経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、松方幸次郎(改訂版)

2012-10-01 02:59:54 | Weblog
  松方幸次郎

(早川電気シャ-プが経営危機に陥っています。今を去ること80年前同様の危機に落ちいった企業があります。川造船です。この時政府はどうしたか?シャ-プ救済の参考にはなりましょう。川造船は鉄鋼部門を分離して川製鉄を立上ました。川崎製鉄は日本鋼管と合併し現在ではJEFスティ-ルになっています)

 松方幸次郎の人生は華に満ち溢れています。人生の後半では大失敗し、彼が育成してきた川造船を経営危機に追いやり、自らは財界ルンペンと称して、他人の居候になって渡り歩きますが、このすべてに華があります。彼の人生は華麗な御曹司の一生です。かと言って幸次郎が財界の単なる飾り物であったのではありません。
 幸次郎は1865年(慶応1年)に鹿児島で生まれています。父は、後に蔵相になり松方財政で有名な、さらに首相を二度務めた、松方正義です。幸次郎が生まれた時は幕末維新の激変期、正義はここを乗り切り、日田県知事をへて中央政界に乗り出してゆきます。同時に幸次郎も東京に呼ばれます。1875年、9歳、上京。共立学校、大学予備門(後の第一高等学校)とエリ-トの教育課程を進みます。予備門時代、学校当局に反抗してストライキが起こります。幸次郎は最も先鋭な分子の一人でした。放校されます。父親正義の立場(当時蔵相)もあり反省文を父親に書かされ、いやいやながら復学嘆願をおこないますが、帝大総長の加藤弘之に、あんな暴れん坊はごめんだと、却下されます。
父親にねだって海外留学を志します。いかに政府高官とはいえ、既に兄二人を留学させている正義にとって、負担は小さくありません。が、幸次郎はたって留学を希望し実現します。1884年19歳時、米国のラドガ-ズ大学に私費留学します。この時幸次郎はアメリカンフットボ-ルのクラブに入部しています。写真を見ると幸次郎の頭は他の学生の肩ほどにあり、体格の差は歴然としています。普通の日本人なら、このハンディを考慮してアメフトになどに入部はしません。こういう点にも幸次郎の大胆さと積極性が看取されます。ラドガ-ズ大学での授業はどうも理科系であったようで、幸次郎はそれを好みません。エ-ル大学に転校を希望します。エ-ル大学は名門です。ハーヴァ-ド、エ-ル、MITと並び称される名門です。この難関を突破して入学、大学院に進学して、法学博士号をとります。秀才で頑張り屋です。1890年25歳時、帰国します。留学の費用は、川造船所を経営していた川正蔵から出ていました。
1894年(明治27年)29歳の時、幸次郎は日本火災保険の副社長になっています。また灘商業銀行(神戸銀行の前身)や高野鉄道(南海電鉄の前身)などの監査役をしています。30歳になるかならぬかの若造が会社の幹部に簡単になれたのは、現在の常識から考えると不思議です。もちろん親のコネもありますが、当時の洋行帰りは超エリ-トの看板でした。また日本の資本主義が本格的に勃興する時期でもあり、新進エリ-トは官界でも民間でも必要とされていました。
1896年(明治29年)31歳の時、幸次郎は川正蔵に請われ川造船所の初代社長に就任します。資本金200万円、従業員1800人の規模でした。政府は造船奨励法を定め、大鑑建設に非常に積極的になっています。日清戦争に勝ち、次の標的はいやがうえにも、大国ロシアしかいないと仮想敵を定め、海軍の大拡張を行い始めたときでした。ここで川造船の前史について少し語ります。同社の基礎は川正蔵により定められます。川崎は鹿児島県の商人で上京して、東京と神戸に小さな造船所を経営していました。川崎は、石川ショウが作り経営不振のために国営になっていた神戸の加賀製鉄所を払い下げしてもらい、造船所の機能を神戸に集中させます。川には三人の男児がいましたが、みな夭折します。他に芳太郎という養子がいましたが、あえて社長には幸次郎を選びます。(芳太郎は副社長、正蔵は顧問)理由の一つは川も松方(正義)も同じ鹿児島県出身、つまり薩摩閥であること。幸次郎の父親の正義が政界の実力者であること。最後は幸次郎の才能です。華麗な経歴とその積極性は、商人上がりの川には、前進する時代の中にあって、自分にはかけており、将来必ず必要とされるだろう、という読みがあったであろうと思われます。
川造船所社長に就任してからの5年間幸次郎は、乾ドックの建設に務めます。努力し苦労しました。乾ドックとは陸上で造船できる施設です。それも5000トンを超える船を造れる規模のドックが必要です。川のライヴァル三菱造船所はすでにそれを持っていました。川崎造船所のある土地は砂地で水分を多く含み、硬くて安定した地盤が得られません。必要とするドックができなければ、せいぜい数百トンの小型船しか建造できず、正蔵時代と変りのない規模に留まります。底を固めなければ、地下から海水が侵入して、底を吹き飛ばします。ドックに必要な硬くて安定した地盤を作るために、大きい管を敷き内部にコンクリ-トを流します。さらに1万本の松材を打ち込みます。深く打ち込むために、松材を縦に連接させて打ち込みます。こうして乾ドック建造になんとか成功しましたが、失敗の連続で、幸次郎は二度辞表を川に提出しています。川崎は二度とも慰留します。この間旧三田藩主子爵九鬼隆義の娘好子と結婚し、神戸七実業団体連合会の会長におさまります。
乾ドックができてから経営は進展します。軍艦の建造に積極的に乗り出します。まず水雷艇の建造から始めます。明治37年には潜水艦を受注します。潜水艦の試運転中潜水艦が沈み多くの犠牲を出しています。潜水艦建造では二度事故をだします。その度に数十名の犠牲がでました。人命の問題もありますが、潜水艦の事故では、海軍と造船所双方の実験ティ-ムが一挙に失われるので、犠牲の大きさは計り知れないものでした。
1907年(明治40年)日露戦争の戦後不況でやむなく500名解雇します。この解雇は幸次郎に後味の悪さを残しました。
1909年(明治42年)鉄道車両の生産に進出します。後藤新平が鉄道国産を奨励していたのに歩調を合わせます。大正末年(1920年代前半)までに川造船車両部は1000台の機関車を作っています。翌1910年代議士になります。しかし大戦勃発で商売の方が忙しく二期目は立候補していません。
1911年(明治44年)幸次郎は出張先の欧州から、急遽技師12名の欧州派遣を命令します。ドイツから、エア-ポンプと船舶用ディ-ゼルエンジンの技術導入の契約を幸次郎は仕上げていました。背景があります。同年川造船は海軍から超ド級戦艦榛名(27500トン)の注文を受けていました。この大発展に備えるための技術導入です。ちなみに7年前の日露戦争では、日本海軍の主力部隊の艦艇はすべて外国製でした。大型艦艇建造のためにはガントリ-という巨大な鉄製装置が必要です。その中に建造中の艦船を囲い込み、クレ-ンで部品を自由に移動させる装置です。ここでも軟弱な地盤に泣かされます。いくら金がかかってもかまわん、ともかくガントリ-を設置する、という幸次郎の言葉で、しゃにむにガントリ-建造が進められます。製造費用は総計1000万円でした。現在の貨幣価値なら2000倍になります。この時二つの逸話があります。しゃにむに建設を進めて犠牲者が4名出ます。警察から調べられます。ここで幸次郎は工員達にいったん休養を与えます。労働時間を短縮した結果、労働生産性が上がることに気づきます。この経験は後年の組合対策に生かされます。1000万円の建設費用で資金難というより破産の危機に陥ります。幸次郎は海軍を尋ね前代未聞の要求をします。ガントリ-建設費用の一部250万円を海軍から出してほしいと頼みます。海軍はかんかんに怒ります。その時幸次郎が言った文句は、川が潰れれば軍艦はできませんよ、です。海軍は幸次郎の提案を呑みます。このことも後年川造船が最大の経営危機を迎えたとき生かされます。
幸次郎は技師達会社エリ-トだけでなく、ブル-カラ-の教育にも尽力を尽くします。親方連中を欧州に送り込み、エア-ポンプによる鋲打ちの技術を実地見学させます。工員に夜間学校に通うことを勧め、通学して一定の成績をあげたものには賃金に歩合を上乗せします。
1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発します。幸次郎は長期戦争と見極め、日本の輸出が飛躍的に伸びることを予想します。特に船舶の需要増を予想し、鉄の買付けを命じます。船を注文により製造する方式から、ストックボ-トつまりあらかじめ見込み生産する方式に切り替えます。海運景気で船舶の価格は10倍以上に騰がります。幸次郎の見込みは当たります。川造船や鈴木商店の管理職クラスのボ-ナスは100万円近くになりました。2000をかけてください、現在の相場がでます。それほどの好景気でした。しかし好況でも危機はあります。アメリカが参戦し、当然の措置として、鉄の輸出を禁止します。これでは船は造れません。鈴木商店の金子直吉が駐日米大使とじかに交渉し、船と鉄の交換を成り立たせます。幸次郎は、鉄が不足なら製鉄会社を作ろうと、して川造船製鉄部を立ち上げます。後の川製鉄です。またこの間川汽船という運輸会社も作っています。大戦景気で儲かって儲かって仕方のない中、幸次郎はイギリスのポスタ-を見て、絵画の魅力と意義に目ざめます。そしてどしどし名画を購入します。松方コレクションが創始され始めます。
幸次郎の生活は少なくとも外から見る限りは派手でした。豪邸に住み、毎日二頭立ての馬車で通勤します。英語は日本語と同じくらい流暢に話せ、よく海外に出かけます。1年以上も会社をあけたこともあります。会社では超ワンマンで、他の役員は単なる留守番と言われました。
1918年(大正7年)大戦終結。幸次郎は、船価はまだまだ騰がると読みます。戦後復興のために欧州はまだまだ日本の製品を必要とする、と予想します。結果として船価は暴落します。幸次郎はもう一つの予想をしています。戦後労働組合運動は激化すると。この予想は当たります。幸次郎は組合運動の理解者でした。1919年国際労働会議に出席し、そこで8時間労働制を支持する発言をしています。同じく労働組合の理解者であった武藤山治は、8時間労働になったら会社は潰れるといっています。造船と紡績、技術集約型産業と労働集約型産業の違いでしょうか?同年の川造船のストライキに際しての団体交渉で幸次郎は、8時間労働に踏み切っています。賃金は切り下げませんから、残業も入れると実質的には賃上げになります。
八八艦隊という海軍力拡充計画がありました。不況にあえぐ川造船や三菱造船はこの軍需に期待しました。が、1921年のワシントン軍縮条約締結により、この案は葬られます。川崎造船は、戦艦加賀を建造中でした。この戦艦は廃艦になり、以後の注文は取り消されます。
1920年幸次郎は海軍の密名を帯びて、ドイツの最新式潜水艦の設計図の取得を行います。スパイです。川は、ここで海軍と利害は完全に一致するのですが、潜水艦建造に展望を開こうとします。ドイツ人技師を招いて、行う潜水艦建造は二度目の事故で遅れます。幸次郎は不況打開の対策として多角化経営をめざします。飛行機製造部門を作ります。薄鋼板製造を押し進めます。これは将来の自動車製造を見込んでのものです。太平洋戦争中、飛行機製造は、川と三菱と中島の三社が主として行いました。薄鋼板製造も成功しました。造船部門のみが、苦境に立ちます。
不況打開策としての多角化経営には合理的な根拠があります。多角化で成長産業の方にシフトすれば、需要は見込まれるわけです。もう一つ幸次郎は解雇を避け、雇用を促進するためにも多角化経営の方向をとりました。1921年、賀川豊彦の指導下に、川三菱の両造船会社を中心に一大労働争議が持ち上がります。この時ライヴァルの三菱は3000名以上の解雇を断行しましたが、幸次郎は解雇を避けました。結果としてこれも川造船の苦境を促進することになります。
成長産業の方に多角化し、経営を拡大して利益を上げるために必要なものが資金、単純に言えば現金です。つなぎ資金で経営を持続させ、需要の拡大を期待します。資金獲得に際して、この時期不幸が重なりました。1923年(大正12年)関東大震災が起こります。政府は復興に追われます。民間への投資あるいは資金提供は大幅に制限されます。
1928年(昭和2年)金融恐慌が起こります。大震災に際して政府は震災被害にあった企業の手形を割り引いていました。どこの世界にもあることですが、震災とは無関係なのに、震災手形と称して、割引を受けようとする不正行為がはびこります。このことが国会で問題になっていました。幸次郎は国から特別融資を受けようと、その筋に運動していました。ある日国会で審議中、片岡直温蔵相が、渡辺銀行が閉鎖されたと、誤報を報告します。この一言でパニックが起こり、全国で取り付け騒ぎが勃発し、金融機関は一時マヒ状態になります。苦境を財界世話人と言われた郷誠之助が斡旋します。郷の父親純造はかって松方正義の下で大蔵次官を務めた経緯があり、松方家とは浅い関係ではありません。郷の斡旋で、上海と神戸の社有地処分、6割減資、工場を担保に政府融資3000万円、という案が高橋蔵相により了承されていました。この時川造船に銑鉄を収めていた大倉商事と大倉鉱業が、川の造船資材の差し押さえを申告します。それまでに川と大倉は銑鉄の代金支払いでもめていました。この申請で川造船の資産は担保としての価値を失います。幸次郎は万策尽きて辞任します。では会社は潰れたのかと言えば、そうではありあません。海軍としては川造船を潰すわけには参りません。会社の中に、海軍艦政本部臨時艦船建造部という機関がおかれ、一時期海軍が経営を実行する形になります。この時3000名が解雇されました。数年して軍需景気が起こり、会社は再び好景気の時期に入ります。太平洋戦争後、しばらくして川造船から、川崎製鉄が分離します。
辞任した幸次郎は財界ルンペンと称して、あちこちに居候する形の生活を送ります。石油価格高騰に際してソ連製石油を輸入するべくモスクワに飛んだこともあります。1936年(昭和11年)床次竹次郎の地盤を継いで、鹿児島から立候補し代議士になります。国会の廊下で時の東条首相に会い、東条を面罵したこともあります。あんたが首相では国が危ないと、言いました。1950年死去、84歳でした。
松方幸次郎と言えば、松方コレクションが有名です。第一次世界大戦の好況期に幸次郎は大量の美術品を欧州から購入します。約10000点と想定されます。うち9000点は日本に運ばれましたが、その大部分は負債処理のために売却されます。イギリスにあった300点は爆撃で焼かれます。フランスにあった400点余は戦後フランス政府により没収されます。1951年のサンフランシスコ講和会議で、首相の吉田茂が、この400点余の変換をフランス外相に懇請し、フランス政府はそれを受諾します。1959年国立西洋美術館が作られ、そこで371点が展示されました。幸次郎がコレクションに走った意図は、日本の画学生に実物を見せること、さらに西洋美術を国民が鑑賞して、文化の力を体験することにあったといわれております。1930年大原美術館が岡山県倉敷に開設されるまで、日本には西洋美術を体系的に展示する場所はありませんでした。なお幸次郎がコレクション収集に使ったお金は、1000万円とも3000万円とも言われます。もちろん第一次世界大戦当時の物価です。
松方幸次郎の関係する企業で現在でもがんばっているのは、私の知る限りでは川崎製鉄(2003年日本鋼管と合併しJEFスティ-ル)、川造船、川汽船と神戸新聞です。

参考文献 火輪の海  神戸新聞社
  松方幸次郎
     発信
経済心理研究所
 In 中本精神分析クリニ-ク
  精神分析療法専門 週一回1時間以上
  適応症 神経症とその類縁疾患
   洗浄強迫など強迫性障害、ヒステリ-性障害、
不潔恐怖など恐怖症、抑鬱症、
対人不安および対人障害 諸種人格障害 
  自由診療(保険外)、治療費、一回13000円
  所在 兵庫県尼崎市東園田町8-110-16
 阪急神戸線園田駅下車徒歩5分
  電話 06-6491-1416
E-mail akb16401@bca.bai.ne.jp
京都大学医学部卒、医師
著作多数、アマゾン・グ-グルを参照