太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

何度も見る悪夢

2018-04-30 09:01:09 | 日記

何度も同じ悪い夢を見る。飛行機に乗り遅れそうになる夢だ。毎回シチュエーションは違う。ホテルで帰りの荷造りをしている時にスーツケースに詰め込むものが見当たらず飛行機の出発時間が刻々と迫り遅れそうになる。空港へのタクシーに乗ったら料金稼ぎで遠回りをされてやたら時間が掛り遅れそうになる。何気なく旅程表を見たら帰りの飛行機の出発時間を間違えて覚えていて慌てて空港に行かなければならなくなった。頭の中で空港までの時間を計算したら搭乗手続きをする時間が全くないことで焦りまくりホテルで右往左往している。搭乗ゲートからバスで機体に向かう時バスを間違えて違う航空機に乗りそうになる。1日に2回異なるシチュエーションの夢を見た事もある。ああ、どうしようと焦りまくる夢である。

実際に飛行機でトラブルになったことは殆ど無い。最大焦ったものと言えば何人かでアメリカの子会社に打ち合わせに行った帰りである。それぞれ次の予定があり現地解散となった。私はシアトルに飛んでシアトルからロサンジェルスに乗り継ぎロスから日本へという帰路だった。シアトルで搭乗ゲート前で仕事も終わったのでホットしているとアナウンスの人が来てロス行きの便が整備の都合で遅れるという。ロスから日本への乗り継ぎ便は決まっていたので、間に合うかと聞くと冷たく分からないという。慌ててインフォメーションカウンターに向かい聞こうと思ったら長蛇の列である。間に合わないから確実な便は無いかと一言聞こうと思い先頭に行くと列をなしていた人から後へ並べとブーイングが起こる。当然ではある。長蛇の列の後に行く途中で場内案内係の女性を捕まえて聞いてみる。それならここシアトルからカナダの何とかという空港に飛んでそこからサンフランシスコに飛び、乗り継いでロスに行けば良いという。それでも時間はタイトだという。カナダへの出発便はゲートが違うから××番ゲートに行けという。

その前に預けたスーツケースはどうなるかと聞いたら取り出した方が良いという。何とか窓口を探して事情を説明すると、荷物は便が遅れても東京に届くから大丈夫と分かるまでは相当時間を要した。カナダ行きの便にまで遅れそうになり、シアトル空港内を走り回っても教えられたゲートNoが見当たらない。いよいよもう間に合わない、シアトル空港の近くのホテルでもとって明日仕切り直すしかない、手持ちのカードは果たして仕えるだろうかとか心配も浮かぶ。走りつかれた頃、ダメ元で清掃係のおばちゃんにゲートを聞くと電車に乗れという。空港からまた電車と思いながら教えられたところに行くと本当の駅のように見える。キップは何処で買うのだろうと思っていたら同じ方向に歩く人が大勢居たのでついて行く。キップなど不要で電車に乗れる。後で分かったのだが空港内の周回電車だった。

無事カナダ経由でサンフランシスコ、ロスへと着いた時には丁度飛行機の出発時間ジャストだった。ああもう終わったと思った時に女性の案内係がやって来て、私の名前を確認する。連絡はされていたようだ。兎に角急いでと言われほぼ全速力で構内を走り乗る予定だった飛行機に滑り込む。直後に飛行機のドアが閉じられ、乗客はコイツのために出発が遅れたのかと一斉に白い目で睨む。隣の席の中国人が何やら文句を言う。中国語だから意味が分からなかったが、俺はお前の国で色々協力をしてやっていると言いたかったが抑えた。汗は噴き出ているが兎に角乗れたという安ど感から東京までの時間は非常に短く感じた。これを世に言う、いや自称「シアトル空港ホームアローン物語り」と呼んでいる。むろん映画ホームアローンの空港でのジタバタをもじったものだ。それにしてもアメリカ人はいい。世界の何処の空港でトラブろうが英語で達者にやりとりができる。文句も言える。

ネパールの国内便で窓から翼から燃料漏れしているのを目撃したことや、北京からウランバートルに飛ぶ機内で凍死するかと思った事、北京から呼和浩特(フフホト)に飛ぶ国内便が遅れてその日はムーベンピックホテルの宿泊が用意されたが、真夜中に叩き起されて今日飛ぶことになりましたと言われ再度北京空港に行ったこと、北京では半日くらい搭乗口前のベンチで待たされ何の案内もないまま結局飛行機が飛ばなかったことなど些細なことは沢山ある。南太平洋での面白おかしい飛行機の経験は既にブログに書いたように思う。

 


約束の時間

2018-04-29 08:09:38 | 思い出話

世の中GWの始まりである。昨年も同じようなことを書いたと思うが今はGWに特別な思いは無い。昨日も今日も天気が良く、出掛けるには最高であるが、こんな所にも大勢の人がと思うほど何処も混んでいるため昨日も今日も晴天だけど出掛けない。時間自由人にとってGWはむしろ縛りである。勤めていた頃は夏季休暇より長い5月の連休は久し振りに自由になれる楽しみはあった。結果としてこれと言った所に出掛けた思い出はないのだが、国内は混んでいる、海外は仕事で行く所であり旅行などとはとんでもないという理由だったように思う。飛び石連休だって正直カレンダー通り勤務した。クソ真面目と周りからは見られていただろう。

元来特定の日を定めて遊びの計画を作る事には躊躇がある。旅行など計画すれば、迂闊にその日に別の予定など入れられない。仕事上の突発事項が発生して計画がおじゃんになることだって有り得る。それでは旅行を楽しみにしていた人を失望させてしまう。カレンダーの特定日埋めて将来を決めてしまうことが性分に合わないのである。時間自由人となった今でも偶に出かけなければならない日をカレンダーに印をつけると、アレッ予定があったのは何時だったろうとしょっちゅうカレンダーを気にしてしまう。忘れてはならない日が先にあることは精神的な縛りとなってしまい負担を感じるのである。言い訳になるが、未だに家族の誕生日やら結婚記念日、親の命日など覚えていない。書類など書く時は手帳を見て確認する。さらに余談だが未だに12支の順番は自分の前後しか覚えていなしし、TVのリモコンの操作も最低限しか覚えていない。何処かを見れば分かることは覚えない。今の車に乗って5年くらいになるが、未だに何の操作か知らないボタンがある。日常生活に不便を感じないものは覚えられない。

時間や予定にルーズであるかと言うと正反対である。元来時間というものに厳格な性質である。決めたら守らなければならないという絶対的義務感がある。思い出すのは若いころ課長と客先に行く機会がよくあった。課長から、身内が集まる時は5分以上前に集合せよ、客先に入る時は1~2分約束より遅れて入れ。時間より早く入ることは決してサービスにはならない。相手は別の仕事をしている。あれっ、予定より早く来たなと思わせては仕事の邪魔になってしまう。5分も遅れようものなら、折角時間を空けて待っているのに来ないなと思ってしまう。それは早く行くより問題だ。1~2分遅れというのはこの微妙な間であると言われた。細かいことをと思ったが一理あると思い、後のサラリーマン人生でこのことは厳格に守った。余談だが社会人としての最低限のルールはこの課長から教わったように思う。たとえば報告書をホッチキスで止めて提出する時、何気なくファイリングのことを考えてA4の長編側に平行に針を打った。君は私がファイリングしてから報告書を読むと思っているのか。大抵はファイルの前に読むだろう。しかし、このホッチキスはページを開き難い。コーナーに斜めに打てばページめくりも、ファイリングも簡単だ。これも守った。その報告書でも何度も突き返されて、もう一度良く考えて持ってこいと言う。何処が拙いのかは言ってくれない。挙句の果ては、君は良い学校をでているかも知れないがこんなことも分からないのかと叱責された。課長が偏差値がちょっと下の学校を出ていたので嫌味だと思っていた。しかし、何度か書きなおしているうちに報告書は学術論文の体裁に似てきた。時系列に書く報告書は忙しい上司は読まない。まず結論を書けということだった。業者と打ち合わせで椅子が無かったので業者の横にベンチのように座って打ち合わせをした。この姿を見た課長から後に、あれは資材業者だろう、横に座っているのを他人が見たら馴合いと思うだろう。椅子を運んででも必ず対面に座れと言われた。こんな小うるさい課長は御免蒙りたいと当時思っていた。もう一人課長が居て、同郷ということもあり随分可愛がられた。ところが、今思い起こすと、細かく叱られた課長の口ぶりまで思い出すが、優しい課長の思い出は殆どない。教えることと教えられることは時間差で効いてくる。


南北第2のつづき

2018-04-28 09:29:52 | 社会観察

第1回南北首脳会談が終わり板門店宣言が出された。中継を見ていて一番感心したのは金正恩委員長の肉声がハッキリと聞きとれ、それが歳の割には本当に渋い声なのに驚いた。34歳だということだが、相当普段声帯を使っているカ、酒焼けかは知らないがベテランの落語家のような良い声である。貫禄があると言っても良いかも知れない。

コミュニケの中味については具体的なことが無いとか批判されているが、どう読んでも会談の議題の最優先課題は朝鮮半島の統一と平和の実現のように思う。頑なに孤立化の道を歩んでいた金正恩書記長の初めての南北首脳会談である。そのコミュニケに非核化へのプロセスや拉致問題の具体的なことがいきなり盛り込まれるはずは無い。同じ歴史を背負った同じ民族の初めての会談では同じ目的を共有するというのは当然のように思える。次の米朝会談が実現すればそこからがいよいよ第3ステージだが具体性はそこからである。若しくは平和協定を目指す米・韓あるいは中を交えた会議以降である。

もし、朝鮮半島が平和裏に統一されるような事が有れば核兵器の保有自体が難しくなる。現在の韓国が核兵器を保有することになり国際社会は認めないだろう。国際社会の一員として統一を目指すと言うからには国際的孤立は無理である。統一へのプロセスで国際的な経済援助が必要となった場合、日本は拉致問題解決なくしては援助に参加できないと明確に言うべきだろう。たとえ孤立化してでも主張すべきである。もしラッキーがあるとしたら、トランプさんか文大統領が、経済支援では日本に相当負担して貰わなければならない。その為に北朝鮮には拉致解決に積極的に取り組んでくれと言う場合だろう。経済支援は少なくとも日本だけは必ず拉致の交換条件とすべきである。日本外交の手腕はこの時発揮される。

如何なる統一も民族の決断に委ねるべきだが過去の歴史は必ず関係国が敢えて波風、山や谷を作ってきた。平和裏の統一と言っても全員が喜ぶわけでもない。アメリカ国民はミサイルの脅威から解放されても軍需産業は日本に高価な防衛ステムを売る理由がぼやけてしまう。日本も防衛システムばかりでなく防衛省の在り方自体も変えなければならないだろう。仮想敵国を中国やロシアにするととんでも無くお金は掛るだろうが。テロ対策を主眼とするには装備や人員配置をガラりと変えなければならない。唯一米軍基地だけは裏で中露を仮想敵国と見做していようともアジアの安定のためと言う理由であまり変化は起こrらない。

決してこれまで北朝鮮がとってきた政策を良しとは思わないが、折角の変化の兆しである。時間は掛っても、行きつ戻りつしながらもコミュニケの実現に向かって欲しいものである。結果朝鮮半島が平凡な国、国際ニュースに載らない国になることを願う。日本はもっと大きな役割を果たせ。主役は勿論政治家である。具体性がないから圧力は継続すべしというのは新橋サラリーマンでも言う。しかし、今後果たすべき日本の役割についてまでは頭が悪いか酒に酔っているかで言及することはない。やはり政治家の出番である。コミュニケが拉致問題に触れていないなどと批判する政治家が居たら自らの責務を放棄していると思って差し支えない。


南北第2ステージへ

2018-04-27 07:52:21 | 社会観察

今日は南北首脳会談が行われる。結果が出る前から懸念やら期待やらが交錯している。一つだけ言える事は何かが変化するだろうと言う事だ。ある意味核ミサイル開発や拉致問題がこう着状態にあったことは間違いない。会談の開催は制裁と圧力が功を奏したという人もいるがその検証は北朝鮮が非核化の条件として制裁解除を求めて来た時だろう。最近のTVの映像を見る限り平壌に高層ビルが次々建ち並び美しくなった街並みは本当にこれが制裁下にある国かと疑わしく思っていたが徐々に実態は明らかになって行くだろう。

先の首相の訪米でトランプ大統領が拉致問題解決に協力を約束してくれたと成果のように報じられたが、拉致家族の方が、アメリカにお願いする前に日本がどういう努力をしたか、拉致解決の主体は日本であり、他国にお願いして喜んでいる場合ではない。アメリカが最優先事項として取り組むとは到底思えないという旨のコメントをネットに載せた。先にブログで書いた事と同じ内容である。南北首脳会談を機に米朝会談へと進み、核ミサイル開発凍結あるいは廃棄の道筋が見えたとしても日本は拉致の問題が解決しない限り見返りの経済援助などに決してのるべきではない。何処まで出来るかは分からないが独自にでも最大限の圧力を継続すると宣言すべきである。拉致問題解決を優先順位の下位においてはならない。それこそ過去と同じだらだらと棚上げされるのがオチちである。

とは言え、南北会談を後ろ向きに捉える必要は全くない。何も動かなかった問題に変化の兆しである。それだけでもよしとしなければならない。北朝鮮問題が第2ステージに入ることは間違いないだろう。たとえ第2ステージが最悪シナリオに向かう結果になろうとも、会談をしなければ最悪シナリオに至らないという保証は全く無い。圧力の先の暴発を考える方が筋である。まだ会談が開かれる前なので軽々と結果と予測してブログを書くことなど不謹慎であり、明日は多分この続きを書くことになる。

 


4匹のおっさん

2018-04-26 08:26:19 | 日記

久し振りに昔の仲間と飲み会があった。TV番組のタイトルのようだが、ある時期同じ釜の飯を食った連中である。その内の一人が60歳定年を迎え、再雇用ではなく他の会社で再出発ということで慰労と激励を兼ねての会である。この60歳の彼が最年少であり、上は再雇用を終えた者、二人は再雇用ではなく別会社に雇われている者である。言うまでもなく、それぞれ別分野で才能を発揮した連中である。現状報告から始まり、共通の知り合いやら部下だったものの消息を尋ねたり、自身の健康状態を報告する良く有りそうな進行である。何人かは自分達より若い連中が亡くなったことを聞くと若い頃の思い出が甦り、可哀そうにと思う。互いの健康状態も何がしかの不具合を抱えながら相変わらず口だけは皆達者である。

現在は皆全く違う境遇でありながら、何故か太陽電池とかエネルギー関連とか似たような業界で頑張っている。色々な縁で再就職しているようだが、それぞれやる気満々で働き甲斐もあるようだ。不思議なことは何故彼らは再雇用の道を選ばなかったのか。後輩連中も結構60歳の定年を機に再雇用ではなく再就職の道を選んでいるようだ。理由は簡単である。大手企業の多くは一旦60歳で定年とし、それ以降65歳までは再雇用の道が開けている。しかし、再雇用と言っても1年契約で給料は半額かそれ以下に減額される。しかし何よりも再雇用の道を選ばない理由はやり甲斐とか働き甲斐を感じない組織の在り方である。60歳ではそれなりに意欲を持っている人は沢山いる。勿論既に出世とか高級を望んでいる訳ではない。自分が持っている経験や知恵が何とか活かせないものかと考える。ところが会社側は雇ってやっている、嫌なら辞めたらという態度でお荷物として扱っている。才能や経験や知恵を何とか活用したいと思う会社は極稀であろう。何かの役に立っていると思わせる再配置はまず無い。定年が65歳といっても全くと言って良い程会社は彼らを有効活用していない。

給料で動く年齢は過ぎているのである。自分はまだ何がしか必要とされていると思うだけで65歳までは会社への貢献は続く。60~65歳までをどう活かすかを考えないと会社にとっても社会にとっても大きな損失である。集まったメンバーは歳が行ってから再就職している。新しい職場での人間関係も多分簡単なものではないだろう。苦労はあってもやり甲斐を求めて再就職した人にエールを送りたい。次に会う機会は誰かが亡くなった時かい、と軽口で別れたが酔いざましに歩いて駅に向かう道すがら縁は不思議なものである、決して現役の頃私生活で交わる程の仲でもなかったし、仕事上は反発することもあった関係なのに100年の知己のようなひとときであった。