熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

今道友信著「ダンテ『神曲』講義」(1)

2021年01月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   今道友信先生の「ダンテ神曲講義」紐解きながら、そのベースとなったほぼ25年前の「ダンテフォーラム」の講義録を聴きながら、高邁なダンテの世界に学んでいる。
   エンジェル財団の「ダンテフォーラム」の講義録は、各90分の講義15篇で編成されており、その冒頭の3篇は、第1回 序とホメ-ロス 第2回 ホメ-ロスとウェルギリウス-神謡と創られた神話-第3回 ダンテへの道としてのキリスト教 で、『神曲』講義の導入部となている。
   書籍の方は、実際の講義よりは多少簡略化されているのだが、私は、まず、講義を聴いて、その後、本書を読んで、両方並行して勉強している。

   まず、何故、ダンテの『神曲』を読むのか。
   第1に、「クラシックを勉強する。クラシックに学ぶ。」
   第2に、ヒューマニズムを体得すること。
   興味深いのは、ラテン語のクラシクスは、「軍艦の集合体」という意味で、ローマの国家の危機の時に、軍艦の艦隊を寄付できるような富裕で国家の役に立つ人のことで、これが転じて、人間の心の危機において本当に精神の力を与えてくれる書物のことをクラシックというようになったのだという。更に面白いのは、国家の危機に、自分の子供しか差し出せない人をプローレータリウスと言い、この言葉から、貧困な労働者階級を表すドイツ語のプロレタリアートが派生したのだという。
   ヒューマニズムは、「人間主義」とか「人間愛」と訳されているが、人間に特徴的なこと、「人間的」ということで、「言語を理解し、言語を使い、言語に生きる」ということだという。
   ダンテを学ぶことによって、われわれは、西洋の代表的な古典をまなび、そして、ヒューマニズムの人、ヒューマニストになるわけである。

   中世末期に生きたダンテを学ぶためには、西洋文化文明を学ぶ必要がある。
   ダンテは、ギリシャ・ローマの古典文化の伝統と、キリスト教の伝統の双方を統合しているので、ダンテを研究することを通じて、この両方を合わせ学ぶことになる。
   この指摘は、私は、欧米にいた時に、意識して、美術館や博物館を行脚して、できるだけ多くの素晴らしい絵画作品を鑑賞しようと思って努力したのだが、単純な話、ギリシャローマ神話とキリスト教の新旧約聖書やその周辺知識がなければお手上げだということを痛いほど感じた。予備知識をつけ刃で仕入れて、ペンギンのガイドブックを前から後ろまで丹念に読みながら、一つ一つ絵画を追いながら、ロンドンのナショナル・ギャラリーを2日かけて歩いたのを懐かしく思い出している。

   まず、そのために、「西洋文化の源流」であるホメーロスを読破しなければならない。
   それまでに、エジプト文明、メソポタミア文明、ヒッタイト文明など素晴らしい先行文明があったが、なぜ、ギリシャ・ローマ文明を、西洋文明の始めとするか、それは、祖霊動物神からの脱皮が、ギリシャに始まっているからである。ギリシャ・ローマ古典文化を境に人間は、動物神を信仰していた粗野な時代から、人間以上の知性と力を持った神々を尊敬するという考えに変わってきた。ギリシャ・ローマ古典文化は、人間の生物的優位を自覚した時代、その始まりだということで、西洋文化の始まりなのである。
   キリスト教も、人間は、イマーゴ・ディ(神の似姿)だという考えを持って、人間は神ではないが、神の似姿に肖って作られており、神の持っている知性や言葉を人間は規模を小さくして持っているのだという考えである。

   著者は、ホメーロスについては、「イーリアス」のアキレーウスの情誼などについて詳しく述べており、続いて、ローマ建国を美化するために、ウエルギリウスのトロイヤ戦争後の後日譚を描いた「アエネーウス」に話が及ぶ。
   ここで重要なのは、ホメーロスでは、書き出しの「女神よ、ベーレウスの子アキレーウスの憤りを歌いたまえ」と言って、女神ムーサが歌うのを聞いて、ホメーロスは人間の言葉に翻訳したのだが、
   ウェルギリウスは、「ミューズの女神よ、私に事の由を思い起こさせたまえ」とあるように、あくまで事件のあらましは女神が教え示すが、ホメーロスのように、神が歌うのをそのまま人間の言葉にではなく、自分の言葉で作詞した。という違いである。
   このホメーロスとウェルギリウスの二人の先駆者について、この異動が特に特徴的で、ダンテ自身、ホメーロスのように、神の歌をそのまま訳したのではなく、ウィルギリウスの立場、すなわち、自分でミュートスを作った大詩人、しかし、ミューズの女神に支えられて歌ったという、詩人として誇りを持った、人間的な自覚をしたウェルギリウスを模範として、西洋叙事詩の伝統に従ったのである。
   また、ウェルギリウスの歌は、自分の祖国が敗北した挫折から始まって、そして、逃亡して流浪の旅を続けるのだが、ダンテ自身、人生の中で、幾たびも挫折を経験したので、運命的にホメーロスよりも、挫折から始まるアエネーアスを歌うウェルギリウスにより親しみを感じたであろう、という。

   さて、キリスト教であるが、キリスト教は、西洋文明のバックボーンであり、ダンテ自身キリスト教徒であり、キリスト教には、経典として聖書があるので、ダンテ研究には必須の知識である。
   今道先生は、ダンテ神曲の勉強に必要なキリスト教について懇切丁寧に説明しているが、仏教徒の私には、知識として理解するという程度の理解しかない。
   しかし、一つだけ、知らなかったので衝撃を受けたのは、今道先生が、「詩篇」に、「わが神、わが神、なんぞ我を見すてたまうや」と」いう句があって、獣の叫びのような叫び声を上げて息絶えたと書いてある、ということである。イエズスの場合、十字架上の死で終わるのではなく、復活するので、それと結びつけて考える必要があるが、十字架上での最後の言葉が「なりおわりぬ」で、動物としての死苦の彼方に救い主としての確信が表明されており、・・・絶望の極致の経験を経ながら、本当に身をゆだねた子としての神という像ができるのではないかと私は思います。と今道先生は結ぶ。

   ブックレビューと言っても、今道先生の高邁な講義を理解するのが精いっぱいであり、次から、本題に入るので、この姿勢で続けようと思っている。
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