経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、服部金太郎

2010-11-22 03:39:42 | Weblog
        服部金太郎

 「一人一業伝、服部金太郎」を読んでこれほど面白くない伝記も珍しい、という印象を受けました。少なくとも松永安左衛門や福沢桃介のそれに比べると。多くの経済人にはそれなりの人生の起伏がありました。私が読んだ本のせいなのか、金太郎の生涯がそうなのか、解りません。多分後者でしょう。しかしこの平板さが金太郎の持ち味かもしれません。謹厳、実直、計画性に富み、着々と積み重ねる、趣味はあるが決して惑溺しない、そして人には優しい、まさしく理想的な人格です。時計王といわれるくらいになったのですから、それなりの苦労があるはずです。しかしそれが伝記の表面に出てきません。仕事は、火災や震災などを、除けば常に順調、世間が不況不況と騒いでいても、彼の経営する会社、服部時計店・精工舎、の営業成績は伸び続けます。
 服部金太郎は1860年(万延元年)に江戸に生まれました。父親は古物商、まあ中堅どころの商人でした。青雲堂という私塾で初学を修めます。ここの師匠から養子に欲しい、旨の要請があったと言いますから、頭が良くて向学心に燃える子供であった事には違いありません。後に金太郎の会社が成長し、経営者として繁忙を極める中でも、英語や漢学の受講は続けますから、向学心は相当なものです。
 1872年13歳時、当時の商人の慣習に従い、丁稚奉公に出ます。最初江戸市内の用品問屋辻屋に奉公します。仕事先の小林時計店で、店員の仕事振りを見て考えます。時計店では客がなくても、店員は時計修理の仕事があり、時間の無駄がない、と。そして時計修理でこつこつ貯めれば資本もできるとも考えました。こう考えて辻屋を2年で辞めます。亀田時計店、坂田時計店で丁稚奉公を続け、次第に時計修理の技術を磨きます。この時、初心者には雑用をさせて、なかなか技術を教えてくれない、旧習を経験します。彼はこの旧習には極めて批判的でした。美談があります。坂田時計店が倒産寸前になった時、7円を店に寄贈し、主人に感涙を流させます。更に当時時計店として有名だった桜井時計店に技術者として勤務します。時計修理のアルバイトもして、資金を貯えたようです。
 1877年(明治10年)、中古時計修理を業務とする服部時計修繕所を開き、4年後の明治14年には、時計の販売と修理を兼ねる、服部時計店を開設します。金太郎22歳、資本金は150円でした。金太郎は外国商人の信用を得ました。理由は彼らが要求する、一ヶ月以内の支払いを忠実に守ったからです。他の商店は、旧来の慣習を捨てず、盆と暮2回払いをして、外商の信用を損ねていました。この間の経歴を外から見る限り、まるで精密機械である時計のように着実に計画立案とその遂行を積み重ね、一片の過誤もないように見えます。ただ一つだけ謎があります。彼は最初の妻を1年で離縁しています。  
 開設から10年、商店の営業成績は順調に伸びました。1892年(明治25年)時計製造を始めます。この間10年なんの波乱もありません。伝記を読むとそういう印象を受けてしまいます。製造業となると要求される資金が一桁違います。時計製造に踏み切ったのは、松方デフレの時期が終わり、財政が健全化した明治20年前後の形勢を読んでのことです。また金太郎は吉川鶴彦という天才的技師を技師長に任命します。最初製造したのは大型のボンボン時計でした。技術が外国に及ばない段階では、大型時計製造が適当でした。私達の年代では、懐かしい、柱にかけられて、例えば7時ジャストになると、7回ボンボン----と音のする時計です。この時金太郎が為した驚嘆すべき事(少し大げさな表現かな)は熟練工の組織的養成機関の設置です。自分が小僧時代に経験した、雑用で追いまくられて、ろくに肝心の機械に触らせてもらえなかった事を踏まえ、無駄な作業に人材を使用する愚を避けます。寄宿舎を作って見習工に、時計と製造機械の知識と技術を体系的に教えるべく務めました。これは立派です。立派としか言いようがないほど、立派です。
 早くから小型時計製造に関心を持ちます。明治32年に製造発売されたエキセレントは好評を博し、恩賜の時計に指定されます。恩賜の時計とは、帝国大学や陸海軍大学校卒業者のうち成績トップの者に、天皇から下賜される時計のことです。帝大卒の場合は銀時計でした。他は知りません。明治34年、東京時計組合頭取に推されます。
 日露戦争では軍の命令で軍需品生産を行います。時計は精密機械で平和産業の代表ですが、部品生産は少し応用すれば軍需品の部品に転換できます。例えば大砲の薬莢、爆管体、発火金などです。
 1904年(明治42年)上海における時計販売量で精工舎はドイツ製を圧倒します。1913年金太郎はかねて念願していた腕時計の生産に踏み切ります。腕時計が時計産業の主流になると見越してのことです。また腕時計は小型なので、精密でなければならず、技術競争で優位に立てば、業界を圧倒できます。それほど自社の技術力に自信を持ちつつあったということでしょう。最初生産した腕時計の商標はロ-レルとマ-シ-でした。翌年第一次大戦、英仏から時計の大量注文が殺到します。時計生産国であるドイツからの輸入が止まったからです。この時アメリカは時計のスプリング生産に必要な特殊鋼材の輸出を停止します。自国の生産を増強するためです。金太郎はそれを見越しておいて、大量買いだめし、他社が生産中止に追い込まれる中、悠々と生産販売を続けます。大量と言っても時計の部品ですから、買い置く量は知れています。同様の事態に直面した、鈴木商店の金子直吉は鉄鋼と船舶を、重量比3対1でアメリカ大使と取引しています。
 1917年、株式会社制にします。貿易部を切り離して、資本金100万円の服部貿易株式会社にし、本体は服部時計店として資本金500万円で株式会社にします。関東大震災で工場の大部分は壊滅します。金太郎は一時従業員を解雇し、4カ月で工場生産を復興します。4ヶ月で復興可能なら解雇しなくてもいいのになあ、とは思います。太平洋戦争が終わって、日本の工業は壊滅状態になった時、出光佐三はそれでも社員を解雇しませんでした。一応比較のため。
 昭和初期の不況時にも、工場を拡張し、成功しています。1930年(昭和5年)に発売された、セイコ-シャ19型および17型は大成功を収め、鉄道の時計に指定されました。以後服部時計店より、精工舎の名前の方が有名になります。私も数年前まで前者の名は知りませんでした。精工舎の名は子供の時から知っています。この間貴族院議員に推されます。犬養内閣の閣僚にセイコ-シャを贈ります。時の外相は芳沢謙吉でした。彼は27年後に、贈られた時計を、名刺をつけて返還します。名刺には、27年愛用しその間故障なし、記念に返還します、と書いてありました。ともかく伝記上からは、金太郎の生涯は一本線で成長の連続です。会社はいつも発展し成長しているように見えます。
 金太郎は一人一業を是とし、それを実行しました。ですから他社の役員になることは、少なかったようです。この点では第一生命の創設者である矢野恒太と、気が合い終生の親友になります。第一生命創設の時、発起人の一人として矢野を援助しています。
 他に金太郎が役員になり援助した計画としては、田園都市株式会社があります。この事に関しては五島慶太の列伝で述べました。田園都市KKが発展して東急電鉄になります。
 金太郎は社会への寄付、利益還元の好きな人で、報公会を作り諸々の事業を援助しています。また服部商業学校を作って事務系職員の育成を計ります。
 1934年(昭和9年)死去、享年75歳、趣味は読書、漢詩、そして古書画でした。1966年(昭和41年)BOAC(イギリス海外航空)のボーイング707旅客機が富士山麓に墜落し乗員124名が全員死亡するという事故がありました。この時欧米産の時計はすべて停まりましたが、精工舎の時計だけはコチコチと動いていました。最後に金太郎没後ある寄稿に矢野恒太が書いた文を紹介いたします。
「鋭敏な智の優れた人は冷たくなりやすいものだが、服部君は温かだった。僕は30年間の交際だが、最初はある人の紹介で、第一生命についての援助を頼みに行った。その紹介してくれた人は決して服部君を圧迫するような偉い人ではなかったのだが、僕は服部君に設立しようとしている組織、構成、目的を説明しただけで、即座に援助を約束してくれた。その後第一生命は14・5人の有力なバックを得て設立したのち、服部君に重役になってくれとたのんだが、なってくれぬ。やっと四・五年たって取締役になってくれた。ところが重役としての報酬を一切拒絶するのだ。僕はそれでは困る、他の重役との振り合い上からも取ってもらいたいというと、それでは重役報酬に対する税金の分だけ頂こう、その残りは公共の用に使ってくれ、という話で、結局一文も自分の懐には入れなかった。
 それから、も一つ不思議なことは、大抵の会社の平重役というものは、会社の仕事には冷淡になりやすいものだが、服部君の場合には会社の報酬は一文も受け取らないくせに、あたかも自分が会社の社長であるかのように会社のことを心配したことだ。保険事業は全くの素人でよくわからなかったが、金の運転には非常に細心であった。それだから夜でも僕のところに電話をかける。昼間でも気がつくと何時でも会社にやってくる。そしてあの株は売払ってしまえとか、この預金はどうしたらよいだろうかとか親切に注意してくれた。みずから深い責任を会社に対して感じていた。いわゆる平重役という人には、とても見出せない点である。僕は服部君から、かようにしていつも指導してもらった」(後略)

 参考文献  時計王 服部金太郎 時事通信社
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