とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

差別や階層は、人間社会の習性的発露として、必然的に発生する

2017-01-18 23:56:38 | 哲学・社会
サピエンス全史 上 ユヴァル・ノア・ハラリ P171

 アメリカの秩序は、富める者と貧しい者の間のヒエラルキーも尊重した。当時のアメリカ人の大半は、裕福な親が資金や家業を子供に相続させることで生じる不平等をなんとも思わなかった。彼らの目から見れば、平等とは、富める者にも貧しい者にも同じ法律が適用されることにすぎなかったからだ。平等は、失業手当や、人種差別のない教育、医療保険とも無関係だった。自由も、今日とは非常に異なる言外の意味を持っていた。一七七六年には、力や重要性を奪われた人々(黒人やアメリカ先住民はもとより、女性も断じて)が権力を得たり、行使したりできることは意味しなかった。自由とは、特殊な状況にないかぎり、国家が国民の私有財産を没収したり、その使途を命じたりできないことを意味するだけだった。そのためアメリカの秩序は富のヒエラルキーを擁護した。このヒエラルキーは、神の命じるものだと考える人もいれば、普遍の自然の法則を反映していると見る人もいた。自然は功績には富をもって報い、怠惰を罰するとされていた。
 自由人と奴隷、白人と黒人、富める者と貧しい者の間の、以上のような区別は、虚構に根ざしている(男性と女性のヒエラルキーについては、後ほど論じる)。だが、想像上のヒエラルキーはみな虚構を機嫌とすることを否定し、自然で必然のものであると主張するのが、歴史の鉄則だ。たとえば、自由人と奴隷のヒエラルキーは自然で正しいと見ている多くの人が、奴隷制は人類の発明ではないと主張してきた。ハンムラビはそれが神によって定められたと見なした。アリストテレスは、奴隷は「奴隷の性質」を持っているのに対して、自由人は「自由な性質」を持っていると主張した。社会における彼らの地位は、彼らの生まれながらの性質の反映にすぎないというわけだ。
 白人至上主義者に人種的ヒエラルキーについて尋ねれば、人種間の生物学的違いに関する似非化学的な講義を聞かされるだろう。そして、白人の血あるいは遺伝子には、白人をそれ以外の人よりも生まれつき知能が高く、道徳的で勤勉にするものが含まれているといわれる可能性が高い。頑固な資本家に富のヒエラルキーについて尋ねればおそらく、それは能力の客観的違いに発する避けようのない結果だと言われるだろう。この見方に即せば、金持ちが多くのお金を持っているのは、より有能で勤勉だからということになる。それならば、富める者がより良い医療や教育、栄養の恩恵にあずかっても、誰も気にするべきではないことになる。金持ちは、享受している恩恵のすべてを受けるに十分値するという理屈なのだから。
 カースト制に固執するヒンドゥー教徒は、人知を超えた宇宙の究極の力がカーストの優劣を定めたと信じている。有名なヒンドゥー教の想像神話によれば、プルシャという原初の人間の体から神々が世界を造り上げたという。太陽はプルシャの目から、月は脳から、バラモン(僧侶)は口から、クシャトリヤ(武士)は腕から、ヴァイシャ(農民と商人)は腿から、シュードラ(隷属民)は脚から造り出された。この説明を受け容れれば、バラモンとシュードラの社会政治的な違いは、太陽と月の違いのように自然で永遠のものとなる。古代の中国人は、女神女媧(じょか)が土から人間を造ったとき、粒の細かい黄土を練って貴族階級の人々を生み出し、平民は茶色い泥から形作ったと信じていた。
 とはいえ、私たちの知るかぎり、これらのヒエラルキーはすべて人類の創造力の産物だ。バラモンとシュードラは、本当に神によって原初の人間の異なる体の部位から造られたわけではない。実際には、これら二つのカーストの区別は、約三〇〇〇年前にインド北部の人間が考案した法律と規範によって生み出された。また、アリストテレスの言葉に反して、奴隷と自由人の間には生物学的な差は知られていない。人間の法律と規範が一部の人々を奴隷に、別の人々を主人に変えたのだ。黒人と白人の間には、肌の色や髪の種類など、客観的な生物学的差異があるものの、そうした違いが知能や道徳性にまで及ぶという証拠はない。
 たいていの人は、自分の社会的ヒエラルキーは自然で公正だが、他の社会のヒエラルキーは誤った基準や滑稽な基準に基づいていると主張する。現代の西洋人は人種的ヒエラルキーという概念を嘲笑うように教えられている。彼らは、黒人が白人の居住区に住んだり、白人の学校で学んだり、白人の病院で治療を受けたりするのを禁じる法律に衝撃を受ける。だが、金持ちに、より豪華な別個の居住区に住み、より高名な学校で学び、より設備の整った別個の施設で医療措置を受けることを命じる、富める者と貧しい者のヒエラルキーは、多くのアメリカ人やヨーロッパ人には、完全に良識あるものに見える。だが、金持ちの多くはたんに金持ちの家に生まれたから金持ちで、貧しい人の多くはたんに貧しい家に生まれたから一生貧しいままでいるというのが、立証済みの事実なのだ。


1.
OK。現在の正しいと思われている社会のヒエラルキーも、将来的には正しくないと見なされる可能性がある。
ちなみに、私は今思い出せるだけで二回ほどそうしたシーンに出くわした。
一つは、教育が受けられなかったこと。これは通常の学校教育ではなく、社会人になってからの企業内教育のことである。
申請をしたところ、会社が違う人間が教育を受けるのは前例が無いからと言って、やんわりと拒否をされた。
教育にも金がかかるから、という理由だとは想像するのだが、それにしてもおかしい。
ITで職が奪われる、と叫ばれて久しいが、その根幹的に位置する本質とは、「IT導入によって、二回以上繰り返し行うことが低コストになったり、場所と時間を選ばないことから、移動コスト、営業時間コストを勘案しなくてもよくなった」からである。つまりITによる教育に金がかかるといっても、内製によるIT教育のコストが下がっていなければおかしい。そしてその恩恵を、受講者が受けていなければおかしいはずなのであるが、現実として「まだ金がかかっている」という見解であるようなのである。まあこういうツッコミをしても、別のいい訳を考えるのでしょうけれども、もしコストがかかっているだけの理由であるのであれば、それはITの波に乗れていないか、あるいはITによってコスト削減できていないか、あるいはそういう経営方針を採っておらず、怠慢に過ごしているのかのどれかなのだ。

もう一つは、親会社課長に法律問題で提案した時である。「○○とは何か? 」という質問に「○○年に○○が○○した時に、その被害を防ぐ目的で、米議会で○○と○○が提出した法案です。○○もこれに乗っ取って行くという認識です。」と回答した。私が更に一歩踏み込んで「それなので、○○は○○という方針でしていくと思っています。」と答えた。おそらく私の知識は課長と同じくらいだったのかもしれない。
その時に、課長は言った。「でもそれって教育を受けてない状態で言っているんでしょ? 」この教育は、上述のものと同じく、学校教育ではなく、企業内教育のことを指す。
私は会社が違えど、出来る人間には、仕事を分け隔てなく振るという、風通しの良いこの会社の社風は好きだったが、それが突如、大きなシャッターで閉ざされたような気がして、思考が止まった。
課長からの「お前の考えはこういう風に間違っている」という具体的反論は無かったけれども、私からは何も言わなかった。
私はその後、皆で昼食をとりに言った時、Hさんに憤慨しながら愚痴を言った。「教育を受けていなければ○○(親会社プロパーの通称)課長に意見できないんですよ」と。
それを聞いたHさんは複雑そうな顔をした。この会社の売りは、どういう出自であろうが、出来るヤツには仕事を振る、だったからだ。
Hさんは言う。「でもそれって、お前(私のこと)がIさん(課長)の上に行くって訳じゃないじゃん」。そういうものなのか。

ひとまずそこで感じたのは、いくら風通しが良くとも、最終的には、会社の階層の壁が存在し、そこでは努力というものは役に立たない、である。

2.
富のヒエラルキーの高低論に、「金持ちが多くのお金を持っているのは、より有能で勤勉だからということになる。」と書かれている。
だが、これは現在明らかになっている事実と異なる。
現在の資本主義社会においては、ピケティの指摘する通り、資本の増殖の速度が、賃金の増加の速度よりも多く進行することによって発生する、社会の上での格差の発生が指摘されいている。
現在の株や資本を持っている人間、あるいは、ベンチャーキャピタルが稼ぐ資金とは、その能力の多寡によるのではなく、金の増殖の性質が異なる箇所から金を持ってきているので、その多寡が決まると言うことなのである。
簡単に言えば、年収300万の中小企業の中年男性と、年収3000万の投資銀行の若手20代の人間では、そのサービスの質と量の多寡ではなく、その裏に隠れる、金銭の稼ぎ方の質が違う世界で、労働努力量から来る賃金と、契約と約定から来るマネーゲームによる増殖による報酬という形で全くその性質が異なるのである。

3.
遺伝子は、その人の人生を決定したりしなかったりする。

決定する例としては、競馬の馬の血統である。

決定しない例としては、ミツバチと近代イギリス人である。
ミツバチは、働き蜂と女王蜂は、一目見て分かるくらい、その体躯が異なるが、働き蜂と女王蜂の間に遺伝的差異が存在しない。
その決定的な違いが発生する理由は、エサとなるローヤルゼリーを与えられるか与えられないかで決定される。

近代イギリス貴族と貧困層も同じく、両者とも同じホモ・サピエンスであるが、しかしその食事の質と量により、その体躯が著しく異なる。
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