電脳筆写『 心超臨界 』

悲しみは二つの庭を仕切るただの壁にすぎない
( ハリール・ジブラーン )

不都合な真実 歴史編 《 シャーマン式バッファロー絶滅作戦――渡辺惣樹 》

2024-05-13 | 04-歴史・文化・社会
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シャーマンは南北戦争の経験を通じて、敵の抵抗力の大きさは物理的な軍事力だけでなく「戦闘意志」に依存すると確信し、それを完膚なきまでに叩きのめす作戦に重きを置いた軍人でした。平原インディアンの一部族であるスー族との戦闘で80名の部隊を失った事件では、1867年に次のように報告しています。「彼らには徹底的な報復措置をとらねばならない。男も女も子供も容赦すべきでない。殲滅する(even to their extermination)ことも厭わない」


◆シャーマン式バッファロー絶滅作戦

『日米衝突の根源 1853--1908』
( 渡辺惣樹、草思社 (2011/10/22)、p321 )

シャーマン将軍は、南北戦争では南部のジョージア州やサウスカロライナ州の都市に焦土作戦を展開し、非軍事施設をも容赦なく攻撃した男です。目的遂行のためならどんな手段を行使してもかまわないという考えを持っていました。アトランタからサバンナ(ジョージア州)まで、破壊の限りを尽くし、1864年、南部貴族文化を消滅させて、「風と共に去」った男です。

シャーマンは南北戦争の経験を通じて、敵の抵抗力の大きさは物理的な軍事力だけでなく「戦闘意志」に依存すると確信し、それを完膚なきまでに叩きのめす作戦に重きを置いた軍人でした。平原インディアンの一部族であるスー族との戦闘で80名の部隊を失った事件では、1867年に次のように報告しています。

「彼らには徹底的な報復措置をとらねばならない。男も女も子供も容赦すべきでない。殲滅する(even to their extermination)ことも厭わない」

「兵士が戦闘の最中に立ち止まって、男か女かを確かめることなどできやしない。ましてや年齢を確認することなど無理に決まっている」とまで言い切る冷酷なシャーマンでした。

そうはいっても、平原インディアンに対して国家として戦争をしているわけではありません。ある程度の報復はできても、積極的に抹殺を仕掛けることはできないのです。彼に命じられているのは、あくまでもインディアンを居留地に押し込め、定住させることでした。こうしたジレンマの中で彼が考え出した方法がバッファロー虐殺でした。バッファローが平原を駆けめぐる限りインディアンは食糧に困りません。ゲリラ戦も可能でした。インディアンの抵抗意志を砕く最良の方法は糧食を断つことだと結論づけたのです。その一環として、すでに1868年5月にはスポーツ・ハンティング構想を考えています。

「この国のバッファローがいる限りインディアンは集まってくる。今秋、イギリスからも国内からもスポーツ・ハンターを呼び込んで大々的にバファロー・ハンティング大会などを催すのも面白い」

シャーマンの軍隊は政界や実業界の有力者をバッファロー・ハンティングに招待しています。国内だけではありません。外国の要人にも便宜を図っています。1872年1月には訪米中のロシア皇帝アレクサンドル2世の第3皇子アレクセイのために5日間にわたるハンティング・ツアーを催しています。猟場となったノースプラット(現ネブラスカ州)まで特別列車を仕立てたのはユニオン・パシフィック鉄道でした。

こうしたスポーツ・ハンティングに加え、鉄道建設作業員や軍隊の食肉用にバッファローの殺戮を進めていきました。中でもバッファローの舌肉は最も人気のある部位でした。陸軍高官の要望があれば、兵士はわずか2ポンド(1キログラム弱)の舌肉を切り取り、残りの部位2千ポンド(約9百キログラム)は惜しげもなく捨て去りました。しかし、こうした方策ではバッファローの個体数にほとんど変化が見られませんでした。年間50万頭程度までの殺戮であれば、群れの総数は自然回復できたのです。

この均衡は思いもよらないところで破られることになります。1871年、バッファローの皮を利用する技術がドイツとイギリスで相次いで開発されたのです。

バッファローは食用だけでなく毛皮にも利用されていました。ところが毛皮とするためには、体毛が豊かになる冬季の3ヵ月間に仕留めなければならず、この用途での利用は限定的でした。バッファロー皮は牛皮に比べて加工が難しく、ほとんど利用されていませんでした。新しい加工技術は体毛のない部位の皮も利用可能にしたのです。

バッファローの皮を最も必要としたのは製靴業者でした。牛皮に比べて厚く丈夫なことから軍靴の製造に適していたのです。おりしも1870年には普仏戦争があり、ヨーロッパの軍事需要も増加していました。原皮を扱う業者はすぐさま買い付けに走っています。ハンターには、南米から輸入した原皮の劣化を防ぐ薬品を売りつけています。

ニューヨークの原皮取引価格は1枚4ドル前後。およそ40パーセントから50パーセントが買付業者のマージンや輸送費で消えたと推算しても、ハンターたちの手取りはおよそ2ドル。当時の線路工夫の月給が30ドルから35ドルです。わずか20頭を仕留めるだけで1月分の給与に相当する収入となるのです。限りない欲望で彼らは手当たり次第にバッファローに襲いかかりました。皮革技術の改良でバッファローは「走るゴールド」に化けたのです。

1870年ごろには千4百万頭程度は生息していたとされるバッファローは、わずか十年で40万頭にまで激減しています。このすさまじいまでの大量殺戮の数字は、現代人の感覚ではとうてい理解できません。これだけの濫獲にもかかわらず原皮価格はそれほどの影響は受けていません。3ドル50セント前後で推移しているのです。高い需要があり価格高止まっていたことが殺戮に輪をかけたと言えます。

シャーマン将軍のインディアンの糧食を断つ作戦は、思いもかけない技術革新でその目的を達することになりました。さすがにワシントンの議会もあまりの量の殺戮を憂慮し、バッファロー保護法を成立させています。しかし1874年、グラント大統領はこれに拒否権を行使するのです。

「バッファローが平原から消えたとき、私たちは悲しみのどん底に突き落とされた。その悲しみから、我々は二度と立ち上がることはことはできなかった」(クロウ族酋長プレンティー・クー)

ノーザン・パシフィック鉄道開通後もインディアンとの抗争が完全にやんだわけではありません。しかし彼らの糧食は断たれ、戦う意志までも削がれてしまいました。連邦政府支援を受けながら居留地で生きる道しか残されていませんでした。彼らが「啓蒙される」のはもはや時間の問題でした。
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