経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

    経済人列伝 細川重賢

2021-04-28 20:27:30 | Weblog
経済人列伝  細川重賢

 細川重賢は、藩祖忠利を初代とすれば五代目の肥後熊本藩主です。もっとも家祖藤孝(幽斉)から数えれば7代目に当たります。肥後の細川家はもともと足利幕府の御番衆、つまり旗本でした。藤孝が足利義昭に仕え、さらに織田、豊臣そして徳川と相継ぐ天下人を乗り換え、生き抜いて、関が原の功で藤孝の子忠興の時豊後39万石に襲封されます。三代目忠利は改易された加藤家に代り肥後に入り、熊本を拠点として、肥後一国を治めることになります。以後光尚、綱利、宣紀と続きます。宣紀には5人の男子がいましたが、上の3人は夭折します。5代目藩主は四男の宗孝、五男の重賢は部屋住の身でした。部屋住とは独立して一家を持たず、正式の録を与えられない身分です。普通なら重賢はどこかの大名の養子になるのですが、兄宗孝に嗣子がなく、兄に万一の事があれば、藩主の地位を継ぐいはばスペアとして必要でした。しかし兄に子供ができれば無用の存在、年たけてからでは養子の口はありません。言ってみれば重賢は飼い殺しの存在でした。哀れな立場といっていいでしょう。
 重賢は1720年(享保5年)に生まれています。1747年(延享4年)兄の宗孝が江戸城中で斬殺され、兄の仮養子となっていた重賢が、従四位下左近衛少将越中守として藩主の地位につきます。ちなみに宗孝の殺害は全くの人違いから起こった、細川家としては非常に迷惑な偶発事件でした。どこの藩でも同じですが、熊本藩も財政赤字に苦しみ、農民には苛税、藩士からは半知借上(藩士に与える俸禄の半分を藩が借上げる、実質的には取り上げる)で、武士も農民も貧窮にあえいでいました。農民の逃散は続き、藩の人口は減少してゆきます。藩の首脳部、家老達はどうしていいのか解らなかったのでしょう、その場その場のしのぎに明け暮れ、大阪の鴻池には借財が重なり、どこの商人も細川家だけには金を貸す事は考えられない状況でした。
こんな中重賢はそれまでに描いていた藩政改革を開始します。参勤交代で熊本に入った重賢はまず重役と一門の非礼、重賢を部屋住上がりと軽く見て、正式の拝礼をしない態度を一喝します。藩士全員の総登城を命じ、藩士全員に宣言します。意見書を密封して上申することを勧め、まず下級藩士から救済する事を約束します。それまで藩政を牛耳ってきた6名の重役(家老、ちなみに細川家では他の藩では家老にあたる職務を老中といいます)とその配下の実力者奉行の中に重賢の息のかかったものを入れます。藩政改革は重賢の側近を中心に行われます。側用人竹原勘十郎、観察兼小納戸役堀平太左衛門、監察松野七蔵、儒者秋山玉山が中心メンバ-です。
 なによりも経費削減が急務です。節約が奨励されます。藩組織が簡略化され冗員は省かれます。仕事のない藩士の俸禄は削減されます。出る方を締めてばかりではいけません。入るほうを増やす政策が必要です。なによりも産業振興が模索されました。熊本産の名物が物色され増産を奨励されます。はぜ蠟、樟脳を始めとして、赤酒、水前寺のり、うに、ザボン、朝鮮飴、高瀬飴、山鹿灯篭、肥後こま、高田焼、肥後縞、熊本桶、うちわ、和紙などの産物があります。
 特にはぜは重要視され藩の専売制にされました。それまで一部の特権商人が販売を独占していたのをやめさせ、はぜは藩が買い上げます。集荷と買い取りを藩が独占します。そして藩を通して、一般商人にはぜを売ります。藩が、はぜ売買にのみ通用するはぜ札、を発行してはぜを買い取ります。藩が商人にはぜを売るときは現金を要求します。またはぜ札は現金(幕府発行の金銀銅貨)といつでも交換されるとされました。藩ははぜの売買を独占して利鞘を稼ぎます。またはぜ札の使用で、赤字に苦しむ藩財政に負担をかけることなく、買い取り資金を確保できます。資金は潤沢になります。またはぜ札の発行により、藩内の流通貨幣量は増加し、その分景気を刺激します。藩がはぜ札の交換を約束どおり行う限り、はぜ札は通貨として機能しますから。もっともよほど財政を締めない限り、ついつい札を増刷し、札が現金に比し溢れ、はぜ札の信用は下がります。この辺はやり方次第でしょう。また藩が専売すればどうしても藩の利益を中心に考えるので、買いは安く、売りは高くなり、農民や商人の恨みを買います。はぜから蠟がとれます。蠟は当時一番高級な灯りである蝋燭の原料でした。その意味で普遍的な価値をもつ商品でした。
 藩の組織を簡潔にします。家老達を単なる相談役にして事実上政治への発言権を奪います。すべての権限は、藩主に直属する大奉行に集中させます。大奉行の下に行政官である奉行を定員6名にして設置します。奉行の職務内容を明示します。人事、勘定、普請、城内、船、学校、刑法、屋敷、郡、類族、寺社などです。こうして冗官を除きます。監察機能は大監察に統一し、配下に目付8名と横目10名を配置します。従来からある郡奉行は郡代と改称し大奉行直属にします。改革の焦点である大奉行には掘平太左衛門勝名をあて、大奉行と藩主のみ入れる機密室を設置します。従来の家老重役と大奉行の間には中老をおいて連絡係としますが、当分の間は堀勝名が中老を兼務します。権限は大奉行に完全に集中します。
 刑法が改正されます。従来は死刑と追放の二種の刑罰しかありませんでした。杖刑(鞭打ち)と徒刑(強制労働、懲役)をいれ、刑罰全体を軽くします。徒刑囚には賃金を与え、その半分を貯えさせ、刑期終了時の更正資金にあてさせます。行政と司法を分離しようとします。年貢未納などの経済事件を破廉恥罪と区別します。
 藩士の教育には特に力をいれました。藩校時習館を作り、総裁は名門出身の長岡忠英をあて、実際の教育には秋山玉山を用います。医学と薬学の学校も造りました。再春館といいます。藩営薬草園を設置し種々の薬草を実験的に栽培します。蕃滋園と名づけます。
 武士の帰農も勧めました。本来武士が多すぎるのです。武士の帰農は改革を試みた他の多くの藩も実行しています。
 そして以上の改革計画に基づいて借金返済計画を明示します。新たな借財がどうしても必要であるからです。鴻池に代り、新興商人の長田作兵衛が金主になります。
 重賢襲封の1747年に始まり、治年、斉シゲ(-1807年)と続く三代の君主による藩改革を宝暦の改革と称します。重賢の藩政改革は上杉鷹山や松平定信の改革に影響を与えています。重賢は1985年(天明5年)65歳で死去します。通称は銀台公、彼が部屋住のころいた下屋敷のある芝白金からそういう名称が与えられました。白金とは銀のことです。
 藩政改革の第一号が細川重賢ですが、どの藩でもまた幕府でも財政改革は5代目か6代目の頃から始まります。初代の時に藩を作り、2・3・4代で蓄積を食い潰し、次代の藩主が改革に取り掛かるという段取りです。江戸時代初期、つまり多くの藩が設置された頃、の状況を紙上計算してみましょう。例を極端にして、周防と長門を領有する毛利氏を材料にします。毛利氏は関が原以前120万石でした。一万石で約250人の軍勢をさしださなければいけませんので、毛利氏が抱える全兵員は3万人になります。内1/3が帰農したとします。養わなければならない武士総数は2万人になります。これが30万石に減知された防長二国に押し込まれます。6公4民の取り分として武士層が得る米は18万石、藩と武士個人の取り分を3対7とすれば、平均して武士一家の米収入は6・3石になります。一家4人として一年の米消費量を4石とします。副食を1石と加算すれば5石が一家の食費です。当時のエンゲル係数を80%とすれば、生活費総額は6・25石、なんとか生活できます。家庭菜園や麦などの雑穀を加えれば、飢餓線上というほどのことでもありません。しかし時代の進展とともに、商品(換金)作物が出現し、生活は派手になります。つまりエンゲル係数は低下します。これが武士層貧困化の原因です。農民や町人は生産者ですから換金できる物を持っており貨幣経済の進展についてゆけます。武士が米穀収入に頼っている限り貧困化は避けられません。この状況を背景に藩政改革は始まります。
 藩政改革、藩財政充実の焦点は藩専売制です。これは藩という軍事行政組織が、直に民間の経済行為に参加する企てです。ここで当然、藩と農民商人の間で利益の分配をめぐって対立が起こります。毛利長州藩における天保の一揆などはその代表例です。
 専売制と並んで藩改革で必ずなされる事業が藩校という教育機関の設置です。多くの藩校は1750年以後設置されています。藩自体が商人化し、一部の藩士の帰農を促せば、武士のアイデンティティはぼやけます。為政者支配者指導者としての武士の情操を知育でもって育て護る必要がありました。
 次に述べる上杉鷹山の改革と細川重賢の改革はよく似ています。改革組織の焦点に中級武士をもってきて、中下級武士の賛同で改革を成し遂げようとする点です。人名で言えば、堀勝名とノゾキ戸善政です。
 重賢や鷹山の改革が全面的に成功したとは言い切れません。幕末の横井小楠(熊本)や池田成彬(米沢)の生活を見れば、思い半ばに過ぎます。改革はあくまで崩壊寸前の藩組織の再建、武士層救済を目指してぎりぎりの地点で行われました。人間に利欲というものがある限り、経済は常に運動をします。経済とは変化の連続です。安定した経済などはありえません。

 参考文献  細川重賢  学陽書房
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

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