太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

太陽電池コストダウンと信頼性の相反

2015-06-30 10:23:26 | 仕事に関すること

太陽電池のコストダウンは技術的に大きく分けて①構成材料の節減または変更②工程の変更(時間短縮、歩留り)③構造の変更④効率向上が挙げられる。量産効果は別物とする。ここで多くの技術者や職人が陥り安い欠陥は、年間に1GWも作る時代、ワットあたり1円下げただけでも年間10億円もの節減ができることに目が眩むことである。例えば表の電極面積を減らして受光面を増やせばその分電流が上がる。昔は3ミリ幅くらいの銅箔をバスバーと呼ばれる集電のための太い電極上にべっちょりと半田づけしていた。今は1ミリ幅に満たない銅を付けている。銅箔の製造技術や表面電極の細線化がなせる技だが、どちらが頑丈かと言えば勿論前者である。新規開発には必ず信頼性の確認が行われるが、これが曲者である。信頼性試験は主に屋内の試験装置で行われ、多くの試験方法がIECやJIS規格で定められており、公的な認証試験もこの規格を規準にしている。その試験をパス(あるいは社内基準でもう少し厳しい試験とする場合もある)すれば信頼性は確保できたと思うのが技術者や職人の常である。その昔JIS規格を作る時に参考にしたのは米国のJPL(ジェット推進研究所)やSERI(太陽エネルギー研究所、現NREL)の試験規格だが、条件は地上にありうる最も過酷な環境を元に決めた。マイナス40℃はシベリア鉄道で輸送する場合とか、80℃は貨物船の船蔵で赤道を越えるときとか議論した覚えがある。しかし、こららはあくまで単一の環境であり、自然は温度も湿度も風雨も紫外線も複合的に負荷するため決して単一条件を如何に過酷にしても自然の再現はできないことである。その意味で認証試験は「最低限のクリアーすべき試験」と思わなければならない。決して寿命を担保するものでは無いと言うことを。もっともお勧めできるのは新しい技術ができたら即屋外暴露に曝し、並行して屋内試験をすべきである。屋外の変化は思ったより早く出てくる。長い歴史により全てのものは進歩、改良されてきたというのは間違いである。より洗練されてはきたが華奢になったと思うべし。その昔ODAの世界で、ポンプモーターをVベルトで連結しようとしたとき、先輩が「Vベルトは滑らないので効率も良いが、現場で切れた時交換品が無い。平ベルトは滑るが、タイヤを切ってでも作れる。」と諌められたことがある。兎角効率やコストのみに目が行きやすいがさらに広範囲な気配りが必要である。完全な結晶を作ろうと一つ改良すると必ず新たな欠陥が出てくると教えてくれた教授も居た。


太陽光発電に関する意見広告と新聞

2015-06-29 09:30:15 | 社会観察

太陽光発電に関わる多くの者(事業者、メーカー、消費者)にとって最も悩ましいのは「先が見えない」ことである。「先が見えない=先が無い」と思うのは仕方がないことかも知れない。何故そうなるか、6月24日の電気新聞にFIT制度見直しについて『・・・太陽光に限れば導入量6400万KW、買取費用2兆3千億円という事実上の上限が設定された。』とある。この3月末でFIT設備認定量は8200万KWを超えており、この記事通りであるなら既に太陽光は上限に達して(超えて)おり、もう不要ということになる。しかし肝心なことが抜けている。

①買取費用の上限→太陽光の発電量→太陽光設備量の上限という理屈だが、無制限、無補償(指定電気事業者による出力抑制)なら太陽光設備量の上限は無いはず。

②2022年当初法律で定めたFIT買取期間は終了するが、制度最終年の設備では20年が加算されて2042年まで(住宅は2029年)まで買取期間が継続する。ここでは既設の全設備が一斉に終了するのではなく、早く設置されたものは買取が終了している。2030年の6400万KWの構成には異なる買取単価の設備が含まれており、構成の予測は今後の買取単価とリンクしており、単純に2兆3千億を算出することはできない。公平、公正、中立、事実を旨とする『新聞』なら算出の仮定まで含めて『上限が設定された』とすべきである。そうでないなら意見広告とすべき。『新聞』という名称だけで読者は『事実』と誤認する。

法律改正してFIT制度維持の10年間を短くするならポストFITの社会を描くことが必要である。2020年の発送電分離(電力自由化の仕上げ)はFIT制度と併存するとMETIから説明されてきたが(事実併存可能でしょう)、FIT制度が無くなると自由化の中の一部となり、2030年に6400万KWと決めることは、この国に××は▼▼以上普及してはならないと国が決めることになるが、電力自由化との整合は?

多くの関係者の不安はFITが無くなることではなく、ポストFITの世界が描けないところにある。『長期エネルギー需給見通し』の数値は電源構成の目安であり、太陽光発電の必要量の限界値でないことは太陽光発電協会のビジョンでも示した。技術的、経済的(負担)視点での電源構成からだけではなく、国は電力自由化の中でセキュリティ(自給と安全、環境)、消費者選択の余地など加味した大雑把で良いから太陽光発電の関係図を示して欲しいものである。勿論電気新聞が『意見広告』として示してくれてもよい。


太陽光発電の情報収集

2015-06-19 11:12:43 | 仕事に関すること

太陽光発電(に限ったことではないが)に関する近未来の動向を知る最も良い方法は中央官庁が主催する審議会、委員会、研究会の資料を読むことである。最近はかなり早く、配布資料や議事録が大量にホームページにUPされる。特に政治と経済の狭間にある商品の場合、国の指針は重要である。東京以外の地域はある意味情報から隔絶される(委員会の傍聴あるいは直接官庁に出向く、関連する講演会に参加する)ハンディがある。一方で、『役所のやることは机上の空論、現場はそれどころではない。』と考える方々も多い。長年企業に身を置き、関西から東京に出てきて気付いたことは、

1.中央官庁が主催する会合は過去の出来事は扱わない、遠い未来もしかり。近未来(精々5~10年先)のテーマは彼らの任期中の手柄になるから(皮肉な言い方をしたが、本当は成果を求めるというより喫緊の重要課題をテーマにしているのだろうが)

2.特に役所は云々・・と考えがちなのは地方の人のみならず、現場の第一線の人、企業にあっては直接事業責任を負っているある程度上層部(数字のみにとらわれ全体を見渡す余裕が無い)の人たち。

3.多くの会合で大学の教授(中立っぽい専門家として)、消費者代表、大手企業幹部が委員となるがどれも自らの立場で発言していることに注意。多くの場合市場など知らずにあるいは自ら経験したことに固執した発言が多い。有名な人だからとか権威に惑わされないこと。

4.誰の言っていることが近未来に最も近いのか、それは委員の発言でも、TVでも新聞(これは摘み食い的記事、誘導記事、偏見記事がかなりある)でもない。配布資料にある『事務局案』である。役人の能力は、誰かが世界一のシンクタンクと例えたように半端でない。見たことも触ったこともない太陽光発電に関して素晴らしい資料を作る。

 確かに東京は情報も多く、刺激もある。しかし、情報の隔離は自分にも責任がある。是非、特に会社の中で『偉い方々』は一度官庁のWEBを覗いていただきた。


顰蹙コメント

2015-06-15 08:37:35 | 社会観察

 再び三度、多分顰蹙をかいそうな偏見に満ちた日々の徒然。                                       ブ×ほど甘えるという真理                                               ※公衆の面前(電車の中など)でそこそこのボーイフレンドにこれ見よがしに甘えている女子は100%ブ×か異黒人の相手の女子である。「私にはこんなに素敵なBFが。」とアッピールしたいのだろう。その気持ち理解できる。

ブ×にスマホで何だか心安らぐ                                            ※電車内で一心不乱にスマホを操作しているブ×を見ると「ああこの子にも友達は居るんだ」と何だか一安心する。オジサンにはそんな友達がいない。                                   

デ×は車両の端っこの席                                                ※デ×のサラリーマンはドアの傍の端席に1.5人前の席を確保し、大抵の場合は太い指の第2関節まで黒い毛が生え漫画を読むかスマホのゲーム。きっとこの席確保のため3本くらい電車をやり過ごしているに違いない。その努力は買う。 

                                                                   帰りの電車で座席確保のサラリーマンは大概、髭濃く頭髪薄く油脂多し                 ※遠くから来て遠くへ帰る勤務先の距離がなせる技か。丸の内線ではあまり見ない。

幸、不幸に絶対値は無い                                               ※仕事が辛くて文句言っている奴、もしお前が昨日まで長期療養していて今日仕事が始められたとしたら同じ事をやっても幸だろう。

アンチエイジング                                                   ※化け物のようにツルッとした60代のオバハンが折込チラシに入る。歳不相応な外観は芸能人なら財産だが、一般人の場合どのような得がある?サラリーマンは絶対損。かって若く見られる奴が新人を連れて客先に行った時、自分が部下に見られたと嘆いていた。

挑発行為                                                       ※領海侵犯の監視船、彼らの作業日報見てみたい。風下向きに走ったから燃費が良かった、いやいやそうではないだろう。一発撃ち返されるのを待ってそれをきっかけに攻撃?それは絶対的王者の仕掛けであって負けるかも知れない相手にそれは無謀というもの。小話で、前を歩くプロレスラーに背後から蹴りを入れられるか友達と賭けをした男、叩きのめされるから無謀との制止振り切り思いっきりとび蹴りかました。このプロレスラー、肩を叩きながら振り返り「よせやい押すのは」ととび蹴り男の勝ち。

アベノミクスと自分で言えるほど心臓(晋三)は強かった?                         ※自分の名前がつくのは体操競技とたまにプロレスくらい「後方伸身宙返り4回ひねり」をシライとか。不思議なのは相撲技とかにないこと。普通は照れくさい。

 

IS国の人質事件でTVでは多くの専門家(?)が異口同音に「身代金を払ってしまうとテロに屈したことになる。日本は金払うと次の標的にもなり、英米もそう警告している。」と言う              ※これなら素人でも言える。この専門家諸氏、自分の子供が誘拐されて身代金要求がきたらどうする?『卑劣な犯行に屈するわけには行かない。もし払ったらあの家は金があるからと弟もと狙われるかも知れない。我が家に金はあるけど払わない。』と言い切れる?私なら金払って人質奪還した後、敵のアジト(犯人の居る地域は特定されている)を報復爆撃して『2度とやれるか、貴領土を無慈悲なまでに焼き尽くす。』と言うが。

偏った見方は己が品性の貧しさ故か。

 


読書

2015-06-14 11:55:31 | 日記

 いつの頃からか読書、とくに長編小説は読まなくなっていた。本はもともと好きな方であり、子供の頃は沢山読んでいたような気がする。大人になると、専門書であったり、集中力の要らない軽いものだけになっていった。時間が出来た現在、古本屋に立ち寄る機会も増え(行くところがこれと言って無いためだが)先日、度々ノーベル文学賞候補となっている著名な作家のどちらかと言うと近刊を買った。特に興味があった作家でもないが、比較的近刊であり、賞のたびに騒がれている作家ということ、何よりも新品同様の本で定価1800円のものが108円であったことが興味を魅かれた。

 内容について読書感想文を書くつもりは無いが、それなりに一気に読ませるストーリー展開は見事である。無駄な説明や描写もなかった。これが108円と言う方が気になった。新聞が1日過ぎると古新聞となり僅かなトイレットペーパーと交換されたり、地区の資源回収に協力したりするのと同じ扱いになることがある意味不思議である。発売前から予約が入るほどの人気作家をしてこれかと。そこには大量出版という希少性の正反対のシステムが存在する。もちろん大量出版自体が悪いわけではなく、より多くの読者の目に触れ影響を及ぼすという意味で。しかし「商品としての価値」を考える場合、流行と古典のどちらを作家は意図しているのだろう。

 もっとも価値(高値)ある流行は「今日発刊される明日の新聞」であり、不可能なことでもある。も長く読み続けられる古典は「普遍の言葉で綴られる」ことが最低限の条件であり後世の理解を得る為には流行を取り入れること得策ではない。

 誰かが核廃棄物の処理で「10万年間もこの下に危険なものが埋まっているということを伝え続けられる保証はない。言語や文字すら変わっているかも知れない。」と言ったが具体的にこの問いかけに答えたものはない。10万年間読み伝えられる古典中の古典になるであろう「取り扱い説明書」。

 録画テープの巻き戻しのような物語(タイムマシーンではない。結果が連続的に原因に向かって進んで行く、退行かも)あれば読んでみたい。

 事実がメビウスの輪のように同じところにいつの間にか戻ることを繰り返す小説、読むのはしんどいだろうな。

 いい歳して下らんことを書いてしまった。取敢えず古本屋に今日も行く。