聖武天皇の皇子でした。光明皇后に皇子が生まれましたがすぐ死去しています。(皇后以外に腹の)男子の後継者がいるのに女性が皇太子となりました。だから安積親王の死は謀略による毒殺説も有力です。この親王の側近保護者が大伴家持です。この事は銘記しておいてください。
745年、行基大僧正。749年聖武天皇譲位、皇太子阿倍内親王即位、孝謙天皇、752年大仏開眼。756年聖武天皇死去、遺詔により道祖王立太子。757年、「皇太子道祖王を廃して」大炊王立太子、藤原仲麻呂紫微内相に、仲麻呂の専権。同年「橘奈良麻呂の変」、仲麻呂殺害の謀略。奈良麻呂や大伴古麻呂処刑。758年孝謙天皇、大炊王に譲位、淳仁天皇。762年「天皇と孝謙上皇が不和」。764年「藤原仲麻呂」叛乱、氷上塩焼を天皇に建てんとする、敗死。「淳仁天皇淡路へ配流」、孝謙上皇重祚して称徳天皇に。765年「和気王ら皇族が謀反の疑い」で誅殺される。766年道鏡法王に。770年称徳天皇死去、「道鏡下野へ流罪」。光仁天皇即位。
 ざっとこのような経過です。「」に入れた部分が陰謀内紛時に内乱です。686年の大津皇子事件から770年の道鏡流罪までの80余年間に総計10個の政変が起こっています。これらの事件を貫いて流れる筋は三本あります。それらは相互に絡み合います。まず第一は、天武天皇-草壁皇子の嫡流の系譜を死守しようとする動き、更にそれに絡んだ藤原氏の地位上昇(あるいわ奪権)の動きです。この線では藤原不比等、光明皇后、藤原仲麻呂が重要な働きをしています。第二は墾田(私有地)を求める動きです。第三は仏教政策です。墾田私有を求める行基の運動は始め禁止されます。25年後の743年墾田の私有は合法化され、行基は大僧正に任命されます。行基は東大寺建立に弟子たちを率いて参加します。行基の活動容認と平行して国分寺国分尼寺の建設が進みます。その延長線上に大仏建立があります。これらの政策を推し進めた主導者は光明皇后です。聖武天皇は藤原広嗣の乱以後行幸と遷都を繰り返し半病人のようなものでした。光明皇后の政治は墾田容認と仏教振興の二つですがこれは時代の要求に沿うと同時に、同族からの反乱者出現への謝罪(広嗣は宇合の息子で皇后の甥になります)と自信を無くした夫聖武への強力な援護射撃でした。ここで行基が、皇后とともに、墾田容認と仏教振興のかなめになります。奈良時代の主役は光明皇后と行基であると言ってもいいのです。749年聖武天皇譲位・孝謙天皇即位から760年光明皇后死去までの事実上の執政者は皇后(あるいわ皇太后)でした。仲麻呂は皇后が死去し後ろ盾を失います。孝謙上皇はそれまでの母親の束縛から解放されます。ここで道鏡が現れ、政権を維持できなくなった仲麻呂が追い詰められて反乱を起こします。以上が奈良時代政変史の総説です。残りは以下の各論で補います。

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