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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

「記憶」と「歴史」の陰で“厄災”の現実は今も続く 3 

2009年06月18日 | 海南島近現代史研究会
■世界と歴史をもう一度直視するための原点
 この稿を書いている2009年1月現在、イスラエルは陸海空軍を総動員してパレスチナ・ガザ地区を封鎖し続けた上での総攻撃を続けている。「神に選別されたユダヤ人」という政治イデオロギーによって、軍事的にはハイテクを駆使して反占領の抵抗勢力を「テロリスト」と呼んで掃討しようというのだ。
 しかし、その反占領で闘う者を「テロリスト」と呼ぶことで民族と領土を占領支配する戦争犯罪「国家」イスラエルは、ユダヤ人たちが差別排外されて流浪して来た歴史的な悲惨と経験をすら投げ捨てさせられ、「ユダヤ人=神の選民」と言う特権的な「物語神話」に踊らされて、今、アラブパレスチナの人々を民族的に虐殺し続ける酷薄さを生きている。これこそ、反占領の民族意識をもった住民全てを「テロリスト」と呼んで民族虐殺を続ける「国家的な狂気」としか言いようのないところまで「物語神話」による「認識」をイデオロギー化してしまっている実態が現れているのである。
 この攻撃を受けるまでガザ地区の住民は、18ヶ月にわたる封鎖で食料や医薬品を初めとするあらゆる社会生活基盤を欠落させられていた。国連難民支援機構でさえガザ地区総体が「青空監獄」化していると窮状を訴え続けて来た。しかし、そんな人権擁護の良心の声すらも、国連安保理では米国の拒否権行使で再三封殺され、この暴虐に怒る人々もイスラエルの一方的な軍事力展開を抵抗勢力の「テロリスト」を懲らしめる「反テロ」戦争の一つだから仕方がないし、声を上げても「また無視されてしまう」と黙認して済ませてしまう。これが、事実への無知から始まる「認識」や「記憶」で作り上げた「物語神話」を信じてしまうことで、二重の犯罪を行うことになっていく。それが、「物語神話」を操作する奴らによって、パレスチナ・ガザ地区住民への民族圧殺政策を強化する凶器の原動力の一つにされていることを思うと、怒りで身震いが起こる。
 そして、その身震いを、過去の浅はかな「認識」や「記憶」を破壊することで世界と歴史をもう一度直視するための原点にして再出発しなければならないと、改めて決意しなおす。

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「記憶」と「歴史」の陰で“厄災”の現実は今も続く 2

2009年06月17日 | 海南島近現代史研究会
■「神話」の重大な欺瞞性
 実は、そういう私自身の無残さに気付かされたのは、初めてではなかった。四十年近く前にパレスチナ問題に出会った時も、そうだった。初めは、アラブパレスチナの地を占領したユダヤ教徒たちが「イスラエル」という悲願の「神話国家」を建国したというする神話を「認識」していた。ところが、「イスラエル」の実態は、 ユダヤ民族の欧米における民族迫害と抹殺を自分たちの野望実現の為の「物語神話」の「認識」に作り上げて、その裏でナチス以上に無慈悲にアラブパレスチナの人々を無差別に虐殺する実態を知った。「イスラエル」の迫害の嵐から生き延びて、なおかつ故郷を取り戻そうともがき闘うパレスチナ避難民たちの日々の姿に出会った時に、「物語神話」の欺瞞性と役割が見えた時である。
 難民キャンプの民衆やそこから出撃するゲリラ兵士たちと生活を共にする実態認識によって、それまでの近現代史にまつわる私の概念はずたずたに破壊され、歴史を再認識する必要を痛感させられた。一般的な知識で知らず知らずに信じ込まされていた「悲劇の民・ユダヤ人」という作られた美しい「物語神話」で作られ続けている重大な犯罪を教えられたのだ。
 ユダヤ教徒が、祖国を持たないばかりに欧米で迫害され追い立てられ続けた歴史的な経験は大半が事実だろう。しかし、その差別と迫害を行った近代欧米諸国は、その辻褄合わせの代償としてユダヤ教徒による侵略的なアラブパレスチナへの入植、そして入植地拡大という名の占領と民衆虐殺の蛮行を黙認して済ませて、現在に至るパレスチナ問題を作り出した。
 欧米の植民地主義的な権益、つまり資源と市場を保守する為に、かつてはユダヤ人を迫害した者たちが、現在、迫害された経験を持つユダヤ人にアラブパレスチナの人々への民族差別と虐殺行為を行わせるという、イスラエルと欧米の共犯が続けられている実態を知ったのである。
 この、連関させられ、繰り返される民衆虐殺という犯罪は、かっては植民地主義や新植民地主義、そして今やグローバリゼイションが強いる抑圧と虐殺を各種の「物語神話」に変えて続けられているものである。
 特に、パレスチナ問題の場合は、アラブパレスチナ人よりもイスラエル人の中に埋め込まれた「物語神話」が、戦争犯罪を覆い隠すために操作されて、作為的な「認識」の情報戦争にまで拡大され、民族排外主義のシオニズムの本質を隠蔽しているところに、解決すべき問題の本質があるとさえ言える。
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「記憶」と「歴史」の陰で“厄災”の現実は今も続く 1

2009年06月16日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会『会報』第2号の足立正生さんの「「記憶」と「歴史」の陰で“厄災”の現実は今も続く」を、足立さんの承諾を得て、5回にわけて連載します。2009年1月6日という日付のある文章です。


■無知という闇の領域
 あまりにも一般的かもしれないが、かつて旧日本軍が海南島で行った戦争犯罪の実態、他民族に対する加害の酷烈さを思うと、私は私自身の「認識」と「記憶」が持つ犯罪的な傲慢さを恥じ入ることが初動になる。
 世界や歴史について、あまりにも多くの破廉恥な理解の仕方をしていたことに気付かされるのである。
 勿論、事実の一端を知り、私自身の感性をその場で改めたからといっても、それはまだ、一知半解の域を一歩も出ては居ない。しかし、少なくとも、歴史的な事実の一端を知って、根本的な歴史認識の洗い直しを続ける必要を痛感させられることは、今、この現代の生を紡いでいる者が唯一行える戦争犯罪への加害側の責任のとり方を開始する重要な意味を持っている。
 というのは、私自身の不勉強を恥じるとともに、世界の歴史の中で起こったことを全て知り尽くすことが出来るわけじゃないと匙を投げて、無知という闇の領域でいつも繰り返されている戦争犯罪や民族虐殺の暴虐を「それはよくあることだから」仕方ないとし、「あり得ることだ」と浅薄な「認識」のレベルで済ませてしまい、無意識のうちの犯していた無知ゆえの犯罪に気付かされるからだ。
 それは、抑圧と収奪、そして虐殺の危機を逃れて命を紡ぐ人々の苦闘や困難と痛苦に目をつぶり、私自身は安穏と生きていたことと同義だと悟らさられることだ。つまり、私は、片方では何ともあいまいな「歴史」と言う概念を語り、他方では、時の権力に虐待されて来た世界の人々と共に闘って来たつもりだったが、なんともアバウトに感じて行動していただけではないかと思わされるのである。
 実際に、海南島問題について意識的に知ったのは、ごく最近のことである。
 「紀州鉱山の真実を明らかにする会」の人たちが、日本帝国と軍隊による現地住民や多くの朝鮮や中国から強制連行された人々が過酷な労働を強いられた上で虐殺された戦争犯罪、そして、その戦争犯罪を隠蔽して現在に至っている日本という国の二重の犯罪性を告発する地道な運動を知ったのがきっかけだった。
 しかも、その運動グループの人たちが製作した報告記録 『日本が占領した海南島で』(DVD)を観て、歴史的な事実に対する自分の断片的な「認識」と「記憶」がいかに私自身を安寧に誘う為の作為的な無意識の操作であり、しかも、無知という知識がどれほど歴史的な事実と乖離したいい加減な世界認識をもたらすかを思い知らされた時からである。
 つまり、それまでの私の海南島についての歴史の「認識」と言えば、中国、朝鮮、フィリピン、インドシナ諸地域など、東アジア諸国で行った旧日本帝国軍隊の虐殺行為の一つとして、幼い頃から見聞きし既に幾つかの範疇に典型化されたものだろうと「認識」を「記憶」させていたものだ。東アジアの人々に対して旧日本軍が行った「虐殺行為」という「 」つきの物語認識に整頓整合されたもので、事実そのものの重みは、同じ地域の人々が今現在でも味わっている虐殺被害の実態とは、遠く乖離させてしまったもので、まったく架空の物語認識とすら言えるものでしかなかった。
 しかも、この物語知識は、日々発せられている世界中の人々の生きるための叫びを「既存の現実」として、自分の「認識」と「記憶」のファイルを手探りする中で一般的な情報の一つとして丸めてしまい、痛苦の中から否応無く叫ばざるを得ない人々の現実との乖離を作り出そうとするものだったろう。つまり、私自身の無知を前提にして事実に直面しない限り、「認識」や「記憶」は、むしろ歴史的な実態や事実関係を隠蔽していくものだと知らされたのである。
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2008年春に新たに知った「朝鮮報国隊」の軌跡

2009年06月15日 | 「朝鮮報国隊」
 紀州鉱山の真実を明らかにする会の会員が、はじめて「朝鮮村」を訪れたのは、1998年6月でした。
 それから、これまでに、なんどとなく「朝鮮村」やその近くの村でたくさんの人に、話を聞かせてもらいましたが、「朝鮮報国隊」についてまだまだわからないことが、たくさんあります。
 「朝鮮報国隊」に入れられ海南島に送られ、再び故郷に戻ることのできなかった人は、日本内務省文書、朝鮮総督府文書、旧日本軍文書(元海南警備府司令長官伍賀啓次郎の「帰還報告書」ほか)などによっても少なくても千数百人だと思われますが、その人たちの海南島での軌跡は、ほとんどわかっていません。
 わたしたちは、これまで、「朝鮮村」とその周辺の村以外では、三亜市の回新村や六郷村や田独村、陵水黎族自治県の后石村や新村や英州、保亭黎族苗族自治県の南林、昌江黎族自治県の石碌、東方市の感恩などで、「朝鮮報国隊」を見たという人たちから話を聞かせてもらってきました。
 2008年春、「朝鮮報国隊」の軌跡について、東方市の八所村と三亜市の林家村で、新たな証言を聞かせてもらうことができました。
 三亜飛行場を基地とする日本海軍第254航空隊にいた田川定男氏は、2000年10月に出版した『激流に生きる』のなかで、つぎのように述べていました。
   “1944年11月から、三亜飛行場北方4、5キロの西森、さらに奥地の大恩崗、阜烟梅などに、兵舎・士官室などを建設し、発電所・工作機械を移設し、地下ケーブル敷設のための溝を掘り、飛行機誘導路を建設……”、
    “われわれの電信室も掩体壕で被われることになり、多くの囚人が連れて来られ、数人の看守が見張って作業は進められた”。

 「多くの囚人」とは、「朝鮮報国隊」の人びとのことだと思われたので、わたしたちは、2005年4月に、田川定男氏に自宅で話を聞かせてもらいました。
 そのとき、田川定男氏は、自分が見た「囚人」が、着ていたのは青い服だったと話しました。
 ‘西森’、‘大恩崗’、‘阜烟梅’は、現在の海南島地図には出ていないので、当時の日本軍三亜飛行場の地図(防衛研究所図書館蔵)のコピーを示して田川氏に位置を訊ねましたが、はっきりさせることができませんでした。
 その後、‘西森’、‘大恩崗’、‘阜烟梅’と思われる地域になんども行って探しましたが、行きつくことができませんでした。

 2008年4月に、わたしたちは、‘西森’、‘大恩崗’、‘阜烟梅’の近くと思われる三亜市郊外の林家村を訪ねました。
 そこで、邢師全さん(1925年生)とその弟の邢師光さん(1928年生)から話を聞かせてもらうことができました。
邢師全さんは、こう話しました。
   「わたしは、日本軍にいろいろな仕事をさせられた。村の「保長」に日本軍で働けと言われ強制的に働かされた。田独鉄山で働かされたこともある。日本軍のトラックに乗せられて連れていかれた。
    飛行場の工事で働かされているとき、朝鮮人を見た。300人くらいいた。荔枝溝でも見た。朝鮮人は、草でつくった帽子をかぶっていた。青い服を着ていた。腰を帯でしばっていたが、その帯の色も青かった。ズボンも青色だった。
    背中に、朝鮮報国隊と書いた白い布が縫い付けてあった。それで、朝鮮人だとわかった。休憩がおわったとき日本人が笛をならして、すぐに集まらないと、殴り殺した。朝鮮人には自由がなかった。腹が痛いので働けないといっている朝鮮人を、日本兵が刺し殺したのを見たことがある。
    インド人も見た。頭に布を巻いていた。日本軍は、広州人や汕頭人も働かせていた。病気になっても治療しなかった。たくさん死んだ。
    日本兵は、仕事が遅いとか、歩き方がのろいといって、働いている人たちを、いつも殴っていた」。

 「朝鮮報国隊」という文字が服に書いてあったと話すとき、邢師全さんは軽く左手を右肩に置きました。

 邢師光さんも、
    「朝鮮人を飛行場で見たことがある。朝鮮人は、飛行機を入れるところ(掩体壕? 格納庫?)をつくっていた。
     着ていた服の色は青かった。麦わら帽子をかぶっていた」
と話しました。
                                   佐藤正人
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「朝鮮村」 2008年10月 2

2009年06月14日 | 「朝鮮報国隊」
 翌日10月29日に、ふたたび「朝鮮村」に行きました。
 村の中の道を歩いていくと、林瑞章さんが豚の糞尿をためて肥料にする大きなつぼをレンガとセメントでつくっていました。
 その横を通りすぎると、見覚えのある符亜輪さんの家のまえに出ました。人影がなかったのですが、犬がほえて、まもなく符亜輪さんの子の符学秀さん(1955年生)が出てきました。符学秀さん、符亜輪さんにはじめて会ったのは、わたしたちが2度目に海南島に行った2000年春でした。あのとき、符学秀さんには、周学勤さんといっしょに、朝鮮人がつくらされたという道路跡まで案内してもらいました(『海南島で日本は何をしたのか』8頁にそのときの写真が載っています)。
 8年の間に「朝鮮村」も変わりましたが、符学秀さんはいつものように親しく迎えてくれました。2006年5月の「試掘」のあと、三亜市外事部と警察が来て、外国人がみだりに「朝鮮村」に入らないようにしろ、と言ったそうです。理由は、日本との関係が悪くなるからだと言ったといいます。
 遠くに林亜吉さんの姿が見えました。林亜吉さんの家は、符亜輪さんの家のななめ左前です。ドキュメンタリー『朝鮮報国隊』の冒頭部で証言している林亜吉さん(2005年9月)はすくっと立っていますが、わずか3年で腰が折れるように曲がっていました。それでもお元気で、口調もしっかりしていました。
 広場に向かおうとしたら、雨。林瑞章さんの家で雨宿り。
 3時ころ広場に入り、まず「納骨堂」のあった場所に行きました。工事現場の建物を仕切る壁と南丁小学校の壁の間にはさまれて、「納骨堂」は残っていました。工事現場には、工事事務所と労働者の宿舎と食堂が建っており、大型ブルトーザーやトラックが並んでいました。
 朝鮮人が埋められている広場の一角は、「朝鮮村」を横断する海南島一周高速道路工事の資材(とくに橋板)の製作場として使われていました。近くに、生コンクリートのおおきな貯蔵塔が2本立っていました。工事は2008年8月20日に始まったばかりで、完成予定は2010年4月30日だとのことでした。業主は三亜市交通局、施工は徐州市公路工程総公司です。
 そこには朝鮮人の遺骨が埋められていることを「関係者」は知っていて、「納骨堂」、「展示場」、「追悼碑」とその周辺の土地を残すなど、韓国政府などとの国際問題となることを避けるためか、最低限の配慮をしているようですが、工事が進むにつれて、それらも侵食されていくかもしれません。
 2002年春だったと思いますが、広場を囲むレンガの塀の下を、当時地権者だった韓国人経営の会社の人が掘ったら、遺骨が出てきたことがありました。
 この日(2008年10月29日)、そのレンガの塀に沿って下部の土地を注意深く見ていったら、長径3センチほど、長さ5センチほどの骨がころがっており、その近くに骨が二つ露出していました。写真を撮りました(海南島近現代史研究会の会誌『海南島近現代史研究』第2号の裏表紙をみてください)。
 骨と別れ、長雨でぬかるんだ道を歩いて、周学勤さんの家に向かいました。
 周学勤さんと会うのは、「試掘」のとき(2006年5月)いらいでした。「朝鮮村」を貫通する高速道路建設にさいし、三亜交通局は、椰子の樹1本につき350元の補償をすることにしているが、それでは生活が苦しくなると話していました。
 周学勤さんといっしょに周亜細さんを訪ねました。周亜細さんは、わたしたちが初めて海南島に行った1998年6月に会った人です。ゆっくり話を聞かせてもらうことができました。
 10月28日と29日に、写真集『日本の海南島侵略と抗日反日闘争』にのっている虐殺を目撃した「朝鮮村」の人たちすべてに会いましたが、いま、「朝鮮村」には、当時のことを知っている人は、ほかには、誰もいなくなったそうです。「朝鮮村虐殺」にかんする文書がほとんど隠されているため、虐殺を目撃した人たちの証言は決定的に重要です。

 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2005年4月から、何度となく、「朝鮮村」の広場に埋められている朝鮮人の遺骨の科学的な「発掘」と、組織的な聞きとりを、韓国日帝強占下強制動員被害真相糾明委員会に提言してきましたが、これまで、真相糾明委員会は、「朝鮮村虐殺」の真相糾明のための具体的作業をほとんどおこなっていません。
                                 佐藤正人
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「朝鮮村」 2008年10月 1

2009年06月13日 | 「朝鮮報国隊」
 2008年10月28日、「朝鮮村」に行きました。前回は2007年1月4日(2006年5月はじめの「試掘」8か月後)でしたから、それから、1年10か月近く経っていました。
 日本占領期に日本軍兵舎があった場所に建てられている南丁小学校の近くにいた人(1976年生)に村の名を聞くと、“子供のころは朝鮮村と言ったが、いまは三羅村だ”、といいました。なぜ「朝鮮村」という名前だったかと聞くと、“知らない”、との答え。
 南丁小学校横の間の小道を少し行くと、何度も訪ねた蘇亜呑さんの家の前にでます。奥のほうの庭先に蘇亜呑さんが座っていました。前よりもっとやせていましたが、お元気そうでした。目がほとんど見えなくなっていました。朝鮮人を見たことがありますか、と聞くと、はじめは、知らないと答えましたが、すこしたってから、「牛飼いをしていたとき朝鮮人が樹に吊り下げられて殺されるのを見た。怖くてあまりよく見ることはできなかった。当時、日本軍を見たら逃げろといわれていたので、わたしはすぐ逃げた」と話してくれました。蘇亜呑さんからはじめて話しを聞かせてもらったのは、2001年1月でした(『海南島で日本は何をしたのか 虐殺・略奪・性奴隷化、抗日反日闘争』11頁をみてください)。
 蘇亜呑さんに別れ、朝鮮人の遺骨が埋められている所に向かって歩いていくと、林瑞章さんが、自宅の前で、たくさんの鶏にえさを撒いていました。林瑞章さんに朝鮮人が着ていた服の色を聞くと、干してあった淡い青色の洗濯物を示しました。
 日暮れが迫ったころ、遺骨が埋められている南丁小学校裏の広場にでました。広場の3分の1ほどが整地されていました。
 2001年1月に韓国MBCらが発掘した地域、2006年5月に紀州鉱山の真実を明らかにする会が「試掘」しようとした地点、「収蔵庫」と「追悼碑」は、そのままでしたが、レンガ造りの塀の中央部の門は壊され、そこから整地された土地まで幅2メートルほどの道路がつくられていました。この道路の下の遺骨は粉砕されてしまったと思います。
 2006年5月の「試掘」は、最後の機会だったのかも知れません。
                                  佐藤正人
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解放のインターナショナリズムへ

2009年06月12日 | 集会
 以下は、8日後の「2009河合塾文化講演会」の案内チラシ文です。

■解放のインターナショナリズムへ
講演:キムチョンミ氏
    ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』も上映
日時:2009年6月20日(土) 14時00分 ~ 17時20分
         【参加無料】どなたでも参加できます
場所:河合塾 大阪校S館 大阪市北区豊崎 3-13-1  TEL:0120-070471
      地下鉄御堂筋線「中津」駅下車4番出口 徒歩2分
      阪急「中津」駅下車 徒歩6分
      阪急「梅田」駅下車 徒歩6分

講演者からのメッセージ
 1869年にアイヌモシリを、1972年に琉球王国を植民地として形成された国民国家日本の歴史は、他地域・他国侵略の歴史でした。
 日本国民の多くが他地域・他国侵略を罪悪であるという思想とモラルを社会的に確立していれば、国民国家日本が台湾や朝鮮を植民地とすることも、侵略戦争を継続することもなかったでしょう。
 70年前、1939年2月10日に、海南島に日本軍が奇襲上陸しました。日本軍は、民衆の抵抗を抑えようとして、村を焼き、住民を虐殺しました。
 朝鮮の監獄から海南島に連行され故郷に戻ることのできなかった「朝鮮報国隊」の人たちの遺骨がいまも海南島に埋められています。
 アジア太平洋の民衆にとって、日本の侵略の時代は、抗日反日闘争の時代でした。
 その時代は、全世界的規模で、まだ、終わっていません。
 侵略のグローバリズムと対決する解放のインターナショナリズムの可能性を、みなさんと共に考えたいと思います。

  ………………………………………………………………

 キム・チョンミ(金静美)さんは、〈独特〉な思想家である。その著『故郷(コヒャン)の世界史――解放のインターナショナリズムへ――』を読めばすぐにわかるだろう。
 さらに「満州」と呼ばれた中国東北部でのパルチザン闘争という、ほとんど歴史の闇に埋もれた「記憶」を「日本人」の外部からたどりなおす『中国東北部における抗日朝鮮・中国民衆史序説』や、戦時下の社会において、抑圧された「被差別」の人間と、同じく抑圧された「植民地人」である朝鮮人が、なぜ共闘できなかったかという問題構成のもとで書かれた『水平運動史研究――民衆差別批判――』を読めばいっそう納得するだろう。
 これらの壮大な仕事、資料の博捜ぶりと構想力には感嘆するほかないとしても、必ずや「あて先」に届くとは限らない書物というメディアの一読者として、私は「応答」するだろう。いやせねばならない。なぜか?
 彼女の仕事の背後に流れる激しい「怒り」と飽くなき「闘い」に共振したいばかりでなく、歴史の「証言」と「記憶」からは埋もれてしまった人たちと出来事への限りなく熱く優しい眼差しに心を打たれるからである。「あて先」たる読者へと自らを精確に「転移」させることは、日本社会(国際世界)の「公定」の「語り」にどこまでも「抵抗」することを意味するだろう。
 今回は、キムさんの最も新しい仕事、中国海南島の「過去」を発掘する(協同)作業であるドキュメンタリーを中心に、お話をしていただこうと思う。       (現代文科講師 立花涼)
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海南島近現代史研究会『会報』第2号 4

2009年06月11日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会『会報』第2号の序言(朝鮮語版)です。

■『회보』제2호 발행에 즈음하여
 오늘 해남도근현대사연구회 「회보」 제2호를 발행합니다.
 70년전의 1939년 2월 10일 미명 일본군이 해남도에 기습상륙했습니다.
 그 24일전인 1939년 1월 17일 천황 히로히트는 일본군의 해남도 침입을「재가」했고 같은 날 대본영 육군부와 대본영 해군부는 해남도를 공동으로 점령한다는「북부 해남도작전 육해군 중앙협정」을 체결했습니다.
 일본정부와 대본영이 2월 10일에 일본군을 해남도에 기습상륙시킨 것은 「기원절」인 2월 11일에 해남도의 수도 하이코우(海口)를 점령함을 계획하고 있었기 때문이었습니다.
 일본이 선전포고없이 해남도 침략전쟁을 개시한 지 7개월 후 1939년 9월 독일군이 서방으로부터 소련군이 동방으로부터 폴란드로 침입하고 분할점령했습니다.
 2008년 12월 27일 오전 11시 반 팔레스타인의 가자시 상공에 침입한 이스라엘군F16 전투기 60기는 인구 밀집지역에 대한 무차별폭격을 개시했습니다. 그 후 이스라엘군은 전투기, 지대지 미사일, 무인기, 군용헬리콥터등으로 매일같이 폭격을 계속하여 건물을 파괴하고 팔레스타인민중을 살상했습니다. 2009년 1월 3일 오후 7시반 이스라엘육군이 가자지역으로 침입하여 공격을 개시했습니다.   그 때부터 1월 18일 오전 2시까지 이스라엘 공 륙 해군은 미사일, 백인탄, 폭탄, 전차, 불도저……를 사용하여 1400명을 넘는 사람들을 살해했습니다.
 사람들이 평화롭게 살던 해남도로 일본군이 침입했을 때부터 1945년 8월 중간까지의 6년반 일본정부, 일본군, 일본기업은 계속적으로 해남도 사람들에게 큰 재앙을 가져왔습니다.
 사람들이 평화롭게 살던 팔레스타인에 유태 민족주의자의 군대가 침입한 것은 1948년이었습니다. 유태 민족주의자는 이 해 5월 14일 점령한 팔레스타인 대지를 이스라엘이라고 명명했습니다. 이 때부터 유태 민족주의자는 팔레스타인 민중에게 큰 재앙(나크바)을 계속적으로 가져오고 있습니다.
 이스라엘에서 사는 팔레스타인인이외 「이스라엘국민」의 대부분은 가자지역에서의 이스라엘군의 범죄를 지지하고 있습니다.
 일본국민의 대부분은 대만 영토화, 조선 영토화, 중국동북부·몽골동남부 영토화……때와 같이 해남도 침략 때에도 점령지 확대를 환영하고 군사행동을 지지했으며 일본정부, 일본군, 일본기업의 침략 범죄에 가담했습니다.
 일본이 점령했던 시기(해남도 민중이 일본의 침략에 저항했던 시기)의 일본 근현대사, 패전 후의 일본 근현대사는 동시대의 해남도 근현대사와 서로 겹치고 있습니다.
 해남도 근현대사는 팔레스타인 근현대사와 서로 겹치고 있습니다.
 70년전에 일본국민은 왜 해남도 침략을 저지할 수 없었던 것인가라는 문제는 지금 왜 유태 민족주의자의 팔레스타인 침략을 세계 민중이 계속 허락하고 있는가 라는 문제와 연결되어 있는 것이라고 생각됩니다.
 아이누모시리 피식민지화 140년후, 「유구 처분」130년후, 3·1 조선독립운동 90년후, 일본의 해남도 침략 개시 70년후의 2009년 본지가 이 문제를 여러분과 함께 생각해 나가는 하나의 계기가 될 것을 우리는 바라는 바입니다.

                  2009년 2월 10일
                           海南島近現代史研究會
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海南島近現代史研究会『会報』第2号 3

2009年06月10日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会『会報』第2号の序言(漢語版)です。本誌に掲載した原文の簡体字がここでは表示されないので、日本式漢字に変えました。

■≪会報≫第2号発刊寄語
  今天,海南島近現代史研究会『会報』第2号又和大家見面了。
  70年前的1939年2月10日黎明,日本軍突襲併登陸了海南島。
  在此前的24天,也就是1939年1月17日,裕仁天皇批准了日本軍隊入侵海南島的計画,与此同時,大本営陸軍総部和大本営海軍総部也締結了共同占领海南島的≪北部海南島作戦陸海軍中央協定≫。
  日本政府和大本営之所以在2月10日同意日本軍奇襲海南島,是因為他們計画在“紀元節(日本建国紀念日)的当天占領海南島的首府海口。
  日本無任何宣戦就侵略了海南島,7个月后的1939年9月,国軍隊从西面,蘇聯軍隊从東面開始入侵併割分波蘭。
  2008年12月27日上午11点半,以色列軍発動60架F16戦闘機入侵巴勒斯坦加沙市的上空,開始対人口密集地帯進行狂轟濫炸。之后,以色列軍每天出動戦闘機,地対地導弾,無人轟炸機,軍用飛機等進行轟炸,破壊建築物,殺害巴勒斯坦民衆。2009年1月3日傍晩7点半,以色列陸軍開始攻入加沙地区。到1月18日凌晨2点為止,以色列陸海空軍使用過導弾,炮弾,白磷弾,戦車,推土机……、殺害的民衆超過1400人。
  人們和平生活的海南島,在日本軍隊侵占的6年半時間里,日本政府,日本軍隊,日本企業譲海南島的人們飽受了巨大的災難。
  人們和平生活的巴勒斯坦,1948年犹太復国者入侵了巴勒斯坦。在這一年的5月14日,優太復国主義者把占領的巴勒斯坦地区命名為以色列。从那一刻開始,優太復国主義者們譲巴勒斯坦人民飽受了巨大的災難。
  除了在以色列居住的巴勒斯坦人以外,大部分的“以色列国民”都支持以色列軍所做的犯罪行為。
  大部分的日本国民都支持把台湾,朝鮮,中国東北部,内蒙古東南部……納入日本的領土,当侵略海南島的時候,他們同様為占領面積的拡大而歓喜,支持併袒護日本政府,日本軍隊,日本企業的侵略犯罪。
  這様,日本占领時期的(海南島民衆的抗日時期)日本近現代史,戦后的日本近現代史和同一時期的海南島近現代史不可否認地存在着相互重合的歴史。
  而海南島近現代史又和巴勒斯坦近現代史有了相似之処。
70年前日本国民為什麼不阻止侵略海南島的問題,和現在世界民衆為什麼默認優太復国主義者侵略巴勒斯坦的問題是同一性質的。
  阿伊努被殖民化之后140年過去了,“琉球処置”結束之后130年過去了,3・1朝鮮独立運動之后90年一晃而過,日本開始侵占海南島70年后的2009年,我們希望通過発行本刊,和大家共同思考這个問題。
                2009年2月10日
                            海南島近現代史研究会
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海南島近現代史研究会『会報』第2号 2

2009年06月09日 | 海南島近現代史研究会
 海南島近現代史研究会『会報』第2号の序言です。

■『会報』第2号発行にあたって
 本日、海南島近現代史研究会『会報』第2号を発行します。
 70年前の1939年2月10日未明、日本軍が海南島に奇襲上陸しました。
 その24日前、1939年1月17日に、天皇ヒロヒトは、日本軍の海南島侵入を「裁可」し、同日、大本営陸軍部と大本営海軍部は、海南島を共同で占領するという「北部海南島作戦陸海軍中央協定」を結んでいました。
 日本政府と大本営が2月10日に日本軍を海南島に奇襲上陸させたのは、「紀元節」である2月11日に海南島の首都、海口を占領することを計画していたからでした。
 日本が宣戦布告することなしに海南島侵略戦争を開始した7か月後、1939年9月に、ドイツ軍が西方から、ソ連軍が東方からポーランドに侵入して分割占領しました。
 2008年12月27日午前11時半、パレスチナのガザ市上空に侵入したイスラエル軍F16戦闘機60機は、人口密集地域にたいする無差別爆撃を開始しました。その後、イスラエル軍は、戦闘機、地対地ミサイル、無人機、軍用ヘリコプターなどで毎日爆撃を続け、建物を破壊し、パレスチナ民衆を殺傷しました。2009年1月3日午後7時半、イスラエル陸軍がガザ地域への侵入攻撃を開始しました。それから1月18日午前2時まで、イスラエル空陸海軍は、ミサイル、白リン弾、爆弾、戦車、ブルドーザー……を使って1400人を越す人びとを殺害しました。
 人びとが平和に暮らしていた海南島に日本軍が侵入したときから1945年8月なかばまでの6年半、日本政府、日本軍、日本企業は、海南島の人びとに大きな災厄をもたらし続けました。
 人びとが平和に暮らしていたパレスチナにシオニストの軍隊が侵入したのは、1948年でした。シオニストは、この年5月14日に、占領したパレスチナの大地をイスラエルと名づけました。このときから、シオニストはパレスチナ民衆に大きな災厄(ナクバ)をもたらし続けています。
 イスラエルに住むパレスチナ人以外のほとんどの「イスラエル国民」は、ガザ地域でのイスラエル軍の犯罪を支持しています。
 ほとんどの日本国民は、台湾領土化、朝鮮領土化、中国東北部・モンゴル東南部領土化……のときと同じく、海南島侵略のときにも、占領地の拡大を喜び、軍事行動を支持し、日本政府、日本軍、日本企業の侵略犯罪に加担しました。
 日本が占領していた時期(海南島民衆が日本の侵略に抗していた時期)の日本近現代史、敗戦後の日本近現代史は、同時代の海南島近現代史と重なりあっています。
 海南島近現代史は、パレスチナ近現代史と重なりあっています。
 70年まえに日本国民は、なぜ海南島侵略を阻止できなかったのかという問題は、いま、なぜシオニストのパレスチナ侵略を世界の民衆が許し続けているのかという問題とつながっているのだと思います。
 アイヌモシリ被植民地化140年後、「琉球処分」130年後、3・1朝鮮独立運動90年後、日本の海南島侵略開始70年後の2009年に、本誌が、この問題を、みなさんと共に考えていくひとつの契機となることを、わたしたちは願っています。
                  2009年2月10日
                        海南島近現代史研究会
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