太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

伝説は出来ても伝統は生まれない

2017-02-28 08:46:15 | 社会観察

今月2度目の東京となった。現役時代も良く行った新橋界隈である。相変わらず大量の人が電車から吐き出され、それぞれの目的に向かって歩き出す。人々は多分途中のビルに吸い込まれ、群衆の先頭は疎らとなり終には最後のビルに吸い込まれる。その先には新橋で降りた人はいない。夜の帰宅時間はその逆となる。まるで呼吸しているような繰り返しである。しかも徒歩で向かえる範囲は限られるから一定の円の範囲だから尚更パターン化してしまう。別の円が交わって行き来するようなことは殆ど起こらないだろう。

それにしてもこの人数の人達が収入も仕事も家族構成も年齢も違い、それぞれの事情を抱えながら餓えもしないで毎日同じパターンで生活しているのは驚きであり都市が持つ脅威の包容力である。地方の工場地帯ではあり得ない。小売りは別にして多くの仕事はパソコンに向かい言い方は悪いが紙をこねくり回して生活できているのである。

私もその一人だが、初めて東京に来た人や東京で暮らすようになった人が、あらゆる場所に大勢の人が居ることに驚く。何だか毎日お祭りがあるような感じだ。しかし、これだけ大勢の人が同じ様な地域で同じ様に行動していながら互いは全く知らないのが都市である。お祭りには少なくとも最初は宗教やお祈りだったのだろうが、そこに集まる人達の思いには共通のものがあったはず。それが伝統行事となり、集まる人は始まりは知らなくともお祭りを楽しむ。

今電車から吐き出された人達は機関車の前を行き交う瞬間、互いは何も共有していない。新橋駅前のサラリーマン100人に聞きましたというアンケートで、それが実は10人にしか聞いていなくとも、あたかもサラリーマン全体の代表であるかのような錯覚に陥るのは都市伝説の類であろう。そこに行けばサラリーマンの代表が居るという。

ここからどんな伝統が生まれるだろうか。都市は果たして伝統を生み出すだろうか。この毎日の人の動きを呼吸に喩えたが、これが止まることはあるだろうかと考えると、ブログに書くと怖ろしいが直下の大地震だ。震災の後に生き残ったサラリーマンが昔のように機関車の前をもう一度行き交おうぜとはならないだろう。これだけの人が集まる都界でもし、全体が1分間でも同じ思い、目的を共有するようなことがあれば大変なパワー、エネルギーになる。何かあるはず。互いを無縁と感じる集団では勿体ない話である。都市伝説ではなく都市故の伝統はこれから生まれると期待している。

 


またボウズ

2017-02-27 08:36:53 | 日記

ブログでの予言(とは言わないか)通り天気も良く釣りに出掛けた。少し早目に釣り場に着いた。潮も満ちて来るところで釣りには良さそうだった。しかし天気の良い日曜というのに辺りに釣り人が居ない。竿を出して30分も経たない内に何やら背後で人の気配がする。振り返ると何時もの爺さんである。「久し振りですね」と互いに声を掛ける。「今日辺りは釣れるかも知れませんね」と言うと「いや方々見て来たけど誰も釣れていない。私も竿を出したが駄目だった。最後にここに来た。」という。いやはや元気な85歳である。後かごに釣り道具積んだ電動アシストの3輪車に乗っているが、既に方々回って来たとのこと。補聴器は着けているが、腰はピンと伸びて歩く姿も元気そうである。言葉もハッキリ喋る。「認知症なんか無縁ですね、奥さんからもう少し大人しくしてくれない、と言われませんか。」と軽口を言うと「俺は耳が少し遠くなったが、補聴器で助かる。ちょっと年下の男が声が出なくなって苦労していたが、声は機械(補声器)がないからねえ。」と真面目に答える。若い頃東京で大工をしていて晩年この地に越してきたとのこと。「大工さんは歳が行って腰が曲がる人が多いように思いますが、大丈夫ですねえ。」「確かに多いね腰曲がる人、腰を使う仕事だからねえ。でも俺は大丈夫だよ。今でも朝は誰より早く目が覚めて、音を立てないように朝飯食って、出掛けて来るんだ。だって家に居て体を動かさないと方々が悪くなっちまう。釣り場にくるのは運動だよ。歩いてだって来れるんだが、この方が早く来れるからねえ。」いやはや元気である。

「この前釣り場でやっぱり大工のちょっと若い奴に昔のことを話していたら、私は昔話なんか面白くも興味もありません、とぬかしやがる。85の俺に昔話以外の話など何があるのか、この野郎と思ってその後顔を合わせても挨拶もしねえよ。」と言う。「確かにそうですね、俺は100歳になったら何をやるとか言われたら聞く方は不気味ですね。昔話で上等じゃないですか。」と言うと本当に嬉しそうな顔をしてポケットから飴を取り出して「これやるよ」といって竿の準備を始めた。

その後、別の顔見知りがやって来て話に合流する。彼は私より5歳くらい上だが爺さんとは話しをした事がないようだった。少し頑固なところが会って他人とあまり話を合わせるのは得意ではない。今は子育ても終わり悠々自適のように思えたが、結構苦労した人生のようだ。両親を早く亡くし、15歳で宮城県を出て働き詰めだったようである。ちょっと二人の会話が心配だったが、何時もの頑固さは影をひそめ、説教じみた話は一切しない。歳上に対する礼儀のようなものが感じられる。

所々で垣間見えるそれぞれの人生はそれなりに興味深い。だからと言ってその人生に深く入り込んだ話はしない。もう変えようの無い過去をそれぞれが認めあうという互いの干渉抜きだから釣り場の会話は成り立つ。自分の竿先を時々見ながら2時間ばかり話したろうか。ピクリとアタリも来ない。「ここ何カ月か駄目ですねえ。」と言うと件の爺さんは「釣れるか釣れないか分からないから面白いんだ。もし水の中に1匹も魚が居ないのに竿を出していたら馬鹿みていだけど、みんな今日は居るかも知れないと思って釣っている。分からない所がちょっとあると言うのが面白いとこだよ。」と。人生論をぶっている訳ではないだろうが、中々含蓄がある。珍しく用事があったのでボウズだが早目に納竿。帰りの挨拶をすると二人の年寄りが満面の笑みで「また会いましょうや」と答える。ここでしか会わない知り合いで、友達とも言えないが会話が成立するのも釣り場である。


また当たったブログの話題

2017-02-26 08:17:44 | 日記

新聞を見て驚いた。一面と二面に著名な劇作家の方が人工知能と人口減少に関して書いている。4日ほど前にブログに書いたテーマだ。まさかこの著名な劇作家が私のブログを読んでいるとは思えないが。内容は正反対であったが。単純労働、肉体労働ではロボットが人間のすること(仕事)を奪い、失業者が溢れるとか、永遠の命は過去の失敗で悩む事は無いが、文明もそこに留まってしまうなどと書いてある。要は全ての人が創造的な仕事が出来るわけでは無いので大変な社会になるという主旨だと思う。心配が過ぎるようにも思う。ロボットの普及は人間社会が困るほど急速には進歩しないと思う。優れた経営者が後継に悩む時、多くは自分を越えるかも知れない様な後継者を育てるどころか潰してきたのと同じように、人類全体では微妙な抑制が働き人間を超えないような設計が為されると思う。

劇作家であるなら、ロボットだけが登場するような劇を書いたら面白いと思うが。大新聞のかなりの紙面を割いて載せる価値があるなら7面くらいで良いから4日前に私のブログを載せてくれても良さそうに思うが。原稿料は劇作家の10いや30分の1でOK。

今日は風も無く快晴だから多分昼間は暖かい。久し振りに釣りに出掛けて見よう。もし、何時もの爺さんが居たら、「久し振りですねえ、元気でしたか」と挨拶もしてみよう。


人間は何処まで賢くなれるか

2017-02-25 08:38:41 | 日記

残念ながら既に飽和しているか、そのスピードは恐ろしく鈍っている。そんなことは無い、科学技術の進歩を見れば分かると言うかも知れない。しかし、この進歩は人間が賢くなるということはちょっと違う。科学技術は検証された結果が記録や成果として残されて行く。その成果を元にしているから進歩しているように見える。ロケットの発射台がどんどん高くなり、新たなロケットがより高く飛ぶようなものである。人間を個人とした場合は多少似ている。過去の経験があるから、失敗しないとか、より良くとなる。

個人を集団、あるいは社会とした場合はどうか。残念ながら過去の経験(歴史)は必ずしも共通には伝承されない。最近のKLでの暗殺事件や大阪の国有地払い下げ問題で、アレッ何処かにあった、何処かで読んだことがあると思う人は多い。歴史が過去の成果であるなら、科学技術の進化のようにこの集団をどんどん高みに持って行けば良さそうなものをそうは行かない。歴史が証明している、悲劇的な結末や不幸を個(人、社会、国、世界)が学習しているか、括りが大きくなるに従い曖昧になって行く。同じ過ちに何とか逆戻りしないような知恵があるとしたら法律や制度化である。これがまた世界が共有できるかとなるとそうでは無い。至る所で過ちが繰り返される。これで人間は賢くなって行っていると言えるかどうか疑問である。

生物学的に圧倒的に進化している箇所が人間にあるとも思えない。隣のおっさんはテレパシーが使えるようになったとか、200年生きる人が出て来たとか、ある村人は全員IQが150を超えていることが判明したとかのニュースは聞いたことが無い。何か進化があるとしても目に見えい遅さである。

ここで言う、人間が賢くなると言う事は同じ過ちを繰り返さないという事である。我々は何万年も前から大して賢くなっていないという自覚と謙虚さが必要である。


上等ではないか金曜日

2017-02-24 11:53:25 | 社会観察

今朝の新聞で可也の紙面を割いてプレミアムフライデーの宣伝が載った。下隅に見慣れたロゴマーク。男性アイドルグループの笑顔が個別に貼りつけられている。何の宣伝かと思えば、経済産業省のロゴとプレミアムフライデーの文字、ああ月末の金曜日は早く仕事を終えて消費を促そうというあの運動かと。効果について今からどうこう言うつもりはないが、何処かにしわ寄せはくるのだろうとは思う。役所が率先して何か国民運動を定着させようとした成功例はクールビズだろう。最初はノーネクタイなど定着するとは思えなかったが今では当たり前である。ネクタイ業界は大変だったろうが、いざノーネクタイが定着すると、如何にネクタイが権威の象徴であったかが良く分かる。政府の偉いさんも、役所の高級官僚も経団連のお歴々も外観はその筋の定番スタイルの人と区別がつかない。逆にこれに慣れ親しんできた筋の人より似合わず寧ろみすぼらしい感じさえする。勿論夏の暑い日には冷却効果抜群である。上等・上質な価値が割増された金曜日になるのかどうかはまだ不明。バレンタインデーもハロウィンもクリスマスも日本の伝統では無いにしても、それを切っ掛けに消費を促すという効果は確かにある。何故多くの企業が採用している水曜日のノー残業Dayに合わせなかったのか不思議ではあるが。小学校の頃土曜日が半日だったのはこの上無く嬉しかった。4時間目が体育などになっているともう土曜日はとてつもなく解放感に溢れていた。大人が同じ様に感じるには職業によって条件が違うので子供のように解放感に満ち溢れるかは分からない。それでも何れ多くの人がそれを当たり前に思えるようになるまで経産省は粘り強く運動を続けて欲しいものである。

本当にブログに書こうと思ったのはそれでは無い。紙面を割いて宣伝しているアイドルの笑顔の写真である。口角を上げて大口を開け白い歯がのぞく。それでいて目はバッチリ見開いている。そもそも笑顔なら大口を開けてもおかしくはないが、その時は目は口の周りの筋肉の押されて細まる。決して大笑いの時は目は見開かない。半開きに口を開けて目を見開くことはあるが、それは驚いた時である。つまり作り笑顔が如何にも不自然なのである。TV画面のワイプに映る女性タレントの笑顔にも同じような作り笑顔が見られる。Y原K子とかK島R子などが典型だろう。笑顔とはこうあるべきと本人が思っているのかディレクターが要請していいるのかは不明だが。時代劇で子供が棒切れを持ってワーイと言って集団で走り回るのも不自然。かって私はワーイと言って走り回った記憶は無い。本当に楽しい時には楽しいとも言わない。

勝手に笑顔はこうだろうとか、子供ならこうだろうとか、いい大人が、あるいはその道のプロが思う事自体に嫌悪しているのだ。国会は大阪の学校の件で揉めている。やり手の質問者は証拠を持ちながら如何にも知らない振りをして訊く。答弁によってはすかさず証拠を出して詰問する。どつぼ作戦というか落とし穴作戦というか。時々大阪の役人が引っ掛かっておまけに逃れようの無い虎バサミに挟まれる。地方では超偉そうなエリート役人だろうが形なしである。辛いのは役人は「すみません間違っていました」という言葉が使えないことである。しかし困った時には顔に出てしまうところが国会慣れしていない地方の役人、あるいは参考人と言える。演技指導までは受けていない。ただ、大口を開けて目を見開いて「笑顔」だなどという指導なら直ぐに見破られてしまうことは覚悟しなければならない。私のような世の中藪にらみの准高齢者が増えているから。