経済を良くするって、どうすれば

経済政策と社会保障を考えるコラム


 *人は死せるがゆえに不合理、これを癒すは連帯の志

政治史における経済政策

2012年06月23日 | 経済
 中央公論7月号の「先生、このまま逃げる気ですか」という、政治史の御厨貴先生と若手研究者の佐藤信さんの対談がおもしろかったね。題材は「世代間の不公平」なのだが、今の政治史の若手が何を感じているかだけでなく、時代の雰囲気を切り取ったような、そんな印象を受けた。

 政治史の難しさは、何が正しい政策なのかが判然としないところにある。そのうち、統治や外交であれば、民主化や平和といった軸があるから、まだ良い。それでも評価は別れ、例えば、坂野潤治先生の近著「日本現代史」は、普通選挙制に冷淡だった原敬に手厳しいが、北岡伸一先生のように現実主義を高く評価する方もいる。原敬は、統治能力ある政党を育て、維新の軍事政権から平和裏に移行し、米国と軍備管理条約を結んだのだから、今の中国に原敬のような政治家がいれば、ノーベル平和賞ものかもしれない。

 更に言えば、平和でさえ、戦争を避けることが常に「正しい」とされるわけでもない。合衆国独立の父たちが、犠牲を避けるために戦争を選ばなかったとしたら、果たして尊敬されたかどうか。人命という基準があっても、こうなのだから、まして、「正しい」経済政策を取ったかどうかで、政治を評価をすることは難しい。だいたい、経済学者でさえ、成長の方法なんて、良くは分かっていないのだし。

………
 対談は、若い佐藤さんが「世代間の不公平」を論難する中で進んでいく。実は、この「世代間の不公平」は、ある種の錯覚でしかないことは、11/28「世代間の不公平を煽るなかれ」 で記したとおりだ。世代間の負担論は、並みの経済学者でも取り違えたりするから、政治学者が真実と思い込んでしまうのも仕方がない。むしろ、目をとめるべきは、なぜ、それを信じたかだろう。 

 今は、デフレの世の中である。特に若者の雇用は厳しい。当然、不満を抱くわけで、その矛先を団塊世代に持っていったのが、「世代間の不公平」である。不満の矛先がどこに向くかは、決して自明ではなく、無自覚であっても、選んだ結果である。おそらく、佐藤さんや、日本の若者の多数派は、大企業とか富裕層を「敵」とは思ってないが、これは米国の若者の選択とは明らかに違う。

 また、エコノミスト的な観点からすると、膨大な財政赤字の返済が嫌ならば、若者はインフレを望む道もあるはずだが、そうした選択もしていない。非正規労働に苦しみ、結婚や子育てに希望が持てないとして、社会保障のバラマキを求めても良いのである。もし、それでインフレになったとしても、困るのは貯蓄や年金に頼る団塊世代であって、労働力しか持たない若者ではない。

 正直、「上の世代にも負担してもらって、社会を持続可能にしよう」という佐藤さんの主張は、現状への不満が強い割りに体制順応的な感じがする。そこを御厨先生に「無機的ですね」と突っ込まれてもいる。増税と社会保障の圧縮が若者の望みだとするなら、日本の財政当局は、若者のオピニオン・リーダーと言えなくもない。苦境を解決するのに、新たな社会にしようというより、社会は自分たちに迷惑をかけるなと言いたげな、そんな印象である。

 ここで、御厨先生は、対談を得意の「戦後とは何か」へ持っていき、戦後と「今」との対比を試みる。ちなみに、筆者は、戦後の終わり1997年と考えている。ハシモトデフレの渦中にあって、それを感じたわけではないが、振り返れば、政治も経済も構造が大きく変わっていた。就職氷河期を経て、若者が悲惨な立場に落とされたのは、ここが境目で、その意味で、御厨先生と佐藤さんは、別の時代を生きているのだ。

 佐藤さんの持つ時代のイメージは、今はまだ「小康」で、これから、もっと悪くなると思っているようだ。こうした成長への希望のなさも、デフレ時代の特徴である。御厨先生は、「保守主義が成立しなくなった」と言っておられるが、戦後の保守主義は、成長によって正統性を与えられていた部分があるから、「何を改革し、何を守ったらいいか」分からなくなるのも無理はない。そして、対談は、佐藤さんの「全体をマネジメントするために何が必要なのか」で終わっている。

……… 
 世代間の不公平論というのは、財政再建を推し進める道具となっており、真実を表すとは言い難い。若い世代の「損」は、世代ごとの受益と負担の違いからではなく、少子化という社会を長期的に持続不能にする現象から発生しているからである。その証拠に、支えてくれる子供を持たない者への給付を取りやめるなら、すぐさま「損」は消えてなくなる。

 今後、日本の政治が「負担と給付の公平」を価値基準として営まれるなら、戦前、大陸に植民地を得ることが繁栄につながると信じて政治が展開されたことへの評価と同様、無益な試みという結果になるだろう。そして、どちらの時代においても、「奪うこと」が政治の焦点となったことの共通性を指摘しなければならない。

 終わってしまった戦後政治は、明らかに、成長を背景にした「与うこと」であったのに対し、デフレ政治は「奪うこと」へと反転した。いまや、議員特権から生活保護まで、あらゆる「奪うこと」が政治の焦点と化している。それはまた、ポピュリズムとも相まって、統治が危機にさらされている左証でもある。

 政治史を眺めるのに、「奪うこと」の方法の良否を考えることも必要であろうが、「奪うこと」そのものの問題性や、その必然性まで考えることも大事であると思う。それは、研究者自身が「時代の子」として、なぜ「奪うこと」に魅入られてしまったかを、見つめ直すことから始まるのではないだろうか。

(今日の日経)
 イオンが不動産投資。EU成長に13兆円。留学生が来ない・得意先にも異変。国際商品は軒並み安。円高一服の兆し。中台が通貨を直接取引へ。ソフトバンク・増配難色は孫社長。車部品各社は合理化頼み。

※EUは緊縮から軌道修正、まったく修正が効かないのが日本。※科学技術や国際関係の事業をムダと称して仕分けしまくる国には来ないよ。未来が感じられないじゃないか。※成長でなく増配を競うのは問題、企業家の本能かな。

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