経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、大橋新太郎

2010-11-25 03:26:27 | Weblog
      大橋新太郎
 
 大橋新太郎という名は今までの各列伝の資料模索中によく出てきました。しかし私はこの人物の名さえ知りませんでした。新太郎の事業の基礎は博文館という出版社であります。ところで明治期に大活躍したこの人物の拠って立つ博文館という出版社については、私の認識は、たしかそんな名の出版社があったなあ、くらいです。出版不況と言われる時期がもう20年続いている今日の感覚からすると、出版社を基礎として、以下に述べるような、新太郎の事業拡大がありえたことは、正直びっくりです。
 博文館の設立は新太郎の父、大橋佐平によるものです。佐平は越後(新潟県)長岡で材木商そして酒造業をしていました。佐平は政治への関心の極めて旺盛な人で、町人の身分ながら、軍学や撃剣を学んで国事に奔走しました。町人としては稀と、伝記には書いてありますが、幕末においては上層の農民や商人の政治への関心は低いものではなかったと思います。戊辰戦争において、長岡藩牧野家は家老河合継之助の指導のもとに、薩長軍と戦いますが、佐平は和平派として活躍したようです。
 佐平は非常に事業拡大に熱心な人で、維新後長岡に小学校を作り、更に洋学校を作って、英語教育を広めました。また越佐毎日新聞(北越新聞の前身)を創設しています。1887年(明治20年)出版社博文館を設立します。新太郎は佐平の長男として、1863年(文久3年)長岡に生まれます。父親が作った洋学校に入り、14歳時、上京して中村正直の経営する同人社で教育を受けます。同人社は当時、つまり明治初期においては慶応義塾と並ぶ、エリ-ト養成機関でした。そのころの高等教育用の学校としては、多分、東大の前身である開成学校と慶応義塾くらいしか他に学校はなかったようです。2年後、父親がしている図書雑誌販売を助けるために、同人社を中退し帰郷します。
 明治20年佐平は博文館を設立します。ですから博文館の事業は佐平と新太郎の共同経営として出発したと、見ていいようです。この出版社は日本の古典の復興を主たる目的の一つにしました。博文館は最初に「日本大家論集」という雑誌を出します。中村正直、加藤弘之などの当時の知的指導者の論文を載せた雑誌です。ついで「日本の数学」「日本の商人」「日本の女学」など「日本-」が頭につく雑誌をどんどん出版します。また市町村制が敷かれ、憲法が作られると、新制度の解説注釈などを内容とする本を出版します。また日本古来からの文学文芸を復興させるべく、「日本文学全書」「日本歌学全書」「俳諧文庫」「心学叢書」「温知叢書」「帝国文庫」なども次々に出版します。
 「日本文学全書」はそれまでに出版されていた古典の翻刻出版で、以下のようなものがあります。 伊勢物語、土佐日記、方丈記、徒然草、枕草子、源氏物語、紫式部日記、竹取物語、十訓抄、公事根源、水鏡、大鏡、増鏡などです。
 「日本歌学全書」は佐々木信綱に委嘱し、万葉・古今・新古今はじめとし、歴代勅撰和歌集、山家集、金カイ集、などの和歌を注釈解説したものです。
 「心学叢書」は石田梅岩と彼の弟子たちの著作を復刻し集成したものです。
 「帝国叢書」は源氏や万葉に比べればもう少し大衆的な文学、源平盛衰記、平家物語、太平記、太閤記、里美八犬伝、東海道中膝栗毛、浮世床、浮世風呂などを収録しています。
 以上のような出版内容を見ますと、まず政治意識が高いことが特記されます。保守的な、政府支持の方向で、当時の指導者論客の意見を開陳させました。古典の復刻は、それまで西洋文化を崇拝し、古来の日本文化を劣等視してきた風潮への反発反動です。博文館の設立は明治20年ですが、その直前まで井上馨外相が主宰する鹿鳴館文化という仇花が咲き誇っていました。大橋佐平はこの傾向に反発し、日本の文化を護ろうとします。この点で博文館は慶応義塾の福沢とは対照的な路線を歩みます。事実福沢が主宰する時事新報は、博文館の出版物特に古典を、骨董文化と揶揄しています。
 今時なら、こんな本は売れない代表なのですが、博文館創設以後、出版物の売れ行きは極めて好調でした。理由の一つは廉価販売に徹したことです。そしてこの時代、諭吉的傾向にせよ、博文館的傾向にせよ、知的刺激を、多くの人が求めていました。それに日本の識字率の高さも貢献しています。
 出版物紹介は控えますが、特記すべきは、日清・日露の戦争の実記を出版し、戦争の実態を紹介したことです。また博文館が後に出した「太陽」「少年クラブ」「文芸クラブ」の三つの雑誌は当時の日本の世論形成に大いに影響しました。
 博文館経営で、資本を貯え、言論界の有力者となり、また多くの知的指導者を知己にもった新太郎は1986年(明治29年)、他の事業に進出します。その皮切りが、東京馬車鉄道の経営改善です。同社の取締役になり、建てなおします。東京ではこの会社の他に、二つの会社が東京市内の交通利権をめぐって争っていました。後に新太郎は東京市公民会活動に従事し、東京市の交通が民間会社では困るという立場から、市営を主張し、それを実現させています。
 明治30年には東京ガスの株を買い、取締役になり、経営を立て直します。専務取締役として、一気に300人全員を解雇し、自分の意見に同調する者のみを、再雇用します。今ならとても考えられないやり方です。東京商業会議所議員、東京市会議員を歴任。明治34年大橋図書館設立、翌年衆議院議員に当選します。
 この明治35年に小中学校用教科書をめぐる一大疑獄事件が持ち上がりました。多くの視学官、校長などが逮捕されます。それまでは教科書作成は民間業者に任され、教育者と業者の癒着は日常茶飯で、知る人ぞ知る、ような状態でした。新太郎は早くからこの事態に呆れ果て、教科書作成から撤退しています。政府は教科書出版を国定にし、そのための国策会社として、日本書籍株式会社と合名会社国定教科書共同販売会社を作ります。新太郎はどちらの会社でも、社長あるいわ理事長として、この企てを指導します。
 新太郎は朝鮮にも進出し、京城電気会社、日韓ガス株式会社、朝鮮興業株式会社の設立に手腕を振るいます。朝鮮興業では16000町(ヘクタ-ル)を16000人の小作人に耕作させ、食糧を増産します。
 他の事業との関連では、第一生命の発起人・取締役になったこと、馬越恭平を助けて大日本ビール創設に貢献したこと、日本工業倶楽部創設に和田豊治を支援して尽力をつくしたことなどがあります。ともかく晩年の新太郎は無数の会社の役員を兼任しています。経済界のまとめ役です。私として特記したいことは、金沢文庫と称名寺の復興です。北条氏の支流である、金沢実時が作った称名寺とそこに保存されている膨大な古典の保存に新太郎は貢献しました。
 1944年(昭和19年)死去、享年82歳です。なお博文館は明治大正期には当時最大の出版機関でしたが、戦後は衰退し、現在では博文館新社として残っています。

参考文献   大橋新太郎伝  博文館新社

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