三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

李基允さんと裵相度さんを追悼する23回目の集会

2016年11月26日 | 木本事件
 今日(11月26日)午後2時から木本トンネル入り口の追悼碑前の広場で、23回目の李基允さんと裵相度さんを追悼する集会(이기윤씨와 배상도씨를 추도하는 모임)を開きました。
 追悼集会開会前の午後1時から、熊野市文化交流センターで、「木本事件」、紀州鉱山への朝鮮人強制連行・紀州鉱山での朝鮮人強制労働についてのパネル展示を明日午後5時までの予定で開催しました。

 集会には、日本各地からおおくの人たちが参加しました。
 はじめに、追悼碑に参加者ひとりひとりが献花したあと、全員で献杯しました。
 そのあと、参加者は、追悼碑の前で、つぎのように語りました。
 Aさん:毎年参加している。毎年日本の状況は良くならなければならないのに、悪くなって
    きている。
     1926年1月の事件から90年以上が過ぎたが、2人の犠牲者に加害者である日本人
    がしっかり向き合ってこなかったという罪科を、わたしは日本人として感じている。
 Bさん:3人の子どもといっしょに参加した。
 Cさん:おおくの日本人は加害責任をとろうとしていない。
 Dさん:1994年のこの追悼碑の除幕集会に参加した。
     徹底的な調査と研究をすすめながらこの会が運動を長い間続けてきていることを、
    感じている。
 Eさん:イジメと差別は、超々近い。日本人の民族差別は続いている。
 Fさん:この近くに住んでいる。この集会に参加している皆さんに会うとうれしい。仲間だと
    思う。
 Gさん:アリランを演奏します。
 Hさん:ポーランドのビルケナウに行ってきた。
 Iさん:木本トンネルは三重県が発注した。三重県にも責任がある。
 Jさん:「木本事件」についてあまりくわしく学んでいないが、朝鮮人と結婚して子どもが生ま
    れ、子どもが育っていく過程で歴史を知ってほしいと思っている。
 Kさん:22年まえにここに追悼碑が建てられたとき、民衆運動のひとつの根拠地がつくられた、
    ここが根拠地だと感じ、うれしかった。
     この碑を中心にして、多くの出会いがあった。木本町(熊野市)の住民との新しい出会
    いもあった。最近、「木本人」のような発言もあったが、この広場は、差別と侵略に対決
    する民衆運動の拠点でありつづけると思う(「木本人」の発言にかんしてはこのブログの
    2016年11月10日~13日の「「木本事件」は終っていない」1~4をみてください)。     
 Lさん:毎年、この集会に参加して、新しい歴史をつくっていけるという確信がつよまっている。
 
 閉会後、「木本事件」の現場のあとをたどりつつ極楽寺に行き、李基允さんと裵相度さんの墓碑に花を献じました。
 その後、熊野市文化交流センターの展示会場で、展示を見にきてくれた人たちと話しあい、さらに紀和町の宿所に移動しました。

 夕食後、交流会を開きました。そこで、夜遅くまでみんなで話しあいました。
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会と李基允さんと裵相度さんを追悼する集会の参加者、紀州鉱山の真実を明らかにする会と紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会の参加者は、これまで会の要請に応えてこなかった熊野市長と熊野市教育長にたいして抗議と要請をおこなってきました(昨年の抗議・要請については、このブログの2015年12月10日の「「木本の会」の熊野市に対する抗議・要請」および2015年12月11日の「紀州鉱山の真実を明らかにする会の熊野市に対する抗議・要請」をみてください)。
 交流会では、「木本事件」と紀州鉱山への朝鮮人強制連行・紀州鉱山での朝鮮人強制労働にかかわる熊野市の行政責任を問い、ふたたび同じ犯罪がくりかえされることのない政治的・社会的・文化的情況をつくりだしていく民衆運動についても話しあいました。
               
                                   佐藤正人
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