今日は高野山が下賜された日
「高野春秋」に「秋七月傳燈大法師大禅師空海請に依り紀州伊都郡高野山神獻の山地を賜ふ。以て師及び郡司等に符す。
案文
太政官符紀伊国司 内印十七所
空地壱處、伊都郡以南山中に在り、高野山と曰ふ。四至四方高山、東は丹生川上峯を限り、南は當川南長峰を限り、西は応神山谷を限り、北は紀伊川を限る。
右僧綱牒を得偁。十禅師空海牒に云ふ、
耆闍の峻嶺には能仁の迹休せず。孤岸の奇峰には観世の跡相続す。其の所由を尋ぬれば地勢自から爾るなり。歴代の皇帝、心を佛法に留む。金刹銀臺櫛のごとくに朝野に比び、義を談ずる龍象、寺ごとに林をなす。法の興隆ここにして足んぬ。但だ恨むらくは、深峯に四禅の客(四禅定をなすひと)乏しく、窮巌に入定の賓まれなり。實に是れ禅教未だ傳はらず、住所相応せざるが致すところなり。今禅教の説に准ずるに深山の平地尤も修善に宜し。
今思はく、上は國家の奉為にして下は諸の修行者の為に荒藪を芟り夷げて(かりたいらげる)聊かに修禅の一院を建立せむ。經の中に誡しむることあり。『山川地水は悉く是れ國主の有なり。若し比丘他の許さざる物を受用すれば即ち盗罪を犯す』てへり。加之、法の興隆は悉く天心に繋けたり。若しは大なりとも、若しは小なりとも、敢えて自ら由にせず。望請すらくは彼の空地を賜はることを蒙って早く國恩に答ぜん者。右大臣宣奉。
勅。請に依り國承知を宣す。宣するに依りて之を賜うふ。符到れば奉行せよ。
参議従三位大辨秋篠朝臣安人
左少史正七位上上村主豊田麿
弘仁七年七月八日 」