福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・56

2017-07-06 | 霊魂論
性空観によって因縁生相対の自我を超越するとき、阿字本初の絶対不思議の真我が開顕せらるるのである。成仏とはこの真我の自性を如実に体得せられたる位である。 大師は[窮竟して自心の源底を覚知し、實の如く自身の数量を証悟す(秘密曼荼羅十住心論)]と釈せられたるが、如実に身心の本性を覚悟すとは、これ思議の身心に即して不思議絶対の身心を体得することである。如実に自我の本初を体悟することである。凡身に即して如 . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・55

2017-07-05 | 霊魂論
顕教の実相観より密教の実相観へ転入する歴程は金剛頂経にも大日経にも開説せられてある。即ち如来往昔なほ菩薩として無上菩提を欣求し、苦修久しきに亙り、つひに無我性空の理に住するとき、無量の諸仏妙相を示現し、警覚開示して、性空の理(万有の本性は空であるということ)はこれ如来真実究竟の果境にあらざればこの性空観よりさらに起って無上真実の佛果を求むべきことを告げらる。 ここにおいて性空の理も無自性と観じ、 . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・54

2017-07-04 | 霊魂論
其の中第九阿摩羅識はこれ唯真非妄の心である。この第九の唯真非妄の識体深細なれどもなほこれ真妄相対の真心である。而も心性の体は相対を絶せる絶対体即ち非真非妄の心ならざるべからず。この非真非妄の絶対心、これ第十の一々心識である。この非真非妄の第十の一々心識の体、これ顕教の大乗仏教の所入所詣の究竟の果地である。所謂真諦実相の妙極である。 而も真言密教よりいへば、かかる非真非妄の心性これなほ遮情の極にし . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・53

2017-07-03 | 霊魂論
弘法大師の提撕によれば顕密二教の実相観に因分と果分との異なりがある。その因分とは顕密の説にして果分とは密教の義である。顕教の諸法実相観一概に釈しえざるものあるも、かの智度論第二十に明かすが如く、諸法の無自性空義を実相の意義となすものである。即ち諸法は因縁生無自性なるがゆえに、その実相常寂滅の涅槃真実相なりとは顕教の諸経論に等しく説かれたるところである。かく諸法の寂滅の空義を実相の体となすはさきにも . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・52

2017-07-02 | 霊魂論
上に真言密教の個体観念を明かすにあたり、一応仏教教義の中心観念を叙する要あり、小乗の三法印,大乗の実相印の意義を約述し(小乗の三法印(諸行無常・諸法無我・涅槃寂静、という空を強調する考え)は大乗にいたって一実相印(諸法実相・全ての事象に真実がある))となった。)顕教大乗は真諦実相の境に生佛(衆生と仏)の差別相を絶すとなすも、真言密教は真諦実相の境に生佛の差相を観るものなることを述べしが、以下なほ其 . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・51

2017-07-01 | 霊魂論
前叙の如く大師は 法相、三論、天台、華厳等の顕教諸大乗の説は、俗諦因果の世界に生佛の人あるも、真諦は人の仮相を絶すとなす二諦義(絶対的真理(真諦)と世俗的真理(俗諦))の範囲をいでざるものとし、 その絶対不可言の真諦に佛あり衆生あり、所謂[本有の人]ある旨趣を開設するものは真言密教なりとせり。 しかしてこの真諦界中の一切の個別は各々法体界に住し、各々の法の外に余法を見ず、當位絶対なると共に、各 . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・50

2017-06-30 | 霊魂論
かくの如きは前來の佛教徒と全く異なれる立場に立ち、佛教を根本的に見直さんとせるもの、所謂佛教のコペルニクス的転廻をなせるものにして、また真の大乗仏教の真意義を開顕せるものといはねばならぬ。 即ち印度以来三國に亙り大乗論士の説一ならざるも、而も小乗の寂滅観を脱出せんとする点において、諸家一致せるものといはねばならぬ。小乗の寂滅観を脱出せんとし、教の中心観念たる法をば、或いは真如法身なり、常住涅槃な . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・49

2017-06-29 | 霊魂論
かくのごとく一般仏教は言断心滅の無相の法を教の中心観念となすものである。しかして弘法大師は一般仏教に人を仮とし、法を實とし、無生の法を観じ、人をして法に契合せしめんとするはこれ我執迷妄を断ずるを本とせる遮情教(遮情とは煩悩を否定する考え、これに対する考えを「表徳」といい、われらは本来仏徳を有しているとして迷いの衆生を肯定する)たるゆゑなりとせり。 もし究竟の法を絶対的霊格者也、真実在者也等と説か . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・48

2017-06-28 | 霊魂論
此の如く大小二乗所説同じからざるもの有るも、而も二者共に人を仮とし、法を實とし、仮なる人を遮し(迷いの衆生を否定し)、實なる法(実相の真理)に契合せんとするに至っては一である。即ち仮人実法を宗極となすは、顕教の大小乗に一貫せる説である。 しかるに真言密教は人法法爾の旨を開説し、顕教に対せばむしろ人を本とすといふべきである。されば弘法大師は二教論に二重の二諦義を立てて、俗諦には佛と衆生、即ち人の存 . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・47

2017-06-27 | 霊魂論
小乗は個体の永遠に空滅に帰せる涅槃を理想とし、大乗は個体の絶対真如の理に還帰するを宗極となすものである . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・46

2017-06-26 | 霊魂論
前叙の如く小乗は諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印を説き、大乗は諸法実相の一印を説くものである。即ち大乗仏教の諸経論の所明、一概に論じ得ざるものあるも、諸法実相の一印を説く点において一致するものなりともいひ得らるるのである。智者大師(智顗)は法華玄義第九に諸経の経体を釈し、勝鬘経は自性清浄(全ては本来清らか)を体とし、華厳経は法身(永遠不滅の真理そのもの)を体とし、般若経は一切種智(万物が本来は . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・45

2017-06-25 | 霊魂論
智度論の第二十二に小乗の無常説と大乗の常住義とは矛盾せる二説にあらざることを釈し、「問うて曰く、『何等かこれ佛法の印なりや』、答へて曰、『佛法の印に三種あり、一には一切有為の法は念念生滅して皆無情也(諸行無常印)二には一切法は無我なり(諸法無我印)三には寂滅涅槃なり(涅槃寂静印)(中略)』、問うて曰、『摩訶衍(釈摩訶衍論)の中には諸法は不生不滅にして一は所謂無相なりと説く、此の中には云何が一切有為 . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・44

2017-06-24 | 霊魂論
上来仏教のおける個体の観念を開明せんとし、小乗及び一般大乗の所明を略述せしゆゑ、以下真言密教の所説に及ぼうと思ふ、なほ真言密教の個体観念を述ぶるにあたり、仏教教義の中心観念を約述するであらう。 これ真言密教の所明を会し易からしめんがためである。 蓋し小乗仏教は宇宙人生は煩悩、業に因って現起せし生滅無常の苦果の迷相と観、この無常性滅の境を解脱せる寂滅無為の涅槃界に帰せんとするものである。 その大 . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・43

2017-06-23 | 霊魂論
即ち天台、華厳、真言の教意の不同を、華厳の所明に配すれば、次の如く縁起、性起(「性」とは仏性、「起」とは起こること。真理から諸現象が生まれると説く華厳宗の教義。凡夫の立場から現象を説くと、縁起となる。 天台宗の性具説は仏界のさとりも他の世界の迷いと同列に見るのに対して、真理を中心に万象の縁起を説き、迷いの世界を仏の世界に引き上げて説こうとするもの。) 、性海果分(真如そのものの世界 )に相ひ當る . . . 本文を読む
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金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・42

2017-06-22 | 霊魂論
しかしてここに述ぶべきは、華厳の於ける性起(真理‣覚りが縁に触れて万物が起こること)と性海果分(覚りの境地)とになほ可説不可説の異なりあることである。 前叙の如く性起はこれ十佛の無碍大用をあかすものにして性海は十佛の自境界なりといへば、性起と性海果分は同一の如くなるも、しかも性起と性海果分には可説不可説の異なりあることを知らねばならぬ。 華厳経性起品に佛身の自在無碍の大用を明かすもこれ賢 . . . 本文を読む
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