立石一真
立石一真は1900年(明治33年)熊本市に生れています。祖父は伊万里焼の職人で絵付けが上手く、熊本に移住して、絵つきの盃製造でかなりの産をなしました。一真の幼少期は乳母日傘の毎日であったといわれます。父親は祖父の家業を継ぎますが、毎日絵ばかり描いていて、商才に欠けるところがあり、家運は傾きます。加えて一真7歳の時死去し、家の経済は極貧といってもいいくらいの水準に落ちます。一真は新聞配達などをして母親の家計を助けます。この間弟が死去します。一真の人生の、特に50歳までの人生では、特徴の一つは身内の者の死去が多いことです。一真の鋭い直感性と共に、この悲劇性にも気付かされます。熊本中学進学、熊本高等工業学校(現熊本大学工学部)に新設された電気科に進学します。正直一真がなぜここまで進学できたのかは、疑問です。当時の高等(商業・工業)学校には少数の人間だけが進学できました。
1921年(大正10年)卒業、兵庫県庁に入ります。1年有余で退職し、京都の井上電気に就職します。この会社で継電器という装置を開発します。この装置は、電流や電圧が一定の量に達すると、自動的に電流の通過を止める装置です。似たものは他にあったと思いますが。一真が開発した装置は極めて優れたものであったようです。上司の手柄横取りとも思える対応に嫌気がさし、仕事には身が入りません。大不況で希望退職を募られた時、極めてあっさり辞職しています。そして1930年採光社という個人企業を立ち上げます。一真という人は独立心の極めて強い人物で、後年製造品が当たり、世間から評価され、大企業が合同を申し込んだ時にも、提案を拒否した人ですが、栴檀は双葉より芳しで、嫌ならさっさと辞めるようです。その分奥さんの苦労は相当なものですが。1928年最初の妻元子と結婚します。
彩雲社では始め苦労しました。訪問販売を試みても相手にされず、やむなく京都の東寺の市でテキヤまがいのこともしました。しかしこの間の苦労は一真に、研究開発のみならず、営業の重要さ、社会的ニ-ズあるいは需要の重要さを思い知らせます。ある人に大阪の日生病院を紹介されます。当時レントゲン撮影をする時、タイマ-の精度が悪く、肺の写真に心臓の鼓動が重なり、像が不鮮明になりがちでした。1/20秒で撮影できるタイマ-が要求されます。島津製作所を始め、どこの企業もできなかった、このタイマ-の製作に成功し、日生病院のOEM(相手先ブランド)として定期的にタイマ-を納めることになります。
1933年大阪市都島区東野里に立石電機製作所を立ち上げます。継電器を配電用に用いて販路を広げます。1943年マイクロスウィチを製作します。これは軍需にも転用できるはずでしたが、戦争の進展はこのスウィッチの使用を阻みます。それどころではないという状況でした。1945年敗戦、終戦の詔勅の下った、8月15日に、一真は京都の嵯峨野近くに工場を建設しています。大阪の工場は爆撃で焼けたので、勢い立石電機は京都を本拠地にする事になりました。会社はできましたが、戦後の苦労はどこも同じです。立石電機は電熱や電気マッチなどで食いつなぎます。給料遅配や現物支給はしょっちゅうでした。そういう中1948年に電流制電器六社の一つに指名されます。当時の電力費は定額制、つまり一定の使用量を払えば無限に電気を使えるシステムが支配的でした。こうなると不正使用、盗電が横行します。それを防ぐために制電器という装置が必要になります。電力使用が一定の段階に達したら、電流が切れるか、他の価格帯に移行するかの装置が要ります。立石電機は未だ中小企業でしたが、他の大手五社と肩を並べて、指名されます。マイクロスウィッチや継電器の実績があったからです。ここで一息と思っていると翌年ドッジラインによる超緊縮経済で、制電器への補助事業もカットされます。加えてドッジデフレで大不況、経営は悪化し、自転車操業の毎日になります。会社の成績が下降し、景気が悪くなるとストがおきます。一真はこういう事態になれていません。上部団体に指導された組合員と問答しているうちに、とうとう京都工場は解散になります。そして妻元子が死去します。会社は破産同然、最愛の妻の死去、一真の人生で最悪の年でした。時に1950年、一真は50歳です。普通の人ならここで人生を諦めかねませんが、一真の技術屋魂は健在でした。
神風が吹きます。朝鮮動乱です。輸出ドライヴがかかり景気は俄然良くなります。立石電機も同様です。この頃から一真の関心は自動制御(オ-トメ-ション)に向かいます。1953年(昭和28年)アメリカの電機業界視察に訪米します。ここでトランジスタ-の魅力を発見します。また三洋電機のホームポンプの製作に際して立石のスウィッチが使用され、以後家電業界に進出します。防衛庁の次期戦闘機国産に際しても立石電機のスウィチは採用されます。1959年(昭和34年)資本金の6倍、2億8000万円を投じて京都府長岡町(現長岡京市)に中央研究所を造ります。研究所の室長(課長クラス)一人一人に秘書がつきました。通常取締役でも秘書がつかないこともあるくらいです。一真は、研究開発の前線指揮官の研究実労働時間が減少する事を極力避けました。
この間会社の運営法を改めます。立石電機は中小企業の段階から、大企業の傘下に入る事を拒否し、徹底した独立精神でやってきました。中小企業の利点である即決即戦を生かした経営でやってきました。お客の注文や要求は絶対です。納期にどんな無理を言われてもそれをやりぬく、のが一真の方針です。会社が大きくなると、この利点が失われます。そこで一真はプロデュ-サ-工場システムなるものを案出します。この種の工場は最大限50名を超えない規模に設定されています。そして各工場ごとに専門の製作品を持ちます。研究開発と販売は独立した会社にします。各工場は生産に特化させ、少数多量生産制を計ります。言ってみれば大きくなった企業を、複数の中小企業に分割したようなものです。経営の危機ごとに、この分権制は強化されてゆきます。一真の偉いところは、単なる技術屋ではなく、会社システムそのものの運営方法まで独創的であったことです。彼にかかっては、会社経営も技術の対象でしかありません。この態度が後年の会社危機を救います。一真は、情報が社長である自分に上がってこない事を恐れました。すべての情報を社長にというのですから、逆に言えば一真専制でもあります。独創的で一匹狼そして成功者となれば、たいてい独裁者です。社員はしょっちゅう説教され訓育されました。以上の対応の一環として、一真は営業部門の強化を図ります。理系大卒社員をどんどん営業に送り込みます。需要というより、より大きく社会のニ-ズを速くキャッチするためです。この点でも一真は一介の技術屋を超えています。1959年、会社創立26周年を記念して、社憲が作られます。この憲法の要旨は、会社は社会のためにある、です。後にこの方針を一真は実行してゆきます。労使協調を唱え、労使夫婦論を展開します。むつみ会なる社員親睦団体を作り、社員の持家制度を実施します。給料は同業他社より10%多くが、方針でした。10前の争議でよほど懲りたのでしょう。
1960年(昭和35年)立石電機の将来を左右する発明が生れます。無接点スウィッチの製作です。自動装置が発達してくると、スウィッチの寿命の飛躍的増大が求められます。それまでのスウィッチの寿命は10万回が限度でした。従来のスウィッチでは、金属が接触した時に、強い光と熱が生じ、そのために金属が焼かれます。オートメ化の時代は千倍つまり10億回の寿命を持つスウィッチを求ました。一真は接触があるからいけない、無接点なら金属の摩滅はない、と判断し、この方向で研究を推し進めるべく、7人からなる特命研究班を作りました。3年で成果が出ます。それがこの無接点スウィッチです。原理は簡単といえば簡単です。二つの金属を離して位置させます。一方の金属に電流が通じ、そこから波動が出ます。その波動は向かいの金属に波動を起こさせ、その金属は波動を電流に変えます。Maxwellの電磁方程式を理解していれば原理はつかめます。問題は実践です。あらゆる金属や物質を集めて実験し、あらゆるパタ-ンの機制を考え、それらを一つ一つづつこなし行かなければなりません。同様の試みは世界の他のところでも行われていました。米国の有名なウェスティングハウス社は2年後に開発しています。
ちなみに一真あるいは立石電機は数多くの装置を開発していますが、簡潔な言い方をすれば、鍵となる作品は継電器と無接点スウィッチです。両者ともに、電流の点滅装置です。この点滅装置を電気機械の要所要所にはめ込んで、機械の自動化を計ります。一真は早くから自動制御に関心を持ちましたが、それは当然の事で、自動化などと言う以前に彼はその種の作品を作り続けてきたわけです。更にオ-トメ化が進めば、自社製品が飛躍的に売れるだろう事は理の当然として解っていたはずです。そして電流変換装置の質が変るごとにそれを応用すれば、新しい自動制御装置が生れます。トランジスタ-からIT、更にLTIと、変換装置の原理が変るたびに一真は貪欲にそれを追い続けます。
こうして多くの自動制御装置が開発されました。自販機、食券自販機、クレジッドカードシステムなどなどです。交通標識が車の通過数に応じて点滅時間を変える、交通システムも立石電機の創作です。CD(現金自動支払機)、ATM、自動両替機もあります。これらの装置のお蔭で銀行は週休2日制を取れました。1967年(昭和42年)阪急北千里に無人駅が出現します。サリドマイド児の義手、手の動きを代用する自動装置である義手の製作は世間の話題を呼びます。評論家秋山ちえ子と整形外科医中村裕の懇請によりできた、身障者福祉工場(オムロン太陽)で働いた身障者の人達は、源泉徴収書を見て感激し泣き出しました。それまで税金のお世話にのみなり、役立たずの後ろ指を恐れていた彼らが、立派に役に立ったという証が、源泉徴収書です。話を聞いて、税務署がびっくりしたといわれます。みな立石電機の自動装置のお蔭です。
この間一真は、経営方式を変えてゆきます。プロデュ-サ-工場へ権限を委譲します。生産のみならず、研究開発、経理、財務、資材と部品の購入、人事も工場へ委譲し分権化を計ります。
1971年5万円以下の価格の電卓を発売します。しかし電卓では失敗しています。20数社に及ぶ過当競争と石油ショックが背後にありますが、立石電機の持つ企業としての特製も敗退の原因の一つでした。立石電機はそれまでは最終消費者と接触した経験はありません。得意先は原則としてメ-カ-かそれに準じる企業です。商売の相手は機械のプロでした。だから最終消費者の心情がわからなかったとも言えます。さらにソニ-やシャ-プやパナソニックのように販売組織がしっかりしているはずがありません。経常収益は赤字になり、株価は4000円台から1000円台に急落します。1977年一真は電卓からの撤退を決意し、同時に多角化経営を改めます。撤退後の1979年成績はV字型回復し、売上高は1000億円を超えます。これを機に一真は社長の座を長男の信雄に譲り、自分は会長に収まります。ただし代表権は保持します。この時期電卓失敗のこともあり、老齢もからんで、引退を求める声がありました。会長と社長の下に、8人からなる常務会が作られ、ここでの合議が最高決定機関となります。どうやら一真専制への批判は強かったようです。
しかし信雄社長体制はうまく機能しません。合議制による意思決定は遅延し、在庫は増え、リ-ドタイム(問題提起から対策決定までの時間)は伸び、同業他社に得意先をどんどん獲られてゆきます。かって立石電機がそうしたように、中小企業の利点を生かし、即決即戦で他の業者が食い込んできます。1983年一真は最高指揮官として復帰します。これはク-デタと言っても構わない事態です。常務会は廃止され、会長社長副社長三者(すべて立石一族)からなる代表会が意志を決定することになります。分権化は更に徹底されます。小事業部制をとります。事業部の規模は、ライヴァル企業と同じ規模に設定されます。海外販売部員を直接この事業部に置き、生産と販売の前線を直結させます。介在する販売会社の存在意義は小さくなります。さらに各事業部の在庫は本社からの貸付とみなし、利息が徴収されます。要するに、各事業部は中小企業としての生き方を強要されるわけです。1986年、新しい経営方針であるaction 61を宣言し、新社長に三男の義雄をすえ、自身は相談役に退きます。1988年妻信子死去、90年社名を「オムロン」に変更します。ちなみに「オムロン」の名は一真の家と本社のある京都北郊の名刹「仁和寺」の別名「御室」であることから来ています。1991年死去、享年90歳でした。
一真は多趣味の人でした。絵画を描くのは祖父父親の遺伝でしょう。小唄と謡曲も趣味でした。宴会好きです。28歳で元子と結婚し、61歳で信子と結ばれます。二度の結婚ともどこかに恋愛の香りをほのかにうかがわせます。
一真の功績は甚大ですが、発想は一貫しています。彼の発想の原点は継電器です。これは電気というエネルギ-の点滅装置です。この装置をいろいろ改良し、それらで機械の諸部分を結んで、自動制御装置を作ります。この発想は会社運営にも生かされます。プロデュ-サ-工場制度です。生産単位としての工場の連結で会社ができます。立石電機あるいはオムロンは機械のプロを商売相手とする企業です。最終消費者とは直接の接点はありません。私は自動改札のお世話にはなっていますが、この装置の発案者が誰だかしりませんでした。この分、優れた発想と社会への甚大な功績にもかかわらず、一真の知名度は小さいといえます。立石電機もオムロンも名前はしていましたが、私の中でこの二つの名は別々のものでした。オムロンなんか、女性の生理用品の類くらいに誤解していました。無知とは滑稽で恐ろしいものです。
参考文献 立石一真「できません」と言うな ダイヤモンド社
立石一真は1900年(明治33年)熊本市に生れています。祖父は伊万里焼の職人で絵付けが上手く、熊本に移住して、絵つきの盃製造でかなりの産をなしました。一真の幼少期は乳母日傘の毎日であったといわれます。父親は祖父の家業を継ぎますが、毎日絵ばかり描いていて、商才に欠けるところがあり、家運は傾きます。加えて一真7歳の時死去し、家の経済は極貧といってもいいくらいの水準に落ちます。一真は新聞配達などをして母親の家計を助けます。この間弟が死去します。一真の人生の、特に50歳までの人生では、特徴の一つは身内の者の死去が多いことです。一真の鋭い直感性と共に、この悲劇性にも気付かされます。熊本中学進学、熊本高等工業学校(現熊本大学工学部)に新設された電気科に進学します。正直一真がなぜここまで進学できたのかは、疑問です。当時の高等(商業・工業)学校には少数の人間だけが進学できました。
1921年(大正10年)卒業、兵庫県庁に入ります。1年有余で退職し、京都の井上電気に就職します。この会社で継電器という装置を開発します。この装置は、電流や電圧が一定の量に達すると、自動的に電流の通過を止める装置です。似たものは他にあったと思いますが。一真が開発した装置は極めて優れたものであったようです。上司の手柄横取りとも思える対応に嫌気がさし、仕事には身が入りません。大不況で希望退職を募られた時、極めてあっさり辞職しています。そして1930年採光社という個人企業を立ち上げます。一真という人は独立心の極めて強い人物で、後年製造品が当たり、世間から評価され、大企業が合同を申し込んだ時にも、提案を拒否した人ですが、栴檀は双葉より芳しで、嫌ならさっさと辞めるようです。その分奥さんの苦労は相当なものですが。1928年最初の妻元子と結婚します。
彩雲社では始め苦労しました。訪問販売を試みても相手にされず、やむなく京都の東寺の市でテキヤまがいのこともしました。しかしこの間の苦労は一真に、研究開発のみならず、営業の重要さ、社会的ニ-ズあるいは需要の重要さを思い知らせます。ある人に大阪の日生病院を紹介されます。当時レントゲン撮影をする時、タイマ-の精度が悪く、肺の写真に心臓の鼓動が重なり、像が不鮮明になりがちでした。1/20秒で撮影できるタイマ-が要求されます。島津製作所を始め、どこの企業もできなかった、このタイマ-の製作に成功し、日生病院のOEM(相手先ブランド)として定期的にタイマ-を納めることになります。
1933年大阪市都島区東野里に立石電機製作所を立ち上げます。継電器を配電用に用いて販路を広げます。1943年マイクロスウィチを製作します。これは軍需にも転用できるはずでしたが、戦争の進展はこのスウィッチの使用を阻みます。それどころではないという状況でした。1945年敗戦、終戦の詔勅の下った、8月15日に、一真は京都の嵯峨野近くに工場を建設しています。大阪の工場は爆撃で焼けたので、勢い立石電機は京都を本拠地にする事になりました。会社はできましたが、戦後の苦労はどこも同じです。立石電機は電熱や電気マッチなどで食いつなぎます。給料遅配や現物支給はしょっちゅうでした。そういう中1948年に電流制電器六社の一つに指名されます。当時の電力費は定額制、つまり一定の使用量を払えば無限に電気を使えるシステムが支配的でした。こうなると不正使用、盗電が横行します。それを防ぐために制電器という装置が必要になります。電力使用が一定の段階に達したら、電流が切れるか、他の価格帯に移行するかの装置が要ります。立石電機は未だ中小企業でしたが、他の大手五社と肩を並べて、指名されます。マイクロスウィッチや継電器の実績があったからです。ここで一息と思っていると翌年ドッジラインによる超緊縮経済で、制電器への補助事業もカットされます。加えてドッジデフレで大不況、経営は悪化し、自転車操業の毎日になります。会社の成績が下降し、景気が悪くなるとストがおきます。一真はこういう事態になれていません。上部団体に指導された組合員と問答しているうちに、とうとう京都工場は解散になります。そして妻元子が死去します。会社は破産同然、最愛の妻の死去、一真の人生で最悪の年でした。時に1950年、一真は50歳です。普通の人ならここで人生を諦めかねませんが、一真の技術屋魂は健在でした。
神風が吹きます。朝鮮動乱です。輸出ドライヴがかかり景気は俄然良くなります。立石電機も同様です。この頃から一真の関心は自動制御(オ-トメ-ション)に向かいます。1953年(昭和28年)アメリカの電機業界視察に訪米します。ここでトランジスタ-の魅力を発見します。また三洋電機のホームポンプの製作に際して立石のスウィッチが使用され、以後家電業界に進出します。防衛庁の次期戦闘機国産に際しても立石電機のスウィチは採用されます。1959年(昭和34年)資本金の6倍、2億8000万円を投じて京都府長岡町(現長岡京市)に中央研究所を造ります。研究所の室長(課長クラス)一人一人に秘書がつきました。通常取締役でも秘書がつかないこともあるくらいです。一真は、研究開発の前線指揮官の研究実労働時間が減少する事を極力避けました。
この間会社の運営法を改めます。立石電機は中小企業の段階から、大企業の傘下に入る事を拒否し、徹底した独立精神でやってきました。中小企業の利点である即決即戦を生かした経営でやってきました。お客の注文や要求は絶対です。納期にどんな無理を言われてもそれをやりぬく、のが一真の方針です。会社が大きくなると、この利点が失われます。そこで一真はプロデュ-サ-工場システムなるものを案出します。この種の工場は最大限50名を超えない規模に設定されています。そして各工場ごとに専門の製作品を持ちます。研究開発と販売は独立した会社にします。各工場は生産に特化させ、少数多量生産制を計ります。言ってみれば大きくなった企業を、複数の中小企業に分割したようなものです。経営の危機ごとに、この分権制は強化されてゆきます。一真の偉いところは、単なる技術屋ではなく、会社システムそのものの運営方法まで独創的であったことです。彼にかかっては、会社経営も技術の対象でしかありません。この態度が後年の会社危機を救います。一真は、情報が社長である自分に上がってこない事を恐れました。すべての情報を社長にというのですから、逆に言えば一真専制でもあります。独創的で一匹狼そして成功者となれば、たいてい独裁者です。社員はしょっちゅう説教され訓育されました。以上の対応の一環として、一真は営業部門の強化を図ります。理系大卒社員をどんどん営業に送り込みます。需要というより、より大きく社会のニ-ズを速くキャッチするためです。この点でも一真は一介の技術屋を超えています。1959年、会社創立26周年を記念して、社憲が作られます。この憲法の要旨は、会社は社会のためにある、です。後にこの方針を一真は実行してゆきます。労使協調を唱え、労使夫婦論を展開します。むつみ会なる社員親睦団体を作り、社員の持家制度を実施します。給料は同業他社より10%多くが、方針でした。10前の争議でよほど懲りたのでしょう。
1960年(昭和35年)立石電機の将来を左右する発明が生れます。無接点スウィッチの製作です。自動装置が発達してくると、スウィッチの寿命の飛躍的増大が求められます。それまでのスウィッチの寿命は10万回が限度でした。従来のスウィッチでは、金属が接触した時に、強い光と熱が生じ、そのために金属が焼かれます。オートメ化の時代は千倍つまり10億回の寿命を持つスウィッチを求ました。一真は接触があるからいけない、無接点なら金属の摩滅はない、と判断し、この方向で研究を推し進めるべく、7人からなる特命研究班を作りました。3年で成果が出ます。それがこの無接点スウィッチです。原理は簡単といえば簡単です。二つの金属を離して位置させます。一方の金属に電流が通じ、そこから波動が出ます。その波動は向かいの金属に波動を起こさせ、その金属は波動を電流に変えます。Maxwellの電磁方程式を理解していれば原理はつかめます。問題は実践です。あらゆる金属や物質を集めて実験し、あらゆるパタ-ンの機制を考え、それらを一つ一つづつこなし行かなければなりません。同様の試みは世界の他のところでも行われていました。米国の有名なウェスティングハウス社は2年後に開発しています。
ちなみに一真あるいは立石電機は数多くの装置を開発していますが、簡潔な言い方をすれば、鍵となる作品は継電器と無接点スウィッチです。両者ともに、電流の点滅装置です。この点滅装置を電気機械の要所要所にはめ込んで、機械の自動化を計ります。一真は早くから自動制御に関心を持ちましたが、それは当然の事で、自動化などと言う以前に彼はその種の作品を作り続けてきたわけです。更にオ-トメ化が進めば、自社製品が飛躍的に売れるだろう事は理の当然として解っていたはずです。そして電流変換装置の質が変るごとにそれを応用すれば、新しい自動制御装置が生れます。トランジスタ-からIT、更にLTIと、変換装置の原理が変るたびに一真は貪欲にそれを追い続けます。
こうして多くの自動制御装置が開発されました。自販機、食券自販機、クレジッドカードシステムなどなどです。交通標識が車の通過数に応じて点滅時間を変える、交通システムも立石電機の創作です。CD(現金自動支払機)、ATM、自動両替機もあります。これらの装置のお蔭で銀行は週休2日制を取れました。1967年(昭和42年)阪急北千里に無人駅が出現します。サリドマイド児の義手、手の動きを代用する自動装置である義手の製作は世間の話題を呼びます。評論家秋山ちえ子と整形外科医中村裕の懇請によりできた、身障者福祉工場(オムロン太陽)で働いた身障者の人達は、源泉徴収書を見て感激し泣き出しました。それまで税金のお世話にのみなり、役立たずの後ろ指を恐れていた彼らが、立派に役に立ったという証が、源泉徴収書です。話を聞いて、税務署がびっくりしたといわれます。みな立石電機の自動装置のお蔭です。
この間一真は、経営方式を変えてゆきます。プロデュ-サ-工場へ権限を委譲します。生産のみならず、研究開発、経理、財務、資材と部品の購入、人事も工場へ委譲し分権化を計ります。
1971年5万円以下の価格の電卓を発売します。しかし電卓では失敗しています。20数社に及ぶ過当競争と石油ショックが背後にありますが、立石電機の持つ企業としての特製も敗退の原因の一つでした。立石電機はそれまでは最終消費者と接触した経験はありません。得意先は原則としてメ-カ-かそれに準じる企業です。商売の相手は機械のプロでした。だから最終消費者の心情がわからなかったとも言えます。さらにソニ-やシャ-プやパナソニックのように販売組織がしっかりしているはずがありません。経常収益は赤字になり、株価は4000円台から1000円台に急落します。1977年一真は電卓からの撤退を決意し、同時に多角化経営を改めます。撤退後の1979年成績はV字型回復し、売上高は1000億円を超えます。これを機に一真は社長の座を長男の信雄に譲り、自分は会長に収まります。ただし代表権は保持します。この時期電卓失敗のこともあり、老齢もからんで、引退を求める声がありました。会長と社長の下に、8人からなる常務会が作られ、ここでの合議が最高決定機関となります。どうやら一真専制への批判は強かったようです。
しかし信雄社長体制はうまく機能しません。合議制による意思決定は遅延し、在庫は増え、リ-ドタイム(問題提起から対策決定までの時間)は伸び、同業他社に得意先をどんどん獲られてゆきます。かって立石電機がそうしたように、中小企業の利点を生かし、即決即戦で他の業者が食い込んできます。1983年一真は最高指揮官として復帰します。これはク-デタと言っても構わない事態です。常務会は廃止され、会長社長副社長三者(すべて立石一族)からなる代表会が意志を決定することになります。分権化は更に徹底されます。小事業部制をとります。事業部の規模は、ライヴァル企業と同じ規模に設定されます。海外販売部員を直接この事業部に置き、生産と販売の前線を直結させます。介在する販売会社の存在意義は小さくなります。さらに各事業部の在庫は本社からの貸付とみなし、利息が徴収されます。要するに、各事業部は中小企業としての生き方を強要されるわけです。1986年、新しい経営方針であるaction 61を宣言し、新社長に三男の義雄をすえ、自身は相談役に退きます。1988年妻信子死去、90年社名を「オムロン」に変更します。ちなみに「オムロン」の名は一真の家と本社のある京都北郊の名刹「仁和寺」の別名「御室」であることから来ています。1991年死去、享年90歳でした。
一真は多趣味の人でした。絵画を描くのは祖父父親の遺伝でしょう。小唄と謡曲も趣味でした。宴会好きです。28歳で元子と結婚し、61歳で信子と結ばれます。二度の結婚ともどこかに恋愛の香りをほのかにうかがわせます。
一真の功績は甚大ですが、発想は一貫しています。彼の発想の原点は継電器です。これは電気というエネルギ-の点滅装置です。この装置をいろいろ改良し、それらで機械の諸部分を結んで、自動制御装置を作ります。この発想は会社運営にも生かされます。プロデュ-サ-工場制度です。生産単位としての工場の連結で会社ができます。立石電機あるいはオムロンは機械のプロを商売相手とする企業です。最終消費者とは直接の接点はありません。私は自動改札のお世話にはなっていますが、この装置の発案者が誰だかしりませんでした。この分、優れた発想と社会への甚大な功績にもかかわらず、一真の知名度は小さいといえます。立石電機もオムロンも名前はしていましたが、私の中でこの二つの名は別々のものでした。オムロンなんか、女性の生理用品の類くらいに誤解していました。無知とは滑稽で恐ろしいものです。
参考文献 立石一真「できません」と言うな ダイヤモンド社
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