電脳筆写『 心超臨界 』

悲しみは二つの庭を仕切るただの壁にすぎない
( ハリール・ジブラーン )

読む年表 古代~中世 《 建武の中興——渡部昇一 》

2024-05-13 | 04-歴史・文化・社会
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そもそも「建武の中興」の理念そのものが、源平の争乱以来、武家の手にわたっていた政権を朝廷が取り返し、平安時代のような王朝にもどすことであった。また、後醍醐天皇は天皇親政が実現したのは宋学的理念のおかげだと思っている。武家などは見下すべき存在であった。もっと言えば武家なき世こそ望ましい。だから武士たちは必ずしも報われなかったのである。「建武の中興」の立役者というべき楠木正成でさえ勅約(ちょくやく)を違(たが)えられ、もともとの領地である河内と攝津(せっつ)を与えられただけで、将軍にもされなかった。


◆建武の中興

『読む年表 日本の歴史』
( 渡部昇一、ワック (2015/1/22)、p82 )

1334(建武元年)
建武の中興
あまりに恣意的で武士を無視した後醍醐天皇の恩賞

源頼朝が幕府を開いてから140年ぶりに政権は朝廷にもどり、後醍醐天皇による親政(しんせい)がはじまった。いわゆる「建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)」がなされたのである。後醍醐天皇は、武士にまかせるのではなく、あくまで天子(てんし)自らが「武(ぶ)」を握るという姿勢を示した。

ところが、北条幕府が元寇後の恩賞問題をきっかけに衰退していったように、「建武の中興」も、恩賞が恣意的で、後醍醐天皇の気分によって行われたために崩壊していく。

この頃「女謁(じょえつ)」、つまり女が謁見(えっけん)するという言葉があった。女が口を出して恩賞を左右するという意味である。後醍醐天皇の寵愛がとくに深かった阿野廉子(あのれんし)という側室の意見が「建武の中興」における恩賞を大いに左右したのである。

そもそも「建武の中興」の理念そのものが、源平の争乱以来、武家の手にわたっていた政権を朝廷が取り返し、平安時代のような王朝にもどすことであった。また、後醍醐天皇は天皇親政が実現したのは宋学的理念のおかげだと思っている。武家などは見下すべき存在であった。もっと言えば武家なき世こそ望ましい。だから武士たちは必ずしも報われなかったのである。

「建武の中興」の立役者というべき楠木正成でさえ勅約(ちょくやく)を違(たが)えられ、もともとの領地である河内と攝津(せっつ)を与えられただけで、将軍にもされなかった。

例外は足利尊氏と新田義貞である。北条方から寝返ったこの二人が優遇されたのは、源氏という「出自のよさ」の故である。これは「家柄」を重んずる宮廷風のやり方であった。

系図から見れば足利家は八幡太郎源義家(よしいえ)の子義国(よしくに)の二男義康(よしやす)の子孫であり、また、新田家はその義国の長男義重(よししげ)の子孫である。長男を優位とすればむしろ新田家のほうが上だが、新田家は有力な名家とはいえ、代々上野国(こうづけのくに)新田郡(にったごおり)に住んでいた田舎の豪族にすぎない。

一方、足利家は代々北条家から嫁をとり、先祖の妻には源頼朝の義妹もいる。さらに祖母は六波羅探題(ろくはらたんだい)北条時茂(ときしげ)の娘で、母は藤原氏出身の家柄、また妻は鎌倉幕府最後の執権赤橋守時(あかはしもりとき)の妹である。したがって尊氏が武家では「勲功第一」とされ、後醍醐天皇の名前(尊治(たかはる))から一字もらって「高氏」から「尊氏」に改めたのである。

だが新田義貞の鎌倉覆滅(ふくめつ)、楠木正成の頑張りと赤松円心(あかまつえんしん)の奮戦、さらに大塔宮護良(だいとうのみやもりなが)親王の不屈の戦いと令旨がなければ、「建武の中興」は起こらなかった。それに比べて尊氏は、ぐずぐずしていたら官軍に討伐されていたところだったのである。

前線で命がけで戦った武士たちの恩賞が、こともあろうに僧侶や女官や踊り子以下であったから、憤慨するのは当然であった。赤松円心は「すぐに天皇親政をやめ、武家政治に戻すべし」と主張した。この円心の意見が武家たちの圧倒的多数を占めていたことは言うまでもない。
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