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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



但馬国・豊岡は、忠臣蔵の主役、大石内蔵助(赤穂浅野家5万石・筆頭家老1500石)の妻、理玖の出身地で、理玖の父親は豊岡京極家(35000石)の筆頭家老・石束源五兵衛毎公(いしづかつねよし・1200石)でした。・・・JR豊岡駅前

理玖(16691736)が大石内蔵助(16591703)へ嫁いだのは1687年頃とされ、その約14年後に浅野内匠頭長矩が江戸城で吉良に切りつけ、即日切腹という事件が起きます。・・・豊岡駅前通り「こうのとりのまち」の垂れ幕

1702年、大石内蔵助は討ち入りで罪が妻子に及ばぬよう離縁の形をとり、理玖は身重の体で長女のくうと共に豊岡の実家(石束家)に帰り、後家となってからの11年間を豊岡で過ごしています。・・・旧町人町にある立正寺

吉良邸討ち入りが成功して夫と長男の主税が切腹した後、理玖は豊岡の実家で生まれた大三郎の養育と、内蔵助の冥福を祈る生活を続け、香林院と名乗りました。・・・旧、豊岡藩陣屋門の先は図書館

1709年、徳川綱吉が死去、1912年に家宣も死去した1713年(7代家継の時代)赤穂浪士が称賛されるようになり大三郎は父と同じ石高(1500石・5万石大名の筆頭家老格)で浅野本家の広島藩(43万石)に召抱えられています。その際に理玖は大三郎と一緒にこの豊岡から広島へ移ったといいます。・・・旧豊岡藩陣屋から道を挟んだ土蔵の前(左)にある大石理久の看板

一方、理玖の兄で豊岡京極家の筆頭家老石束毎明(つねあき・1667?~1755年)は、1703年に石束家の家督と家老職を相続(加増され1500石)しますが、3代藩主京極高栄が32歳の若さで亡くなったことで平穏な状況が一変しています。・・・左に「大石りく夫人と豊岡藩家老石束家」という説明、中央石碑、右は元禄時代の絵図

京極高栄の後を継いだ4代藩主京極高寛も1726年に10歳で急死、京極家が無嗣になり、弟の京極高永(17201726)が急きょ家督相続したため、豊岡京極家は15千石に半地され石束家の家禄も半減したのです。・・・大石陸女生誕之地とありました。理久、りく、でもなく陸とありました。

理玖の兄、石束毎明(つねあき)は藩の半地に対応するため、積極的に改革と倹約にあたり、また殖産興業を図って柳行李(豊岡名物カバンの始まり)の生産を開始しています。1726年ころの理玖は、広島に移って13年目でしたが1736年に広島で亡くなっています。・・・武家屋敷と町屋を隔てるのは円山川支流の和久田川

理久の兄、石束毎明が隠居すると、嫡男毎雅(つねまさ)が、藩主京極高永と藩政改革を巡って対立、 1747年には家老を辞して出藩したため、隠居していた毎明は豊岡を離れて広島の甥(理久の息子大石大三郎)のもとに身を寄せ、8年後に広島で生涯を閉じています。豊岡石束家と広島に何か縁を感じます。・・・今の和久田川



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