三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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紀州鉱山の坑口があった惣房と上川で暮らして

2020年11月05日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山の坑口があった惣房と上川で暮らして■
                           宇恵 悟
 
■惣房での小学生時代
 石原産業の薬師炭坑があった三重県南牟婁郡紀和町小船で生まれ、小学校入学まで過ごしたが、薬師炭鉱の閉山に伴い、父は同じ石原産業の紀和町楊枝川にある銅山の紀州鉱業所・惣坊鉱区で働くことになり、家族5人で紀和町楊枝川の筑後と云う社宅に引っ越しました。
 1955年の小学校1年の途中でした。
 「山の斜面にへばりついたような格好で、一段に4軒の長屋が3棟ずつ位あり、全戸数が6~70軒くらいであったのだろうか、住民はみんな顔見知りでした。地区には集会所と浴場があり、あとは蛇神さんという小さな祠があり、年一回くらい何か祭事をやってましたが、あまりその名前の通り子供達には馴染みがなかったようです。
 他の土地のような、祭という様なものではありませんでした。その集落の下の川の、少し川下の向かい側には独身寮もあり、若い独身鉱員が多くいました。筑後の社宅の真向いには管理所という建物がありましたが、何をしてたのかは、聞いた事がある筈ですが、覚えていません。
 小船から一緒に転勤して来た人は、惣坊にはいなかったと思います。
 閉山時の小船で、団交を恐る恐るのぞき見しましたが、同級生の父親の表情は険しく、抗議をしていたような気がしています。
 通った三和小学校は山の中腹か少し上にあり、米込と云う社宅の近くで、ほとんど鉱山の関係者の子供ばかりで200名位の生徒がいたのかと思います。 
 築後からの通学は30分前後の山登りでした。父親は鉱山の支柱と云う仕事で、7:30~15:30位まで会社に行き、帰ってはいつも3~4キロ離れた熊野川で小船時代と同じくアユ釣りをしていました。
 戦時中火薬庫の爆発で難聴となった母は、私の小学校時代、土方をしていましたが、後年石原産業の三浦診療所で看護婦をしました。
 私達子供は、社宅の共同便所の横の通路?で、よくソフトボールをして遊び、休日には山で遊んだり、夏は社宅の下の鉱毒川で泳いだり、ちょっと遠征して川上の三浦と云う集落の奥まで行ってムツと云う小魚を釣ったりもしました。近所の友達の親は和歌山だったり、奈良だったり、福島の会津からの人もいました。他の地区の同級生の親も方々から来ていたようです。長谷には職員住宅があり、東京から来たという人が多かった印象があります。中学入学時くらいで故郷に帰った人も多かったようで、子供の中学校入学の為に職員住宅の人達は東京に戻ったような気がしています。
 三和小学校の教師の中にはごますりもいて、少数の反体制的な人もいたと云うことが担任の愚痴等からわかり、子供心にごますりはいやだと思ったものでした。当時としては珍しい年頃の美男美女のカップルが、運動会に来て、その女性の小学生の妹の応援に、そのお父さんも一緒に来て、仲の良い、幸せそうな家族にも見えました。
 惣坊から板屋への、ほとんど暗闇で会話も出来ない「がたがた、がたがた」と云う騒音のトロッコ電車の40分、築後の社宅の一番てっぺんで、3棟が並び、すぐ山が迫る長屋での穏やかな日々、長谷(はせと呼び、店町とも言った、今のスーパーのような配給所があった)の鉱山所有の会館で通年、無料の映画上映や、5月のメーデーの催し(労働歌を良く聞いたが、鉱山を離れると全然耳にしなかったのは不思議だった)、小遣いをたくさん獲られ、それ以来賭け事を遠ざけさせてくれた楊枝という処の薬師さんの祭り、そろばんとか習字が唯一の習い事だったが、どれも身に着かず、よく一人さぼっていた。そのようなことが思い出であり、小学校からの9年間はほとんど狭隘の自然の山、川、学校、住宅周りで過ごした。
 今思えば映画は私の人間形成にかなり影響を与えたと思う。悪を退治し主人公を慕う女性を置き去りに、馬に乗って去って行く渡り鳥、ヨットで太平洋を横断したタフガイは雨や嵐の中のシーンが多かったし、モテモテの金持ちの坊ちゃんでスキーヤー等、彼らは皆甘い声で歌も唄った。映画は私をスキーやヨット等の貴族趣味にした?し、カラオケ好きにもさせた。政治家や開発業者は悪いやつばかりだと、映画によって植え付けられ、今でもそんな人が進める高速道路や橋の建設には抵抗がある。
 中学に入ってから一度だけ子供達で近くの町(新宮)にバスで行ったことがあったが、どういう事情だったか思い出せない。小学低学年の頃は、夏休みに家族で何度か勝浦に海水浴や木本の花火に出かけた思い出がある。

■上川での中学生時代
 中学校は5キロ以上離れた楊枝の、熊野川を見下ろす上川中学校に自転車で通った。
 上川小学校からの生徒と併せて全校で150人くらいになったのだろうか。
 三和小学校で三浦の社宅や大河内にいた同級生は、惣坊からトロッコ電車で紀和町板屋の入鹿中学校に通った。又長谷の職員住宅に住んでいた幹部職員の子達は家族で東京に引っ越して行った人が多かった。その職員たちをえらいさんとよく言ったが、そんなえらいさんの子であった同級生が東京への修学旅行中に面会に来てくれた。懐かしく思って来てくれたのに、冷たくしてしまった。もう一度会ってお詫びしたいし、板屋の追悼碑も紹介したいと思う。
 最終学年は、母親が紀和町楊枝の町営診療所で働く事となり、一家で楊枝に移り、高校受験の準備と、熊野川での釣りとで、故郷を離れる前の日々を過ごしました。

■55年余を経て
 紀和町の楊枝川の鉱山を離れ、55年余を経た今、紀和町から程近い紀宝町に住んで、月一のカラオケを中学の2人の同級生と担任の先生とで楽しんでいるが、三和小学校から上川中学校に進んだ同級生のメンバーはいない。そのカラオケメンバーの先生は、初めての赴任で上川中学校に赴任し、学校の向かいの熊野川町の日足でバスを降り、渡し船で渡って上川中学校に着いたと、「細川たかしの矢切の渡し」をプロオケで歌いながらなつかしむ。

 楊枝川は新宮からだと日足から川を渡って徒歩で1時間位である。私が鉱山にいた頃は、国会や知事選挙も近隣では珍しく、野党が強かったが、今では近隣の市町村と同じく与党が優勢となっている。多分に子供の頃の映画の影響か、世の中は道理と正義が支配すると思って来たが、最近になって漸く間違いらしいと思うようになった。
 人々は金に支配されていると考えると納得がいくし、傀儡国家だと言われるのも、金に支配され、国家を裏切っていると思える人が各方面にいるからで、納得がいく。
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