太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

読むこと書くこと喋ること

2020-10-26 07:23:09 | 日記
 毎日ブログを書いているが拙文に関わらず訪問している人も結構居る。時々アクセス解析で訪問者を眺めているがどうも似たような境遇の人が多いようだ。リタイアした人、子育てを終えて自分の時間をあれこれと工夫し趣味に生きている人などだ。目一杯若々しい内容をと思っているが毎日書くとなるとどうしても素は出てしまう。その素にシンパシーを感じるのかも知れない。何故高齢の人達がブログを書くか。徐々に人付き合いも減り会話する機会は極端に少なくなる。そこで誰か特定の相手ではなく、漠然と誰かに話しかけることと同じ意味で「書く」という作業にかかる。誰に聞こえるか分からない、空に向かって独り言をいう事とあまり変わらない。これがSNSを日常の道具として使う若い人なら会話と同じようなやり取りを書くという作業で代替するのだろうが、年が行くとそれは結構神経を使うことになってしまう。言い換えれば新たな人間関係を築くことに躊躇ってしまう。人間関係すら整理する年代に入ったとも言える。話し相手は空(そら)でも充分事足りてしまう。勿論人間嫌いになる訳ではない。数少ない人間関係は今でも近況を連絡しあうような関係は維持はしている。しかし昔のような熱のこもった会話はない。それは行動パターンに接点がなくなるから時間を共有しないためどうしても話題が平凡なものになってしまうからである。
 話すことが独り言を書くことに置き換わるようになったら年が行ってきた証拠である。B級読書で結構本も読むがこれは相手から一方的に話しかけられている代用かも知れない。結局、読むこと、書くことが喋ることに代わって行っていくのである。それでも書けている間は積極的な幸せ(というものがあるなら)とまでは言えないが特に大きな不幸もなくそれなりに暮せている証でもある。もし大病とか身内に不幸があれば「毎日」という訳には行かないだろう。それどころではないという現実に直面して全く書かなくなると復活は性格からして難しいと思っている。勤めていた頃はワーカホリックと言われるくらい出勤していた。長期休暇を取った覚えは皆無である。職場と家が近く休日で誰も居ない事務所に出て普段できない雑事をこなしていた。会社が我が家の延長上にあったようなものである。しかし本当の事を言うともし休日が本当に楽しく、長期休暇が仕事を離れて充実したものであれば元の(職場)位置に戻る気が無くなってしまうのではないかという生来の怠け者の恐怖である。
 一旦筆を止める(パソコンでこの表現は何れなくなる)と二度と書く気にならないのでは、それは人間活動全ての停止を意味するのではないか、結局ネットでネタを探して何とか今日も書き続けている始末である。B級読書も結構佳境に入ってきた。相変わらず比喩の凄い作家だが珍しく1人称小説である。多分自分が作家という職業を選んでいなかったらこんな人生もあったかも知れないと思いながら書かれたのではないだろうか。作家は不思議な職業である。大半は3人称で過しながら偶に1人称になる。我々は3人称で過すことはできない。あるとしたらそれは彼岸のことだろう。もう少し此岸に留まろうと思っている。

もうちょっと勉強してから書かれたら

2020-10-25 08:20:56 | 日記
 朝刊の1面と2面にかなりのスペースを割いて著名人のコラムが載る。今日は「エネルギー政策」である。投稿者は著名な鉄道会社の名誉会長だ。庶民から見れば位人臣を極めた信頼すべき知識人と思ってしまう。しかしそれはある分野についてであり、だからと言って万般に教養と知見があるとは限らない。副題は「風力・太陽光安定性に課題」である。しかしながら内容は世間の噂や風評、事実の誤謬に満ちている。後に残る文章として氏は後悔されるのではないだろうか。
・風力や太陽光は風況や日照次第で発電量が大きく変動する。・・・確かにそうだがだから使えないわけではない。比率からして今年上期のIEAの速報値を氏は見ているだろうか。
・それらは必要な時に必要な出力を確保するという主力電源の「資質」に欠けている。・・・後段でだから原発が必要と展開するが原発も出力調整不可の電源であり必要な時に必要は無理である。
・蓄電池や燃料電池はコスト面で近い将来実用化できる見通しは立っていない。・・・車業界の最近の動向をどう見ているのか。蓄電池は高いから使えない時代は過ぎており使えるところから使って行くというのが今の流れである。電気自動車が普及すればそれらは必ず定置用に再利用される。
・偏西風で安定している欧州の風力と違い日本は風向が一定せず洋上も直ぐ深くなり高コストになる。・・・凡そ当たってはいるが多数基の発電所の運転で安定化しているスペインを見学されたらどうか。
・(日本の)多雨の風土は太陽光に有利とは言えない。・・・確かに砂漠地帯の日照と比べればそうだが氏が比較する欧州は日本より日照が少なくても大量導入されている。
・欧州は国際連系線で繋がっており電力を融通できる。・・・それが各国の安定供給のために機能しているというデータは何処にあるのだろう。経済原理で電力の売買をしているデータはやたらある。
・ドイツはフランスから原発電力の供給を受けられるから原発ゼロを目指せる。・・・噂レベルの際たるものでドイツ国民が聞いたらJRに乗らなくなる。
・地熱を石炭火力に置き換えていけば良い。・・・CO2だけを問題にしているが地熱はそのGHGガスの排出する。
「不都合な現実からは目をそらす。遅きに失し、しかも不十分な弥縫策を繰り返して問題を先送りする。」これはそのまま御本人にブーメランとして返ってくるのではないだろうか。勿論再エネが万能でもないし、バックエンドを除けば燃料ウランを確保し償却の進んだ原発を動かせばコストが安いのは事実だろう。しかし定期点検で止まり、夜間需要を越える発電はできないのも原発の実態である。原発も再エネもある意味不器用な電源である。その得失を理解した上でベストミックスをという時代である。片方に与するようなコラムは逆に国民をミスリードする。私のような凡夫でもこんなコラムは恥ずかしくて書けない。編集者なら載せない。折角名誉ある人生を送られたのだからもう少し勉強もし、周りの意見を聞いてから書かれた良かったのに、惜しい。

猿と犬のどちらが恐い

2020-10-24 07:42:24 | 日記
 昨日はちょっとした事故があった。かなり些細なことではあるが油断禁物である。庭木の枝を伐採したものをさらに細かく切り一般ごみの袋に入れて集積場に持っていく50mほどの距離なので苦労はないが両手に袋を持った途端左の脇腹に痛みが走る。結構枝を詰め込んでいたので10㎏くらいはあっただろうか。急に持ち上げたので肋骨の間の筋でも痛めたのだろうか。今日も痛みは残るが病院に行くほどでもない。プロ野球のピッチャーなら大事をとって休むだろうが大袈裟にすると笑われてしまう。身近で若い頃当たり前のようにやっていた事でも年が行くと思わぬ事態になることがある。用心に越したことはない。
 じっとしていれば痛まないのでパソコンに向かう。ここ2日ほど市の広報車が猿を見掛けたとの情報で市民に注意を呼び掛けている。昨日は我が町内で見かけたとのこと。確かに近くの田園地帯には小高い山のような林が点在しており野生の猿が居ても不思議ではないのだが林は何処かの山に連なっている訳ではなくそれぞれ島のように独立している。一体何処に棲んでいた猿なのだろうか。30年以上この地に住んでいるが初めてのことである。窓から近所を見渡してみたが姿は見えない。もし出くわして取っ組み合いの喧嘩になったら山猿のようと言われた子供時代なら別だが今は本物には勝てないだろう。多少の怪我は覚悟して戦っても初老の男性猿に襲われるというニュースになるとあまり名誉なことではない。最近では鉄道の法面にヤギが迷い込んで動けなくなり何日か後に捕獲され今は近くの大きな野外娯楽施設でポニョと名付けられて飼われている。さすがに猿は捕獲されてもネーミングは困るだろう。もし近所で猿に出くわしたらどうだろう。犬とどちらが恐いか。圧倒的に犬である。飼い犬だが犬に遭うチャンスはやたらある。リードは付けていてもまず長さを見て届くかどうか確認する。猿に出くわすチャンスは何万分の一かで隕石が当たったらどうしようと怖れる人がいないようにチャンスが少なければ怖いとも思わない。今年は全国で熊の出没も多く人的被害も報告されている。山に餌となる木の実が不作だろいう話もあるが元々彼らの方が人間より先に野原を駆け回っており我々が彼らのテリトリーを侵してているのである。近くにも動物の名前が入った地名は沢山ある。昔はもっと多くの種類の動物が棲んでいたのであろう。最近の人を刺したり殺したりする悲惨な事件を聞くたびに野生動物と人間のどちらが獰猛で危険であるかは考えさせられる。3日目には広報車はまだ猿を捕獲したということを伝えてはいない。猿にとっては車という大型の危険動物が居る。人間ですら跳ね飛ばして裁判で無実を叫ぶ例もある。猿を撥ねて裁判になることはないだろう。無事ねぐらに帰っていたらと思う。

リードを外しちゃダメ

2020-10-23 08:18:14 | 日記
 釣りに行った時広い砂浜の海岸を歩いている時リードを外して駆け回る犬と出くわすことがよくある。日頃の運動不足を補っているのか全力疾走である。飼い主は家の犬は人に吠えたり噛みついたり絶対しないと信頼しているのだろう。時々その犬が猛烈な勢いで迫って来ることがある。こちらは飼い主ほど信頼はしていない。頭の中で釣り竿を持って戦うシミュレーションなどして緊急に備える。そう犬が嫌いという訳ではなく怖いのだ。あの犬歯はどう考えても肉を噛み切るためのものだ。一度食い込んだら簡単には離れそうにない。世の中全て犬好きと考えるのは止めて欲しい。考えている内に急に方向を変え飼い主の元に引き換えす。呼び戻されたのだろう。意外と良く躾けられている。こちらは近くに来たら頭を撫でてやろうと思っていた風に余裕をかます。
 日本学術会議の問題で有名な女史が新聞に意見広告を出した。内容は税金を投入しているとか中国と関係があるとかで民営化すべきというものであったと思う。昔はフワッとした髪が美しくTVでMCなどもしていた美人だ。今はその美しい髪は透けて見えるようになり些かお歳を召して昔の面影も薄れてきたがその分右の論客としての立場を確実なものにしてきた。ただこの意見広告はネットに溢れる学術会議批判の域を超えておらず高い広告料を払って掲載する意味があったのかと思う。まず、税金の投入も止め政府の組織から外し完全に民営化した場合もし暴走し出したら止めようがない。外国のスポンサーなどついたら、軍事研究で歯止めが効かなくなったらそれこそ国民の脅威である。学者集団だから良識の府とは限らない。リードなど要らないという学者たちが溢れることをシミュレーションしてみるといい。ゴムのリードで一定範囲は自由に駆け回りある程度離れてリードを千切ろうとすると首が締まって行く、これが大人の対応だろう。
 石破さんが自らが率いる派閥の代表を辞任するとのこと。総裁選の敗北の責任をとることのようだがまだ若い。政権批判を繰り返してきた人だが党内での冷遇はやり過ぎだったろう。野党も秋波を送っている。この上離党など言い出したら何人かは付いて行くことも考えられる。伸縮自在のリードが自民党の得意技だと思っていたが離党して埋没して行った過去の大物と同じになるとは限らない。何事も過ぎたるは猶・・である。

こんなもの無かった時代

2020-10-22 07:25:35 | 思い出話
 今の若い人達は携帯電話がない時代など耐えられないだろう。今中年の方はパソコンが無かったら仕事は出来ないだろう。高齢者の方の必須アイテムはなんだろう。団塊世代より上の方々は多分今普及している便利なものは何も無かった時代を経験している筈だ。今は当然のように誰でも持っている、どこの家にもあるという物が無かった時代はついこの前のことだ。TVのバラエティ番組で無人島生活を経験する番組があるが、我々子供時代はあれとあまり変わらない生活をしていたから特に凄いとも思わない。
 時代を特徴づける文明の利器の代表的なものはインターネット、パソコンとスマホだろう。会社では図面を描くCADも無かった。これが無かったら生活できないと思う人も大勢いる筈だ。しかし高齢世代は無くても生きて行ける。無い時代を経験しているから、有れば便利だが無いと生きて行けないと言う程でもない。逆に有って困ったことがある。仕事柄途上国の僻地に行くことが多かったがある種の解放感を感じていた。その国の首都までは何とか連絡はつくが僻地に出掛けると音信普通になることは屡々(しばしば)であった。当該国内で連絡が取れない。ましてや日本の本社からなど物凄く複雑なルートで何時間も掛けないと連絡はとれない。当然日本国内との双方向のやりとりなど無理である。余程の緊急事態でないと連絡などあり得ない。
 その頃感じていたのは家を一歩出るとちょっと自由に、空港を発つとさらに自由に、首都を出て地方に向かう時は完全に開放された気分になっていた。もう事故に遭おうが病気になろうが助けなど直ぐには来ないという諦めがあった。幸いにもそういう事態に遭遇しなかったので今思う地ある種束縛から逃れた解放感すら感じていた。最初の頃は何日に出掛けて何処に行って何時帰ると日程表を残して出掛けた。その内に出掛ける数日前に何処の国に行くとしか言わなくなった。連絡も取れない、直ぐに駆けつけることも出来ない所に行くのに却って心配を掛けてしまう。慣れとは恐ろしいものでそれが普通になった。社宅から現在の自宅に引っ越しをするときはインドに出張行っており出張に出る家と帰る家が違っていた。おかげで大して長い出張ではなかったが引っ越しの苦労をしなかったというラッキーもあった。しかしインターネット(メール)と携帯電話が普及し始めるとそうは行かなくなった。途上国でも携帯の普及は速かった。有線という古い設備を置き換える必要が無いのでいきなり携帯の普及である。それからは会社の方から実に下らないメールや電話が来るようになった。来月の予定はどうしましょうとか、ちょっとした揉め事などまるで隣にいるかのように連絡が入るようになった。会社に居るのとほぼ変わらない状態である。自由など何処にもなく、会社からリードをつけられ束縛されているようなものである。便利ではあるが不自由でもあった。製図台とT定規、墨入れは烏口、最後にボタッとインクが漏れるが会社に入るとドラフターにロットリングペンになり、それがCADとプリンターであっという間に図面は描ける。驚くだろうが学生時代は計算尺や手回し計算機を使いこなしていた。社会に出ると関数電卓まで普及し始めた。もっと遡ると巡回でやってくる夢中になった紙芝居屋はTVに置き換わった。コンビニが無かった頃?ロバのパン屋がやってきた。もうちょと遡ると見たことはないが焼け野原である。今でも本当にこれが必要かと考えてしまうことは度々ある。それは物に限らない、行動しかりである。今でなくても、明日でも構わないか、GoToに興味が湧かないのはそういうことかも知れない。あると便利だが無くても困らない。後生大事なことなどそうそう無い。