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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



阪急電鉄社長だった太田垣士郎(18941964年)のことを、鶴見緑地公園「咲くやこの花館」のハイビスカスと一緒に紹介しましょう。

1948年(昭和23年)当時の太田垣士郎(54歳)の経営者としての真価を問う試練は、激烈な労働組合(私鉄総連)との労使対決でした。

組合側は新任社長を待ち構えていたように、最低賃金制要求を打ち出し、ストライキを構えていますが、太田垣は組合の挑戦を真正面から受けて立っています。

太田垣は「組合から次々に出される強い要求に、これ以上要求を入れると企業そのものが成り立たない。それにもまして、大衆輸送という復興の支えはどうなる」と組合に経営側の立場を一歩も譲っていません。

その組合交渉の最中に病弱だった長男と長女を相次いで失いますが、若くして亡くなった子供のために組合との交渉をまとめようと努力したようです。

太田垣は「息子も娘も何かの縁があって生まれてきた。今日まで育ててくれた世の中に二人は何の恩返しもしていない。二人の子供に代わって僕の後半生を世の中に捧げよう。それが親の務めだ」と、労使交渉の際の覚悟を後に語っています。

二人の子供を失った直後に、小林一三から太田垣のもとに「和光」という銘のある秘蔵の茶杓が贈られてきています。

茶杓には「いま悪天候で荒波の中に立っているが、嵐はそう長く続くものではない。波静かにして穏やかな光のさす日が必ず来る」という意味の詩が添えてあったそうです。

太田垣は「若くして逝った二人に代わってやろうと決めてからは、どんなに苦しい目に遭っても、二人の子供を失ったことに比べるとこんなものは何でもない。苦労も苦労と思わず働けた」と回想しています。

労使交渉の陣頭に立つ太田垣社長の姿勢に労使対立は下火となり、問題は一つ一つ解決、関西に太田垣ありの評価を財界と労働組合に植え付けたのでした。・・・つづく

参考文献:呼ぼうよ雲を 太田垣士郎伝 


 



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