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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

入鹿捕虜収容所と“史跡外人墓地”  1

2009年11月11日 | 紀州鉱山
        三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会
       『会報』51号と紀州鉱山の真実を明らかにする会『会報』6号の合併号に書いて
       いただいたPOW(戦争捕虜)研究会の笹本妙子さんの「入鹿捕虜収容所と“史跡
       外人墓地”」を、4回にわけて連載します。
        このブログに掲載するにあたって、やむをえず、元の原稿から写真・地図とその
       キャプションを削りました。


 1944年6月25日、三重県南牟婁郡入鹿村(現・熊野市紀和町)板屋に、大阪俘虜収容所第16分所(後に名古屋俘虜収容所第4分所と改称。通称「入鹿収容所」)が開設された。ここに、「死の鉄道」泰緬鉄道を生き延びてきたイギリス兵捕虜300人が収容された。彼らは石原産業が経営する紀州鉱山で使役され、終戦までに16人が脚気や肺炎や事故などで死亡した。
 戦後、この16人の墓(後述するが、正確に言うとこれは「墓」ではなく「墓跡」である)は村の老人会の人々が守り続け、1965年に紀和町(1955年入鹿村他2村が合併して誕生。2005年に旧・熊野市と合併して新・熊野市となる)の指定文化財となり、「史跡外人墓地」と名付けられたが、1987年に少し離れた現在の場所に移設された。
 その5年後の1992年、紀和町出身でロンドン在住の恵子ホームズさんの引率で、入鹿収容所にいた24人の元捕虜が47年ぶりにこの地を再訪した。これをきっかけに、イギリス国内の元捕虜たちが毎年のように訪ねてくるようになり、「史跡外人墓地」(2005年、熊野市との合併を機に「史跡英国人墓地」と改称したが、本稿では「史跡外人墓地」と記す)は日英和解のシンボルのような存在となった。
 ところが今、この墓地の中に朝鮮人の遺骨が入っている疑いが出てきた。そうだとすれば“日英和解のシンボル”の足元が揺ぐ事態であるが、それを語る前に、まず「史跡外人墓地」が“日英和解のシンボル”となった経緯について記すことにしよう。

■恵子ホームズさんと「史跡外人墓地」
 紀和町の旧入鹿地区には、恵子ホームズさんが子どもの頃から白い十字架が建っており、戦中ここの鉱山で死んだイギリス兵捕虜の墓だと伝え聞いていた。彼女はその後、結婚してイギリスに住むようになったが、1989年に帰郷したとき、この墓が建て替えられて美しく整備されていることに気づいた。中央には金属の十字架、右側にはイギリス兵16人の名前を刻んだ石碑、左側にはこの墓の由来を記した「史跡外人墓地 紀和町指定文化財」の石碑が建てられていた。鉱山閉鎖後貧しさにあえいでいた町の人々が、異郷に果てた捕虜たちのために、お金を出し合ってかくも立派な墓を建てていたことに、彼女は震えるような感動を覚え、このことを亡くなった捕虜の遺族や生還した元捕虜たちに伝え、彼らをぜひここに連れてきたいと思い立った。
 それは容易なことではなかったが、彼女は立ちはだかる数々の困難を乗り越え、1992年年秋、24人の元捕虜「入鹿ボーイズ」を引き連れて紀和町にやってきた。町の人々も彼女を物心両面で支え、新しい墓の前で盛大な歓迎式典が催された。生まれ変わった日本の姿を見、町の人々のあたたかい歓迎を受けた元捕虜たちは、長年の憎しみを解き、心を癒されて帰っていった。彼女の努力と献身を知った日本外務省は、彼女に資金援助することを決め、以後彼女は「心の癒しと和解の旅」というツアーを組んで、「入鹿ボーイズ」のみならず、イギリス国内の元捕虜たちを毎年のように日本に連れてくるようになり、旅の際には必ず「史跡外人墓地」に立ち寄った。この旅に参加した元捕虜や遺族・家族は300人以上に及び、 この功績により、彼女は英国女王より大英勲章OBEを授与された。
 これが、「史跡外人墓地」が“日英和解のシンボル”となった由縁である。

                         POW(戦争捕虜)研究会 笹本妙子

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