とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

人間主観、他の動物への愛情はどこで線を引くべきか

2017-05-27 22:06:02 | 哲学・社会
まずはニュース記事から。


韓国人飼い主のマナーの悪さに日本人が怒り「韓国にはもう犬を送らない」=「犬を食べようが食べまいが、韓国は犬が暮らしにくい国」―韓国ネット
2017年5月27日 12時0分
Record China
http://news.livedoor.com/article/detail/13120254/

2017年5月25日、韓国・中央日報によると、山口県にあるシバイヌ専門のペットショップが、韓国人顧客向けのブログで「韓国にはもう柴犬を譲らない」と宣言し、韓国で注目されている。

韓国語でつづられた同ブログには昨年1月、「シバイヌ・ハルマを最後に、韓国には譲りません」との見出しでメッセージが掲載された。これによると、店側は「毎日数人の方から譲ってほしいとの問い合わせが続いているが、基本的なマナーを備えていない方々のおかげで傷ついてきた」という。ある女性客は、飼っている犬が大き過ぎて排せつ物が多いとの理由で犬の「買い替え」を希望、これに対し店が提供を拒んだところ、サイトに険悪なコメントを投稿し始めたそうだ。

また韓国の客の手に渡った同店のシバイヌが、「飼い主の個人的な事情で育てられなくなった」との連絡を受けた例もあるとのこと。店は「韓国で飼育を放棄された犬の相当数が良くない結末を迎えるということを知っている」とし、「日本で譲れば幸せに生きていける子たちを、何が惜しくて韓国に譲って苦痛を与える(必要があるのか)という気がする」と打ち明けた。

この記事を読んだ韓国のネットユーザーからは「提供中止を決断するなんて、よほど切羽詰まった状況だったんだろう」「動物を愛する者として、決断に敬意を表す」と店の対応に理解を示す声のほか、「記事を読んでるこっちが恥ずかしい」「国の恥さらし」「韓国人はいつも日本の悪口ばかりなのに、市民意識は日本人の半分にも達していない」など、マナーを守らない韓国人客に批判の声が数多く寄せられた。

その他にも、「町にあふれる捨て犬を見ると、犬を食べようが食べまいが、韓国は犬が住むには好ましくない国であることが分かる」「韓国はまだ未成熟な国であることを認めざるを得ない」などとするコメントもみられた。


ということで、韓国関連の記事を挙げたのだが、これは別に韓国に限った話ではない。
まるで服を替えるかのように「買い替え」をするのは、稀に日本でも聞く話であって、大変けしからんことである。

だが例えば人間社会と犬に関しては共存共栄の道を歩んできた割には、江戸時代にはガリガリの野犬が出歩いて粗末に扱われていたり、あるいは、現在のタイでも、人間に少しでも粗相をした場合、そこら辺にある角材などでバッチコ殴られるので、犬は常にビクビクしているような状況になっている。
つまりは人間と犬などの生態系における愛情というのは振幅が少なからずあって、その数直線のプロットの間を行き来しているわけだ。

今回は累積的に積もった多量の事例の中を総合的に分析したい・・・とは私の願望ではあるが、しかし私の知っているサンプルはごくごく少ないものであるので、それを総合的に見てみることが困難ではある。

だがここは特に人に見せることの無いブログであり、私の頭の中のメモ帳なので、気にせずつらつらと書いていってしまおう。


人間が動物に愛情を抱くか否かについては、直観と累積的社会判断、つまり伝統的にそれが正しいと思い込む自分へのすり込みによってなされることになる。
今ある動物倫理が全ての人に通底しているならば、アフリカでハンティングしている人間の行為は止まるだろう。彼らは食用ではなく、娯楽としてハンティングをやっている。生活上必要だからということではなく、単に満たされた上での余興としてやっているのだ。
しかし一方では、「娯楽としてのハンティングはやめるべき」という嫌悪感が他の人間にも確実に湧く。
それはなぜ「動物の娯楽的殺害はやっていい」という感情と「動物の余剰的殺害は止めたほうがいい」という感情の双方が我々の人間社会に発生するのだろうか。

先日の「サピエンス全史」でもあったが、そこに書いてあった内容を咀嚼すると、人間社会でうごめく人間達の舞台に、動物が登場したのであれば、それを「舞台装置」もしくは「装飾品」として見るのか、あるいは「同じ登場人物」として見るのかの違いになるのではないかと思う。

「舞台装置」や「装飾品」に感情移入することはない。そこには主役である人間達を引き立てるための物品があるだけであり、瑣末な問題だ。破壊や殺戮はさして気にしない。
物品であるのだから、代替品を探すことは容易だ。

ところが「同じ登場人物」となると、そこにはライオンキング(ジャングル大帝)のような各個の動物に家族の団欒や栄枯盛衰の物語、あるいは自己犠牲と雄なる決断が存在し、彼らの心情を慮らなければならない。
彼ら動物には個別の生活や人生のストーリーがあり、そこに変更を加えたとなると、代替品を探すことは非常に困難な代物と成る。

我々はどのような文化に生き、どのような形で生活している者であろうとも、必ずこの中間にプロットされる。
一方では動物をモノとして扱い、他方では動物に対して、社会を構成する円卓を囲む一員として認識する。

具体的に考えて見よう。
人間はそのDNAの設計として、数々のビタミンを満遍なく摂取しないと生きられないようになっている。
菜食主義者の一つとして分類されるヴィーガン(肉だけでなく、卵や牛乳などを避ける。はちみつは論争中で結論が出ていない)は、菜食だけであるとビタミンB12が摂取できない。
よって、ビタミンB12の錠剤を飲むことになる(ビタミンB12は基本的に動物由来のビタミンなので、人間は動物の肉を少しでも食べていないと生きていけないことになる)。

それでは江戸時代以前の日本では、肉食がほぼ文化的になかったので、それはどうしていたかというと、鳥、魚、うさぎなどを食していたようだ。

つまりは人間のDNA設計上、人間は必ず「舞台の登場人物」だと認識しても、他の動物を食べなければ生きて行くことができない。かと言って、それを全て舞台装置であるとして、食べて行くには、人間の倫理感情性が発達しすぎてしまった。

この折り合いをどうつけるのかというと、自らの宗教観や信条によってそれを判断せしめる結果となったのである。

「どこの動物は雑に扱っていいよ」だとか「どこの動物は大切に扱わなければダメ」という見方は、なぜ国や地域や文化で異なるのかということを別観点で見てみると、そういう観点が異なるのは絶対的な普遍的判断が人間には備わっていないからである。

「他の動物への愛情はどこで線を引くべきか」という線は永遠に引くことはできない。
内部構造の定理は外部からのみ定義できるのであって、内部の中で定義することは全くの破綻する脆弱を招く。
ゲーデルが不完全性定理で言及した通り、数学においてでさえも、数学自身の範疇からでは数学を定義できない。
クレタ人が「クレタ人はうそつきだ」と言っても信用できないことと同じである。
人間がどこまで動物を粗雑に扱うべきか、大切に扱うべきか、という議論から出ずる定義こそ、人間自身には定義できないのである。

そしてそれをあたかも定義できるかの如くに慢心し、それを押し付けるのは甚だ真理より遠い行為である。

ただ、不完全であることを認識し、それを前提として、推論や、ある程度の方針を決めることは悪いことではない。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 発達障害の人間が、なぜ言っ... | トップ | 日本史(中世戦争)の解説本... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

哲学・社会」カテゴリの最新記事