経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

憲法違反ってなに?

2015-12-20 02:11:59 | Weblog
  憲法違反ってなに?
 最近二つの裁判を耳にした。国政選挙における一票の格差云々であり夫婦同姓の可否を争う裁判である。ともに争点の論拠は憲法違反とされる。詳しく見てみよう。一票の格差とは選挙区により選出議員一名あたりの有権者数の最低と最高の比率が2倍強になるということである。島根県や山形県の議員は比較的少数の得票で選ばれ、東京都や神奈川県では当選するのにより多くの得票が必要と言う事だ。だからこの格差は憲法違反だといい、最高裁にまで持ち込まれた。もう一つは夫婦同姓が憲法違反だという訴訟だ。
 まず実際的見地から言えば私は一票の格差が二倍であってもいいし、夫婦同姓は当然のことだと思う。それはともかくとしてどうしてこの二つの案件が憲法違反なのだ?私には解らない。そこで分厚い六法全書を引き出してきて憲法の条文をざっと読んでみた。どこにも一票の格差の存在や夫婦同姓が憲法違反異なるなどとは書いていない。思想信条の自由とか集会結社の自由とかさらには黙秘権のようなものは明確に書かれているが、憲法の条文で一票の格差と夫婦同姓に具体的に触れた部分は一切ない。ではこの二つの案件は憲法のどの部分を根拠にして違反と言うのだろうか。その部分はある。憲法の初めの部分にある「基本的人権」が根拠だ。ところで基本的人権とは何か。極めて曖昧である。基本的人権の具体的な内容は以下の記述に詳細に述べられているのだから、争点はそれらを根拠に争えばいい。しかし一票の格差と夫婦同姓に関する争論はそれらの具体的条項によらず、総論である「基本的人権」の条項を根拠とする。では基本的人権とは何だろうか。簡潔に言えば個人の尊厳ということになる。ところで一票の格差が2倍になれば個人の尊厳が犯されるのか?あるいわ夫婦同姓だと個人の尊厳が侵害されるのか。選挙ですべての人が完全に同一な議員一人当たりの有権者数を有することが、あるいは夫婦が勝手に好きな姓名を名乗ることが、個人の尊厳を満たす条件なのか。私は疑問に思う。
 そもそも基本的人権とか個人の尊厳なる記述が曖昧すぎるのだ。このような条項を根拠にするとどんな論旨でもまかり通ることになる。極端に言えばどんな重罪犯にも基本的人権はある。厳密に言えば彼らを処刑する事はおろか、逮捕拘禁することも基本的人権の侵害に相当する。また貧乏な生活を強いられる人も、自分の生活状況は基本的人権に違反すると政府や地方公共団体を相手に告訴することもできる。自分に不利なことがあれば基本的人権云々で主張し告訴すればいいのだから。前者の場合は犯罪の危険を考慮せず、後者の場合は財政問題を一切考慮しない場合に出現する論旨だ。結果として国家の治安と経済は破綻する。基本的人権はこのように使いようによっては危険な結果を招来する。
 ここで基本的人権なる概念の歴史的由来を問うてみよう。思想はJ・ロックとJJ・ルソ-に簡約される。ロックは名誉革命のイデオロ-グとして王権により侵害されない絶対不可侵な人民の権利として私的所有権を設定しその上に人権思想を展開した。ロックを引き継いだ(つもりの)ルソ-はロックの思想から私的所有権を取り払ってしまう。そうなると人権は極めて抽象的なものになり、人民のあらゆる自由を満たすためには逆説的結果になるが極めて強力な独裁政権を設定しなくてはならなくなる。その現実の例証がジャコバン独裁政治だ。この延長上にソ連やシナの共産党独裁政治がある。ロックのように私的所有権を根底に据えれば統治は具体的で安定したものになる。統治とは具体的利害の交換であり妥協だからだ。ルソ-は人間の理性を信頼しすぎた。あらゆる統治から解放された人民の協約による新たな統治システムは完璧なものだと錯覚した。日本国憲法における「基本的人権」はこのルソ-の系譜を多分に引きずっている。あるいわこの概念を左翼的信条で歪曲している。
(付1)10年前くらいになるが大阪市内に住むある住人が、親の介護が現行システムでは不十分であり、このことは健康で文化的な生活を営む基本的人権に違反するとして大阪市を告訴すると主張した。大阪市はこの恐喝に簡単に屈して現行条例を無視して週五日の介護を認めた。こういう例もある。大阪市の職員がぐるだったのかもしれない。
(付2)一票の格差の問題は18世紀イギリスの腐敗選挙区が例証となり、主張されているのかもしれない。当時は産業革命で市民が台頭する一方選挙区は地主有利に編成されていた。10万人が住むマンチェスタ-には一人も議員が立てられない一方、数人の有権者の選挙区もあった。
(付3)私はあくまでも2倍強の格差は合法であり適当過ぎると思う。過疎化する地方から発言力を奪取することは地方創生と完全に矛盾する企てだ。私は逆に一種の傾斜配分を提唱したい。有権者の少ないほど比較的に議員常数を増やすのだ。例えば300万人の地域が10名の議員を出し30万人規模の地域が議員1名出すとする。両地域の議員1名あたりの有権者数は同じ、形式的には平等だ。私はこの場合300万人の地域から2名の議員定数を30万規模の地域に移行させるべきだと思う。300万人の規模の地域はざっと40万人に1名の議員を出し、30万人規模の地域では10万人に1名の議員をだすことになる。一票の格差は4倍、これくらいが適当だと思う。大都市住民は大都市の持つ能力を享受している。不満があろうはずはない。一体誰があるいわどの勢力が格差格差と騒いでいるのだろうか。
(付4)夫婦別姓について。もしこうなれば家族の紐帯は弛緩するあるいわ崩壊する。夫婦別姓を主張する勢力は家族の意味を知らなさすぎるあるいは無視する。家族は初期教育(しつけも含む)の媒体であり、一体感安心感の基盤だ。家族がなくなれば社会は全くばらばらの個人の集積になる。砂の城郭に等しい。統治の基礎単位である家族が崩壊すれば国家は消滅する。経済、治安、外交、軍事などの営為は遂行不可能になる。これでいいのだろうか。さらに女性は何かと男女平等を云々するが、女性は家庭にあって子供を引き付けることによってのみ女性たりえる。そしてこのような立場での力や決定権はむしろ女性の方に大きい。実質的に大きい。仮に家族から女性が解放(?)されて社会に出された(放り出された)時女性にはどんな運命が待ち受けているだろうか。こういう事態になれば男性の態度は一変する。親愛感に基づく保護する義務から解放された男性からみた女性は単なるメスでしかない。結果は性犯罪と売春の横行だ。いやこのような社会では売春・性犯罪という概念すら消滅するだろう。
 世界中女性が夜間外出できる国は日本だけらしい。この治安の良さは家族的紐帯の堅固さによるところが大きい。基本的人権の本場を自負する英米仏の諸国でこんなことがありえるのか?
(付5)世界の国々では夫婦同姓は例外だという。それならそれで結構、外国に習う必要はない。30年前新聞に出ていた記事がある。ある韓国人女性の投稿だった。彼女は言う。日本人の一部は、韓国では夫婦別姓で進歩的だと言うが、実態は韓国では氏族的な関係が強すぎて外から来た配偶者は家の中に取り込まれない異邦人だと。もう一つ知り合いの台湾人から聴いた話。台湾あるいわより広く漢民族の風習として、ある家で妻が死んだ場合妻の親族(実家)は死体に外傷の跡がないか否かを調べるという。虐待の可能性を心配しているのだ。欧米では夫婦別姓は当たり前らしい。夫婦別姓どころか事実婚や同性婚を云々する国の意見など参考にする必要は一切ない。彼らの国家はまちがいなく衰退するだろう。

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