当初に描こうとした雰囲気が、全く今では納得がいかなくなってしまいました。
勢い、どんどん描いたり、消し取ったりを何度でも繰り返しています。
盛り沢山な事柄を、常に併行して進めている「Don Quixote」は、まさに私の思考回路を追いかけているようで、楽しみながらの「描き起こし」を繰り返しているのでしょうね。 この辺りで、魑魅魍魎の生き物たちを登場させようかな?などと思いながら、昨日は筆を止めました。 20号の作品をもう何点も描いたほどの時間を費やしながら、なお、深みに嵌って行って『出口』が見つからない、と言うのはこんなことなのかも知れませんね。
では「はがき絵」でも描いて、今日の作業は終わりにしよう。と描き始めた はがき絵が、これまた、今までの調子とはかけ離れています。
体調の変化が、精神を大きくかき乱してきます。 こんな小さな「だれがき」が意外に本物の自分のいまだろうとも思うのです。 絵はそんな意味を正に収斂させた『産物』なのだとも思うので、そのまま掲載しました。
昨夜は、思いがけなく畏敬する「養老孟司先生」が報道ステーションに出られていました。
キャスターとの意見の交換が意外に合っているのです。 彼も「養老ファン」なのでしょうかね。
次の企画に「福岡伸一・村山斉」両先生なども登場して欲しいと思いました。
23日の作業です。 この前流した子供たち・3歳児ものと、たった1歳違いで、随分お話が出来る作品たちになっています。
3歳で獲得した「円」一つをとっても、その円が身近な人の顔になっているのです。 しかも複数の人を描いたり、花を描き加えたり、さらに動きまで出て来ています。
この落差を「発達・成長」と呼ぶのです。 解り易い画面上で視覚的に表せるのも、「脳」と「表現するための身体」の成長を如実に私たちに見せて呉れるのです。
この期間をどのように過ごしたか?で大きく「発達の度合い」が違ってくるのを見ても、「保育」だけではなく、まさに木養育的な効果が反映されることを示しています。 出来上がった作品は、子供のいまの生活そのものを物語っているのですから・・・・。
こんな作品は、親御さんや、保護司たちが、きっちり確認しながら、絶対評価の中で、 それぞれの子供が、どのように育ってきたかを毎日確認して行く、非常に大切な仕事であることを「誇り」と「氏名感」を持って対応してほしいものだと、つくづく思うのです。
自宅に帰ってみると、ノウゼンカズラが「夏そのもの」を知らせて呉れます。 蟻の好物なのでしょう。今年は、蕾の内にほとんど枯れさせてしまいました。 来年までに、剪定をシルバーさんに助けて頂こうと思っています。
まさに「夏」はまだまだ続きます。 クマゼミが鳴き始めましたもの…。ビックリするほどの数の合唱が間もなく始まります。
数年も前の作品が、フォトギラリーで何点も、止めどなく残っています。
30号までの小さな作品たちですが、みんな、自分なりに、今見ても「出来てるな」と思うのは、傲慢でしょうか? ほとんど変化のない、ほんの微妙な空気を一寸した表情の変化の中から発見できます。 しかも不快ではないのです。 何処までも言葉が滲むような「想い」が拡がって行きます。
単調な中に、止めどなく語り続ける「抒情詩」かも知れません。 小さなオブジェを、ただ並べることによる、思いの隅々を掘り返すような気持ちが蘇って来るでしょう。 大胆に、しかも確固たる自信を醸しながら、読み取ってほしい事柄を観客に共有して頂こうという意気込みが見えて来る「強さ」が気に入っています。
齢を感じながら、こんな制作姿勢を持続したいと切に願うこの頃です。
ここまで「Don Quixote」が仕切り直しで変化しました。
Don Quixoteを描きながら、「空転する自分」をオーバーラップしているのでしょうね。
バイブルの次にたくさんの読者を持っているDon Quixoteの物語だそうで、私などの読み方は、挿絵をを見ながら拾い読みのような読み方だったのです。確か「ガロ」の挿絵だったと記憶しています。
その記憶も、前後が交錯して、どんな場面を描くともなく騎馬のDon Quixoteが、何時も出てきたように思います。
いまの自分、つまり「自画像」の現代版で…。揶揄を込めてというところです。
子供のアトリエで、子どもたちと遊んだ作品も、何年か前のものを含めて何点か、併載してみます。